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#仕事のこと 誰かにとって大事な人を看るという件

介護。

ブランク期間を抜いて考えると…
この仕事に携わって、なんだかんだで20年くらいになる。

青かった頃は気付かなかった。

振り返ってみると、理屈では分かっていたつもりだったけれど、本当の意味では理解していなかったのだと、今になって思う。

当時は、ただただ目の前の人を看ることに必死だった。

でも、私にも「自分以上に大切かもしれない」と思える存在ができたことで、ようやく気付いた気がしている。

目の前にいるその人は、誰かにとってかけがえのない大事な人なのだということ。

そしてまた、その人にも大事な人がいるということ。

家族には、家族にしか分からない歴史がある。
温かく優しい思いだけでできた歴史ばかりではない。
憎しみや怒りを抱えながら積み重ねてきた時間もある。

そして、その歴史には他人が容易に踏み込めないことも少なくない。

それでも私は思う。
どんな歴史があったとしても、その人が誰かにとって大事な存在であることに変わりはない。

仮に一時的な感情で
「いなくなってほしい」
と願った相手であっても、だ。
本当にどうでもいい相手なら、そんな強い感情すら抱かないのだから。

ベクトルの向きが違うだけ

愛情も憎しみも、向きが違うだけで熱量そのものは同じなのではないかと私は思う。
その熱量を向ける相手だからこそ、大事な人なのだと感じる。

愛する大事な人。
憎くて仕方ない人。
いずれにしてもその対象がこの世から消えてなくなることは、きっと大きな衝撃となって押し寄せるだろう。

大事な人を失うことは、誰にとってもつらい。
失恋ですら胸が張り裂けそうになるのだから、この世からその人の存在がなくなってしまうことは、きっとそれ以上につらい。

それでも遺された人は、生きていかなければならない。

私がこれまで身を置いてきた職場では、高齢で病気を抱えた方を看ることが多かった。

長い経過をたどりながら最期を迎える方も多く、ご本人はもちろん、ご家族と接する時間もたくさんあった。

その時間は、猶予期間とでもいうのだろうか。
気持ちを少しずつ整理するために、神様が用意してくれた時間なのではないか――
そんなふうに思うこともあった。

とはいえ、どれだけ時間があったとしても、心の準備が順調に進み、穏やかなお別れができるケースは本当に少なかったように思う。

本当は私が出会う前から猶予期間は与えられていたのかもしれない。

人というものは往々にして面倒なことや難しいことを後回しにするところがある。
大事な人に、そして自分にも最期の時が来るなんて考えながら生活している人は少ないのかもしれない。

だから他人である私からみると与えられた猶予期間が短いと感じるのかもしれない…

施設介護士として関われるのはご本人が施設にいる間だけ。

生前から始まるグリーフケア。

その難しさを、私は今も答えの出ない問いとして抱え続けている。





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