見出し画像

短編小説「悲しみの風景」

電車に乗った瞬間、私は無意識に座席の向きを確認した。
進行方向を向いている四人がけのボックス席に空きがあり、ほっと息を吐いて滑り込む。

斜め向かいには、三人連れの家族らしき姿。
小さな男の子と女の子、そして、その父親と思しき三十代くらいの男性。
子どもたちはキャッキャと笑いながら、ベンチシートの上に立ち、天井に届きそうな勢いでジャンプしていた。

「ねえ、みてー! はやいよ、すごいよ!」
「トンネル! トンネルー!」

まるで遊園地のアトラクションにでも乗っているかのように、はしゃいでいる。
子ども特有の高く響く声が、静かな車内を反響していく。

男性は、子どもたちの声にも動きにも、何の反応も示さなかった。
窓の外、春の終わりの青々とした田畑をじっと見つめたまま、微動だにしない。

その沈黙が、妙に浮いていた。

私は少し目を伏せて、手帳を取り出したが、どこかで「やめた方がいいな」と感じていた。

子どもたちの声はますます大きくなっていく。靴音も軽快にリズムを打ち始めた。

やがて、隣の席に座っていた年配の女性が、あからさまに眉をひそめた。
斜め前のサラリーマン風の男性も、視線を上げ、顔をしかめた。

その誰もが声を上げないままに、しかし確実に「不快」の空気を車内に送り始める。

私も、手帳を閉じた。

この空気の中で、黙ったまま窓の外を見つめ続ける父親の姿が、
何か、違和感の塊のように感じられて仕方がなかった。

子どもたちは、少しの間だけ静かになったかと思うと、すぐにまた車内を走り始める。
男の子が大きな声で笑い、妹の手を引いてシートの隙間をすり抜ける。
そのたびに、車内の温度が少しずつ下がっていくような、目に見えない不快の連鎖が続いた。

父親はそれでも、何も言わなかった。
まるで、子どもたちの存在に気づいていないかのように、視線は窓の向こうで止まっていた。

私は、立ち上がっていた。
自分でもいつの間にかそうしていたことに驚いた。
車内の空気の重さに、何かを変えなければと思ったのかもしれない。あるいは、ただ、自分の中のざわつきを沈めたかっただけなのか。

「……お子さん、もう少し静かにしていただけませんか?」

声は小さく、けれど、じゅうぶんに聞こえる距離で、私は言った。

男性が、はじめてこちらに目を向けた。
その目は、思いのほか深く、どこか遠くを見つめているようだった。

「……ああ」

間の抜けたような声が返ってきた。
そして、父親はぎこちなく体を起こし、子どもたちに向かって優しく呼びかけた。

「ほら、静かにしような。電車では走らないんだ」

子どもたちは、「うん」とだけ返して、席に戻っていった。
不思議と、今度はもう、立ち上がろうとはしなかった。

私が一歩引こうとしたそのとき、男性がぽつりとつぶやいた。

「……すみません。どうしていいかわからなくて。
 今朝、妻が亡くなったんです。子どもたちには、まだ……ちゃんと話せてなくて。これから、病院に……」

空気が、止まった。
電車の揺れが遠くなり、音が消えたように感じた。

男性の声には感情の起伏がなかった。
むしろ、それが余計に重く響いた。
あまりに突然すぎて、何も整理がつかないまま、ただ「向かっている」──その現実だけが、彼を動かしているのだろう。

私の口からは、何も出てこなかった。
気の利いた言葉も、労りの一言も、どうしてか出せなかった。

ただ、「知らなかった」という事実が、私の胸を強く打った。
走り回る子どもたちの声に、苛立ちを覚えていた自分。
何も言わず、ただ遠くを見ていた父親の沈黙に、勝手な違和感を抱いていた自分。

そのあと、私は何も言わず、自分の席に戻った。

窓の外には、田んぼと、低い山と、まだ咲き残っていた菜の花が流れていった。
何ひとつ変わっていないようでいて、たしかに、何かが変わっていた。

子どもたちは、それから静かに父親の隣に座っていた。
男の子が妹の肩に手をまわし、妹は不安そうにその手を握っていた。

誰も泣かなかった。
誰も声を荒げなかった。

それなのに、そこには、はっきりと“喪失”があった。
無邪気な笑い声が消えたあとの空間に、
父親の沈黙の中に、
そして、わたしの心の中にも。

人はときに、悲しみのなかにいる誰かを、責めてしまう。
その人が悲しんでいると知らないまま、
ただ、自分の見える世界だけで判断して。

目に映る風景がすべてじゃない。
さっきまで“騒がしい子ども”に見えていたその姿が、
今はただ、母親を失った子どもたちの、精一杯の“日常”に見える。

ふと、あのときの記憶がよみがえった。
母の声がもう聞こえないとわかった朝。
何もかもが遠くなっていった時間。
あの時の言葉にならない喪失が、私の中で、どこかで重なっていた。

誰にも気づかれないまま、
ふいにそこにあって、見逃されていくもの。

きっと、これが――悲しみの風景。

(1947文字)



花澤薫様主催の「タイトルから書く文芸賞(悲しみの風景)」に参加させていただきました。



いいなと思ったら応援しよう!

紫葉柚月(しば ゆづき) いただいたチップはクリエーターとしての活動費に使わせていただきます! よろしければ応援お願いします!