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第三話 元新聞記者

 集談社に到着した月岡は、受付で「実話オンライン」の内線を鳴らした。編集部員の谷亮介は「ごめん、ごめん」とせわしなく言うと、会議が長引いているからあと十分待ってくれと内線を切った。
 月岡は受付のソファに腰を掛けると、先ほどの栗原との会話を反芻した。
 山之内の死体が発見されたのは浜辺の自宅だった。柱に紐をかけて首を吊って死んでいるところを、球子の介護スタッフが発見した。侵入経路は一階のベランダ。外からサッシの鍵の部分だけのガラスを割って室内に入ったという。
山之内のスーツのポケットからは、浜辺の殺害時に使われたと思われる血の付いたスパナが発見された。警察は、浜辺を殺害した山之内が、自責の念に駆られ、浜辺の自宅まで出向いて自殺したのではないかと推測している。
 しかし――月岡は両手を組んだ。
 前日に山之内と顔を合わせているが、自殺をするような人間には思えなかった。そう思う根拠は乏しかったが、自死を選ぶようなタマではないというのが、取材者としての勘だった。
 仮に罪の意識に駆られて自殺をしたとしても、わざわざ浜辺の自宅に出向いて死ぬ理由が分からなかった。凶器のスパナをポケットに入れておくのは自首を意味しているのかもしれないが、それならば、見つかっていないもう一本の浜辺の自宅の鍵も持っておくべきである。
「お待たせ」
 谷が月岡の前に現れた。白いズボンに青いシャツ、サスペンダー姿で、手にはタブレットを抱えていた。五十は優に過ぎていたが、元ファッション誌の編集者だけあって、外見だけは若作りだった。
「代理店の奴等は話が長いんだよ」
 谷は苦笑いしたところで、月岡の腫れた頬に気づいた。
「どうした?」
 月岡が「酔っぱらって転んで」と言うと、谷は「ゴロツキらしいねぇ」とニヤケ顔で肩を叩き、受付の脇にあった打ち合わせブースに入った。
「二日酔いなら、オンラインでもよかったのに」
「どうしても会ってお話がしたい企画がありまして」
 担当の谷と会うのは三か月ぶりだ。いつもはメールで取材依頼が届き、月岡は指示されたテーマ通りの取材をするだけで、わざわざ顔を会わせて打ち合わせをすることはなかった。
これは実話オンラインの編集部に限った話ではない。アクセス数を稼ぐために、記事を量産しなくてはいけないウェブニュースでは、対面でライターと打ち合わせの時間を作るようなことはしない。
しかし、イレギュラーなケースがあれば、月岡は編集部に出向くようにしている。
「この企画なんですが」
 月岡はトートバッグから『プレゼンの達人が教える出世する人の話し方』と描かれた企画書を取り出した。
「今、意識の高いサラリーマンの間で人気のコンサルタントです。セミナーを聴いたんですが、言うだけあってトークがずば抜けてうまいんです」
 話は誇張していた。セミナーを聴講したのは事実だが、持っているノウハウは浅く、注目すべきところは何もなかった。本人もそれを自覚しており、月岡のところにウェブニュースの掲載を条件に、三十万円を支払うと売り込んできた。
 胡散臭いネタは、編集サイドにメールで持ち掛けると大抵断られる。そのあたりは編集者も勘がいい。こういう提灯記事は、直接会って交渉したほうが、その場の勢いに乗じて企画が通りやすい。
「このネタ、数字稼げるの?」谷が企画書をめくりながら言った。
「『プレゼン』と『出世』は最近のサラリーマンに刺さるキーワードです。あとは谷さんが、がっつりクリックしてもらえるタイトルをつけてくれれば、ランキングで上位が狙える記事になると思いますよ」
 谷は「そうね」と、顎髭を撫で回した。
「ゴロツキは元新聞記者だからね。そのあたりは信頼しているんだけど」
 〝元新聞記者〟という肩書きは月岡がこの業界で生きていくための担保みたいなものだった。その経歴のおかげで、他のライターよりも持ち込んだ企画が通りやすいところがあった。
「この企画、行きましょうよ」
 谷は企画書を指でパチンと叩いた。
「来週の水曜日ぐらいの締切でいけるかな?」
「問題ないです」
「じゃあ、その話はオーケーね。で、次はこっちからのお願いなんだけど」
 ライター側が企画を持ち込めば、代わりに編集サイドから面倒な仕事を押し付けられるのは想定内だった。谷は「この企画なんだけど」と机の上にタブレットを置いて、くるりと回して見せた。
『経営者、表の顔、裏の顔』
 月岡は企画書を人差し指でスクロールしはじめた。世間で注目を集めている経営者のネット上の噂話をまとめて、それを記事にするゴシップ企画だった。
「ピックアップしたのは、この会社ね」
 谷はタブレットの画面を変えると、二十社ほど会社名が書かれたエクセルの表を指さした。一度は耳にしたことがある企業ばかりだった。
「これ、大丈夫ですかね」
月岡は神妙な顔つきをした。
「こんなもん書いたら、訴えられませんかね? このクラスの企業だったら顧問弁護士は必ずいますよ」
 谷は「大丈夫、大丈夫」と椅子にもたれかかった。
「経営者の名前はイニシャルでいいから」
 編集サイドがイニシャルOKを出したときは、多少のフィクションは織り交ぜていいという意味でもある。匿名なので訴えられることはないし、ページをめくらせるセンセーショナルな内容さえ書くことができれば、アクセス数は稼げる。大事なのは、真実ではなく数字だ。
「分かりました」
 ジャーナリズムを掲げるライターよりも、物わかりのいいライターのほうが仕事はもらえる。月岡は「この企画書、あとでメールで送ってください」と、谷にタブレットを差し戻した。
「原稿の上がりはいつごろになる?」
「来週の金曜日までには」
谷はタブレットのカレンダーを見た。
「もう少し早くならないかな」
 月岡は手帳を見ながら唸った。
「原稿自体は早く書けそうなんですが……ネット上の噂話を集めるのに時間がかかりそうですね」
 谷は「その点は大丈夫だよ」と、ポケットからUSBメモリを取り出した。
「この中に経営者の噂話が全部まとまっている」
「調べたんですか?」
「うちの学生アルバイトがね。口コミサイトにあげられている経営者の噂話を箇条書きでまとめてもらった」
 月岡はUSBメモリを受け取った。「この資料もメールで送ってください」と言いかけたが、谷のタブレットにはUSBメモリのポートがなかった。アダプターを取り付けてUSBメモリにデータを取り込む方法もあるかもしれないが、それをまたタブレットからメールで送ってもらうのには手間がかかる。
 月岡は「そのUSBメモリの中身、ここでダウンロードしちゃいますよ」と、自分のノートパソコンを取り出した。USBメモリを差し込もうとしたところで、ふと手が止まった。
「どうした?」
谷が不思議そうな顔をした。
月岡は「つまらないことを聞いていいですか?」と顔を上げた。
「このUSBメモリのデータ、パソコンからダウンロードしたんですか?」
「当たり前だろ」谷は笑った。
「学生アルバイトのパソコンからUSBメモリに落としたんだよ」
 月岡は「そうですよね」と、自分のパソコンのポートにUSBメモリを挿し込んだ。
 谷との打ち合わせが終わると、月岡は地下にあるセルフ式のカフェテラスに入った。昼食の時間が近いこともあって、店内の席は八割方埋まっていた。
 コーヒーを手にして、一番奥のソファ席に腰を掛けた。一息つくと、先ほどのUSBメモリをダウンロードするシーンを思い返した。
 USBメモリ本体にはデータを打ち込む機能がない。つまり、中に入っているデータは必然的にパソコン本体から取り出したデータということになる。
 月岡は切れた口の痛みを堪えながら、コーヒーを唇に当てた。
 浜辺の自宅にあった黄色いUSBメモリは、山之内が所有していたものと断言していい。山之内自身がパソコンからUSBメモリに何かしらのデータをダウンロードしたと考えるのが妥当だ。
『ネットは今でもぜんぜん分からん。メールすらまともに送れない』
 月岡は山之内の言葉を思い出した。パソコンに詳しくなければ、日頃はスマホやタブレットを使ってネットを見るぐらいで、自宅にパソコンがないと思われる。そうなると、山之内が黄色いUSBメモリに接続したのは、風俗店にあるパソコンであり、その中に浜辺が殺される直前まで見ていたデータが保存されている可能性は高い。
 月岡は腕時計を見た。十二時三十分。山之内の遺体発見が「今朝」ということは、もうすでに山之内の風俗店に警察が事情聴取に向かっているはずだ。「自殺」の線で押しているとはいえ、殺人事件のあった現場で死んでいるのだから、警察が他殺を疑って、証拠品として風俗店のパソコンを押収することは十分に考えられる。
 月岡は口を付けたばかりのコーヒーを返却口に戻すと、駆け足でカフェテラスから出た。地上に上がるとスマホを手に取り、栗原を呼び出した。
「そこに蓮本君はいるか?」
「いや、今日は休みだが」
 肩から力が抜けた。
「確か今日は秋葉原にパソコンの部品を買いに行くとか言ってたな」
 月岡はスマホを握り直した。
「緊急の用事だ。彼の携帯番号を教えてくれ」
 栗原に教えてもらった電話番号にかけると、二コールで蓮本は出た。
「どこで僕の携帯番号を知ったんですか?」
「後で説明する。君の力を貸してくれ」
「は? 何を今さら」
 蓮本の口調は冷ややかだった。
「デジタルフォレンジックなんて何の役にも立たないって言ってたじゃないですか」
「それは謝る。すまん」
「地味な仕事だってバカにして」
「それも言い過ぎた。悪かった」
「僕はあなたに力を貸す気なんてサラサラないですよ」
 面倒くさいガキだ。しかし、電話を切らないということは、まだ交渉の余地はある。
「俺が無知だった。おまけに口も悪かった」
「性格も悪いですよ」
 ぐっと怒りをこらえる。
「それも認める。だから嫁とも離婚した」蓮本が押し黙った。
「調べて欲しいパソコンがあるんだ。黄色いUSBメモリの中身のデータがそこにあるかもしれない。だけど。今日中にそのパソコンは警察に押収されてしまう」
 返事がない。あと少しだ。
「もう一度言う。君の力が必要なんだ」
「……場所はどこですか」
 月岡は上野駅だと伝えながら、歩道を飛び出しタクシーを捕まえた。
 
 上野広小路駅のC5出口で蓮本と落ち合い、その足で山之内の風俗店に向かった。
「何の店ですか?」
 店の前に着くなり、蓮本の表情が険しくなった。月岡は「風俗店だ」というと、ちょっと待ってくださいとジャケットの袖を掴んだ。
「風俗店って……」
「知らないのか?」
「知ってますよ」蓮本は周囲をキョロキョロと見回した。
「この店のパソコンを調べるんですか?」
「昨日、ここのオーナーが自殺した」
 月岡は蓮本の質問には答えず、話を始めた。
「そいつが黄色いUSBメモリの持ち主だ。風俗店のパソコンからUSBメモリにデータがダウンロードされた可能性が高い」
 蓮本はぽかんと口を開けた後、「まったく」と月岡の脇腹を突いた。
「痛っ!」
 殴られた箇所に蓮本の手が当たり、激痛が走った。月岡が前かがみになる。
「そんなに強く叩いてないですよ」
「……こっちにも事情があるんだよ」
 月岡が顔を歪めて言うと、蓮本は「あれっ」っと声を上げた。
「顔、どうしたんですか?」
「うるさい」
「腫れていますよ」
 月岡は手を払いのけて、蓮本の襟を掴んで引き寄せた。
「説明はあとだ。今からあの風俗店に乗り込む。お前はパソコンの中身を調べてくれ」
 蓮本は「あのね」と大きく息を吐いた。
「前にも言いましたけど、今のパソコンはログがほとんど残らない作りになっているんです。USBメモリを挿した記録も、データにアクセスした記録も、パソコンを見ただけじゃ分かりませんよ」
「その通りだ、普通だったらログは残っていない」月岡は頷いた。
「だが、この風俗店はログを取っている可能性が高い」
 蓮本は「本気で言ってます?」と鼻で笑った。
「大手のIT企業ですらログを保存しているところはまだ少ないんですよ。こんな古びた風俗店が、そんなことやっているはずないじゃないですか」
「見てみないと分からないだろ」
「見なくても分かりますよ」
 蓮本は「帰ります」と身体を捻った。月岡は腕を掴むと、ぐいっと手前に引っ張った。
「お前、言ったよな」
「何をですか?」
「パソコンが見つかった暁には、データの復元でも、なんでもお手伝いさせて頂きますって」
 蓮本は顔をそむけた。
「つべこべ言わずに手伝え」蓮本は月岡の手を払いのけた。
「仮に店の中にパソコンがあったとしても、外部の僕たちに触らせてくれませんよ」
「そこは俺に任せろ」
「その方法を教えて下さいよ」
 月岡は「出たとこ勝負だ」と、店に向かって一人歩き出した。「ちょっと待って下さい!」と、後から蓮本がついていく。店の階段を下りようとすると、地下の入口に猿顔の男が立っていた。
「マムシの野郎!」
 目をつり上げながら階段を上がってきた。後ろにいた蓮本が「マムシって誰ですか?」と言うと、月岡は気にするなと、猿顔の男に目を向けた。
「よっ、久しぶりだな」
「昨日会ったじゃねぇか!」
「そうだっけかな」
「すっとぼけんじゃねぇぞ、ごらぁ!」
 男が殴りかかってくると、月岡は身体を屈めて拳を相手の腹に突き出した。その瞬間、バチッと大きな音が鳴ると、男は「ぐわっ!」と悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。月岡は間髪入れずに脇腹を蹴り上げ、男を階段から突き落とした。
「やばくないですか?」
 蓮本が震えた声で言った。月岡は「大丈夫だ」と、右手に握りしめていた手のひらに収まる小さな四角いキーケースを見せた。
「なんですか、それ?」
「スタンガンだ」
 月岡がスイッチを押すと、ケースの先が青く光った。数年前、護身用として海外の通販で買ったものだったが、使い道もなく、机の引き出しの奥に入れっぱなしだった。昨日、猿顔の男に殴られながら、普段からスタンガンは持ち歩こうと思い、車の鍵に付けたばかりだった。
「つっ……」
 猿顔の男が頭を揺すりながら顔を上げた。月岡はすぐに胸倉を掴むと、スタンガンを男の目の前に突き出した。
「動くな」
 男が「なんだと!」と叫ぶと、スタンガンを男の太ももに突き刺した。
「ぐああぁあああ!」
 店内に悲鳴が響き渡った。
「パソコンは赤いカーテンの奥だ」
 月岡は顎をしゃくった。蓮本は突っ立ったまま動かない。
「時間がねぇんだよ!」
 我に返った蓮本は小刻みに頷くと、カウンターの奥にある赤いカーテンの中に飛び込んでいった。
 
 ベンチに座っていた蓮本に、月岡が缶コーヒーを手渡した。
「なにか分かったか?」
 蓮本は「そんなことより」と、大きく息を吐いた。
「さっきはどうなるかと思いましたよ」
「うまくいっただろ」
「ガチのゴロツキじゃないですか」
「派手さがあっていいだろ」
「地味な仕事のほうが僕には向いていると思いましたよ」
 月岡はニヤッと笑うと、一息ついて周囲を見回した。不忍池には数台のボートが浮かび、若いカップルが声を弾ませていた。
「ちゃんとログ解析のソフトが入ってましたね」
 月岡が「だろ」と、蓮本の横に座った。山之内は風俗店のシステム開発に相当力を入れていた。警察にデータも開示しなくてはいけないので、ログを保管している可能性は高いと踏んでいた。
「かなり金のかかったシステムでしたよ。五分間隔でリアルタイムのログが収集されていて、ウェブサイトの閲覧履歴から削除されたメールやファイルまで、すべて保管されていました」
 月岡はほくそ笑むと蓮本の顔を見た。
「で、どうだったんだ、パソコンの中身は」
蓮本は「一台にUSBメモリのログが残っていました」と、日付を記したメモを月岡に手渡した。
「浜辺が殺される前の月までログをさかのぼってみました。そしたら、四月四日に一回と、昨日の六月十七日に一回、USBメモリポートに外部記憶媒体を挿した形跡がありました」
「何をUSBメモリにダウンロードしたのか分かったか?」
 蓮本は首を横に振った。
「それを調べるには時間がなかったです。ただ、動画が格納されている同じファイルにアクセスしたということまでは分かりました。そこから先も調べようと思ったんですが、動画データが大量にあり過ぎて」
 月岡は「動画か」と、腕を組んだ。もう少し時間が欲しかったが、せいぜい取り繕っても十五分が限界だった。あれ以上のことをやれば、いくら表に出せない事情があるとはいえ、猿顔の男も警察に被害届を出すかもしれない。何より山之内の件で警察がやってくると面倒なことになる。
 蓮本は「時系列を整理しましょう」と、落ち着いた口調で話し始めた。
「山之内が黄色いUSBメモリを浜辺に手渡したのが、四月六日でしたよね」
 月岡が頷いた。ヒメゾウがクリスタル女学院を取材した日だ。
「さっきのログ解析から、その二日前の四月四日に誰かがUSBメモリを挿したことが分かっています。つまり、この時に浜辺に手渡したデータは、あの風俗店のパソコンからダウンロードした動画の可能性が高いです」
「じゃあ、昨日、USBメモリにダウンロードされた動画データは何だ?」
「同じ動画ファイルにアクセスしているから、おそらく四月四日のものと同じ動画です」
「なぜ、同じ動画を二回もダウンロードした?」
 蓮本は「その前に」と、月岡に視線を向けた。
「昨日、あの店を出たのは何時頃ですか?」
 月岡は記憶を辿った。
「午後三時頃だったかな」
「USBメモリに動画データがダウンロードされたのは四時三十分です。つまり、月岡さんに会ってから一時間半後にダウンロードをしているのなら、山之内が何かを察して、今回の事件に関連した動画データをUSBメモリに落としたことが考えられます」
 蓮本は手に持っている缶コーヒーを口に運んだ。
「結論から言うとUSBメモリを使ったのは山之内の可能性が高いです」
「その根拠は?」
「この四カ月間でUSBメモリを挿したのはこの二回だけです。しかも同じ動画ファイルです。パソコンに詳しくない山之内が、重い動画データをメールで送る方法が分からなくて、USBメモリに挿して持ち出したんだと思います」
 目の前の不忍池が急に騒がしくなった。鳥の鳴き声が激しくなると、数十羽のカモが水面を走り出し、空高く舞い上がった。
 蓮本は「それともうひとつ」と、身を乗り出した。
「ログを解析して分かったことがあるんです」
 月岡が顔を向けた。
「昨日、USBメモリを挿した直後に、パソコンからメールソフトが削除されていました。ご丁寧にログの管理システムからも全部データが消されていました」
 月岡は首を捻った。
「削除されたのは『メッキー』という古参のメールソフトです。二十年ぐらい前に流行りましたが、サブジェクト中の多重の文字コードに対応できていなかったり、HTMLメールのスペルチェッカーが動かなかったり、いろいろ不便なことが多くて、次第に衰退していって、今はほとんど利用している人はいません」
「古くて使えないから削除したのか?」
 蓮本は「それも考えられますが」と、顔を近づけた。
「それだったら、ずっと前に削除していると思うんです。それをUSBメモリに動画をダウンロードした直後に削除したということは、そこには知られては困る情報があったんだと思います。ログの削除はちょっと面倒なんですが、おそらく、そこはパソコンに詳しい外注のスタッフに消させたんだと思います」
 月岡は長い息を吐いた。蓮本は「これは仮説ですが」と、声のトーンを落として、ゆっくりと話し始めた。
「殺害現場から黄色いUSBメモリが無くなっているということは、そこに犯人を特定することができる動画が入っていたんだと思います。当然、山之内はその動画の内容も、犯人のことも知っていたはずです」
 蓮本は手のひらで缶コーヒーを一周させた。
「その後、浜辺が殺されたことを知って、鈴木さんが犯人容疑として捕まったことが分かった。山之内はたぶん、その話を聞いて、『違う奴が捕まっている』と思ったんじゃないでしょうか」
 月岡は目を見開いた。
「それで、メールソフトのメッキーを使って、犯人に連絡を取ったんだと思います。だから、そのメールのやり取りは抹消する必要があったんです」
パソコンに不慣れな山之内は、古いメールソフトのメッキーしか使うことができなかったのだろう。月岡と会ってから犯人と連絡を取りあったことを考えれば、一時間半という時間も妥当だと言える。
「真犯人を知っている山之内は、動画が手元にあることを犯人に伝えた。それで脅そうとしたところ……」
 蓮本が言いかけたところで、月岡が「結局、殺された」と言葉を繋いだ。
「要求金額が高すぎたか、条件が合わなかったか。どちらにせよ、一度要求を飲んでしまったら、そのまま脅され続けるからな」
 月岡が眉をひそめた。
「ひとつ聞きたいんだが」
 蓮本が顔を向けた。
「メールソフトを削除したら、パソコンにもメールの履歴は残らないのか?」
「今回はログまで削除されているから、おそらく残っていませんね」
 風俗店には定期的に警察の生活保安課の査察が入る。山之内はメッキーで脅迫まがいなことをやっていることがバレるのを恐れて、ソフトごと削除したのだろう。
「やっぱり、メッキーで犯人を脅していたんですかね、山之内は」
「その可能性は高いな」
 蓮本は「ひと足遅かったですね」と後悔の表情を滲ませた。
 クリスタル女学院にはもう警察が入っているだろう。パソコンが押収されている可能性は高いし、仮に警察の調べがまだだったとしても、猿顔の男が店内のパソコンをもう一度触らせてくれる可能性は低い。
「もうメッキーのログを見る方法ないのか?」
 蓮本は「ないですね」と答えた。
 二人の間にしばしの沈黙が流れた後、月岡は「あっ」と声を上げた。
「相手のパソコンには、山之内とのメールのやり取りが残っているんじゃないのか?」
 蓮本は「何言っているんですか」と半笑いした。
「分かるかもしれないけど、メールをやり取りした相手が分からないじゃないですか」
「そりゃそうだな」
 月岡は自分の発言がバカバカしいことに気づいて、自虐的に笑った。
「あとはメッキーを運営しているプロバイダーのサーバーを調べるしかないですね。六カ月ぐらいのログなら保管していると思うので、そこに山之内と犯人とのやり取りの記録は残っていると思います」
「それを調べることはできないのか?」
 蓮本は「できるわけないじゃないですか」と、呆れた口調で言った。
「ログはプロバイダーにとって個人情報そのものなんですよ。裁判所の捜査令状があっても、サーバー内のデータの開示は難しいと言われているんです」
 月岡は「やっぱり無理か」と頭を抱えた。蓮本はスマホを取り出し、何かを調べ始めた。
「メッキーみたいな古いソフトは、いろいろな会社に売買されていて、運営会社がコロコロと変わっているんです。今は『インパルス』って会社が管理していますね」
 月岡は動きを止めた。
「確かインパルスって大手飲食チェーンでしたよね。外食産業の企業が、こんな古いメールのクライアントを買収して、何をする気なんですかね」
 蓮本は笑いながら月岡の顔を見た。
「インパルス、インパルス、インパルス……」
「どうしました?」
「どっかで聞いたことがあるんだよ、その会社名」
「僕でも知っている会社ですよ。インパルスといえば、中華料理店『パオパオ』ですよ。格安の北京ダックを出す店で、駅前にも店を出していますよ」
月岡は「そんなことは知っている」と、トートバッグからパソコンを取り出した。
「仕事始めるんですか?」
月岡は「いや」と答えると、先ほど集談社の谷から送られてきたメールの添付ファイルを開けた。
「あった!」
 月岡はそう叫ぶと、隣にいた蓮本の肩を揺すった。
 
 インパルスの野村勝次がよく出入りするレストラン『ロイヤルグリーンカフェ』は、青山通りの少し奥まったところにあった。モダンな建物の前にはオープンテラスがあり、子連れの主婦やOLたちがランチの時間を楽しんでいた。
「ピザランチをひとつ」
月岡はそう言うと、蓮本に「何にする?」と尋ねた。
「サラダランチで」
 店員は「かしこまりました」と、席から離れていった。
「少食だな」
「野菜が好きなんですよ」
「女子かよ」
蓮本は「大きなお世話です」と口を尖らせた。
谷の企画した『経営者、裏の顔、表の顔』の中にインパルスはリストアップされていた。口コミにまとめられたデータによれば、社長の野村はパワハラやモラハラの噂話が絶えない経営者のようだった。
「年商は百二十億もあるんですね」
 蓮本がスマホで会社概要を見ながら言った。インパルスは中華料理の店『パオパオ』を中心に全国に六十店舗を構える企業だった。従業員はパートも含めて五百名。本格中華を低価格で提供することを売りにしており、マスコミにも頻繁に取り上げられる人気の外食チェーンだった。
レストラン事業の他、宅配事業や人材派遣など手広く展開していたが、その中でメールクライアントの「メッキー」は、インパルスの中でも異色の事業だった。ネットに書き込まれていた元従業員の情報によると、中華資本のベンチャーキャピタルから勧められて、野村社長の独断で中国のIT企業から買収した案件だという。
「ネットにも強い会社だってアピールしたかったんでしょうかね」
 蓮本の予想は大方当たっていた。インパルスは外食産業の企業としては有名だったが、所詮は未上場の会社だ。メールでもブログでもSNSでも、IT関連の事業を展開することで、DXにも取り組んでいることを対外的にアピールして、少しでも企業価値を上げたい思いがあったのだろう。
「それにしても」
 月岡は、プリントアウトしたインパルスの口コミの情報に視線を落とした。
「えらく評判の悪い会社だな」
「それだけ従業員が不満を抱えているということですよ」
 蓮本はインパルスの口コミが書かれているサイトを月岡に見せた。
「こういう情報が外部に晒されていること、社長は気にならないんですかね」
「便所の落書きぐらいにしか思ってないだろう」
飲食店の経営者には図太い奴が多い。客にあることないことネットに書き込まれるので、いちいち気にしていたら神経が持たない。働く従業員の質も他の業界に比べれば高くはないので、トラブルが絶えないのも事実だ。その上、事業規模のわりには抱える借金も多く、まともな金銭感覚の持ち主では飲食店の経営者は務まらない。
インパルスの野村も、神経が図太い経営者の部類に入るだろう。調査会社から取り寄せた決算書を見ても業績は芳しくなかった。マスコミの注目を集めたことを弾みにして、東京近郊の繁華街に出店ラッシュを仕掛けたものの、低価格の料理を提供するビジネスモデルがゆえに利益は薄く、債務超過の状態が何年も続いていた。
「スポーツクラブの帰りに、オープンテラスで昼飯食っている場合じゃないんだけどな」
 月岡の前にランチのピザが運ばれてきた。
「本当に消費期限切れの肉を使っているんですかね」蓮本は声をひそめた。
「分からん」
 谷から受け取ったネットの口コミサイトの情報によると、インパルスは一年ほど前から消費期限切れの肉を冷凍保存し、解凍して利用しているようだった。期限切れの食材の場合、仮に凍結して保存していたとしても、安全性が保障されるものではない。もし、この話が表沙汰になれば、会社の存続にも関わる大問題になる。経営が厳しいインパルスにとって致命傷になる可能性は十分にあった。
 月岡は、消費期限切れの食材問題のネタと引き換えに、野村からメッキーのサーバー開示の了承を引き出そうと思っていた。
しかし、ネット上に出回っている噂話は、あくまで噂でしかない。決定的な証拠がない限り、問題を追及しても、野村はシラを切り通すはずだ。言い逃れをさせないためには、野村が消費期限偽装の指示を現場に出した確固たる証拠が欲しかった。
「本当に他人のパソコンの中身なんか覗けるのか?」
 月岡はデザートを頬張る蓮本に視線を向けた。
「任せてください」
 野村のフェイスブックには、毎週月曜日、同じレストランで食事をする写真がアップされていた。スポーツクラブでパーソナルトレーナーをつけてトレーニングをした後に、青山のオープンテラスでランチを食べながらメールチェックをするのが野村のルーティンになっていた。
「外で会社のパソコンを使って仕事をするほうが悪いんですよ」
 蓮本はクスッと笑った。
「何がおかしい」
「いや、別に」
「言ってみろ」
 蓮本は「少し前から思っていたことなんですが」と、緩みそうな口元を手で押さえながら話し始めた。
「僕も月岡さんと同じ人種だと思って」
 言っている意味が分からなかった。
「ゴロツキってことですよ」
月岡が右の眉を上げた。
「相手のパソコンの中身を覗くって、最低だと思いませんか? しかも、その盗み見たデータを使って、今度は相手のことを脅しに行くんですよ」
 蓮本は持っていたフォークをくるくると回し始めた。
「デジタルフォレンジックの面白さは、裁判で使えるデータを掘り起こすことでした。でも、月岡さんと一緒にいて、その考えが変わりました」
「どう変わったんだよ」
「人の秘密を暴くことのほうが、何倍も面白いことに気づいたんです」
 蓮本の唇が緩んだ。
「だって地味じゃないですか、デジタルフォレンジックの仕事って。そう思いませんか?」
 返す言葉が見当たらない。
「浜辺も山之内も、バレては困るものをUSBメモリの中に隠しています。野村も公にできない秘密をパソコンの中に隠している。それを暴くことが、こんなにワクワクするものだとは思ってもいませんでしたよ」
 刺激の強い体験を蓮本にさせ過ぎたと思った。しかし、今さら引き返すこともできない。月岡は黙って蓮本の話を聞き続けることにした。
「デジタルフォレンジックは法的根拠のもとで、データを復元させる作業しか行いません。月岡さんの言う通り、地味な仕事なんですよ。事件そのものには深く関わらないし、もっと言ってしまえば、自分が復元したデータが、裁判でどのように利用したのかも分からないんです」
「それで十分じゃないか」
 月岡の言葉に蓮本は「今までは」と語気を強めた。
「今回の事件で、自分の持っている知識や経験が、直接、事件の解決に向けて役立つことが実感できました」
 月岡はそっぽを向いた。人の秘密を暴くことに興奮を覚える蓮本が、自分とオーバーラップして直視することができなかった。
「月岡さん」
 蓮本が顔を突き出した。
「どうして東京経済新聞社を辞められたんですか?」
「なんだよ、唐突に」
「栗原先生から聞いたんです」
「お前には関係ないだろ」
「興味があるんですよ。大手新聞社を辞めて、裏社会のライターになった月岡さんのこれまでの経緯に」
 月岡がため息をついた。
「新聞記者の仕事に飽きたから辞めたんだよ」
「誤魔化さないでくださいよ」
 月岡は人差し指を唇に当てた。
「その話の続きは今度してやるよ」
 月岡が首を動かした。それにあわせてゆっくりと蓮本も視線を動かす。その先には、野村の姿があった。写真で見るよりも大柄で、ラガーマンのような体格はひときわ目を引いた。店員に声をかけると、ゆっくりと歩いて一番奥にあるテラス席に腰をかけた。
蓮本は「約束ですよ」と、リュックの中から、細長い数本の棒がつき出た黒いプラスチック製のケースを取り出した。
「なんだそれ?」
「無線ルーターです」蓮本はノートパソコンを取り出し、キーボードを叩き始めた。
「月岡さんは、カフェで仕事したりしますか?」
「よくするよ」
「その時、店内にあるWi‐Fiに接続しますよね」
 月岡は頷いた。スマホのデザリング機能を使うこともあるが、接続するのに手間がかかる。店内のWi‐Fiを使うケースの方が圧倒的に多かった。
「アクセスポイントはどうやって決めていますか?」
「決めるも何も、繋がったやつに繋げるだけだ」
 蓮本は月岡の顔をじっと見た。
「試しに、今、スマホでWi‐Fiに繋げてみてください」
 月岡は言われた通りにスマホを取り出し、一番上にあった「ROYAL GREEN NEW」というネットワークに接続した。
「普通に繋がったんだが」
「何のネットワークに繋げました?」
「『ROYAL GREEN NEW』って奴だ。店名が『ロイヤルグリーン』だから、これが店のネットワークだろ」
 蓮本は笑った。
「それ、この無線ルーターのネットワークですよ」
月岡は口をぽかんと開けた。
「このルーター、Wi‐Fiの電波が強力なんです。店のWi‐Fiよりも先に接続されてしまうんです」
「ちょっと待ってくれ。ネットワークの名称は『ROYAL GREEN NEW』ってなってたぞ」
「そんなのいくらでも作れますよ。本当のネットワークはこれじゃないですかね?」
 蓮本はパソコンをくるっと回した。ネットワーク一覧の上から二番目にあった『ROYAL GREEN‐1』を指差した。
「屋外でむやみやたらにWi‐Fiにつなげたらダメですよ。DNS設定の項目が改ざんされて、マルウエアを配布する偽サイトに誘導されてしまいますよ」
 月岡は言っている意味が半分以上分からなかった。首を傾げていると、蓮本は「簡単に言えば、ウィルスを仕込まれるってことです」と、再びパソコンと向かい合った。
「野村のSNSの投稿内容から察するに、彼はパソコンの素人です。ということは、セキュリティの意識は相当低い。屋外ですぐにつながったネットワークでインターネットもしてしまうし、なんの疑いもなくサイトにアクセスしてしまう」
 蓮本は再びパソコンを月岡に向けた。
「これ、何のサイトだか分かります?」
「分かるも何も、ヤフーのサイトだろ」
 蓮本は首を横に振った。
「実は偽物なんですよ。僕が作りました」
 月岡はモニターに顔を近づけた。どこからどうみても、いつも検索で利用するヤフーのトップページだった。センターにウェブニュースのトピックスが並び、左側にサービスのカテゴリーが並んでいる。
「野村はSNSにヤフーニュースのリンクを張ってよく投稿しています。おそらく、メインで使っている検索エンジンがグーグルではなくてヤフーなんでしょうね」
「だからって、偽物のヤフーにアクセスするとは限らないだろ」
 蓮本は「ところが、繋いでしまうんですよねぇ」と、手元にあった無線ルーターを叩いた。
「こいつに接続させることができれば、相手のパソコンのDNS……分かりやすく言えば、ホームページの住所を書き換えることができるんです。それで、本人はヤフーのサイトにアクセスしているつもりで、別のサイトを開かせることができるんです」
 月岡は野村が座る席に視線を動かした。ちょうど鞄の中からパソコンを取り出して、電源を入れたところだった。
「さっそく動き出しましたね」
 蓮本がパソコンの画面を食い入るように見た。
「今からマルウエアを野村のパソコンに仕込みますね」
「そんなことできるのか?」
「できます。ただ、その間にパソコンの画面上でカーソルが勝手に動き出しますけどね」
「だったらバレるだろ!」
 いくらパソコンの素人でも、触ってもいないカーソルがいきなり動き出したら遠隔操作に気づくはずだ。
「大丈夫ですよ。今から野村の気を引いてきてください」
 月岡は表情を歪めた。
「野村に画面を見せないようにしてください。僕はその間にパソコンを遠隔操作してドキュメントに残っているメールのやり取りを、FTPでアップさせて自分のパソコンに送らせます」
 蓮本は、早く早くと月岡をせかした。
「そんなこと急に言われても」
「風俗店でチンピラを殴った勢いでやってくださいよ」
「どういうことだよ」
「出たとこ勝負ってやつで」
 月岡は舌打ちすると、席から立ち上がった。
「ひとつ聞いていいか」
「なんですか?」
「これも、デジタルフォレンジックって奴なのか?」
 蓮本が吹き出して笑った
「ただのハッキングです。今時のパソコンに詳しい大学生でもできますよ」
 月岡は表情を歪めた。
「こういう仕事のほうが素人には派手に見えるんでしょうね」
 蓮本はそう呟くと、再び視線をパソコンに戻してキーボードをパチパチと叩き始めた。
 
 野村が座る席はオープンテラスの一番奥にあった。木陰からは日が注ぎ、ちょうど建物が風よけになって、心地よい空間が保たれていた。
「すみません」月岡が話しかけると、驚いたように野村は顔をあげた。
「野村さん……ですよね?」
「はい、そうですが」
「やっぱりそうだ。インパルスの。いつもフェイスブック拝見しています」
 月岡は名刺を差し出した。
「私、ウェブニュースで記事を書いているライターの月岡と申します。突然のお声がけ、申し訳ありません」
 野村はじっと名刺を見ていた。横目で蓮本を見ると、親指を立ててニヤリと笑った。
「実は今、編集部の方で話題の経営者の特集を組むことになっていて」
野村は頬に手をやった。
「私、実はパオパオの大ファンでして」
「ありがとうございます」
「あの北京ダックは絶品です。あの料金であの味が出せるのは、まさに企業努力の賜物です」
 野村は「いやいや」と手を左右に振った。
「今や飛ぶ鳥を落とす勢いの野村社長に、ぜひ経営の秘訣について話をお伺いしたいんです」
「僕の話なんて、面白くないですよ」
 月岡は心の中で「その通り」と思った。中途半端な経営者の自慢話ほど、聞いててつまらないものはない。しかし、それを言ってしまったら経済系のコンテンツのほとんどは成立しなくなる。読み手の数よりも語り手の数が多いという歪な構造が、自費出版やオウンドメディアの市場を支えている。
「今のビジネスパーソンは、生の経営者の声を聞きたがっています。もうコメンテーターや評論家がビジネスを語る時代は終わりました」
 月岡がちらりと視線を動かした。蓮本が両手で丸を作って大きく頷いた。
「貴重なお時間を頂いてすみません。とりあえず、次回は広報を通じて正式に取材のオファーを入れさせて頂きます」
 野村は悪い気がしなかったのか、自ら名刺を差し出した。
「いつでも連絡ください。私でよろしければお力になります」
 月岡は「ありがとうございます」と頭を下げた。
 
 千駄ヶ谷の高架下のコインパーキングに入ると、月岡は器用にハンドルをさばいて狭い駐車場に車を滑り込ませた。蓮本が「予定よりも早く着きましたね」と、助手席のパワーウインドウのスイッチを押した。
 二日前、月岡はインパルスの野村に取材のアポを入れた。名目は経営者へのインタビュー取材だったが、タイミングを見計らって、牛肉の消費期限問題の話を切り込むつもりだった。
「車の中で待っていてもいいんだぞ」
 月岡は後部座席のトートバッグを取るために身体を捻りながら言った。蓮本は「なんでですか?」と怪訝な顔つきで訊き返した。
「僕がいなかったら、サーバーの専門的な話になった時に困りますよ」
「そこはうまく誤魔化す」
「失敗したらどうするんですか? ワンチャンしかないんですよ」
 蓮本は「僕も行きます」と助手席のドアノブに手をかけた。月岡はため息をつくと、頭をくしゃくしゃと掻いた。
 これ以上、大人の汚い仕事に蓮本を付き合わせたくはなかった。泥沼の人間関係を暴くことに魅了される蓮本の姿が自分とかぶり、この事件に付き合わせることが彼の人生でマイナスになるのではないかという迷いが生まれていた。ハンドルを握りながら、ずっと「今なら引き返せる」という思いが拭い切れずにいた。
「醜い争いごとを子供に見せたくないんだよ」
蓮本は「子供って僕のことですか?」と、呆れた口調で言った。
「それだったら子供を風俗店に連れてっちゃダメですよ」
「あの時は仕方がなかった」
「ヤクザ映画さながらのシーンまで見せられましたからね」
 月岡は顔を覆いながらため息をついた。
「分かったよ」
 どうやら引き返すことはできなそうだ。
「資料は用意できているんだろうな」
蓮本は「もちろん」と、リュックからファイルを取り出した。
「あの社長、会社のサービスで『メッキー』があるのに、自分はofficeのアウトルックを使っているんですよ。どれだけ自分の会社のサービスを信頼していないんだが」
「そんな情報はどうでもいい」
 蓮本は「はいはい」と、ファイルの一枚目の資料をめくった。
「野村社長のパソコンの中には、埼玉県のセントラルキッチンの責任者と、消費期限切れの牛肉の取り扱いについてのメールのやり取りが残っていました。社内規定では冷蔵保存の牛肉の賞味期限を四十日間に設定していますが、それが過ぎたものは別の肉と混ぜ合わせてミンチにして、店で提供するよう社長直々にメールで指示が出されています」
「確信犯か」
「名目上はフードロス対策ってことになっていますけどね。でも、実態は利益のかさ上げですよ」
 外食におけるメニューには食品表示の義務はない。生鮮食品や加工食品の販売時に原材料、産地表示等を行うJAS法においても外食メニューは対象外だ。食品表示法も同様に外食は対象外となっている。
 しかし、消費期限切れの牛肉を使用している事実は、法に抵触していなくても企業の決定的なイメージダウンにつながる。特に安さを売りにしているインパルスの中華料理店にとって、客離れを引き起こす致命的な事件にもなりかねない。現場スタッフによる誤解や認識不足で逃げ切ることもできるが、会社主導で行った証拠がメールのやり取りとして公に晒されれば、経営陣は言い訳すらできなくなる。
 月岡は「行くぞ」と、ドアに手をかけた。
「待ってください」
 蓮本が肩を掴んできた。
「その前に、聞かせてくださいよ」
「なにをだ?」
「新聞記者を辞めた理由です」
 月岡が「なんだ、それか」と、運転席に身を沈めた。
「くだらんことだ」
「興味があるんです」
 月岡の肩から力が抜けた。少し間を空けたところでゆっくりと口を開いた。
「嘘の記事を書いてクビになったんだよ」
「いつもやってることじゃないですか」
「今はな。でも、新聞記者はそれが許されないんだよ」
 月岡はハンドルに腕をかけた。
「五年前の話だ。中学からの幼馴染から連絡があったんだよ。大手の不動産会社に勤めている奴で、どこから聞きつけたのか、俺が東京経済新聞の記者だと知って電話をかけたきた」
「取材してほしいとか、ですか?」
 月岡は頷いた。
「新しく始めた東南アジアの不動産投資ビジネスを記事にしてほしいという依頼だった。だけど、新聞社では事実確認が曖昧な投資に関するトピックは、記事として取り扱わない不文律があるんだよ。だから、俺はこのネタを記事にするのは無理だと断ったんだ」
 蓮本は黙って話を聞き続けた。
「そうしたら、相手さんが俺のことを呼び出したんだよ。サラリーマンの給料じゃ行けないような高級料亭に連れていかれてね、高い酒を飲まされた」
「記者冥利に尽きるじゃないですか」
 月岡は表情を変えず「誤解すんなよ」と強い口調で言った。
「接待されて記事を書いたら、ジャーナリズムじゃなくなる。真実を伝えるのが記者の役割なんだよ」
 蓮本が「今さらジャーナリズムですか」と小さく笑った。
「誰も新聞記事に真実なんか求めていないですよ。一本ぐらいいいじゃないですか、人が死ぬわけじゃないんだし」
 月岡は少し押し黙ると、「そうなんだよな」と、ぽつりと言った。
「記者になって十年目で、俺にもどこかに油断があったんだよ。『このくらいなら記事にしてもいいだろう』と。で、そいつの会社の投資ビジネスを記事にしたんだ」
「幼馴染の友達もさぞかし喜んだんじゃないですか」
「お礼の電話がすぐに来た」
「良かったじゃないですか」
「そこまではな」
月岡が顔をそむけた。
「詐欺だったんだよ、その投資ビジネスは」
 蓮本の表情が固まった。
「金だけ集めて、逃げた」
「取材前に相手の会社を調べなかったんですか?」
「会社は実在していた。調査会社の評価も悪くなかった。だけど内情はボロボロだったんだろうな。どうせ潰れるならと、最後に詐欺まがいの仕事に手を付けた」
 月岡は目を細めた。
「もう少し疑ってもよかったんだよ。だけど、俺は幼馴染の友達という担保だけで、そいつを信頼して記事を書いてしまった」
「仕方がないですよ」
「その通り」と月岡は頷いた。
「記事になってしまったものは仕方がない。だけど、載ってしまった投資サービスの記事は、コピーされてその会社のダイレクトメールに同封されて、富裕層の高齢者に配られた。東京経済新聞に掲載された安心の投資サービスですよってキャッチコピー付きでね」
 月岡のハンドルを握り締める手に力が入った。
「おかげで被害総額は十五億だ」
「なかなかな金額ですね」
「お金だけだったらまだいい」
 月岡は目をつぶった。
「老後の金をすべて投資した高齢者が、二人自殺した」
 高架下のせいか、電車が往来する騒音が車内に響き渡った。月岡は「人殺しとおんなじだよ」と、小声でつぶやいた。
「それで責任を感じて、新聞社を辞めたんですか?」
 月岡は「責任とはちょっと違うな」と首を捻った。
「重くなったんだよ。新聞記者の看板を背負うことが」
「どういう意味ですか?」
「考えたんだよ。もし、俺の書いた記事が東京経済新聞じゃなくて、もっと信頼されていない媒体に載っていたらってね」
 月岡は「たとえば、ネットニュースとか」と付け加えた。蓮本は「信じないでしょうね」と淡々とした口調で答えた。
「あの詐欺事件以降、俺は取材先のことが信じられなくなった。もっと言ってしまえば、自分の記事すらも信じられなくなった。そうなったら、もう新聞記者として仕事ができなくなった」
「それでフリーになったんですね」
 月岡は「書くことしかできないからな」と笑った。
「ウェブニュースを書き始めた当初は、俺も面食らったよ。編集者は事実確認もしないし、書いた記事にも責任を持たない。派手な見出しをつけて、アクセス数を稼ぐことしか考えていない」
「そんな記事ばかりですからね」
「書く方も必死だよ。原稿料は書いた記事のアクセス数で決まる。五万アクセス以上の記事だったら一本三万円、八万アクセス以上だったら五万円ってね」
 月岡は「同じ記事でも五万アクセス以下だったら二万円しかもらえないんだぞ」とおどけた表情で言った。
「その原稿料で取材費も賄わなきゃいけない。お金が出せないから、当然、取材も粗くなる。できるだけ現地に行かずに、手っ取り早く原稿を書きたくなるから、空想でモノを書くようになる」
「いわゆるコタツ記事って奴ですね」
 月岡は頷いた。
「そんな記事ばっかり書いていて、嫌にならないんですか?」
「それがそうでもないんだよな」
 月岡は頬を緩めた。
「金で割り切って原稿を書く仕事が、思いのほか居心地が良かったんだよ。突っ込んで取材をしたいときは踏み込めばいいし、どうでもいい原稿だったら適当なことを書けばいい。この自由な感じが、俺の性にはあっていたんだな」
 月岡は「そこで問題だ」と、蓮本に顔を向けた。
「ヤフーニュースに掲載される記事は、一日何本ぐらいだと思う?」
「百本とかですか?」
「答えは六千本だ」
 蓮本は「えーっ」と大声を発した。
「そんな記事の中の、俺は一~二本しか書いていない。当然、記事を書いた責任も薄くなるから気も楽になる」
 月岡は大きな伸びをした。
「これが俺の新聞記者を辞めた理由だ」
「ありがとうございます」
「率直な感想を聞かせてくれ」
蓮本は少し間を置いてから「地味な話ですね」と笑って答えた。月岡は「ふざけんな」と蓮本の頭を手で払うと、「行くぞ」と運転席のドアノブに手をかけた。
 
 受付の女性に案内されて、月岡と蓮本は応接室に通された。
「こちらでお待ちください」
 女性が部屋から出て行くのを見計らって、蓮本が「意外と事務所は小さいんですね」と室内を見回した。
「飲食業の会社なんてみんなこんな感じだよ。店は立派に見せる必要はあるけど、事務所を立派に見せる必要はない」
 蓮本は一眼レフをいじりながら、「適当に写真を撮ってますね」と、シャッターを二、三回押した。
 野村が部屋に入ってきた。後ろには秘書だと思われる小柄な女性がノートパソコンを片手に立っていた。月岡と蓮本は立ち上がると頭を下げた。
「この度は貴重なお時間を頂きありがとうございます」
 野村は「いえいえ」と、二人に座るよう促した。
「この間は驚きましたよ。突然、声をかけられて」
 月岡は「すみません」と申し訳なさそうな顔をした。
「今しかタイミングはないなと思いまして」
「でも、結果として仕事につながることになりました」
 野村は隣に座る広報担当の女性を紹介した。月岡も、カメラマンと称して蓮本に挨拶をさせた。
 月並みの質問を二十分ほどすると、カメラを構えている蓮本と目を合わせた。月岡はテーブルの上で手を重ねて、身を乗り出した。
「質問がガラリと変わりますが」
「どうぞ、なんでも聞いてください」
「御社のセントラルキッチンにおける消費期限切れの牛肉についてのことなんですが」
 野村の表情が一変した。月岡が秘書の顔をちらりと見た。
「話を続けてもよろしいでしょうか?」
 野村は少し間をおいてから、「ちょっと席をはずしてくれないか」と秘書に言った。秘書が部屋から出て行くのを確認すると、眉間に皺を寄せて顔を突き出してきた。
「いきなりなんなんだ!」
「この件です」
 月岡はメールのやり取りが記載された資料を机の上に広げた。野村はそれをつかみ取ると、手を震わせながら「なんだこれは!」と机の上に叩きつけた。
「内部告発か?」
「それは言えません」月岡は野村の顔を見た。
「このメールのやり取り、心当たりはありますよね?」
 野村は「知るか!」と、顔を真っ赤にして横を向いた。
「こんなメールの文章、いくらでも偽装できる」
 月岡は「そうですかね」と、ファイルの中から一枚の用紙を手に取った。
「ヘッダー部分の発信元、送信先、発信日時の偽装は案外難しいんですよ。それに、これらのヘッダー情報に基づいて相手のパソコンを調べたら、一発でそのメールの真偽が分かってしまいますからね。仮にメールの偽物を作るんだったら、ここまでヘッダーの情報は晒しませんよ」
 野村が睨みつけてきた。月岡は澄ました顔で話を続けた。
「消費期限が過ぎた牛肉をミンチにしているそうですね」
「現場の判断は任せている」
 月岡が首を左右に振った。
「社長、観念したほうがいいですよ。こうやってセントラルキッチンのスタッフにメールで指示を出している証拠が残っているんですから」
 野村は唇を噛むと、顔をこちらに向けた。
「記事にするのか?」
「条件次第です」
「カネか?」
月岡は首を振った。
「メッキーのサーバー内のログを見せてください」
 野村は「は?」と首を曲げた。
「詳しい事情は言えませんが、ある人物のメールのログを追いかけているんです。しかし、使っていたパソコンは既に警察に押収されています。ログの解析の方法は、サーバーに残されているデータを探るしか残されていません」
「そんな条件飲めるか」
 野村は吐き捨てるように言った。
「どこの馬の骨だか分からない奴らにサーバーの中身なんて見せられるか」
 月岡は「そうですか」と、静かな口調で言った。
「分かりました。では、取引はなかったことで」
 立ち上がろうとすると、野村が「ちょっ、ちょ」と手を伸ばしてきた。
「一体なんなんだ!」
 ぶつぶつ言いながら、机の上にあった内線の電話を手に取った。
「メッキーの担当はいるか? あぁ、応接室だ。すぐ来てくれ」
 野村は乱暴に受話器を置くと、ソファに深く腰をかけた。
「俺はメッキーのことは良く分からん。詳しくは今から来る責任者に聞いてくれ」
 月岡は蓮本に向かって「そういうことだ」と言った。野村は鼻を鳴らすと、そっぽを向いて口を尖らせた。
「ご理解、ありがとうございます」
「ふざけた奴らだ。最初からこれが狙いだったのか」
「ご想像にお任せします」
 野村は舌打ちをすると、席から立ち上がった。
「安心してください。消費期限切れの牛肉の件はニュースにしません。サーバーの確認が取れ次第、責任をもってデータはこちらで破棄しておきます」
「当たり前だ!」
 野村は大声で叫ぶと、勢いよく応接室から飛び出していった。
 
 秋穂から〝暑気払い〟という名目で招集がかかった。
山之内の自殺以降、各々のスケジュールの都合で顔を合わせる機会が減り、一度、情報を共有するためにも集まったほうがいいということになり、伊勢崎の自宅でバーベキューをすることになった。
月岡は乗り気ではなかった。原稿の締め切りに追われていていて、呑気に肉など焼いている余裕などなかった。
「せっかくの誘いですが、申し訳ない」
 電話口でそう言うと、伊勢崎は「それは残念ですね」と言った。
「どうしても終わらせなきゃいけない原稿があって」
「気にしないでください。フリーのライターが多忙なのは分かっていますから」
 伊勢崎は、「じゃあ、千鶴ちゃんにもそう伝えておきます」と電話を切ろうとした。
「ちょっと待て!」
月岡は声を張り上げた。
「千鶴が……来るのか?」月岡はスマホを持ち換えた。
「沙羅さんと来ますよ」
「ほんとか?」
「嘘を言ってもしょうがないじゃないですか。千鶴ちゃんには僕から事情を説明しておきますよ」
 伊勢崎が再び電話を切ろうとすると、月岡は「ちょ、ちょっと」と声を出した。
「俺も行く」
「締め切りが近いんじゃないですか?」
「今、大丈夫になった」
 月岡はその日から連日徹夜で原稿を書き上げ、なんとか週末の暑気払いに参加する時間を作ることができた。
 
月岡がインターホンを鳴らすと、玄関から伊勢崎が顔を出した。門扉まで出てくると周囲を見回し「車じゃないんですか?」と訊いてきた。
「今日は飲むつもりだから」
月岡は手土産のビールを掲げた。伊勢崎は「そのほうがいいですよ」と笑った。ふと駐車場に目をやると、最新型のミニバンが駐車場に停まっていた。
「車、買い替えたんですね」
 伊勢崎は「ええ」と、少し照れながら「そろそろ家族が増えますから」と言った。
「あっ、パパだ!」
 千鶴が庭から飛び出してきた。体当たりするように身体にしがみつくと、月岡はぎゅっと抱きしめて頭を撫でた。
「こっち来て」
 千鶴が手を引っ張った。「ここに座って」と、空いている席をポンポンと叩いた。
「可愛いですね」
 横に蓮本が立っていた。
「なんでお前がいるんだよ」
「僕もメンバーですから」
「私が呼んだのよ」
 肉をひっくり返していた秋穂が言った。
「彼の大学、近くだから声をかけたのよ」
 蓮本は照れながら「どうも」と軽く頭を下げた。秋穂はフフッと笑うと、焼けた肉を皿に乗せて手渡した。
「若いんだから、もっと食べなきゃね」
 蓮本は背筋をピンと伸ばして「ありがとうございます」と皿を受け取った。
「なに緊張しているんだよ」
月岡が言うと、蓮本は顔を赤くして「緊張なんかしていませんよ」と声を荒げた。
「こいつ、美人に弱いんですよ」
 秋穂が「もうやだぁ」と月岡の肩を叩いた。
 その時、日の当たっていた周囲が急に影で暗くなった。顔を上げると、背の高い伊勢崎が目の前に立っていた。
「洗い物ができたから台所に行ってくれないか」
 秋穂は「はーい」というと、エプロンで手を拭きながら家の中に入っていた。伊勢崎はそれを見届けると、無言で踵を返し、別のバーベキュー台に向かって歩いていった。
「機嫌悪そうでしたね」
 月岡は「彼は嫁さんが大好きだからな」と肩をすくめた。
「嫉妬されたってことですか?」
「まぁ、そんなところだ」
 夫婦の恋愛感情は時間とともに冷めるものだ。しかし、ごく稀に出会った頃の恋愛感情を維持し続ける夫婦がいる。家族ではなく、恋人としてパートナーのことを永遠に見続けることができる人にとって、妻が他の男性と接触することは気を荒立たせる事象でしかない。
 月岡は手に持っていたビールをひと飲みすると蓮本に顔を近づけた。
「例のことはまだ誰にも言ってないだろうな」
「言えるわけないですよ。データのハッキングは犯罪ですからね。それに、余計なことを言ってあの人達に期待させるのも良くないですし」
 蓮本はバーベキューを楽しむ沙羅や千鶴に視線を向けた。
「時間はかかりそうなのか?」
 野村の会社に乗り込んでから一週間が経過していた。蓮本は「あともう少しなんですけど」と、持っていた缶酎ハイを口にした。
「法的な証拠になる可能性もあるから、研究室でデジタルフォレンジックをかけています。通常よりも解析する作業工程が多くて時間がかかっているんです」
「そんなに面倒なのか?」
 蓮本は頷いた。
「対象媒体が改変されないように専用機器で元データを複製しなくてはいけないですからね。作業内容もひとつひとつ記録して残さなくてはいけないですし、場合によっては作業のプロセスを写真や動画で撮影する必要もあるんです」
「それは大変だな」
 蓮本は「地味な仕事には慣れていますから」と笑った。
「でも、ようやく証拠保全の作業が終わったので、あとの解析作業は早いですよ。今週中には良い報告ができると思います」
「ふたりで何のお話をしているの?」
 千鶴が間に入ってきた。月岡が「内緒だよ」と言うと「パパに聞いてるんじゃないの」と、蓮本の腕を掴んだ。
「なんだそれ」
月岡が目を丸くした。蓮本が「俺、好かれているみたいで」と笑った。
「ねぇ、遊ぼうよ」
 千鶴が手を引っ張ると、蓮本は「すみません」と月岡に向かって頭を軽く下げて、席から離れていった。
「まったくもう」沙羅が月岡の横に立っていた。「はい」と、焼肉の乗った皿を手渡してきた。
「蓮本君が来てから、ずっとあんな調子よ」
 月岡は蓮本と千鶴が芝生の上で遊んでいる姿を見て目を細めた。
もし、沙羅と離婚していなければ、自分にも今日のような休日が日常的にあったのかもしれない。庭で肉を焼き、ビールを飲んで、仕事とは無関係の人たちと団らんする日曜日。今の自分の生活とは無縁の世界だったが、こちらのほうが人間らしい生活であることは間違いなかった。
 月岡は由紀恵の言っていた「家族をまたイチから作り直すことができるようになった」という言葉を思い出した。家族を再構築することは、人間らしい生活を取り戻す意味でもある。事実、この家に秋穂が来なければ、由紀恵と伊勢崎の人生は味気ないものになっていたはずだ。そう考えれば、伊勢崎や由紀恵の秋穂に対する愛情が人一倍強くなる理由にも合点がいった。
「最近、栗原先生と会った?」
 沙羅が口を開いた。
「ここ数日、忙しくて会っていないんだよ」
 沙羅は近くにあった椅子を手で引き寄せた。
「前に彼の面会に行ったときに言われたんだけど、新しく起きた事件、自殺と他殺の両方で捜査をしているみたいなの」
「まだ確定はしていないのか?」
 月岡が険しい表情をした。
「でも、ポケットから凶器のスパナが出てきたのよ。もう犯人は山之内って男で確定なんじゃないかしら」
「まだ分からんよ」
「なんでよ」沙羅が月岡を睨んだ。
「山之内に罪をなすりつけるために、犯人がスパナを入れたかもしれないだろ」
「そうかもしれないけど」
 沙羅は真犯人が山之内であってほしいと願っているのだろう。そうすれば、鈴木は無実となり、すぐにでも釈放される。しかし、警察がまだ動いているということは、山之内が犯人である確固たる証拠が、現場から出てきていないということになる。
 月岡は持っていたビールを口に含んだ。
 山之内は殺される前日に、誰とメールをやり取りし、何の動画をUSBメモリにダウンロードしたのか。罪の意識にさいなまれて自殺するには、あまりにもそれ以前の行動との辻褄が合わな過ぎる。
 もし、仮に山之内が真犯人なら、浜辺が殺された部屋の鍵を持っているはずだ。鍵があればベランダのガラスを割ってわざわざ侵入する必要もない。その鍵が出てこない以上、警察も安易に自殺と断言できない事情がある。犯行後に鍵を捨てた線でも捜査を進めているかもしれないが、鍵を所有したことで起訴された鈴木がいる以上、鍵の発見なしに山之内を新たな浜辺殺しの犯人にするわけにはいかない。
「ねぇ、花火しようよ」
 千鶴が花火セットを手に持って近づいてきた。伊勢崎が「バケツを持ってくるよ」と席を立ちあがった。蓮本がチャッカマンを片手に蝋燭に火をつけ、沙羅と秋穂が千鶴の花火選びに付き合った。
「いいわね、こういうの」
 由紀恵が近づいてきた。「ここ、いいかしら?」と、先ほどまで沙羅の座っていた席に腰を下ろした。
「私も何か飲もうかしら」
 月岡は「気が利きませんで」と立ち上がった。
「あら、そういう意味じゃなくって」
「いえいえ、いつもご馳走になってばかりですみません」
 月岡は周囲を見回した。テーブルの上の保冷バッグが目につき、中から冷えた缶ビールを一本取り出した。
「これでいいですか?」
 由紀恵が「ありがとう」と手を差し出した。
 千鶴が持つ花火に火がついた。秋穂と沙羅が手を叩く。
「キレイね」
 由紀恵がつぶやいた。月岡は、「介護のお仕事は大変ですか?」と、当たり障りのない話題を振った。
「もうずっとこの業界は大変だからね。慣れちゃったところもあるし」
 由紀恵は月岡に顔を向けた。
「昔は介護の仕事も人気があったのよ。当時はスーパーのレジ打ちや事務仕事よりも、介護の時給が三百円ぐらい高かったの。でも、人件費が上がったでしょ。今は他にも時給がいい仕事がたくさんあるじゃない。介護の現場はなかなか人が集まらなくなって、それで仕事が大変になっているのよ」
 介護業界が慢性的な人手不足に陥っているのは月岡も知るところだった。社会問題としてもっとフォーカスすべきテーマではあったが、いかんせん、介護のコンテンツはニュースとして人気がなかった。高齢化社会という現実から目を背けたいという思いと、考えてもしょうがないというテーマのため、ウェブニュース側も積極的に取り扱おうとはしなかった。
「介護士が見つからないから、まだケアマネージャーの私が球子さんの介護をやっているのよ」
「球子さん、お元気なんですか?」
 由紀恵は「最近はちょっとね」と表情を曇らせた。
「以前よりも、さらに口数が少なくなってしまったわ」
「認知症が進んでいるんですか?」
「おそらく」由紀恵は呟くように言った。
「よし、次はこれをやろう!」
 蓮本がドラゴン花火を地面に置いた。千鶴がきゃーっと悲鳴のような声を上げる。
「私、思ったんだけどね」
 由紀恵が話を続けた。
「球子さんの部屋の隣で、人が死んでいるのよね、二人も。しかも、同じ屋根の下で一晩一緒に死体と過ごすのよ。普通の神経の持ち主だったら、気がおかしくなるわよね」
 月岡は球子の立場で今回の事件を考えたことがなかった。認知症とはいえ、人が二人も殺された家で生活するのは、改めて考えると気の毒な話だと思った。
「介護施設に移すことはできないんですか?」
「それも考えたのよ。だけど、その判断は親族である娘さんしか決めることができないの。私たち介護士ではどうにもすることができないのよ」
 浜辺には海外に住む妹がいる。何年も顔を合わせていない不仲な母親であれば、ケアマネージャーにすべてを任せてしまう事情も分からないわけではなかった。
「浜辺社長が生きていれば、あの家に住み続ける意味があると思うんだけど、もう誰も寄り付く人がいなければ、あそこに球子さんが居続ける理由はないと思うんだけどね」
 月岡は、以前、浜辺の自宅に行った時のことを思い出した。あの人里離れた山奥の民家で、一人で介護スタッフが来るのを待ち続けることは、どれだけの孤独感なのだろうか。周囲の風景を思い出していると、赤いポストに手を突っ込む浜辺の姿が頭に浮かんだ。そういえば、郵便物の謎もいまだ解決していない。
 浜辺が待ち続けた郵便物は何なのか――。
「鍵、USBメモリ、ポスト、メール、寝たきり、自殺」
 月岡は一人つぶやくと、手に持っていた缶ビールをゆっくりと口に運んだ。
 
 暑気払いから三日後、『メッキー』のデジタルフォレンジックが完了したという連絡が入った。見せたいものがあると言うので、大学の帰りに月岡の自宅で落ち合うことになった。
「意外にキレイにしているんですね」
 蓮本は月岡の部屋を見回した。
「もっと散らかっていると思っていました」
「どっち飲む?」
月岡は冷蔵庫を開けてペットボトルのウーロン茶と炭酸水を手に取った。蓮本が「炭酸で」というと、月岡は「ほいっ」と、放り投げた。
「で、見せたいものっていうのは?」
 月岡は椅子に座り、ペットボトルのキャップを捻った。蓮本は背負っていたリュックをその場で下ろすと、クリップで止めた用紙を取り出した。
「山之内がメールでやり取りしていた相手が分かりましたよ」
 月岡は「Yamanouchi」と表題に書かれた用紙の細かい文字を目で追った。蛍光ペンで線を引いたところに「Hamabe」という英文字を見つけた。
「やはり浜辺か」
 蓮本が小さく頷いた。
「予想通りです。三月三十一日に山之内から浜辺に対して銀行口座をメールで教えています」
 次のページには、銀行名と支店名、口座番号と山之内の名前が書かれていたメールのコピーがあった。
「やけに短いメールだな」
「普段の仕事は電話でやり取りしているんだと思います。口座名義を見ると法人口座ではなく個人名義だから、今回のお金のやり取りは特別だったんだと思います。銀行口座は口頭で言うよりも、メールのほうが正確に伝えられますから、この時だけはメッキーを使ったんじゃないでしょうかね」
「二人の間に金銭的なやり取りがあったことは、これで確定だな」
「山之内が銀行口座を伝えているということは、浜辺が山之内にお金を支払う立場だったんだと思います」
「ホームページを作る側が、依頼した側に金を払うのはおかしいからな」
 蓮本は「山之内の行動を時系列で整理してみました」と、もう一枚の用紙を差し出した。
 
三月三十一日 山之内が浜辺に銀行口座を教える。
四月四日 山之内がUSBメモリに動画をダウンロードする。
四月六日 山之内が風俗店で浜辺に黄色いUSBメモリを手渡す。
 
「つまり、浜辺が振り込んだのはUSBメモリにダウンロードした動画の金か」
「それに風俗店の顔出しの女の子の取材一式をバーターにして、USBメモリの動画を手に入れたんだと思います」
「そこまでして手に入れたい動画ということか」
 少し間を置いてから、「もうひとつ、山之内が自殺する前日のメールです」と、蓮本は一枚の用紙を月岡に手渡した。その用紙には先ほどと同じように、山之内の個人名義の銀行名と口座番号が書かれていた。
「また金の催促か?」
「宛名を見てください」
 
『Yutaka Isesaki』
 
 月岡は喉に渇きを覚えた。ウーロン茶を口に運んだが、喉の潤いは戻ってこなかった。


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竹内謙礼 好きをたくさん押してくれたら取材して続きを書きます。足りなければ書くのは止めます。でも書きたいから押してね♪