第二話 黄色いUSB
中央道のアンダーパスを抜けると、景色は市街地から山間部へと変わった。東京都下とは思えないほどの長閑な風景が広がり、窓から入ってくる風も冷たい。やがて道幅が狭くなり、月岡はゴルフGTIのギアを四速から三速に落とした。
上恩方町――浜辺が殺害された自宅のある町名である。八王子市西部にある人口八百人にも満たない小さな町。そこに辿り着くためには、都道五二一号線の「陣馬街道」を通り抜けなければいけなかった。山間部の緩いカーブでハンドルを切りながら、月岡は前日に伊勢崎から聞いた話を頭の中で反芻した。
浜辺は二年前まで八王子駅近くのアパートに一人で住んでいた。しかし、母親の球子が庭で転倒し、腰を悪くして寝たきりになったことで、実家のある上恩方町に戻ることになった。
山間部の町といっても、車を走らせれば八王子の市街地までは一時間もかからない。場所を問わないネット関連の仕事であれば、さして不自由はなかったのだろう。打ち合わせはオンラインでもできるし、クライアントと顔を合わせる細かい仕事は、伊勢崎と鈴木が対応していた。三人が事務所を構えなかった理由は、浜辺が上恩方町という交通の便の悪い片田舎に住んでいた事情が大きかったのかもしれない。
左手に小さな川が流れているのが見えた。道路の両脇には背の高い木が生い茂り、道幅はさらに狭くなった。入ってくる風が冷たくなる。月岡は十センチほど開けていた運転席の窓を閉めた。
ハンドルを握りながら、再び考え巡らせた。昨夜からある疑問がぬぐい切れず、殺害現場となった上恩方町まで車を走らせることになった。
母親の球子は本当に何も知らないのか――。
それが月岡の今回の事件の最大の疑問だった。球子は寝たきりで身動きが取れず、認知症も患っている。殺害現場に居合わせた唯一の参考人であり、警察も丹念に取り調べたはずだ。その結果として鈴木が逮捕されている現状を考えれば、球子からはこれといった証言が得られなかったのだろう。
しかし、殺害方法は撲殺である。多少なりとも打撲音はしたはずだし、場合によっては、悲鳴も上がっていたかもしれない。それでも犯人に結び付く証言を得られなかったというのは、いくら認知症が進んでいるとはいえ、ありえるのだろうか。
月岡は早いうちに祖父母を亡くしている。身内に高齢者がなかったので、寝たきりで認知症の老人が、どのような状態になっているのか想像することができなかった。
「いや、待てよ」
月岡はハンドルを握りながら呟いた。浜辺を殺した犯人は、母親が寝たきりで認知症であることを事前に知っていたのではないだろうか。そうでなければ、人を殺す現場として自宅を選ばないはずだ。へたをすれば殺害しているところを見られてしまうかもしれないし、近所の人に目撃されるリスクもある。もし、自分が殺人犯ならば、家の中ではなく、人気のない山奥で殺すほうが手っ取り早い。周囲がこれだけ深い山に囲まれているのであれば、人目につかないところを探すほうが容易といえる。
それでもあえて自宅を選んだということは、球子の病状を知っている人物による犯行の可能性が高いといえる。
候補として挙がるのは伊勢崎だ。彼は球子が認知症であることを、母親の由紀恵から聞いているはずだ。
しかし、彼には事件当日、八王子駅前のコワーキングスペースで仕事をしていたというアリバイがあった。そうなると、残るのは鈴木しかいない。鈴木であれば、何度も浜辺の家に出入りしているので、球子の病状は把握していたに違いない。
やはり鈴木が殺したのか――。
一番しっくりする仮説だった。鍵については「知らない」と証言しているが、浜辺のキーケースから抜き取って、慌てて車の中に置き忘れてしまった可能性は十分にある。殺害動機である貸した五十万円は確かに少なすぎるが、突発的に怒りがこみあげてきてもおかしくはない金額ではある。
このまま鈴木に有罪判決が出れば、懲役は二十年ぐらいにはなるだろう。
そうなると、沙羅はどうするのか。
彼が出所するまで待つのだろうか。その時は彼女も六十歳近い。人生としては老後の部類に入る年齢だ。
千鶴だってその頃にはすでに三十歳の一歩手前だ。結婚だってしているかもしれないし、二十年も会っていない義理の父を、果たして親と思うだろうか。
「次の交差点を左折です」
ナビの声で月岡は我に返った。ギアを二速に入れて、ゆっくりとハンドルを切りながら細い道に入っていった。
竹藪に囲まれた道を抜けると、小さな集落が見えた。水田と畑がまばらにあり、合間に住宅がぽつぽつと建っていた。車をゆっくりと走らせていると、そのうちの一軒の前でナビが目的地であることを告げた。
浜辺の自宅は平屋の戸建て住宅だった。和風と呼ぶよりも古民家と呼んだほうがふさわしい佇まいだ。周囲は高いブロック塀で覆われており、正面からしか家の中をうかがい知ることはできなかった。
月岡は手前の空き地に車を停めて外に出た。周囲はしんと静まり返り、風の音しか聞こえなかった。入口の塀には錆びた赤い郵便ポストが掲げられ、白いシールに「浜辺」とかすれた文字が書かれていた。この家の中に寝たきりの球子がいるはずだが、入口からは人の気配を感じとることはできなかった。
左手から一台の軽トラックがやってきた。月岡の車を道路から塞ぐように停めると、エンジンをかけっぱなしにした状態で、中から高齢の男性が姿を現した。麦わら帽子をかぶり、首にかけたタオルで顔を拭きながら近づいてきた。
「白い車、あんたのか」
月岡が「はい」と答えると、老人は「そこはワシの土地だ」と言った。
「すみません、今すぐ動かします」
月岡が頭を下げながら車に駆け寄ろうとした。
「いや、構わんよ。いつもこんな感じでコイツを停めているから」
老人は自分の軽トラックを指差した。
「あんた、警察の人かい」
月岡はすぐに名刺を差し出した。老人は「記者さんか」とつぶやいた。
「少し話を聞かせていただけませんか」
「さんざん記者たちには話したぞ」
「浜辺さんのご家族について知りたいんです」
老人は顔をしかめた。月岡は再び「お話を伺えますか」と問いかけると、老人は「あぁ」と短く答えた。汗を拭きながら、ちらちらと月岡のほうを見る。口数は少ないが、何か話したそうな顔だった。
この手のタイプは取材しやすい――記者の名刺を出したら、七割の人は嫌な顔をするが、残り三割はベラベラと話す。この老人は、明らかに後者だ。月岡は「ありがとうございます」と、トートバックからノートとペンを取り出した。
「ご近所の方ですか」
老人は瓦屋根の家を指さした。
「あそこの住吉ってもんだ」
「下のお名前は」
「昭三。昭和の昭に、数字の三」
月岡はペンを走らせた。
「浜辺さんの家のことはよくご存じなんですか」
「もちろん。このあたりがワシの畑でね。近所だから昔から知っている」
住吉は軽トラックが停めてある周囲を見回した。月岡はエンジンがかけっぱなしであることに気づき、「止めなくてもいいんですか?」と尋ねた。
「いつもああしているから、気にするな」
住吉はタオルで再び汗を拭いた。月岡は質問を続けた。
「家の中には、まだ浜辺さんのお母様がいらっしゃると聞いたんですが」
「いるよ。たまに介護の人がやってきて世話をしている」
「寝たきりだと」
「何年か前に庭でスッ転んでな。それ以来、腰を悪くして歩けなくなった」
住吉は周囲をきょろきょろと見回すと、「それに、かなりボケとるぞ」と小声で言った。
月岡は、「なるほど」とメモを取った。この男、相当口が軽い。
「息子さんの勇樹さんが殺された時も、球子さんは家の中にいたんですよね」
「そうらしいな。でも、警察が言うには何も気づかんかったらしいぞ」
「そこなんですが……分からないもんですかね? 自分の家の中で人が殺されているんですよ」
月岡はかまをかけてみた。住吉は顎に手をやると、「無理だろうな」と唸った。
「球子はもう歩けんし、相当ボケとる。自分の息子が死んだことすら分からんかもしれん」
認知症は相当進んでいるのか。月岡は話を変えることにした。
「殺された勇樹さんの他のご家族は?」
住吉は思い出すように斜め上を見上げた。
「勇樹のオヤジは、早いこと球子と離婚して、次の夫は再婚してすぐに亡くなった。勇樹とは血のつながらない連れ子の妹がいたが、球子と仲が悪くて、高校を出たらすぐに家を出て行った」
住吉は「小さい集落だから、話はぜんぶ筒抜けだ」と笑った。
「そうなると、勇樹さんの葬儀は妹さんが喪主を務められたんですか」
「いや、妹は葬儀には来ておらんよ」
月岡はペンを止めた。
「確か妹さんはイギリスに嫁に行ったとかで、そもそも葬儀には来られなかったらしい。あまりいい死に方じゃなかったから、身内だけということで、ワシらも線香しか上げとらん。葬儀は勇樹の会社の……えーっと、誰だったかな。体の大きい男だ。そいつが仕切ってたな」
おそらく伊勢崎のことだろう。月岡は話を切り替えた。
「勇樹さんは、どんな方だったんですか」
住吉の表情が変わった。
「ただのクソガキだよ」眉間に力を入れると、吐き捨てるように言った。
「中学んときから、へんなやつらとつるんでてな。この家に集まってよくたむろしてたよ。高校を卒業してからもガラの悪い奴らとずっと一緒にいてね。派手な車がよくここに停まっていたよ」
住吉は月岡の車が止まっている空き地に視線を向けた。自分も車を停めているので気まずい思いもあったが、知らぬふりをしてノートに視線を落とした。
「しばらくは家を出ていたんですよね」
「専門学校を卒業してからしばらくはな。戻ってきたのは球子が寝たきりになってからだ。二年ぐらい前じゃなかったかな」
「その時の勇樹さんの様子は」
住吉は、「多少、まともになった感じだったかなぁ」と言ったが、すぐに「いやいや」と首を左右に振った。
「昔と変わらんよ。最近も、ちょうどこのあたりに軽トラを停めたとき、勇樹が家の郵便ポストをゴソゴソと探っていたんだ。ワシが『まだ郵便屋は来んぞ』といったら、すごい目つきで睨まれてな」
月岡は郵便ポストに視線を向けた。
「あれは目上の人に向かっての態度じゃねぇな」
浜辺にとったら、住吉のアドバイスは余計なおせっかいだったのだろう。
「以前から勇樹が郵便ポストの中を覗いているのを何度も見ていたんだよ。こっちに戻ってきてから、配達時間が分からないと思って、親切で教えてやったのに。結局、配達時間が分からんままだから、あいつ、家に帰るたびに郵便ポストを弄っていたよ」
浜辺は郵便物で何かをやり取りをする仕事をしていたのだろうか。ホームページを制作する仕事であれば、写真や動画はネットでやり取りできるはずだ。今時、CD―RやUSBメモリを送ってデータをやり取りすることもないし、紙の媒体でもスキャンすればメールで送ることができる。
月岡がペンを止めていると一台の軽自動車が近づいてきた。二人の前を通り過ぎると、ウインカーを出して浜辺の家の敷地に入っていった。
「介護のスタッフさんだ」
住吉が顎を触った。
「勇樹が亡くなってから、介護の人が週に三、四回ぐらい来ているよ。他の日は違う車が来るから、二つの介護サービスで回しているんじゃろうな」
介護士とは別に出入りしているのは、おそらく伊勢崎の母親の由紀恵だろう。以前、伊勢崎の家に行ったときに、球子の面倒を見ていると言っていたことを思い出した。
浜辺の家の中から、介護士の声が聞こえてきた。何を話しているか聞き取れなかったが、今まで人の気配のなかった家が、急に賑やかになった。
「貴重なお話、ありがとうございました」
一礼すると、住吉は「おう、今、クルマ、どかすからよ」と手を挙げた。月岡は再び会釈したところで、軽トラックの手入れの良さに目がいった。農作業で使っているわりには、洗車が行き届いており、ホイールはカスタムメーカーの社外品が装着されていた。
「キレイに乗られているんですね」
車好きの月岡としては、声をかけずにはいられなかった。住吉は「新車だ」と答えると、少し照れながら「息子が買ってくれたんだ」と言った。
「ワシもそろそろ免許を返納しなきゃいけない歳なんだよ。だけど、畑仕事は止められん。息子と話し合って、安全機能がフル装備の軽トラなら、まだ少しは乗ってもいいってことになってな」
今の軽トラには自動ブレーキが標準装備されているし、ドライブレコーダーもつけることができる。仮に三年後に下取りに出したとしても、軽トラは中古車市場で値が落ちない。息子にとっても大きな出費にはならないから、免許返納までの残り期間の車の乗り方としては正解といえた。
「こいつは燃費もいいんだよ」
住吉はハンドルを叩いた。エンジンをかけっぱなしにしていたら意味がないだろと思ったが、月岡はそのことを口に出さず、ニコリと笑って頭を下げた。
浜辺の自宅に行った翌日、弁護士の栗原からスマホに連絡が入った。
「接見禁止が一部解除になった」
月岡は「えっ」と声を発した。鈴木は容疑を否認しているので、接見禁止は解除にならないと踏んでいた。それが申請から十日ほどで接見が解除されたのは想定外だった。
「決して喜ばしい状況じゃないぞ。もうすでに検察側はあらかたの捜査を終わらせて、有罪まで持って行く手はずが済んでいる可能性が高い」
栗原は声のトーンを落とした。
「拘置所の準備ができていないらしいから、鈴木君はまだ西八王子警察署の留置所だ。お前の接見は六月四日で調整したいんだが、その日は大丈夫か?」
月岡は壁にかかっているカレンダーに目をやった。六月四日は三日後だ。留置期間中の面会は一日一回。おそらく、その間に沙羅や千鶴も含めた鈴木の身内が接見に行っているのだろう。
「別に会わなくてもいいんだぞ」
気を使ったのか、栗原が先に口を開いた。
「聞きたいことがあれば、俺が代わりに聞いておく。弁護士の面会回数は無制限だ」
こんな事情でなければ、沙羅の再婚相手の顔など見たくはなかったが、話を聞かなければことは進展しない。
「接見には行く」
月岡は平静を装った。電話口の向こうで栗原が言葉を詰まらせる。
「直接会わなければ分からないことがある」
「それは記者としての経験則か」
「そんなもんだ」
嘘だった。自分を捨ててまで沙羅が選んだ男を見てみたいという思いのほうが、逃げ出したい気持ちよりも勝っただけの話だ。
「分かった。六月四日に予定を入れておく」
月岡が「よろしく」と電話を切ろうとすると、栗原が「あーっ、それと」と慌てた口調で言った。
「いろいろ調べて分かったことがある。浜辺は風俗店のホームページも作っていたらしい」
月岡は机の上にあったノートを引き寄せた。
「拘留中の鈴木君から聞いた話だ。風俗店から前金だけを受け取って、そのまま逃げた案件もいくつかあるらしい。恨みを買っているのは一人や二人じゃないということだ」
風俗店のホームページ制作を請け負う会社はそう多くはない。対外的に仕事のイメージも悪いし、ウェブデザイナーのモチベーションも下がってしまう。よほどの事情がなければ、この手の業界の仕事は請負わない。
一方、他がやりたがらない仕事だからこそ、金回りのいい案件になることは間違いなかった。うまみのある仕事ではあるが、反面、取引先の身辺調査を怠ってしまうと、不要なトラブルに巻き込まれてしまう。
「これらの証言は警察が相手にしてくれないそうだ。俺もホームページを制作する会社については、あまり情報に明るくない。代わりに彼の話を聞いてやってくれないか」
栗原は最低限の連絡事項を述べたのち、電話を切った。
西八王子警察署は東京都西部、多摩地域を代表する大規模警察署のひとつだ。昭和が終わるころに建てられた六階建ての庁舎は、背の低い住宅街の中に、ポツンと頭一つ抜け出す形で建っていた。
月岡は総合案内に向かった。留置所の知人に接見に来たと伝えると、受付の女性は二階にある留置管理課を案内してくれた。
面会名簿に名前を書いて待っていると、警察官に呼び出された。身分証明書を提示し、無機質な面会室に入った。
アクリル板の向こう側の戸が開いた。警察官と一緒に上下グレーのスウェット姿の男が現れた。深々と頭を下げると、ゆっくりと椅子に腰をかけた。
「この度は申し訳ありません!」
面会室に響き渡る大声だった。警察官が眉間に皺を寄せて「静かに!」と睨みつけてきる。
整った顔つきの男だった。目は切れ長で、鼻筋は通り、沙羅より五つ若いと聞いていたが、無精ひげを整えればそれよりも若く見える。
「僕のために……本当に申し訳ありません」
月岡は「お前のためじゃない」と言う言葉を飲み込んで、「確認だ」と短く言った。
「本当に殺っていないんだな」
鈴木は「当たり前です」と顔を突き出した。
「あの日、浜辺社長に呼び出されて自宅に行っただけなんです。今進んでいる仕事の話をして、すぐに帰る予定でした」
「長い話になるとは思っていなかったんだな」
鈴木は頷いた。
「午後には埼玉で仕事があったので、僕も急いでいたんです。寝坊して時間もなくて、圏央道の西八王子インターから乗れば間に合うと思って、それで社長の自宅に到着するなり、すぐに家の中に入って行ったんです」
「その時、自分の車には鍵をかけたのか?」
浜辺の自宅の鍵は鈴木の車の中で見つかっている。鈴木が離れたすきに、鍵が仕込まれた可能性は十分にある。その月岡の質問に、鈴木は「かけていませんよ」と、あっけらかんと答えた。
「車に鍵をかけるのって面倒じゃないですか。誰が僕のボロ車を盗みますか」
防犯意識の低い田舎町であれば、短時間の駐車で車に鍵をかける人のほうが珍しい。
「それに、すぐ行って、すぐ戻ってくるつもりだったんです。結局、二十分ほどで社長の自宅を出ました。本当に、本当に、ただそれだけなんです」
鈴木は今にも泣きだしそうな顔をした。
「犯人の心当たりは」
月岡はノートを取り出した。
「実は社長は風俗店のホームページを」
「その話は弁護士から聞いた」
「社長はいろいろなところで金銭トラブルを抱えて」
「それも聞いた」
月岡はため息をついた。
「浜辺と付き合いのある風俗店に心当たりはないのか」
鈴木は首を横に振った。
「社長が一人で請け負っていた仕事だから、どこのだれと付き合っていたのかまでは知らないんです」
風俗店から真犯人を辿るのは難しそうだ。
「他に浜辺と付き合いのある人間は」
鈴木は「そうですねぇ」と首を傾けた。
「コンテンツ制作のライターとか、外注のウェブデザイナーであれば、仕事がかぶっている人が何人かいます」
「思いつく限りでいい。次に弁護士に会った時に共通の知人の名前をできるだけ挙げておいてくれ」
鈴木は大きく頷いた。
「他に何か覚えていないか」
「弁護士の先生にもそういわれているんですが……」
「どんな些細なことでもいい」
「社長の部屋はリフォーム中で散らかっていたし、着ている服はいつも通りダサかったし」
「そんな感じの話でいい。いつもと違っていたシーンを思い出してくれ」
鈴木は天井を見上げた。貧乏ゆすりなのか、体が小刻みに震えている。
「部屋に入ったシーンから、ゆっくりと思いだしてみろ」
鈴木の返事はない。
「たとえば、浜辺はどこに座っていたとか」
鈴木は膝を叩いた。
「ソファに座っていました。テーブルの上には彼のノートパソコンが置いてありました」
「他に机の上には何があった」
「ホームページの仕様書とか、マウスとか。社長、机の上にごちゃごちゃとモノを置かないタイプなんです」
そこまで話すと、鈴木は「あっ」と声を上げた。
「どうした」
「机の上に、ウエットティッシュが置いてありました」
月岡は再びため息をついた。
「それと、マグカップもありました」
「分かった」
「コーヒーの量は半分ぐらい残っていたと思います」
「もういい」
「それと――」
「もういいと言ってるだろ」
月岡が声を荒げた。鈴木が「すみません」と肩をすくめた。
「机の上がモノでぐちゃぐちゃじゃないか」
「言われてみたらそうですね」
素直なのか、天然なのか、それとも頭が悪いのか。顔以外に沙羅が惚れた理由が分からなかった。
「テーブルの上は散らかっていたんだな」月岡が問いただした。
「だと思います」
「その時、浜辺はパソコンを触っていたか?」
「いえ、触っていませんでした。向かい側に座っていたんですが、僕と話しているときは触れていませんでした」
そうなると、デジタルフォレンジックで調べても、浜辺がパソコンを触っていたという証拠は出てこないかもしれない。
「他にもパソコン周辺で、変わったことはなかったか」
鈴木の表情がスッと変わった。
「どうした」
「……USB」
「それがどうした?」
「社長のノートパソコンに、黄色いUSBメモリが挿してありました」
「なぜ、それを思い出した」
「だって黄色のUSBってなかなか見かけないじゃないですか。今じゃデータのやり取りで、USBを使うことも滅多にないし。見た時に、一瞬、あれっと思ったんです」
横に居た警察官が「時間です」と立ち上がった。鈴木が「えっ、あっ」と言いながら、つられて立ち上がる。
「あのぉ!」
脇を抱えられた鈴木が身体を大きく捻った。
「沙羅と千鶴のこと、よろしくお願いします!」
鈴木が深々と頭を下げた。月岡は口元を歪めると、舌打ちした音が面会室に響いた。
一審に向けての打ち合わせで、月岡と沙羅と伊勢崎の三人は栗原の事務所に集まった。
「黄色いUSBどころか、USBそのものがないぞ」
栗原は押収品目録をめくりながら言った。
「USBやCD―Rは、そもそも仕事で使いませんからね」
伊勢崎が腕を組んだ。
「今の時代、物理的なデータのやり取りはほとんどありませんよ。クラウドにアップすれば、それで相手とデータでやり取りができてしまいますから」
ネットビジネスに関わっていないライターの月岡ですら、USBを使う機会はほとんどなかった。大量の画像や映像はグーグルドライブやドロップボックスを使えばこと足りる。仮にUSBを使うことがあるとすれば、インターネットに疎い年配の編集者と仕事をする時ぐらいだ。
「それよりも――」
伊勢崎が顔を上げた。
「浜辺が風俗店のホームページの仕事をしていたことに驚きましたよ」
「知らなかったのか」
伊勢崎は頷いた。
「自分の仕事はコーティングなんです。鈴木が設計したホームページを指示書通りに文字を装飾したり、写真を置いたりするだけなので、仕事を取ってくる浜辺がどんな業務をしていたかまでは知りませんでした」
伊勢崎は三人の仕事の役割分担について話し始めた。浜辺が営業メールを企業に送ってホームページの案件を取って、その後、サイトのデザインや原稿書きなどのプロデュースを鈴木が請け負う。それらをホームページとして見栄えよく整えるのが、伊勢崎の仕事だった。
しかし、浜辺は風俗店の仕事だけは、伊勢崎や鈴木に回さず、自分一人で請け負っていたようである。鈴木が転職してくる前までは、浜辺もホームページのプロデュースの仕事をしていたので、案件を取ってきて自分でサイトを設計することはできた。外注のデザイナーさえいれば、浜辺だけで仕事を完結させることは十分可能だった。
そのような事情もあって、伊勢崎は浜辺が裏稼業をしていることをまったく把握していなかった。鈴木がそれを知っていたのは、おそらく一緒に仕事をする外注のライターやウェブデザイナーがかぶっていたことで、情報を漏れ聞いたのではないかと伊勢崎は言った。
「なぜ、黄色いUSBは見つからないのかしら」
沙羅が月岡に顔を向けた。
「浜辺が生きている時にあったものが、死んでから見つからないということは、犯人が持ち去った可能性が高いんじゃないかな」
「現場検証をした警察が隠したということはありませんか」
伊勢崎の言葉に月岡は「その可能性もゼロではないが――」と、鼻の頭を掻いた。
「鈴木を犯人に仕立て上げるなら、わざわざUSBを隠すこと自体に意味がない。凶器や血液反応があったものを隠すのならまだ理解できるが、USBを隠して鈴木を犯人に仕立てるにはストーリーに無理があり過ぎる」
伊勢崎は「そうですか」と大きな身体を折りたたんだ。
「でも、その黄色いUSBが現場からなくなっているってことは、そこに第三者に知られたくないデータがあるってことなんでしょ」
沙羅の言葉に、栗原は「そこなんだよ」と語気を強めた。
「パソコンにUSBが挿入されていたということは、そのUSBの中身を浜辺社長が直前まで見ていたってことじゃないかな」
横にいた沙羅が「でも、ちょっと待って」と言葉を発した。
「その逆もありえませんか」
「逆? どういう意味だ」
「見ていたんじゃなくて、“見ようとしていた”ってことです。パソコンの中にあるデータを、USBにダウンロードしていた可能性もあるんじゃないでしょうか」
月岡は「可能性は二つか」と腕を組んだ。
栗原は「専門家に聞こう」と、机の上にある電話を取った。数分後、蓮本が扉を開けて入ってきた。月岡と目が合うと、すぐに目線をそらして椅子に座った。
栗原がこれまでの事情を話すと、蓮本は「USBの中身を見ていた可能性が高いと思います」と言った。
「仮にデータをUSBにダウンロードしていたなら、そのデータは浜辺のパソコンの中に残っているはずです。でも、警察がそのあたりの証拠になりそうな情報を何も言ってこないことを考えると、浜辺のパソコンの中には、さほど重要な証拠はなかったんだと思います。つまり、現場から犯人が持ち去ったと思われるUSBのほうに重要なデータがあったと考えたほうが自然ですよ」
沙羅は「やっぱり」と相槌を打った。
「ただ、現状の話だけではUSBにどんなデータが入っていたのかまでは分かりません。もっと言ってしまえば、本当にUSBがパソコンに挿入されていたのかどうかも、分からないと思います」
月岡が「どういうことだ」と尋ねた。蓮本は視線も合わさず、「正確なログ解析ができないからです」と答えた。沙羅が「ログって何?」と聞くと、横にいた伊勢崎が「パソコンの操作記録みたいなもんだよ」と言った。
蓮本は「大方あってます」と、沙羅に視線を戻した。
「正確には『アクセスログ』と言います。ホームページにアクセスしてきた時間や接続元のIPアドレス、閲覧端末情報、送受信データ量などは、すべてパソコンに記録されます」
「じゃあ、それを調べればUSBの中身も分かりそうだな」
月岡の言葉に蓮本は首を横に振った。
「USBは『イベントログ』といって、今話した『アクセスログ』とはまったく別のものになるんです。ウインドウズのOSにもログ情報は残りますが、USBなどの外部からのアクセスや、個別のファイルがどこに移動されたとか、そこまでは分からないんです」
月岡は「だったら解析しても意味がないな」と唇を歪めた。蓮本はその言葉を無視して、栗原のほうに身体を向けた。
「専用のログ解析ソフトが被害者のパソコンに入っていれば、USBの挿入の有無の解析は可能だと思います。でも、セキュリティに慎重なネット専業の企業でなければ、ログの解析ソフトはインストールされていないのが一般的です」
伊勢崎が「そんなソフト、浜辺は使っていないよ」と首をすくめた。
「こう言っちゃなんだが、あいつ、セキュリティへの意識はかなり低かった」
「それが普通だと思います。セキュリティに真剣に取り組むと年間で数十万円のコストがかかりますからね。小さい会社でログ解析ソフトを入れているところなんて、ほぼ皆無ですよ」
沙羅が大きなため息をついた。
「映画やドラマみたいに、天才ハッカーが現れて、パソコンのデータを復元したり、暗号を見破ったりするってことは現実の世界にはないのね」
横にいた月岡が「想像以上に地味な仕事だ」と笑った。蓮本はフンと鼻を鳴らすと「みんな漫画や映画の見過ぎなんですよ」と淡々とした口調で話し始めた。
「今のパソコンやスマホは、そう簡単にセキュリティを突破したり、データを復元したりすることはできないんです。データが残らない仕組みになっているので、デジタルフォレンジックをかけても分からないことはたくさんあります」
蓮本は栗原を見た。
「どちらにせよ、手元に被害者のパソコンがなければ、何も調べることはできません」
「USBの中身は分からずじまいか」
栗原は頭をもたげた。月岡は持っていたペンを蓮本に向けた。
「ひとつ質問していいか」
蓮本は返事をしなかった。月岡は構わず話を続けた。
「浜辺がUSBの中身を自分のパソコンで見ているってことは、何かしらUSBに見たい情報があったってことだろ」
蓮本は「当たり前です」と、息を吐き出した。
「空っぽのUSBを覗いて、なんの意味があるんですか」
月岡は「それだよ」と指を鳴らした。
「ということはだ。誰かが、そのUSBに“浜辺が見たい情報”をダウンロードしたってことだろ」
蓮本の表情が硬くなった。
「考えてもみろ。自分が見たいものだったら、直接、ネット上にあるコンテンツにアクセスして、自分のパソコンの中にコピーするなり、ダウンロードするなりして、データを保存しているはずだろ。それをわざわざUSBを覗いているってことは、誰かがそのUSBに“浜辺が見たい情報〟を入れた可能性があるんじゃないかな」
栗原が「確かに」と頷いた。
「つまり、黄色いUSBの持ち主を探し出せば、中身が分かるってことだな」
全員が押し黙った。
「その仮説はあながち間違っていないと思います」
蓮本が口を開いた。
「USBの存在を知らない警察は、USBの持ち主のパソコンの押収までは至っていないと思います。そのパソコンを手に入れることができれば、何らかの事件に関する情報が得られるかもしれません」
「おいおい、ちょっと待て」月岡が蓮本に顔を向けた。
「パソコンが手に入ったとしても、デジタルフォレンジックじゃ何も分かんないんだろ」
「その通りです。ただ、データを削除した日時が直近で、なおかつパソコンのOSのバージョンが最新のものでなければ、USBにダウンロードしたデータがどんなものか追跡することができるかもしれません」
「確率が低そうだな」
「やってみないと分かりませんよ」
月岡と蓮本の目線があった。
「お前の言っている意味はよく分かった。黄色いUSBの持ち主が見つかったら、その時は、そのデジタルフォレンジックやらをお願いするよ」
「月岡さんのほうも、その素晴らしい取材力でUSBの持ち主を探し出してください」
「任せておけ」
「無理だと思いますけどね」
「意外と期待されていないんだな」月岡は笑った。蓮本は睨みつけると、顔をゆっくりと月岡に近づけた。
「USBの持ち主が見つかった暁には、データの復元でも、ハッキングでも、なんでもお手伝いさせて頂きますよ」
月岡も蓮本の鼻先まで顔を近づけると「当たり前だ」と言って腕を組んだ。
「地味な仕事は、お前の担当だ」
栗原の事務所からの帰り道、月岡は沙羅と伊勢崎を車に乗せた。伊勢崎の自宅の前に到着すると、家の中から秋穂が現れた。
「夕食でも一緒にどうですか」
助手席に座る沙羅は「私は構わないわよ」と言った。
「千鶴は、おばあちゃんが見てるから」
沙羅の実家は千葉市にある。夫が逮捕されていることを考えれば、祖母はほぼ住み込みの状態になっているのだろう。
「どうぞ上がってください。妻も喜びます」
後部座席で伊勢崎が言った。月岡は二人を降ろすと、近くのコインパーキングに車を停めに行った。
伊勢崎家の食卓を見て、自分達が食事をすることは、おおかた想定内であったことが伺えた。テーブルには大皿が三つ並び、家族三人で食べるには明らかに多すぎる食事の量だった。
「お義母さんがはりきっちゃって」
秋穂が取り皿を並べながら言った。伊勢崎が「手伝うよ」と、すぐにキッチンに駆け込んでいった。
「あの二人、ラブラブでしょ」
横にいた沙羅が言った。
「いつもあんな感じなのよ」
「まるで新婚夫婦だな」
「このあいだ、伊勢崎さんに趣味は何ですかって聞いたら、間髪入れずに『奥さんです』って答えたのよ」
あれだけの美人であれば、そう言いたくなる理由も男として分からないわけではない。一方で、中年にもなった男女が人前でベタベタする行為は、月岡が理解できるものではなかった。
五人が着席すると、中央に座る由紀恵が月岡にビールをすすめた。反射的にグラスを出しそうになったが、すぐに「車なんで」と手を引っ込めた。由紀恵は「そうだったわね」と、今度は右隣りに座る沙羅にビールを向けた。
「じゃあ、少しだけ」
コップに半分ほど注がれると、沙羅はすぐに由紀恵の持っていたビールを手に取った。
「秋穂さんも一杯どう?」
沙羅が声をかけると、「私は……」と近くにあったウーロン茶に手を伸ばした。
「あら、ごめんなさい」
「いえ、お酒は好きなんですけど」
秋穂は伊勢崎と目を合わせた。
「実は……四カ月なんです」
秋穂が嬉しそうにお腹をさすった。その横で伊勢崎が嬉しそうに笑った。月岡は「おめでとうございます」と、自分の持っていたウーロン茶を傾けた。
酒が進む料理だった。沙羅も久しぶりに気を緩められたのか、すすめられるままにビールを飲んだ。
「男の子か女の子か分かっているんですか」
義母の由紀恵が「女の子よ」と答えた。
「秋穂に似て、美人だったらうれしいなぁ」
伊勢崎の言葉に、秋穂は「何言ってるの」と笑った。
「いや、本気で言ってるんだよ」
「そう思っていても、みんなの前で言わないでよ」
秋穂の言葉に伊勢崎が「ごめんよ、ごめん」と両手を合わせて謝った。
「仲がいいですね」月岡は隣に座っていた由紀恵に小声で言った。
「親の前でもいつもあんな感じよ」
由紀恵は呆れた口調だったが、表情はまんざらではない様子だった。
「うちの息子にしては上出来なお嫁さんよ」
親の謙遜を差し引いても、違和感のない言葉だった。伊勢崎の外見から考えれば、百人中百人の男性が「なぜ?」と思うほどルックスに差のあるカップルだった。
「長いこと独身だったから、このまま孫の顔を見ることはないと諦めていたところに、秋穂さんが来てくれたの」
「今は同居されているんですか」
由紀恵は頷いた。
「三年前に主人を事故で亡くしてね。その時は息子夫婦も外に出ていたから、この大きな家で私一人になっちゃったのよ。そしたら秋穂さんが同居を持ちかけてくれたのよ」
由紀恵はグラスを傾けた。
「まさか孫までできるなんて思ってもいなかったわ。秋穂さんのおかげで、家族をまたイチから作り直すことができたのよ」
月岡の胸がチクリと痛んだ。由紀恵は家族を再び作り直すことができたが、自分は家族をバラバラにして、今もなお独り身だ。そして妻の再婚相手の冤罪を晴らすために、ノーギャラで身を粉にして働いている。
「飲んでますか」
二人の間に顔を赤くした伊勢崎が割って入った。
「あんた、飲みすぎじゃない」
由紀恵にたしなめられたが「大丈夫」と月岡の肩に手を乗せてしゃがみこんだ。
「結婚五年目でようやくできた子供なんです」
「それはめでたい」月岡はウーロン茶を傾けた。
「今、ちょうどその話をしていたんです。新しい家族ができて嬉しいって、お母さんも言ってましたよ」
伊勢崎は満面の笑みを浮かべた。
「最近は同居を嫌がる人が増えているけど、僕はこうやって家族全員が楽しく暮らせるシステムはよくできた仕組みだと思っているんです。秋穂も幼い頃に両親が離婚しているから、母親とこうやって暮らすことにずっと憧れていたんです」
横で話を聞いていた由紀恵が「私も最初は同居に不安だったのよ」と言って、食器棚にあった小さなアルバムに手を伸ばした。
「これ、二人で旅行に行った時のものなんです」
写真には海をバックにピースサインする秋穂と由紀恵の姿があった。白いポロシャツの襟を立て、洒落た帽子をかぶる由紀恵の姿は、還暦を越えた年齢には見えなかった。事情が分からない人から見れば、二人が姉妹に見えてもおかしくない。由紀恵の言っていた通り、秋穂のおかげで、伊勢崎家は再び新しい家族を作り始めたと思った。
「これから忙しくなりそうですね」
月岡はそう言いながら、「あっ」と声を発した。
「確か、まだ亡くなられた浜辺社長のお母様の介護をされていましたよね」
「ええ、週に二、三日は自宅に行っているわ」
「お孫さんが生まれたら、忙しくてそれどころじゃなくなるかもしれませんね」
その言葉に由紀恵は「そうなのよ」と表情を曇らせた。
「球子さんのお世話ができるのは孫が生まれるまでだと思ってるの」
「介護の仕事はハードですからね」
月岡の言葉に対して、由紀恵は一瞬間を置いてから、「介護とはちょっと違うのよね」と首を傾けた。
「どういう意味ですか」
「私は『ケアマネージャー』って立場だから、介護士とは業務内容が少し違うの。現場で介護の仕事もできるけど、介護士の手配をするのが本職になるのよ」
「ケアマネージャーと介護士は別のお仕事なんですね」
月岡は職業柄か、知らない話を持ち出されると、つい食いついてしまう癖があった。由紀恵は「よく間違えられるのよ」と笑って話を続けた。
「例の事件のショックでね、今まで球子さんの面倒を見てくれていた介護士の人が辞めちゃったのよ。新しい介護士を見つけたんだけど、その人も週に四日しか出られなくてね」
「どの業界も人手不足ですからね」
「それで残りの三回を、私がお世話しに行っているのよ」
伊勢崎が話に割って入った。
「浜辺の妹さんは海外にいるんです。滅多に帰って来られないから、ほぼうちの母親に介護は丸投げなんです」
月岡は浜辺の自宅近くで会った、住吉の言葉を思い出した。妹は母親と折り合いが悪く、若い頃から実家には寄り付いていない。寝たきりの母親の面倒見てくれる由紀恵は、親族にとっても都合のいい存在と言えた。
「球子さんの容態はどうなんでしょうか」月岡が訊いた。
「食事は一人でもできるんですけど、認知症は事件後にさらに進んだ感じね。私のことも娘だと思っているし」
月岡は「ひとつ訊きたいことがあるんですが」と顔を前に出した。
「球子さんの認知症はどの程度のものなのでしょうか」
「重度ではないわ。覚えていることもあれば、忘れていることもあるって感じね」
伊勢崎が「よく言う〝まだらボケ〟です」と言葉を付け加えた。
月岡は、浜辺が殺された日のことを、球子が記憶しているのではないかと疑っていた。認知症を患っているとはいえ、隣の部屋で人が殺されたことを、何ひとつ覚えていないというのは信じがたいことだった。
「まだらということは、忘れていた記憶を、再び思い出したりする可能性もあるんでしょうか」
由紀恵はうーん、と唸ったあと、「記憶は思い出したり、忘れたりの繰り返しなんだけど」と言った。
「認知症の人の記憶を思い出させるのは、世の中の人が思っている以上に難儀なのよ。思い出した記憶も正しいかどうか判断がつかないし」
由紀恵はさらに言葉をつないだ。
「男性は認知症になると、無口になる人が多いんだけど、女性は認知症が進むと、逆によくしゃべるようになるのよ」
「なぜですか」
「自分が認知症であることがバレたくないからよ。女性はたくさんしゃべって誤魔化そうとするのよ」
月岡は以前、シニアのファッション事情について取材したことがあった。そこで男性は歳を取れば外見にこだわらなくなる一方、女性は歳を重ねても洋服や化粧にこだわる人が多いことを知った。他人の目を気にする女性にとって、認知症は恥部でしかない。それを必死になって誤魔化すために、必要以上に饒舌になるのは女性特有のプライドの高さといえた。
「球子さんには事件前も認知症の兆しはあったの。でも、その頃は私や介護士にいろいろ話をしてくれたわ。でも、事件後は、ほとんど口を閉ざしてしまって」
由紀恵はビールの入ったグラスを両手でぐるぐると回した。
「もしかしてだけど――球子さんは、息子さんが亡くなったという認識そのものは、持っているんじゃないかしら」
月岡は首を傾げた。
「球子さんも事件後に聴取を受けたのよ。でも、認知症が進んでいて、警察では何も聞き出せなかったらしいのよ」
由紀恵の表情がほんの少し硬くなるのが分かった。
「私もその話を聞いた時、そうだろうなぁと思ったの。事件後の球子さん、人が変わったみたいに落ち込んでいたから」
「何か気づいているってことでしょうか」
月岡の問いかけに「そんな感じね」と由紀恵は短く言った。
「精神的に落ち込んでいるとすれば、それは自分の息子が亡くなったことを認識しているってことになると思うの」
球子は事件に関する何かを知っている可能性がある。しかし、認知症を患っているので、その記憶ははっきりと思い出せないでいる。精神的な重さだけが残っているのであれば、由紀恵の推測にも合点がいく。
「ねぇねぇ」
秋穂が、三人に声をかけた。
「今日、病院から赤ちゃんのエコー動画をもらってきたのよ」
伊勢崎が「ホントか」と目を見開いた。
「十週目ぐらいになると、4Dエコーで立体的な動画で観られるのよ。手や足が動いているのが分かるの」
「どうすれば見られるんだ」伊勢崎が興奮しながら前のめりになった。秋穂はバッグの中から花柄のUSBを取り出した。
「この中に入ってまーす。今日、病院でもらってきたのよ」
伊勢崎は頬を緩めながら秋穂に近づくと、USBを手に取った。
「秋穂に似て、美人かなぁ」
うっとりした顔でUSBを眺めると、人目もはばからず秋穂の手を握り締めた。酔っているせいか、必要以上に秋穂の腰のあたりを触ると、「パソコンを取ってくるよ」と、駆け足で二階に上がっていった。
「私たちの時はUSBじゃなくてCD―Rだったわね」
沙羅の言葉に耳を傾けながら、月岡は秋穂が手に持っている花柄のUSBに目をやった。あのUSBには、病院のパソコンからダウンロードした動画が入っている。おそらく診察の時、医師か看護師から、直接手渡しでUSBを受け取ったのだろう。
その瞬間、月岡の頭の中で何かが弾けた。
脳の真ん中が回転するような感覚になり、それが止まると、ぱっと視界が開ける感じがした。
伊勢崎がノートパソコンを片手に降りてきた。秋穂から受け取ったUSBを挿そうとしたとき、月岡が「すみません」と声を上げた。
「浜辺さんの、殺される直前のスケジュールって分かりますか」
伊勢崎はきょとんとした顔で「はい?」と訊き返してきた。
「いきなりどうしたんですか」
「USBメモリが手元にあるってことは、そのUSBを浜辺さんに渡した人物がいるはずです。スケジュールをさかのぼれば、その人物にたどり着けるかもしれません」
伊勢崎は「なるほど」と、手元のパソコンのキーを叩いた。
「うちの会社は三人バラバラの場所で仕事をしていたから、グーグルカレンダーを共有してスケジュールを管理していたんです。えーっと浜辺は……」
伊勢崎は「あった」と、ノートパソコンを月岡に向けた。
「殺害されたのが四月十六日ですが、十日前の六日に『ヒメゾウ』という人物に会っていますね」
グーグルカレンダーにはカタカナで「ヒメゾウ」という文字と、その横に「十五時」という時間が書き記されていた。
「ヒメゾウって誰ですか」
伊勢崎は「さぁ」と首を傾げた。
「ペンネームか、ハンドルネームじゃないですかね」
「このグーグルカレンダーは警察にも見せましたか」
「ええ、でも、主に鈴木のスケジュールのほうをチェックしていましたね。浜辺はあんまり人とも会わないから、ご覧の通りスケジュールが真っ白なんですよ」
月岡は浜辺のスケジュールをスクロールした。ちらほら予定は入っているものの、十日に一回ぐらいしか外部の人とは会っていなかった。
「今はオンラインで会議や打ち合わせができますからね。わざわざ予定を組んでクライアントのところに足を運ぶ必要がないですから」
月岡は「ヒメゾウ」という文字をノートに書き込むと席に座った。ふと顔を上げると、四人がじっとこちらを見ていた。気まずい雰囲気になったので、「俺にも4Dエコーとやらを見せて下さいよ」と、作り笑顔でノートパソコンのあるテーブルに椅子を近づけた。
月岡は再び鈴木の面会に出向いた。ヒメゾウの名を口にすると、鈴木は「それ、警察に何回も聞かれましたよ」と頭を抱えながら言った。
「知らない名前ですよ」
「ペンネームかもしれないんだ。心当たりはないか」
「分かりませんね。もしかしたら、人の名前じゃないかもしれませんし」
鈴木はアクリル板に顔を近づけた。
「『ヒメ』って、風俗の言葉で言うと、きっと『姫』って漢字だと思うんですよ。それだったら『ヒメゾウ』っていう風俗店かデリヘルの可能性もありますよ」
鈴木はそういうと、周囲を見渡しながら身を乗り出した。
「僕、絶対に風俗店の取引先に犯人がいると思うんです」
月岡は表情を変えず鈴木の話に耳を傾けた。
「社長は仕事にも金にもだらしない人なんです。外注のウェブデザイナーやライターへの金払いも悪いし、仕事の締め切りだって守らない。会社が潰れるかもしれないって言うから五十万円を貸したのに、結局、それも返してくれない」
鈴木の浜辺に対する悪口は今に始まったわけではない。これだけ感情を露骨に出していたら、警察に疑われても致し方ないところもある。一方で、伊勢崎は浜辺と同級生ということもあって、そこまで人間としての評価は低くなかった。どちらの言っていることが正しいのか分からないが、目の前の鈴木は、浜辺に対して憎悪しか抱いていないことは確かだった。
「月岡さん、社長の風俗店の人間関係について調べてくれませんか」
その筋は当然あたっていた。しかし、鈴木と浜辺の共通の知人からは、目新しい情報は何も引き出すことができずにいた。
面会規定の十五分が近づいてきた。月岡は「また来る」とノートを閉じた。
「あの」鈴木が声を出した。
「本当に、いろいろとすみません」
頭を下げる鈴木を見て、月岡はアクリル板をトントンと叩いて手招きをした。鈴木は首を傾げながら顔を近づけてきた。
「勘違いするなよ」
月岡は低い声で言った。
「お前は俺の嫁に手を出して、千鶴も奪ったんだ。このアクリル板がなかったら、お前をぶっ殺して、俺がそっちの席に座っていたかもしれないんだぞ」
警官が「時間です」と立ち上がった。鈴木は震える声で「本当にすみません」ともう一度頭を下げた。警官に腕を掴まれ、扉の向こうに足を向けたとき、月岡は「おい!」と声を上げた。
「俺は千鶴を殺人犯の娘にしたくないだけだ」
鈴木が唇を噛んだ。
「その目的だけは、俺もお前も一緒だ」
鈴木は口を一文字にすると、「よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。
その日、月岡は大手ドラッグストアの経営者の不倫現場を張り込んでいた。
タレントや俳優の不祥事をすっぱ抜いても、記事にする前に芸能事務所に潰されることが少なくない。一方、名の知れた経営者の色恋沙汰は、芸能人ほどしがらみがないため、現場さえ押さえれば高い確率でネットニュースに掲載される。場合によっては当事者が写真データを高く買い取ってくれることもあるので、月岡のようなフリーのライターにとっては、取りっぱぐれのない仕事のひとつだった。
しかし、この日は事前に情報が漏れたのか、社長と女はホテルに姿を現さなかった。これ以上の張り込みは無駄だと思い、夜九時を回ったところで仕事を切り上げ、早々に帰路についた。
シャワーを浴びた後、濡れた髪を拭きながら、月岡は何度も「ヒメゾウ」という言葉を口にしていた。椅子に座るとパソコンでワードソフトを立ち上げ、変換文字を使いながらいろいろな漢字を当てはめてみた。
姫蔵、比米造、秘め憎……しっくりこない。鈴木の言う通り、「ヒメゾウ」は風俗店の名前なのかもしれない。
しかし、すぐに頭の中で「それはない」と否定する理由が浮かんだ。浜辺は風俗店の仕事を請け負っていることを公にしていない。仕事で共有するカレンダーにその名称を迂闊に書き込むようなことはしないはずだ。
やはり、ペンネームかハンドルネームか。
月岡はヒメゾウがライター業をしているのではないかと予想した。本名を知られたくないからペンネームを使っているわけであって、裏を返せば、表に出る仕事をしている可能性が高いといえる。
グーグルを立ち上げると、検索窓に「ヒメゾウ」と入力した。もしかしたら、このペンネームでどこかのブログ記事かニュース記事にヒットすると思った。しかし、エンターキーを押して出てきた検索結果は「ヒメゾウカブトムシ」という昆虫のコンテンツばかりだった。
「違うな」
月岡は椅子から立ち上がると大きな伸びをし、首を二周ほどぐるりと回した。喉の渇きを覚え、冷蔵庫から缶酎ハイを取り出した。度数の低いアルコールが、じんわりと身体に染み渡っていく。頭の中が一旦リセットされ、再び椅子に腰をかけると、カーソルを検索窓に当てた。
「ヒメゾウ ライター」
新たなキーワードを打ち込んでみた。しかし、グーグルの検索結果にはヒメゾウカブトムシについての、昆虫ライターが書いたブログ記事しかヒットしなかった。
月岡は再び缶酎ハイを口にした。頭がぼんやりした状態で天井を見上げる。酒が回ってきたせいか、下半身がうずきはじめた。壁に掛けてあった時計に視点を動かす。日付が変わるまで、まだ一時間はあった。今からタクシーを飛ばせば、駅前のキャバクラがギリで間に合う。
いや、待て。
キャバ嬢を口説くには時間がなさすぎる。それならば、ファッションヘルスか、デリヘルのほうが、男の欲を吐き出すには手っ取り早い。
その考えが頭の中に浮かんだ瞬間、月岡はキーボードに手を置いた。
「これか?」
グーグルの検索窓に思いついたキーワードを勢いよく打ち込んだ。
『ヒメゾウ 風俗記者』
グーグルの画面には五つほどサイトがヒットしたものの、それ以降は「検索条件と十分に一致する結果が見つかりません」という文言が表示された。違うかと思ったところで、上から三番目のブログのタイトルが目を引いた。
『風俗記者ヒメゾウの秘めごと日記』
月岡は指をパチンと鳴らし、掴んだ缶酎ハイを一気に喉に流し込んだ。
ヒメゾウのブログが掲載している風俗情報サイトにメールを入れたところ、早々に本人から返信メールが届いた。風俗店の景気動向を取材したいと持ち掛けると、翌日に新宿で会うことになった。
月岡は指定したカフェに十五分前に到着した。ヒメゾウが来ていないことを確認すると、ウエイトレスに一番奥にある壁際の席を指定し、コーヒーを注文した。すぐにノートを広げ、聞き出す話を整理する。
ヒメゾウは、浜辺が殺される六日前に会っている。そこで黄色いUSBの受け取りがあったのかどうか、そのあたりの話をまずは聞き出さなくてはいけない。
しかし――浜辺が殺されたことは、おそらくヒメゾウも知っているはずだ。裏社会で仕事をしている人間であれば、だれしも面倒な話には巻き込まれたくはない。浜辺の話を持ち出したとたん、ヒメゾウが口を閉ざしてしまうことも考えられる。
カフェの入り口の扉が開いた。スカジャンに黒いジーパンを履いた、五十代ぐらいの男が店内を見回していた。明らかに堅気ではないその姿を見て、月岡は立ち上がって頭を下げた。
「お忙しいところすみません」
ヒメゾウは「ぜんぜん忙しくないよ」と笑って席に座った。注文を取りに来たウエイトレスに「ホットコーヒーひとつ」と言って、テーブルに置かれたおしぼりに手を伸ばした。
「ライターの月岡です」
名刺を差し出すと、ヒメゾウもクラッチバッグの中から自分の名刺を取り出した。
「変わったペンネームですね」
「風俗っぽいライター名のほうが、この仕事は取りやすいんだよ」
ヒメゾウは禿げ上がったおでこをおしぼりで拭いた。月岡の渡した名刺を見て「いつも、どこでお仕事してるのよ」と尋ねてきた。
「『現在ビジネス』や『春秋オンライン』です。主に経済系のネットニュースで仕事をしています」
「ふーん。でも、珍しいね、経済系のライターが風俗の取材なんて」
「この手のネタはアクセス数が稼げるんです」
ヒメゾウは「へー」と感心すると、前のめりになった。
「今度、俺にも書かせてよ。風俗の話は結構詳しいからさ」
月岡は「ぜひ」と言って、ペンを持ち換えた。
「お話をお伺いしたいのは、風俗店のIT事情です」
「そっちの話か」
ヒメゾウの前にコーヒーが運ばれてきた。
「あんまり話したくないんだよね、企業秘密が多くて」
「漠然とした話で構いません。今、世間はDXが進んでいて、様々な業界でネットが活用されています。風俗店でも、その波が来ているのかどうかお話を聞かせていただければと思いまして」
ヒメゾウは「そう言われてもねぇ」とそっぽを向いた。月岡は話を引き出そうと、フランクな質問に切り替えることにした。
「風俗店って、どこもホームページを持っていますよね」
「そりゃね。あれがなきゃ仕事にならないし」
「でも、そのホームページを作ったり、管理したりするのも大変ですよね」
ヒメゾウは頷いた。
「社内で専属のスタッフを雇わないと運営は無理だね」
「店長が片手間でできる仕事ではないんですね」
ヒメゾウは「当たり前だよ」と口を捻った。
「ホームページには女の子の出勤状況もアップしなきゃいけないし、広告媒体向けの写真やバナーも頻繁に作らなきゃいけない。タイムリーな情報が売上に左右するから、女の子たちにSNSもやらせる必要がある。担当者が一日中パソコンの前に張り付いていなきゃ風俗店の仕事は回らないよ」
月岡はヒメゾウの話に興味を持った。風俗業界のような裏社会ではネットの活用が遅れていると思っていたが、どうやらそれは自分の思い込みのようだ。
「風俗店の印象なんて、ホームページで決まっちゃうんだよ。特に重要なのはコッチだ」
ヒメゾウはポケットからスマホを取り出した。
「スマホのページのクオリティで風俗店の売上は大きく変わってくる。特に女の子の写真の加工技術なんかは必須のスキルと言ってもいい」
「実年齢よりも若く見せる、ということでしょうか」
ヒメゾウは「甘いな」と真顔で答えた。
「店のコンセプトによるよ。新宿や池袋あたりの店だったら、三十歳の女を二十五歳に見せる加工技術が必要になる。かたや上野や錦糸町あたりだったら、人妻系の風俗店が人気だから、三十の女をいかに三十五ぐらいの艶っぽい女に見せるかが重要になってくる」
架空の取材だったが、大手ウェブニュースに持ち込めば即採用されるような面白いネタだった。月岡は今まで気になっていた個人的な疑問をぶつけてみることにした。
「働く側の女の子の一番人気は、やっぱりデリヘルなんでしょうか」
「そうだね。でも、ほら、あっちは物騒な事件も多いでしょ」
デリヘルで派遣した女の子が事件に巻き込まれることは少なくない。知らない男と部屋で二人きりになるリスクを考えれば、割に合う仕事とは言いにくい。
「その流れもあって、最近は店舗型のヘルスのほうが人気だよ。それに経営者にとっても、デリヘルはそんなに実入りのいい商売じゃないからね」
「無店舗だから儲かりそうなイメージがあるんですが」
ヒメゾウは「なんにも分かっちゃいねぇな」と顎髭を撫でまわした。
「デリヘルは女性を現場に送迎しなきゃいけないから拘束時間が長いんだよ。だから利益は思いのほか低い。一方でヘルスは家賃がかかるけど、客が向こうから店に来てくれる。回転率を上げればデリヘルよりも確実に儲かる」
月岡は感心しながら時計を覗き込んだ。余計な質問をしていることに気づき、本題のネットの話に戻すことにした。
「女の子たちの個人情報は、どのように管理されているんでしょうか」
「ほとんど紙のファイルだね」
「パソコンの中に個人情報は入力しないんですか」
ヒメゾウは「そんな面倒なことしないね」と笑った。
「今、どれだけ東京の風俗店の規制が厳しいかあんた知ってるの? 何かあったらすぐに警察の生活保安課がやってきて、働いている女の子をチェックだよ。乗り込まれた時に、パソコンにデータがあったらずっと警察に店に居座られるだろ。ファイルを渡したほうが店の外にデータが持ち運べるから、店にとったら都合がいいのよ」
「ということは、履歴書はすべて紙のファイルで管理されているってことですね」
「おいおい、履歴書なんかあるわけないだろ」
月岡は顔を上げた。
「東京は本籍確認ができる身分証明書がなければ風俗店で働けないんだよ。体験入店もさせることができない」
「免許証の確認ではダメなんですか」
ヒメゾウはコーヒーを口につけると「ダメだね」と言った。
「住民票か、パスポート。それを持たずに風俗店で働かせているのが立ち入り検査でバレたら即始末書。ヘタしたら風俗営業の許可はく奪で休業だ」
「そうなると……働いている女の子たちの情報はデータでは管理されていないんですね」
「画像や映像関係はデータとして残っているよ。だけど、個人情報をわざわざ入力している店はほとんどないんじゃないかな」
個人情報からUSBの話に持ち込むのは難しそうだった。月岡は別の話題に切り替えることにした。
「風俗店の経営にはネット広告も重要なんでしょうか」
「もちろん。むしろ、ネット広告がなきゃ成立しない仕事だよ。さっきデリヘルの話をしただろ。だいたい月の広告費ってどのくらいかかると思う?」
「見当もつきません」
「月に一千万円から二千万円だ」
月岡は言葉が出てこなかった。
「競合が多い商売だから、年々広告費は上昇傾向だ。今、デリヘルを開業したければ、現金で五千万円ぐらい持っていないと始められないよ」
月岡は唸った。女の子さえ集めれば、すぐに開業できると思ったデリヘルだったが、甘くはないようだ。
「だけど、ひとつだけ少ない広告費でも客を増やす方法があるんだよ」
ヒメゾウはテーブルの上で腕を組み、前かがみになった。
「顔出しの女の子を雇うんだよ」
「どういうことですか」
「風俗店で働く女の子の中には、稀に『ネット広告に顔を出してもいい』という子がいるんだよ。そうすれば、風俗の情報サイトのほうから、ぜひ、取材させてくれって要望が来て、人気の掲載枠に格安で広告を出すことができるんだよ」
ほとんどの風俗店の情報サイトの女性は、顔に目線を入れられたり、モザイクが入っていたりして、素顔が分からないものがほとんどだ。しかし、ごくまれに一切の加工が入らず、でかでかと女の子が顔を出しているケースがある。おそらく顔が出たバナーのほうがクリック率は上がるし、インタビュー取材や体験談取材のページも読まれやすくなるからだろう。
「顔を出してくれる分、女の子のギャラは高くなる。だけど、そういう女の子は風俗店にとって救世主みたいなもんなんだよ」
「是が非でも欲しい子ですよね」
「そうそう。この間も、その案件があったんだよ」
ヒメゾウは腕を組んだ。
「上野にある風俗店で、珍しく顔出ししてくれる女の子が入店してね。ホームページ制作会社がページを作ることになって、それで俺がインタビュー記事を書くことになったんだよ」
月岡はペンを止めた。
「そのホームページ制作会社って、もしかして八王子にある会社ですか」
その言葉にヒメゾウの表情が固まった。一気に切り崩そうと月岡は言葉を続けた。
「浜辺って男をご存じですか」
ヒメゾウはコーヒーをテーブルに置くと、そっぽを向いて「知らないなぁ」と頭を掻いた。
「あんまり詳しくないんだ、ごめんよ」
想定内のリアクションだった。月岡は「そうだ」と、トートバッグからおもむろに白い封筒を差し出した。
「言い忘れていましたが、今回の謝礼です」
ヒメゾウは月岡の顔をちらりと見た。封筒にゆっくりと手を伸ばし、中身を覗き込んだ。
「あ、思い出した」
「良かったです」
「八王子のホームページ制作会社だ」
「相手は、浜辺さんですね」
ヒメゾウはコクリと頷いた。
「あいつ、二ヶ月ぐらい前に殺されたよな」
相手から切り出してくるとは思わなかった。ここで表情を変えたら負けだ。月岡は平静を装った。
「よくご存じで」
「なぜ、殺された?」
ヒメゾウが顔を近づけてきた。
「それを今、調べています」
「あんた……誰だ? 警察か?」
「それだったらお金なんか渡しませんよ」
月岡は眉間に力を入れた。
「知っていることをすべて教えて下さい。私も知っている話を伝えます。おそらく、そのほうがお互いの身の安全につながると思いますよ」
ヒメゾウはコーヒーを口にした。観念したのか、落ち着いた口調で話し始めた。
「浜辺と仕事をするのは年に数回程度なんだよ。そんなに親しいわけじゃない」
「会ったのは久しぶりだったんですね」
「三カ月ぶりぐらいかな。顔出しOKの女の子が上野の店にいるから、ライター兼カメラマンで来てくれって」
ヒメゾウは上目遣いで「だけど――」と言葉を続けた。
「浜辺には『バーターの仕事だから、ギャラがあんまり出せない』って言われたんだよ」
バーターとは、「抱き合わせ」という意味だ。売れている人気のタレントに、売れていないタレントをセットにして、テレビ番組に出演させる方法だ。おそらく、売れっ子の風俗嬢と駆け出しの風俗嬢のセットで、二人分の取材のギャラを一人分にしろっていう意味で“バーター”という言葉を浜辺は使ったのだろう
「次に大きな仕事を回すからって説得されてさ。あんまり乗る気じゃなかったけど、結局、安いギャラで仕事を引き受けることにしたんだよ」
「バーターということは、他にも取材する女の子が現場に来たということですか」
ヒメゾウは首を大きく振った。
「俺も最初はそう思ったんだよ。だけどその日は取材する相手が一人だったんだよ。だから余計に“バーター”の意味が分からなかった」
バーターの取材なのに、もう一人が現場にいないのはおかしい。
「取材した上野の風俗店はご存じなんですか」
「そりゃ知ってるよ。そこの店まで行ったんだから」
「お店の社長ともお会いしているんですか」
「もちろん。俺と浜辺と、そこの風俗店の社長と女の子の四人で仕事をしたからね」
「その社長と、浜辺の関係性は」
「話している感じ、仲は悪くなさそうだったな。ただ、お互い敬語で話していたから、そこまで親しいわけじゃないと思うね」
ヒメゾウは「そのあとだよ、あいつが殺されたのは」と眉を寄せた。
「風俗ライターの仲間に聞いたら、どうやら浜辺の評判はあんまりよくないことが分かった。いたる所からお金も借りていたみたいだし。でも、気分はよくない話だよ。会って一週間後に仕事した相手が殺されたんだからさ」
月岡はノートをペンで叩いた。浜辺は金に困っていたから、安い仕事でも引き受けなくてはいけない事情があったのではないか。取り分が少ないから、ヒメゾウに支払うギャラも値切ったのだろう。
しかし、バーターの意味が分からない。
顔出しの女の子が売れっ子だったのか、それとも売り出したい女の子だったのか。どちらにせよ、バーターなら二人を取材しなければ、浜辺の「バーター」の辻褄が合わなくなる。
月岡は「バーター」という言葉には、他の意味もあるのではないかと思った。持っていたスマホの検索窓に「バーター」という文字を打ち込んでみた。
バーター(barter)は、「物々交換」「物と物との取引」「交換する」こと。芸能界では「AさんとBさんを抱き合わせ(セット)で売り出す」といった意味で使われる場合が多い。
検索結果を見た月岡は「あっ」と声を発した。すぐにヒメゾウに視線を向けた。
「浜辺と風俗店のオーナーは、何かモノのやり取りをしていませんでしたか」
ここで意味するバーターは、「女の子」と「女の子」の抱き合わせではなく、「顔出しの女の子の取材」と「あるモノ」をセットで交換する意味の“バーター”なのかもしれない。
月岡はある仮説を立てた。浜辺は当初、USBだけの取引をしようとしたが、金額が合わず、女の子の取材とセットにして、ようやく取引の金額の折り合いをつけたのではないか。お金に困っていた浜辺なら十分に考えられる取引だ。
ヒメゾウは「モノ?」と首をかしげた。
「例えば、USBとか」
ヒメゾウは「あぁ」と手を叩いた。
「そういえば、女の子の取材が終わった後、社長が浜辺に『約束のものです』ってUSBを渡していたな」
「そのUSBの色って覚えていますか?」
ヒメゾウは「結構前のことだからなぁ」と首を捻った。
「確か……そうだ、黄色だ。派手な色だから目についたんだ」
月岡は机の下で拳を握りしめた。
地下鉄銀座線の上野広小路駅の出口から地上にあがると、「仲町通り」と描かれたアーケドが目に入った。月岡は猥雑な雰囲気が漂う商店街を歩き始める。道の両サイドには居酒屋や焼き肉店が軒を連ねているが、真っ昼間のせいか、ほとんどの店がシャッターを下ろしていた。
不忍池南側一帯は、もともと置屋や連れ込み宿が並び、花街として栄えた歴史がある。一時期はヘルスやセクキャバ、ソープなどの風俗店が繁盛し、〝上野の歌舞伎町〟とまで言われるほど夜の街は賑わいを見せていた。
しかし、二〇一七年に施行された客引き行為等防止条例により、上野の風俗店は急激に数を減らしていった。その後、デリヘルに市場を奪われ、最近では出会い系サイトやSNSで性サービスを〝直売〟するスタイルが主流になったことで、都内の風俗店は衰退の一途を辿っている。
仲町通りから裏路地に入り、迷路のような道を歩くと、焼き肉店の隣に「クリスタル女学院」と描かれたスタンド看板が目に入った。月岡はヒメゾウから渡された風俗店の名刺にもう一度目を落とした。店名、住所は間違っていない。
店は半分だけシャッターが開いていた。月岡は身を屈めて入り、地下に延びる薄暗い階段を降りて行った。
入口の扉は開けっぱなしだった。月岡が「すいません」と声を出すと、カウンターの中から猿顔の男がモップを持って現れた。
「なんのようだ」
男は眉間にしわを寄せて近づいてきた。明らかに初対面の人に向ける態度ではなかった。
「ライターのマムシです」
月岡は前日に作った架空のライターの名刺を差し出した。精力がありそうなペンネームのほうが風俗店には入り込みやすいと、ヒメゾウがつけてくれた名前だった。名刺に書かれた住所や電話番号も架空のものにして、トラブルがあっても足がつかないようにした。
「オーナーの山之内さんと会う約束をしています」
猿顔の男は名刺と月岡の顔を二度見すると、チッと舌打ちをしてからカウンターの奥にある赤いカーテンの中に入っていった。
入れ替わりに、長身の男が目の前に現れた。顔は長く、髪はオールバック、目の周りの皺と髪の毛の薄さから、年齢は一回りぐらい歳上に見えた。大きな目でこちらをジロリと睨むと、ヤニで黄色くなった歯を見せながら笑った。
「ドンピシャの時間だな」
山之内浩司は腕に巻いた金色の時計に目をやった。
「今日はカエデの取材だったよな」
風俗嬢のインタビュー記事を情報サイトに掲載する手配はすでにできていた。書いた原稿料は全てヒメゾウに渡すと提案したところ、知り合いのアダルト系コンテンツの会社に手を回してくれた。
狭い廊下の突き当りの二畳ほどの小さな部屋に案内された。壁は目の覚めるようなメタリックブルーで、白いマットの上には赤いシースルーの服を着た女性が座っていた。
「時間はどのくらい必要だ」
山之内は再び腕時計に視線を落とした。月岡は四十分ほどあればと答えると、「いい記事書いてくれよ」と肩を叩き、部屋から出ていった。
カエデは下を向いてスマホをいじっていた。
「話、聞いていいかな」
月岡は名刺を差し出した。カエデはスマホを置いて名刺を見ると「へんな名前」と、ケラケラと笑い出した。薄いメイクのわりには、目と唇の形がきれいな女性だった。
「何でも聞いて」
カエデは長い髪の毛をゴムで後ろに縛った。月岡は一通りサービス関連の質問をした後、「失礼ですけど、年齢は?」と尋ねた。
「二十八だったかな。たぶん」
カエデはホームページで自分のプロフィールを見た。
「ごめん、二十七だったわ」
「一歳ぐらいサバ読んでも問題ないでしょ」
「そうね、私、この店で五年ぐらい働いているんだけど、ずっと二十七だし」
カエデは再び笑い出すと、本当は三十二歳だけどねと言った。
「でも、人妻っていうのは本当なんだよ」
彼女たちにとって嘘と本当の境界線は曖昧のようだ。
「出勤は昼間だけかな」
「そう。上野のヘルスの早番はほとんどシングルマザーだよ。遅番は遊ぶ金欲しさのバカ女が多いけど」
カエデは置いてあったスマホに手を伸ばした。
「出身は」
「岩手県にしておいて」
月岡が理由を尋ねると「上野だから」と答えた。
「上野は東北から来る客のほうが多いのよ。それに岩手とか秋田とか言ったほうが、なんとなく純な感じがしてウケがいいでしょ」
風俗嬢もブランディングの時代かと思うと、月岡は余計に彼女に興味を持った。
「ひとつ聞きたいんだけど」
「なんでも答えるわよ」
「どうしてヘルスで働くんだ」
「なぜって、そりゃお金がたくさんもらえるからよ。短時間でこれだけ稼げる仕事は他にないわ」
「でも、キャバクラだってあるだろ」
カエデは「ダメダメ」と指で×を作った。
「あんな仕事クソよ。仕事が終わってからもアフターで付き合わなきゃいけないし、休日だって気を使って客に電話したり、LINEをしたりしなきゃいけないでしょ。酒飲んで身体壊して病院にも行かなきゃいけないし、時間外労働が多すぎるわよ」
月岡はなるほどと思った。
「あとは、性格の問題ね」カエデは唇の横にあったホクロに指をあてた。
「キャバクラはSの人が向いていると思うの。男の人に『私に尽くしてちょうだい』と思える女の人じゃないと務まらないわ。逆に風俗店はMの女の子が多いのよ。『何かしてあげたい』と思える女の人のほうが、この仕事は長続きするわ」
カエデは「だから風俗嬢のほうがダメ男に引っかかりやすいの」と笑った。
「でも、やっぱりお金ね。頑張ればキャバクラの一・五倍は稼げるし、指名トップのランカー嬢になったら、年収で三千万は軽く超えるもの」
月岡は「一流企業の部長クラスか」とつぶやいた。
「働く女の子の事情も様々よ。私みたいにシングルマザーとして昼間に稼ぎたい人もいれば、北海道や沖縄に遠征して、一定期間でまとめて働いたら、そのお金で派手に海外旅行に行く女の子もいるし」
「わざわざ遠くの街で働くんだ」
「みんな地元で働いて顔バレするの嫌だからね。この店も高円寺と川口と上野に三つ系列店があるんだけど、私は住んでいるのが大宮だから、川口の店はパスにしているの」
月岡は面白い話が聞けたと思った。ヒメゾウといい、カエデといい、風俗業界の話は知らないことばかりで全てが新鮮だ。
最後に三カットほどカエデのポーズ写真を撮り、「今度はプライベートできます」と礼を言った。カエデは「その時はしっかりサービスするからね」と、可愛らしいデザインの名刺を月岡に手渡した。
部屋を出ると、カウンターで猿顔の男と山之内が話をしていた。月岡が「終わりました」というと、山之内は「いい娘だっただろ」と顔をほころばせた。
「良い記事が書けそうです」
「それはよかった」
「社長さんにも、少しお話をお伺えますか」
山之内は「おお」と、腕を組んだ。
「私、経済系のネットニュースでも原稿を書いてまして。参考までにお話を少しお聞きしたいのですが」
月岡は持っていたノートを広げた。
「風俗店の経営というのは、実際、儲かるんでしょうか」
山之内は「なんだよいきなり」と笑い出した。
「ストレート過ぎる質問だな」
「以前からこの仕事には興味があって」
「おいおい、風俗店でも始める気か」
月岡は「ただのスケベ男なだけですよ」と言葉を濁した。山之内は「隅に置けない奴だな」というと、言葉をつないだ。
「風俗もそこらへんにある商売と一緒だよ。経営が上手い奴もいれば、下手な奴もいる。ただ、俺たちみたいな箱でやっているヘルス業は、最近は儲からない社長が増えてきたがな」
山之内はポケットから煙草を取り出した。横に居た猿顔の男はすぐに火をつけると、カウンターの下から灰皿を取り出した。
「ホームページやSNSを使って客が呼べるヘルスは繁盛するが、そういうツールが使えないヘルスは廃れていく。これもそこらへんの商売と同じだな」
「ネットを使いこなせないヘルスは多いんでしょうか」
「多いね。みんな経営者が高齢だからな」
山之内はタバコの煙を揺らした。
「ヘルスの営業は届け出制だ。新規で許可を取ることはほぼ不可能なんだよ。だから、経営者が六十歳や七十歳の高齢のじいさんばかりだ。おまけにネットのことも良く分かっていない」
「デリヘルと違うんですね」
「場所の規制がかからないから、まだデリヘルのほうが新規で事業が始めやすい。だからあっちは若い経営者が多いんだよ」
月岡は頷いた。
「儲からなくなったヘルスの社長は、大手の風俗グループに店を売っちまうんだ。そうすれば、そこの若い奴らがネットを駆使して、バンバン客を呼んで、ヘルスの店でも繁盛店を作ることができるんだよ」
「ちなみに、こちらのお店は」
山之内はよくぞ聞いてくれたと、横に居た猿顔の男の肩に手を回した。
「俺は歳だからぜんぜんネットのことが分からん。だけど、こいつみたいに若いスタッフを積極的に雇って、ネットにも力を入れているんだよ」
山之内はそう言ってカウンターの奥に回ると、赤いカーテンを開けた。そこにはデスクトップのパソコンが三台あり、男二人がモニターを見ながらキーボードを叩いていた。
「ページ制作だけは外注に出している。それ以外のネット広告やシステムの運用はすべて内製でやっている」
月岡は目を見開いた。猥雑な店の雰囲気と整備されたネット環境のアンバランスさが妙に男心をくすぐった。風俗店もネットなしには繁盛はあり得ないということか。
「特にこの仕事はシステムが大事なんだよ」
山之内はタバコを灰皿に押し付けた。
「ネットからの客の予約を受け付けなきゃいけないし、メールやLINEからの問い合わせにも対応しなきゃいけない。システムを導入しなければ、この人数での対応は不可能だ」
山之内は月岡に顔を近づけた。
「まだあるぞ。女の子が書いたブログも、同時に複数の風俗情報サイトにアップしなければいけないから、システムを導入しなければ、ひとつひとつが手作業になって手間がかかる。高度なシステムの運用なしに、ヘルスの経営はあり得ないんだよ」
山之内はまくしたてると、「すげぇだろ」と、鼻の穴を膨らませた。
「いろいろと東京はうるさいんだよ。最近は風営法が厳しくなって、生活保安課の奴らが客とどんなメールをやり取りしているのかパソコンの中身までチェックしてくる。警察に出さなきゃいけない資料も増えたから、システムがなければこの仕事は成り立たない」
「ということは、社長もネットのスペシャリストなんですね」
山之内は「バカ言うな」と大声で笑った。
「ネットは今でもぜんぜん分からねぇよ。メールすらまともに送れない。だから風俗専門のコンサルタント会社を入れて、そいつらの指示通りにやっているだけだ。ここにいる奴らもその会社から派遣されたシステムエンジニアだ。今日みたいにたまに店にきてもらって、システムの手入れをしてもらっている」
キーボードを叩いていた男たちがこちらに目を向けると、軽く頭を下げた。
月岡は風俗業界にもコンサルタントが存在していることに驚いた。しかし、ここで新たな疑問が浮かんだ。
「でもですよ、なぜ、ここまで体制を整えておきながら、ページ作りだけは外注しているんですか」
山之内は「いい質問だ」と、頬に手を当てた。
「そのコンサルタント会社曰く、ページは時代のトレンドとともにデザインや見せ方が変わるそうなんだよ。同じウェブデザイナーを社員で雇い続けると、いずれ歳をとって、そのデザインが古くなって使えなくなる」
「そうなると、社長はウェブデザイナーの知り合いが多いんですね」
「他の社長よりも顔は広いほうだね」
「浜辺さんをご存じでしょうか?」
月岡は核心部分にいきなり切り込んでみた。しかし、山之内は「あぁ、八王子のね」と淡々と答えた。
「たまに仕事をしているよ。知り合いなのか」
山之内の表情は変わらなかった。月岡は首を傾げた。もしかしたらこの男、何も知らないのかもしれない。
「ご存じないんですか」
「いや、だから知っているって。浜辺だろ」
「そうじゃなくて」
月岡は顔を近づけた。
「浜辺さん、四月に亡くなりましたよ」
山之内の表情が変わった。
「四月のいつだ」
「十六日です」
「誰に殺された」
月岡はスマホを取り出すと、浜辺が殺されたウェブニュースの記事を見せた。
「犯人はすでに捕まっています」
「なんだと!」
山之内は声を荒げた。
「犯人の名前は」
「鈴木雄介と言います。浜辺の会社で働いていた従業員です」
山之内は「スズキ、か」と、自分の口元を手で抑えた。
「名前に心当たりは」
山之内は答えなかった。
「黄色いUSBをご存知ですか?」
山之内の大きな目がギョロッと動いた。
「知らんね」
「教えてくれませんか」
「うるさい!」
山之内は近づく月岡を払いのけた。
「帰れ!」
奥にいた猿顔の男が駆け寄ってきた。
「こいつを追い出せ」
男はコクリと頷くと、月岡の前に顔を突き出した。
「とっとと帰れや!」
無視して前に踏み出そうとすると、相手の拳が月岡の腹部に入った。悶絶しながら身体をくの字に曲げたところで、今度は蹴りあがった膝がみぞおちに入った。
「聞こえんのか!」
髪の毛を掴まれると、頬を力いっぱい殴られた。壁際まで吹っ飛ぶと、間髪入れずに脇腹を蹴られまくった。
「そのくらいにしとけ」
山之内はそういうと、カーテンの奥に姿を消した。猿顔の男は月岡の襟を掴むと、出口に引きずり出し、再び髪の毛を掴んで顔を引き上げた。
「二度とくんじゃねぇぞ、マムシ野郎!」
顔に唾を吐きかけると、店の扉をバタンと閉めた。
蹴られた腹部は朝まで痛みが引かなかった。口の中が切れたせいか、昨日から食事もまともにできずにいた。空腹と痛みに耐えているうちに朝が来てしまい、寝不足のまま打ち合わせに出向くことになった。
月岡は地下鉄の永田町の駅を出ると、青山通りを歩いた。頭上には首都高速が走り抜け、四車線の通りは相変わらず車の往来が激しかった。
月岡は痛みを堪えながら、昨日の出来事を振り返った。
山之内は浜辺が死んだことを最初は知らなかった。おそらく、ネットニュースも見ていなければ、新聞も読んでいないのだろう。都内で起きる殺人事件を、ひとつひとつ気に留めている人のほうがむしろ少ないといえる。
しかし、浜辺が死んだことを告げると、山之内は真っ先に「誰に殺されたんだ」と叫んだ。あの時、自分は「浜辺は亡くなった」としか言っていない。山之内は浜辺が死んだことを知らないはずなのに、真っ先に殺人であることを確信していた。
山之内は、浜辺が殺される予兆を知っていたのか――。
黄色いUSBの話を持ち出した時も、明らかに顔色が変わった。山之内は高い確率で事件の核心部分を知っているはずだ。
月岡のスマホが胸ポケットで鳴った。相手は栗原だった。
「今、警察から連絡があった」平静を装っているが、呼吸は荒れていた。
「今朝、浜辺の自宅で新しい遺体が出た。持っていた免許証によると、亡くなっていたのは山之内浩司。五十三歳。風俗店の経営者だ」
心臓がドクンと高鳴った。
「柱にロープをひっかけて、首を吊った状態で見つかった」
月岡は「自殺?」と訊き返した。栗原は月岡の質問には答えず「それともうひとつ」と、言葉をつないだ。
「山之内のスーツのポケットから、浜辺殺しに使われたと思われる血の付いたスパナが見つかった」
月岡は空を見上げた。状況を整理するのにもう少し時間が欲しいと思った。
いいなと思ったら応援しよう!
好きをたくさん押してくれたら取材して続きを書きます。足りなければ書くのは止めます。でも書きたいから押してね♪