第一話 離婚した嫁の夫
あらすじ
「ゴロツキ」と呼ばれるフリー記者・月岡吾郎は、元妻・沙羅から、ホームページ制作会社に勤める再婚相手・鈴木雄助が殺人容疑で逮捕されたと連絡を受ける。殺害されたのは鈴木の勤務先の社長・浜辺勇樹。隣室の寝たきりの母親の証言が得られない中、沙羅や鈴木の同僚・伊勢崎らの力を借りて真相究明に乗り出す。
浜辺のパソコンに無実の証拠があると睨んだ月岡は、弁護士やデータ解析「デジタルフォレンジック」の専門家の助けを借り、捜査を進める。しかし、オーナーの不審な自殺、そして風俗店のパソコン解析から、同僚の伊勢崎とオーナーの金銭的な繋がりが明らかになる。
伊勢崎のアリバイが偽装だと判明し、その後、警察に逮捕される。しかし、伊勢崎の供述に疑問を持った月岡は、真犯人だと突き止める。
プロローグ
「ゴロツキ」
他人の弱みにつけこんでゆすり、嫌がらせなどをする悪者。
鈍い感触が腕から伝わってきた。うめき声が耳に入ったが、構わず二回、三回とスパナを振り下ろした。相手の頭部から髄液が飛び散り、肉片らしきものがピシャピシャと顔に当たった。
「何をやっているんだ」
冷静な自分がいた。こんなことで人生を棒に振ってもいいのかと思った。しかし、振り下ろした手を止めることはできなかった。相手が動かないことが、さらに不安な気持ちを増幅させた。頭部を叩き続けることによって、次第に気持ちが落ち着いていった。
相手が動かなくなった。
手を止めて、脳天からあふれ出る液体をじっと見つめた。これ以上の殴打は意味がないことにようやく気づいた。
部屋の中を見回した。窓から日が差し込み、外から鳥のさえずりが聞こえてきた。目の前の悲惨な光景と、平凡すぎる日常のギャップに、一瞬、頭が混乱した。
その時、がらりと奥の襖が開いた。
顔上げると、そこにいる人物と目があった。
「終わった」
心の中でそう思うと、手の震えが止まり、足の先から力が抜けていった――。
第一話
「起きて」
聞き慣れた声だった。月岡吾郎は目をこすりながら身体を起こした。昨夜の酒が残っていたせいか、頭と身体が重い。
「ねぇ、起きてよ」
声の方向に顔を向けると、沙羅がカーテンを開けていた。薄暗い部屋の中に光が入り込む。眩しさで顔をしかめる。あと少し寝かせてくれよと言いかけたところで、「ちょっと待て」と考えが浮かんだ。いるはずのない女性がいる。思考が追い付かない。
「おい」月岡が叫ぶと、沙羅は「なによ」とぶっきらぼうに答えた。
「なんでいるんだ」
大きな声を出したせいか、二日酔いの頭がズキンと痛んだ。
沙羅とは二年前に離婚していた。別れた直後は一人娘の千鶴も含めて月イチで面会をしていた。しかし、半年前に沙羅が再婚したことで、音沙汰のない状態が続いていた。
「こんなに散らかして」
沙羅は質問を無視して、床の雑誌や新聞を拾い始めた。
「どうやって家に入った」
家の鍵をかけたかどうかも思い出せない。記憶をたどっていると、「そんなことはどうでもいいの」と、沙羅は寝てる月岡に顔を近づけた。
整った目鼻、小さい顔、ショートカットに赤のピアス。目の前にいるのはいつもの沙羅だった。しかし、表情はひどく歪んでいた。泣き出しそうなのか、怒り出しそうなのか。すぐには判断できなかった。
「お願いがあるの」
沙羅が手を握り締めた。
「彼が捕まったの」
眠気も二日酔いもすべてが吹き飛んだ。月岡が「警察に?」というと、沙羅は短く頷いた。
「なにでパクられた」
「殺人。一ヶ月前に彼の会社の社長が殺されたの。その犯人だと疑われて。本人はやっていないって言ってるんだけど、警察の人、取り合ってくれなくて」
沙羅は両手で顔を覆った。
「お願い、助けて」
月岡は沙羅の手を引っ張ると、リビングの椅子に座らせた。カップにインスタントコーヒーを入れて、電気ポットのスイッチを入れた。
「順を追って説明してくれ」
沙羅はコーヒーを口に当てると、先ほどよりも落ち着いた口調で話し始めた。
「八王子で殺人事件があったの、知ってる?」
ピンとこなかった。仕事柄、大抵の事件や事故は意識して追いかけている。しかし、全ての事件を網羅するほど、東京の事件は少なくはない。
「ホームページの制作会社の社長が殺された事件」
沙羅が付け加えた。月岡は「あぁ」と声をあげた。
〝ホームページ制作〟という言葉から、事件のことを思い出した。八王子といっても、かなり山奥だった気がする。「なんでこんなところにホームぺージの会社があるんだ」と疑問に思ったことを記憶していた。
「殺された人、彼の会社の社長だったの」
月岡はテーブルの上にあったノートを引き寄せた。
「旦那の名前は」
「スズキユウスケ。スズキは普通の『鈴木』。ユウスケはオスの『雄』に、スケは『助ける』じゃないほうの『介』」
月岡は沙羅が「鈴木」という苗字になったことを初めて知った。そうなると、娘の千鶴は「鈴木千鶴」か。やけに平凡な苗字になったと思った。
「社長は鈍器で殴られて殺されたの。たまたま彼、死ぬ直前に社長と自宅で会っていて。それで疑われて」
月岡は眉をひそめた。
「それだけで容疑者にはならないだろ」
逮捕された理由は他にもあるはずだ。しかし、ここで沙羅を問いただしても、有益な情報は聞き出せそうにない。月岡は当たり障りのない質問で話をすすめた。
「旦那は否認しているのか」
沙羅は目をこすりながら頷いた。
「自分はやってないって」
「でも、逮捕されたってことは、何か証拠があるってことだろ」
「彼の車の中から社長の家の鍵が見つかったの」
月岡は「鍵?」と聞き返した。
「殺された自宅には、鍵がかかっていたの。でも、その鍵を彼が持っていたから、それで犯人だって警察が決めつけて」
沙羅は顔を上げた。
「彼、弁護士さんには鍵は見覚えがないって言っているの。あの人、嘘をつく人じゃないのよ」
月岡は「落ち着け」と話を遮った。
「事件があったのは……一か月前って言ったよな」
沙羅は首を縦に振った。
「今、旦那は」
「西八王子警察署。二日前に起訴された」
月岡は天を仰いだ。殺人事件を起訴からひっくり返すには相当難儀することになる。
「なんで早く相談しなかった」
「別れた夫に話せるわけないじゃない」
沙羅は甲高い声を上げた。
「いろいろ手を貸してくれる人はまわりにいるの。だけど、みんな殺人事件なんかに慣れていなくて。弁護士は若いお兄ちゃんみたいな人だし、面会もさせてもらえないし」
沙羅はポーチからハンカチを取り出した。月岡はくしゃくしゃと頭を掻いた。
「俺だって何もできないぞ。探偵でもなければ、有能な弁護士でもない。ただのフリーのライターだ」
「でも、私よりは物騒な事件に慣れているでしょ」
月岡は刑事事件から芸能まで、幅広く取材するネットニュースのフリーライターだった。一般の人よりも法律や警察の内情には詳しい。しかし、殺人の罪をかぶせられた人を救い出す術など知るはずもなかった。
「彼は人を殺すような人じゃないの」
沙羅が言った。よく見ると目が腫れている。何日もろくに眠れていないのだろう。
「本当にいい人なのよ。信じて。優しいし、人の気持ちもよく分かる人だし」
胸がモヤッとした。目の前で再婚した相手を褒められるのは、あまりいい気分ではなかった。
「今、頼れるのはあなたしかいないの」
月岡は「ふざけんな」と思った。そもそも離婚を切り出したのは沙羅のほうだ。職場が同じ男と恋仲になり、それで沙羅は自分の元から離れていった。家庭を壊した元凶である鈴木が逮捕されたことは、むしろ月岡にとって小躍りしたくなるほどの喜しい出来事だった。
しかし――。
月岡はコーヒーを飲む手を止めた。
起訴されたということは、近いうちに一審の裁判が行われる。日本は三審制をとっているが、一審の地裁で有罪が確定してしまうと、よほどの証拠が出てこない限り、高裁、最高裁でひっくり返すことはできない。
警察と検察は一回作り上げたストーリーを、そう簡単には崩さない。刑事事件を取材してきて、月岡はそんな現場に何度も出くわしていた。容疑者を逮捕し、起訴したということは、有罪に持ち込む十分な証拠が手元にあるはずだ。「殺ってない」という確固たる証拠が出てこない限り、ほぼ間違いなく裁判で鈴木の有罪は確定する。
そうなると、沙羅と千鶴は殺人犯の家族になってしまう。鈴木が刑務所に収監されているあいだは収入が断たれることにもなるし、沙羅も今の職場には居づらくなる。千鶴も学校でいじめられてしまうかもしれない。
月岡は顔をしかめた。視線を上げると、沙羅と目があった。
「お願い。助けて」
か細い声だった。沙羅も自分自身が身勝手なことを言っていることは百も承知なのだろう。別れた夫に頭を下げるまでには、よほどの葛藤があったはずだ。
「今日はここまでだ」
月岡はノートを閉じた。
「午後から仕事で大阪なんだ。今から取材の準備をしなきゃいけない。悪いが帰ってくれ」
沙羅が泣き出しそうな顔をした。
「安心しろ。その間に事件について調べておく。有能な弁護士も紹介する。自分ができることはなんでもする」
沙羅は溢れ出てくる涙をハンカチで拭った。
三日後、鈴木の支援者の一人、伊勢崎豊に会うためにJR豊田駅で沙羅と落ち合った。
「伊勢崎さんは、彼の同僚なの」
沙羅はそういいながら月岡の車の助手席に滑り込んだ。
「会社といっても従業員は彼と伊勢崎さんの二人しかいないの。殺された社長の同級生が伊勢崎さんで、その二人に誘われて、彼も含めて三人で仕事をしていたの」
「その伊勢崎って人は、こんな真昼間に自宅にいるのか」
月岡はダッシュボードの時計に目をやった。十二時五十分。普通のサラリーマンなら昼休みが終わりかけの時間だ。
「そもそもオフィスがないのよ。三人とも自宅やコワーキングスペースで仕事をしているの。打ち合わせが必要な時は、オンラインでやったり、社長の自宅に集まったりしているみたい」
沙羅は「どこでもできる仕事だからね」と付け加えた。
スクランブル交差点の信号が赤になった。月岡はゆっくりとブレーキを踏んだ。
「車、乗り替えたの?」沙羅の問いかけに月岡は「あぁ」と短く答えた。
「なんて車?」
「ゴルフ」
「高かったでしょ」
「十年落ちだから、たいしたことない」
沙羅が「マニュアルだと不便でしょ」と車内を見回しながら言った。「俺しか運転しないからね」と月岡はつっけんどんに答えた。
沙羅はあまり良い方向に話が進まないと思ったのか「そうね」と言葉を切った。助手席の窓を少し開けると、そこから会話を広げようとはしなかった。
信号が青に変わった。アクセルを踏み込むと、ゆっくりとハンドルを回した。
「ひとつ質問していいか」月岡が口を開いた。
「……千鶴は元気か」
沙羅は「ええ」と言った。
「だいぶ元気になったわ」
「だいぶ?」月岡が訊き返した。
「彼が逮捕されてから、しばらく落ち込んでいたの。でも、学校にはすぐに連絡を入れて、対応してもらったわ」
「大丈夫だったのか」
「うん、周りも気を使ってくれたみたい。でも、千鶴にとったら負担になったみたいでね」
月岡は「だろうな」と呟いた。
「今は……二年生か」
「三年生よ。背も伸びたわ」
千鶴は沙羅に似て、目鼻がくっきりとした女の子だった。写真スタジオの知人から、七五三のモデルになってくれないかと誘われたこともあった。背が高くなったのであれば、大人びた子になっているはずだ。そんな千鶴が気落ちした様子を想像するだけで、胸のあたりが痛くなった。
「顔がみたいな」
今なら遠慮なく会えると思った。気兼ねする相手は留置所の中だ。
「聞いてみるわ」
助手席の窓が開いているせいか、風切り音で沙羅の言葉が聞き取りづらかった。
公団住宅を抜けたところに、伊勢崎の自宅はあった。二階建ての和風住宅だったが、瓦屋根が威風堂々としていて、周囲の家よりも一回り大きく感じた。駐車場の古めかしいブルーのハッチバックの車が、妙にレトロな建物とマッチしていて月岡の目を引いた。
インターホンを鳴らすと、ドアが開いた。
「沙羅ちゃん」
グレイヘアの年配の女性が顔を出した。険しい表情で近づいてくると、門扉越しに沙羅を抱き寄せた。
「大丈夫だった」
「ええ、なんとか」
「気をしっかり持ってね。私たちがそばにいるから」
女性が視線を向けてきた。
「こちら、月岡さん」
女性は「伊勢崎の母です」と頭を下げた。
家の中に案内されると、リビングには中年の男女が座っていた。月岡と目が合うと二人は同時に立ち上がった。
「初めまして」
男の背の高さに思わず身を引いた。自分も一七三センチと長身だが、それよりも十センチほど男の目線が高かった。肩幅は広く、胸板も厚い。
男は「どうぞこちらへ」と奥の椅子を差し出した。
「同僚の伊勢崎豊さん。そして奥さんの秋穂さん」沙羅が二人を紹介した。
「お力を貸して頂き、感謝します」
伊勢崎は大きな体を丸めて頭を下げた。
「秋穂さんと、お母様の由紀恵さんも、彼の冤罪を晴らすために手伝ってくれているのよ」
秋穂が「手伝いなんて、そんな」と首を左右に振った。
「弁護士の先生を送迎しているだけです」
秋穂は大きな目を月岡に向けた。すっきりした鼻筋が小顔の中でバランスよく収まり、艶やかな唇が目を引いた。沙羅と年齢は大きく違わない。肌の白さとメリハリのついた顔のパーツから、実年齢よりも若く見られるタイプだろう。
由紀恵が「遠慮しないでいろいろ聞いてね」と、お茶を人数分テーブルに並べた。
月岡は椅子を一回引くと、「早速ですが」とテーブルにノートを広げた。
「事件の経緯を教えて下さい」
四月十六日の午後一時頃、八王子市上恩方町でホームページ制作会社社長・浜辺勇樹の遺体が自宅で発見された。死因は頭部を鈍器で殴られたことによる脳挫傷。発見者は、同居する寝たきりの浜辺の母親を見に来た、介護士の女性だった。
事件発生から三日後、浜辺の会社に勤める従業員・鈴木雄介が容疑者として逮捕された。死亡推定時刻の午前十時半頃に浜辺の自宅を訪れていたこと、鈴木の車の中から浜辺の自宅の鍵が見つかったことが、逮捕の決め手となった。
「殺害現場には鍵がかかっていたんですね」
月岡の問いかけに、伊勢崎は頷いた。
「第一発見者の介護士が鍵を開けてから家に入ったと証言しています。母親は足腰が不自由な上に寝たきり、今は――」
伊勢崎の視線が母親の由紀恵に移った。
「認知症が少し始まっているんです」
由紀恵が口を開いた。
「私、ケアマネージャーの仕事をしていて、事件前から浜辺さんのお母様の……球子さんの介護をしているんです。二年前に庭で転倒して腰を悪くしてから、ずっと寝たきりで。人の介助がなければ、立ち上がることもできない状態なんです」
月岡はノートにペンを走らせた。
「母親が自力で立ち上がれなければ、鍵をかけた人物が犯人で、その鍵を持っていた鈴木が疑われたわけですね」
「でも、この鍵もおかしな点がいくつかあるんです」
伊勢崎は身を乗り出した。
「鍵は登録制のディンプルキーで、三本しか製造されていません。一本は訪問介護の女性スタッフが保有し、もう一本は殺された浜辺が保有していました。その浜辺の持っていた鍵がキーケースからなくなっていることから、警察は『キーケースから鍵を盗んだ鈴木の犯行が濃厚』と決めつけてきたんです」
月岡は「ん?」と、ペンを止めた。
「三本の鍵のうち、介護士が一本、浜辺がキーケースに一本持っていたら、最後の一本を持っている人も犯人の可能性がありますよね」
「その一本がまだ見つかっていないんです」
伊勢崎は語気を強めた。
「でも、警察は強引に鈴木を逮捕したんです。この話は……弁護士とも話して、あくまでも我々の推測でしかないんですが」
伊勢崎は秋穂と顔を合わせた。
「この事件は警察の仕組んだ冤罪だと思うんです」
月岡の眉間に力が入った。
「事件後、証拠が出なかったので、警察が浜辺の自宅の家宅捜査中にスペアの鍵を一本見つけ出して、それを鈴木の車の中に仕込んだんだと思います」
荒唐無稽だと思いつつも、ありえない話ではないと思った。
以前、覚せい剤所持の事件を追っているとき、警察官が容疑者のタバコの吸い殻を取引現場に置いて、証拠をねつ造したことがあった。男は半年以上拘留されて、最終的にはアリバイが成立して釈放となったが、会社は解雇され、家族は離散、その後の人生は滅茶苦茶になった。
検挙数が警察官の出世のスピードに比例している限り、日本から冤罪がなくなることはない。
「犯人が逮捕できないことで、警察は焦って鈴木を犯人に仕立て上げたんです」
「凶器は?」月岡が言った。
「見つかっていません。スパナかハンマーのような工具で殴打したことは分かっているんですが、現場やその周辺を捜査しても凶器は発見できなかったようです」
「つまり、犯人は事前に凶器を用意していたということか」
伊勢崎が「いや……実はこれが面倒な話で」と言葉を続けた。
「浜辺は数日前からDIYで部屋に棚を取り付ける作業をしていたんです。だから部屋には工具や金具が散乱していて。犯人は工具を床から拾い上げて殴打した可能性もあるんですが、いかせん、犯人が用意してきた可能性も否定できなくて……凶器探しは難航しているそうです」
床に落ちていた工具を拾って殴ったのであれば突発的な殺人の可能性もあるし、事前に用意したのであれば計画的な犯行になる。どちらにせよ、凶器が見つからなければ、警察が強引な逮捕に踏み切ることは十分に考えられる。
「この事件は最初からおかしいんです」
伊勢崎が前のめりになった。
「考えてもみてください。凶器だけ捨てて、疑われる鍵だけをわざわざ自分の車の中に残すマヌケな殺人犯なんているわけないですよ」
月岡はお茶をすすった。
「事件の目撃者は」横にいた沙羅が首を振った。
「誰もいないわ。車からは血液反応も出ていないの」
月岡はノートに「凶器」「目撃者」「血液反応」と書くと、その横に順番にバツをつけていった。
「殺害動機は」
沙羅が「殺す理由なんてないわよ」とぶっきらぼうに言うと、月岡が「警察が言っている動機だよ」と問い直した。横にいた伊勢崎が「お金ということになっています」と割って入った。
「鈴木は浜辺社長にお金を貸していたんです」
「いくら?」
「五十万円ほど」
「それだけですか」
月岡はペンを止めた。人を殺すにはあまりにも金額が少なすぎる。
「浜辺は昔から金遣いが荒かったんです。いろいろなところに借金をしていて、たびたび鈴木や僕からもお金を借りていました」
「でも、五十万円じゃ人を殺しませんよ」
伊勢崎は「そう思います」と頷いた。
「でも、警察はそこを殺害の動機としています。いわゆる『ついカッとなって』って奴です」
月岡は腕を組んだ。おそらく鈴木は取り調べの際に浜辺に五十万円を貸した話をしてしまったのだろう。証拠が挙がっていない現状を考えれば、そういう証言は警察の都合のいいストーリーにすり替えられてしまう。刑事事件に慣れている弁護士であれば、余計な話はするなと黙秘をアドバイスするはずだが、そのような指示が出ていないということは、鈴木の弁護士は刑事事件に慣れていないのだろう。
「私には犯人を見つける義務があるんです」
伊勢崎は顔を上げた。
「浜辺とは高校の同級生なんです。私は工務店でホームページの制作の仕事をしていたんですが、会社が倒産してしまって困っているところを、真っ先に声をかけてくれたのが浜辺だったんです」
見た目だけで判断すれば、伊勢崎は三十代半ばだ。人材不足のIT業界と違い、ウェブデザイナーは人余りの状態が続いている。最新の技術についていけない中高年のウェブデザイナーでは、新たな就職先を見つけるのは厳しいだろう。
月岡は「もうひとつ聞きたいんだが」と、ペンを持ち換えた。
「浜辺社長、伊勢崎さん、鈴木さんの三人についてですが……まず、浜辺社長は、どんな方だったんですか」
伊勢崎は「いい奴でしたよ」と答えた。
「金にだらしなくて見栄っ張りでしたが、困っている人を見捨てられない義理堅いところもあったんです」
「ご結婚は」
「していません。独身です。だからってわけじゃないですが、女の子のいる店にはよく出入りしていました。稼いだ金はほとんどそういう店で使っていたと思います」
月岡がメモを取ると、次に「鈴木さんは?」と尋ねた。沙羅の別れた夫という立場を意識してか、伊勢崎が気まずそうな顔で秋穂と目を合わせた。月岡が「遠慮なく」と言葉を付け加えた。
「鈴木は一年ぐらい前に浜辺が声をかけて私たちと合流しました。年下ですがページ作りのセンスは抜群に良かったです。うちの会社が制作するホームページのコンテンツ作りからプロデュースまで、全て彼が請け負っていました」
月岡は「そうですか」と抑揚のない声で答えた。覚悟は決めていたものの、やはり別れた妻の再婚相手が褒められる話は気分がいいものではなかった。月岡の気持ちを察したのか、秋穂が「ちょっと」と、伊勢崎の脇腹を肘でつついた。
「いてっ、あっ、その、すみません」
伊勢崎は秋穂に小声で「ごめん」と頭を下げた。月岡は「お気になさらず」と三人を見回した。
「どちらにせよ、起訴されたからには一審で無実を証明していくしかありません」
伊勢崎は「そこなんですが」と、月岡に視線を向けた。
「今の若い国選弁護士が刑事事件に慣れていないみたいで、思うように動いてくれなくて」
予想通りだ。刑事事件の国選弁護士は持ち回り制だ。不慣れな弁護士にあたってしまうと、その時点で裁判は不利になってしまう。
「弁護士はすぐに変えたほうがいい」
「でも、弁護士の知り合いがいないんです」
普通に生活をしていれば、知り合いに弁護士がいるほうが稀だ。高学歴で法学部卒の知人がいるか、危ない仕事をして普段から弁護士に世話になっている経営者か、どちらにせよ、弁護士は一般の人にとって身近な存在ではない職業のひとつだ。
「知人の弁護士に当たってみます。しかし、国選だろうが私選だろうが、無実を証明するためには新しい証拠が必要です」
伊勢崎は「それなら――」と、机の上にあった小さい手帳を広げた。
「浜辺のノートパソコンの履歴が証拠になります」
ページを開いて時刻が記されたメモを月岡に見せた。
「鈴木が浜辺の自宅に訪れたのは、午前十時二十分から四十分までの二十分間です。本人が車を降りる時に時計を見て覚えていたのと、浜辺の家を出るときに玄関の時計を目にしていたので、その時間は間違いないらしいです。その後、車に乗って、高速の入り口に十一時五分に入ったところは、八王子西インターチェンジの料金所の監視カメラで確認されています」
伊勢崎は時系列を指でなぞった。
「警察は十時二十分からの二十分間で、鈴木が浜辺を殺したと断定しています。でも、午前十一時五分以降に、浜辺のパソコンが何かしら操作された履歴があれば、その時間帯に『浜辺は生きていた』ということになります」
沙羅が「死んだ人がパソコン触れるはずがないからね」と付け加えた。
「十一時五分以降、鈴木は高速道路の上にいることは証明されています。つまり、その時間以降に浜辺のパソコンが操作された履歴があれば、鈴木のアリバイは成立することになります」
伊勢崎は鼻の穴を大きく膨らませた。月岡は「なるほど」と落ち着いた口調で言うと、顔をゆっくりとあげた。
「浜辺のパソコンは、今、手元にあるんですか」
「ありません。弁護士にお願いをして、今、押収品の還付請求を法人名義で出しているところです。私は浜辺の会社の共同経営者でもあるので、浜辺の使っていたパソコンを返してもらう権利があります。そのパソコンさえ戻ってくれば、鈴木の無実を証明することができます」
月岡は再び「なるほど」と言って、言葉をつなげた。
「おそらくですが――パソコンは警察から返還されないと思います」
秋穂が「えっ」と声をあげた。
「弁護士の先生は、押収したものは法律で返すことが義務付けられているって言ってましたよ」
「確かに法律ではそう定められています。それ自体は間違っていません」
月岡はスマホを取り出し、検索窓に「押収品 還付請求」と打ち込んだ。
「これです」表示された画面をテーブルに置いた。
「刑事訴訟法第一二三条第一項に、『押収物で留置の必要がないものは、被告事件の終結を待たないで、決定でこれを還付しなければならない』と定められています。でも、ここで重要な意味を持つのは『押収物で留置の必要がないもの』に限るということです」
「どういう意味ですか」秋穂が首を傾げた。
「捜査機関が『必要なもの』と判断したものは、裁判が終わるまで証拠品の還付を受け付けない場合があるということです。特に被害者の証拠品を、ましてや加害者の弁護側に裁判も始まっていないのに還付することは考えにくいです」
「でも、弁護士は――」
秋穂の言葉に月岡は「本当のことは分かりません」とかぶせるように言った。
「還付請求を出してもパソコンが戻ってこないことぐらい、普通の弁護士なら分かっているはずです。でも、刑事事件に慣れていないから、回答の言い回しが、含みを持たせた言い方になってしまったんだと思います」
伊勢崎は「なんてこった」と頭を抱え込んだ。横にいた秋穂が険しい表情で伊勢崎の肩に手を回すと、ぎゅっとお互いで手を握り合って、顔を見合わせた。
「押収品の還付については明確に法律で定められていないんです。警察の判断にゆだねられてしまうところが大きい。特にスマホやパソコンの中にあるデジタルデータは、簡単に書き換えたり、消したりすることができる。おそらく還付される可能性は低いと思います」
全員が押し黙った。
「どうすればいいの」沙羅がため息をついた。
「とりあえず国選弁護士から私選弁護士に切り替えることだ。あとは、デジタルデータに詳しい人を味方につける。浜辺のパソコンの履歴が裁判で重要になるのであれば、その対策も事前にとっておいたほうがいい」
「デジタルデータに詳しい人って……パソコンに詳しい人ってこと」
「そんな感じの人だ。正直、俺もデジタルデータにはあまり詳しくない」
情報漏洩や個人情報の流出など、ネット絡みの事件は頻繁に起きている。しかし、事件としては地味で分かりにくい。読者にウケない記事を書いてもアクセス数が稼げなければ、ネットニュース側としても扱いづらい。月岡も刑事事件の取材は数多くこなしてきたが、デジタル関連の事件はほとんど経験したことがなかった。
「そんな人、お知り合いにいらっしゃるんですか」
そばにいた由紀恵が心配そうな顔をした。
「刑事事件に強い弁護士なら知人に一人います。もしかしたら、そこからデジタルデータに詳しい人にたどり着けるかもしれません」
沙羅が「さすが、ゴロツキ」と呟くように言った。
「ゴロツキ?」
由紀恵が聞き返すと、「この人、ゴロツキって呼ばれているんです」と言った。
月岡は二人を睨み付けるとフンと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。その姿を見て沙羅はクスッと笑って肩をすくめた。
新しい弁護士の事務所は国分寺駅の近くにあった。二日前に国選弁護士との引継ぎ作業が終わり、この日は紹介者である月岡を交えて、沙羅と伊勢崎の三人で弁護士事務所に行く手はずになっていた。
月岡が駅に到着したのは、待ち合わせの時間の三十分前だった。改札口近くのカフェに入り、すぐにノートパソコンを立ち上げた。窓際の席に座ると、書きかけの取材原稿を開いた。
執筆しているのは大手ネット通販会社の産地偽装問題の記事だった。以前、書いた記事が想定以上にアクセス数が稼げたこともあって、急遽、編集部から追加取材の依頼を受けていた。締め切りは六時間後。当然、取材をしている時間はない。だからといって、ここで「書けない」と断れば、自分が最初に手を付けたネタであっても、別のライターに回ってしまう。
月岡は取材先の企業名を検索窓に入力し、ネット上にある情報に一通り目を通した。通販サイトのレビューに書き込まれた根拠のない噂話と、SNSで広まっている誹謗中傷を適当につなぎ合わせれば、規定の四千字の原稿は埋まりそうだ。
自分の書く原稿が真実か真実でないかはこの際どうでもよかった。制限時間付きで一本の原稿料が3万円であれば、自分がやるべきことは想像を膨らませた空想のストーリーを書いて、クリックされやすいタイトルをつけることだ。まともに現地に行って取材などしていたら、生活保護でも受けなければライター業などできるはずがない。
月岡が原稿を書き始めようとしたとき、視界の先に沙羅が見えた。店員に話しかけようとしたところで月岡を見つけると、手を大きく振った。
「待った?」月岡は「いや」とノートパソコンを閉じた。
「伊勢崎さん、前の仕事が押しているみたいなの」
月岡は「十五分ぐらい遅れるらしいな」と、自分のスマホを手に取った。
「弁護士には連絡を入れておいたよ」
沙羅は「ごめん」と両手を合わすと、すぐに店員を呼んでアイスコーヒーを注文した。
「いろいろ、ありがとね」
切り出してきたのは沙羅だった。月岡は質問の意図は理解していたが、あえて「なにが?」と首を傾げてみた。この状況で素直にうなずけるほど、沙羅とのわだかまりがなくなったわけではない。
「今回の件よ」
「気にするな」
「仕事、忙しいんでしょ」
「ご覧の通りだ」
月岡はノートパソコンを叩いた。
「今はネットと雑誌、どっちの仕事が多いの
「ネットだ。雑誌の仕事はほとんどない」
沙羅はふーんというと、「仕事、続けていいからね」と手を差し出した。月岡は「もう店じまいだ」と肩をすくめた。
午後三時を回り、店内の席は八割方埋まっていた。高齢の客の他、スーツ姿の男性が、月岡と同じようにノートパソコンを広げて仕事をしていた。
「千鶴がね」
沙羅が口を開いた。
「あなたと会いたいって」
飲んでいたカフェオレを吹き出しそうになった。口元を拭きながら「なぜ」と言った。
「パパに会ったって言ったら、ズルいって。それで、私にも会わせろと」
月岡は目を細めた。
沙羅が再婚してから、千鶴とは会っていなかった。
幸せそうな千鶴を見るのも嫌だったし、他の男と一緒になった沙羅も見たくなかった。やがて沙羅の電話にもでなくなり、メールやLINEがあっても無視するようになった。そのうち連絡がこなくなり、沙羅と千鶴と会うことはなくなった。
離婚した男は二つのパターンに分かれるという。ひとつはすぐに新しい恋に走る男、もうひとつは永遠に別れた家族への思いを引きずる男だ。自分のドライな性格を考えれば、明らかに前者になると思っていた。しかし、予想外に沙羅と千鶴への思いは強くなる一方だった。
離婚してからの二年間で、月岡も恋人がいなかったわけではない。再婚してもいいと思う相手もいた。しかし、気持ちを踏み出そうとすると、いつも心にブレーキがかかった。自分でもその心情は理解できない。ただひとつ言えることは、他人として割り切って沙羅と千鶴に会えるほど、月岡の心はまだ整理されていないということだった。
店員がアイスコーヒーを運んできた。席の離れたサラリーマンの、パソコンのキーボードを叩く音がパチパチと聞こえてくる。息苦しさを覚えた月岡は顔をあげた。
「千鶴と会いたいな」
月岡が呟くように言うと、沙羅が「時間、作ってくれるの?」と訊いてきた。
「土日のどっちかだな」
「日曜日がいいわ。土曜日はピアノだから」
ピアノを習っているのか――月岡の知らない千鶴の話を聞いて、ざわっとした気持ちが胸をよぎった。
伊勢崎と合流して、三人は弁護士事務所に向かった。南口のロータリーを横切り、タワーマンションを背に五分ほど歩くと、スケルトンのビルの前で足を止めた。
「ここだ」建物の中に入り、エレベーターに乗り込むと五階のボタンを押した。伊勢崎が「お洒落な建物ですね」と言うと、月岡は「出てくる奴はダサいですよ」と口元を緩めた。
フロアに出ると扉はひとつしかなかった。『栗原法律事務所』と書かれた看板の横のインターホンを押すと、女性の声で「はい」と返ってきた。
「約束をしていた月岡です」
受付の女性が顔を出した。「お待ちしておりました」と、突き当りの会議室に通された。周囲はガラスに覆われており、中央には重厚感のある長机が鎮座していた。
三人は椅子に腰を掛けた。案内の女性は軽くお辞儀をしたのち、部屋から出て行った。
「丸見えね」
沙羅が外に目をやった。月岡は「ダサいうえに趣味も悪い」と、長机をポンと叩いた。
ガチャリとノブが回った。細身の男が軽く会釈をして部屋に入ってきた。分厚い資料を机の上に置くと、丸い眼鏡を人差し指で押し上げた。
「弁護士の栗原です」
スーツの内ポケットから名刺入れを取り出した。沙羅と伊勢崎に挨拶する流れで、月岡にも名刺を渡そうとした。
「あれ? 新しい名刺、渡したっけ?」栗原和也は天然パーマの頭を掻いた。
「どちらにしても、要らない」
栗原は「そりゃそうだな」と笑い、名刺入れを机の上に置いた。
「先日、前の弁護士との引き継ぎが終わりました。先にご挨拶の機会を設けるべきだったんですが、こういうのは早いほうがいいと思い、手続きの方を優先させていただきました」
栗原は軽い咳払いをした。
「今までの国選弁護士の方は非常に優秀な方でしたが、年齢も若いですし、刑事事件にも不慣れなところがありました。もちろん、彼の全てを知っているわけではありませんが、ここは刑事事件に慣れた弁護士に切り替えたほうが、一審に向けた準備もしっかりできると思います。このタイミングで弁護士を切り替えられたのは正解だと思いますよ」
伊勢崎が「ちょっと訊いていいですか」と手を挙げた。
「国選と私選の弁護士では、やはり違うものなのでしょうか」
「そのあたりを誤解されている方もいらっしゃるんですが……実は同じ弁護士資格を有する人間なので、ほとんど差はないんです。弁護士の目的は被疑者の最大の利益ですから、世間で言われているほど、国選と私選の違いはありません」
「でも、国選弁護士は報酬が少ないから、やる気がないと聞いたこともありますが」
栗原は「それも事実としてあります」と頷いた。
「国選弁護士が起訴前から起訴後まで担当した場合、だいたい報酬は十五万円ぐらいです。一方、私選弁護士の場合、着手金や報酬相場で、三十万円から百万円、場合によってはそれ以上のお金がかかることもあります」
「そんなに違うんですか」伊勢崎が目を見開いた。
「同じ人間ですから、報酬額によってモチベーションが変わってしまうことは事実としてあるかもしれません」
ドアがノックされた。先ほど部屋まで案内してくれた女性が入ってきた。氷入りの麦茶をカランカランと音をたてながら一人一人に差し出した。
栗原は再び三人に顔を向けた。
「意外と思われるかもしれませんが、弁護士は報酬によって仕事の仕方が変わったり、手を抜いたりすることもないんです」
麦茶を口に運ぶと、言葉をつないだ。
「国選弁護士を頼む人は、基本的にお金がありません。保釈金を用意できないから、保釈請求自体もできないんです。つまり弁護士にやる気があっても、弁護士費用に限界がある。弁護活動にもすぐに限界がきてしまうんです」
「そうなると、無罪を勝ち取ることは難しくなりますね」
栗原は「おっしゃる通りです」と頷いた。
「私選弁護士を雇える人はお金を用意することができます。その結果、証拠を集めたり、証人を探したりすることが可能になるので、無実が証明しやすくなるんです」
「そうなると『弁護士は私選のほうがいい』ってことになりますね」
「やる気自体は、どの弁護士も変わらないんですけどね」
栗原の話に沙羅が「でも」と言葉を挟んだ。
「今までお願いしていた弁護士は、そこまでやる気があったようには思えませんでした」
「それは国選か私選かの差ではなく、刑事事件に慣れているか、慣れていないかの違いだと思います。民事事件と違って刑事事件は裁判の進め方もスピードも違います。検察との駆け引きにもコツがいります。若い弁護士だと、そのあたりの経験と知識がどうしても不足してしまいます」
「民事と刑事では、弁護の仕方に違いがあるんですか」
伊勢崎の問いかけに栗原が頷いた。
「裁判員裁判が良い例です。一般の人にも分かるように被疑者の無罪を主張しなくてはいけないので、パワーポイントなどを使ったプレゼン能力が問われます。ここで悪い印象を与えてしまうと、裁判の流れも変わってしまうし、裁判官の判決にも大きな影響が出てしまいます」
沙羅は「確かに」と、頷いた。前の弁護士に対する様々な不信感が脳裏をよぎったのだろう。顎に手を当てて真剣に栗原の話に耳を傾けていた。
「こちらの先生は刑事事件にも詳しい。頼れる弁護士だ」
月岡は続けて「それは俺が保証する」と腕を組んだ。その横で伊勢崎は困った顔で「保証するって言われても」と言葉を詰まらせた。
「月岡さん……こんな言い方をしたらなんですが、弁護士の先生にお世話になるようなヤバい仕事をやっているんですか」
栗原が吹き出して笑い出した。
「お世話も何も、俺がいなきゃ彼はシャバには出ていないですよ。金になるネタを見つけたら、躊躇なく突っ込んでいくから取材トラブルもしょっちゅうですよ。派閥争いで揉めている大学に忍び込んで不法侵入で捕まったり、政治家の愛人を追いかけまわしてストーカーで訴えられたり、彼のゴロツキのせいで何度警察に何度足を運んだことか」
「ゴロツキ?」
伊勢崎が訊き返した。
「そういえば、前に沙羅さんも同じこと言ってましたよね」
沙羅は視線を逸らし、わざとらしく天井を見上げた。栗原は「知らないんですか?」と、月岡に顔を向けた。
「『ツキオカ・ゴロウ』って名前を『ゴロウ・ツキオカ』で逆に読んで、それを略して『ゴロツキ』」
伊勢崎は「そういう意味か」と膝を叩いた。そしてすぐに「あんまりイメージのいい言葉ではないですよね」と言った。
「人の弱みを握って、強請ったりする最低のチンピラ男に使う言葉です。昔から付き合いのある私やネットニュースのライターの間で、彼をそう呼ばれています」
月岡は「やっていることは闇バイトの奴等と同じだ」と小さく笑った。
「俺は金がもらえるなら、どんな取材でもする。要望があれば企業の悪口も書くし、ありもしない話も書く。そのニュースで炎上したくなければ、俺に金を払って、頭を下げて記事の掲載を止めることだな」
伊勢崎が眉をひそめた。
「でも、この人、悪い人じゃないのよ」沙羅が口を開いた。
「人より好奇心が旺盛なだけなの」
栗原と月岡は意外そうな顔をして目を合わせた。
「ゴロツキって名前もみんなが面白半分でつけた名前よ。人より取材力があるから、周りの人が嫉妬しているだけなの」
沙羅の言葉に栗原がクククッと笑い出した。月岡が頬をさすりながら顔をそむける。
「それにこの人、もともとは東京経済新聞のエース記者だったんだから」
「そうなんですか」伊勢崎が月岡に顔を向けた。
「東京経済新聞、ずっと読んでますよ」
「いまどき新聞なんて読むやつがいるんだな」
月岡は耳の穴に指を入れた。
「なんで新聞記者を辞められたんですか」
月岡の表情が固まった。二秒ぐらいの間をおくと、ニヤッと笑って顔を上げた。
「人を殺したからだよ」
伊勢崎が「へっ」と間の抜けた声を発した。すぐに月岡は「うそ」と言って大声で笑いだした。
「冗談だよ。企業の提灯記事ばかり書いているのに飽きただけだ」
「脅かさないでくださいよ」
伊勢原は胸をなでおろした。栗原が「話がかなり脱線しているようだが――」と、三人の顔を見渡した。
「今回の案件は腐れ縁のゴロツキからの紹介です。全力で弁護させていただきますよ」
「ありがとうございます」
沙羅が頭を下げた。
「ところで、例のデジタルに詳しいパートナーの件だけど――」
月岡の問いかけに栗原は「ああ」と思い出したように口を開いた。机の上にあった固定電話を手に取り、小声で話すと、「今、ここに来る」と受話器を置いた。
数分後、ドアがノックされた。栗原が「どうぞ」というと、失礼します、と若い男性が入ってきた。
月岡は麦茶を入れ替えにきたアルバイトの学生だと思い、飲んでいたコップを差し出した。それにつられて伊勢崎と沙羅もコップを動かした。しかし、男性はコップを手に取ろうともせず、そのまま栗原の横に座った。
「彼がデジタルデータに詳しい、蓮本君だ」
蓮本壮真は、小さく頭を下げた。
「かなり若く見えるんだが」月岡がぽかんと口を開けた。
「東京情報工科大学の三年生だ。セキュリティ情報学科のゼミで『デジタルフォレンジック』について勉強している」
耳慣れない言葉に月岡は顔をしかめた。
「デジタルデバイスに記録された情報の回収と、分析調査などを行う技術のことだ。〝フォレンジック〟とは、『法的に有効な』という意味で、分かりやすく言えば、パソコンやスマホに残されたデジタルデータを解析して、法的な証拠性を持たせる仕事のことだ。今、うちの事務所にバイトに来てもらっている」
「つまり、データを復元する仕事ってことか」
蓮本は「違います」と二人の会話に入った。
「デジタルデータは消去や改ざんが簡単にできてしまいます。法的証拠として法廷で使うためには、決められた手順を踏んで解析して、作業の内容を記録に残していく必要があるんです」
「ということは――」
沙羅が口を開いた。
「パソコンやスマホに残されたデータを調べて、それを裁判の証拠として提出してくれるってお仕事のこと?」
「まぁ、そんな感じです。デジタルフォレンジックは裁判でも重要な証拠資料として提出されます。情報漏洩や証拠改ざん、その他にも、オレオレ詐欺やわいせつ画像の販売、ドライブレコーダーの事故の解析にも、デジタルフォレンジックの技術が使われているんです」
「ちょっと待ってください」
伊勢崎は額に手を当てて「うーん」と唸った。
「そもそも消去したパソコンやスマホのデータを復元することなんてできるんですか」
「デジタルデータを削除しても、視覚的に見えているものが消えただけであって、データが完全に削除されたわけではありません。見た目は『このデータは削除したもの』として扱っていますが、物理的なデータは記憶媒体の中に一部残っています。専用のソフトやツールを使えば、データを復元させることは可能なんです」
「どんなデータでも復元できるんですか」
蓮本は首を横に振った。
「最近のスマホやパソコンのデータは、ほぼ復元できません」
月岡は「はぁ?」と首を斜めにした。
「ここ数年で、スマホもパソコンもデジタルデータの保存方法が大きく変わったんです。処理速度を上げるために、記憶媒体に残ったデータをすぐに消してしまうため、以前のように簡単に復元することができなくなりました」
月岡は「なんだそれ」と呆れた口調で言った。
「消したデータを元に戻せなければ、証拠にならないから意味がないだろ」
「データを消去した時間や量、パソコンやスマホのスペックによっては、復元できるデータもあります。それに、メールや写真が復元できなくても、ウェブサイトの閲覧履歴やログ解析から、どのようにパソコンが使用されたのかを解明することは可能です」
「そんなちっぽけなことが分かったところでなぁ」
月岡は腕を組んだ。蓮本は「最近ではデジタルデータのありかたも変わってきているんです」と言葉を付け加えた。
「データを復元するやり方から、データのあった場所や、データが削除された時期など、パソコンやスマホの当時の状況を解析していく方法に変化しています」
月岡は大きく息を吐いた。栗原が「どうした」と訊くと、ちらっと蓮本の顔を見た。
「いや、地味な話だと思ってさ」
蓮本は月岡を睨みつけた。
「こんなんじゃ何も分からないのと同じだ」
「裁判では重要な証拠になります」
「子どもとは話が嚙み合わないな」
月岡が笑うと、蓮本は「この人が、ライターの月岡さんですか?」と栗原に尋ねた。
「あなたの書いた記事、読みましたよ。いろんなネットニュースに記事を書いていますね」
月岡は顔を横に向けた。
「この間の記事も面白かったですよ。テレビ局の社長が、自分の局アナと不倫したって話。それと、納豆が癌に効くって記事と、カリスマ投資家が実は自己破産していたって記事も、すべて月岡さんが書かれていましたよね」
「それがどうした」
「何の役にも立たないネットニュース書いて、忙しそうですね」
「おかげさまで」
「あんなくだらない記事、よく書けますね」
「仕事なんで」
「仕事だったら、なんでも書くんですか」
「金さえもらえれば」
「最低ですね」蓮本が吐き捨てるように言った。
月岡は「よく言われるよ」と、横にいる沙羅に「そうだよな」と声をかけた。
「まぁ、最低なのは事実ですけど」
蓮本と沙羅の目があった。
「前の夫です」沙羅が恥ずかしそう言った。
蓮本は「えっ」と声を出すと、気まずそうに顔をそむけた。そこに栗原が「まぁまぁ」と話に割って入った。
「東京情報工科大学はデジタルフォレンジックの技術では日本でトップクラスだ。そこのゼミにいるのが蓮本君で、とても優秀だということで、知人の教授に紹介されたんだ」
「学生なんかよりも専門業者に頼めばいいじゃないか」
栗原は「金がかるんだよ」と両手を広げた。
「デジタルフォレンジックは作業工程が多いんだ。証拠品のパソコン一台の解析で最低でも五十万円以上の費用がかかる。だけど、蓮本君を通じて大学の研究室にお願いすると、その半額ぐらいでデジタルデータの解析をやってくれる」
「安かろう、悪かろうだろ」
蓮本が「本当に口が悪いですね」と顔をひきつらせた。
栗原は睨み合っている二人を見て「まったく」とため息をついた。話をそらそうと思い、伊勢崎に顔を向けた。
「例のパソコンの還付請求の件ですが、おそらく検察側は許可を出さないと思います。手元にパソコンは戻ってこないと思ったほうがよさそうです」
「警察がパソコンのデータを改ざんしてしまう可能性はあるんでしょうか」
蓮本が「ないと思います」と答えた。
「仮に改ざんしたとしても、データに手を加えた記録は必ず残ります。それに警察はデジタルデータが不得意なので、冤罪にするなら、もっと別の方法を選ぶと思います」
伊勢崎は「なるほどね」と感心した声をあげた。
「もうひとつ訊いてもいいかな。もしも、裁判までにパソコンが戻ってきたら、中身をデジタルフォレンジックにかけて、鈴木の無実を証明することはできるんだろうか」
「パソコンに電源を入れたのか、それともウェブサイトを閲覧したのか、操作した記録は残っているはずです。それを証拠として法廷に提出することも可能ですし、明らかに本人しか触れられないような記録であれば、被害者が生存していたことも証明できると思います」
「どちらにせよ、浜辺のパソコンが手元になければ、始まらないってことか」
伊勢崎は腕を組んだ。栗原は「結論は急がないことです」と周囲を見渡した。
「私もまだ、弁護を引き継いだばかりだからなんとも言えない状況です。無実が証明できるようなヒントがあれば、逐一、みなさんにご報告させて頂きます」
栗原は机の上に広がっていた資料をまとめ始めた。月岡が「今後の動きとしては?」と問いかけると、「まずは、接見禁止の解除だな」と言った。
「被告人が罪を否認しているから難しいと思うが、罪証を隠滅する恐れがないことを裁判所に抗告すれば、接見禁止の一部解除は可能だと思っている。起訴前よりも起訴後のほうが接見禁止は解除されやすい。まずはそのあたりから動いてみるよ」
栗原が立ち上がると、沙羅が「あの」と声をかけた。
「接見禁止の一部解除って、私も彼に会うことができるんですか」
「もちろん。身内は当然のことながら、事件に関与していないのでれば、事前申請をして知人や友人も接見することができるようになります」
沙羅は「良かったぁ」と、顔を両手で覆った。栗原は慌てて「早合点はよくありませんよ」と身を乗り出した。
「接見禁止の解除は裁判官の胸先三寸で決まります。ダメになる可能性は十分にあります」
「彼と会えるために動いてくれるだけでも、感謝です」
沙羅は栗原の手を握りしめた。それを見ていた月岡は表情を歪めて視線を逸らした。
翌週の日曜日、月岡は娘の千鶴と多摩動物園に行くことになった。車で迎えに行くと言ったが、千鶴が多摩動物公園駅まで一人で行けると言うので、現地で落ち合うことになった。
待ち合わせ場所のゾウの石像の前は家族連れで溢れ返っていた。月岡はふと自分にもそういう時間があったことを思い出した。
沙羅と出会ったのは、月岡が新聞記者の頃だった。食品メーカーの広報だった沙羅に月岡が一目惚れし、ほどなく二人は結婚した。すぐに千鶴を身ごもり、二年後には三人家族となった。
しかし、新聞社を退職してから月岡の人生が狂い始める。フリーランスの記者となったものの仕事が思うように取れず、収入は激減の一途を辿った。たまに入るのは企業の提灯記事の執筆で、学生でもできるような原稿書きの仕事ばかりだった。
次第に月岡は仕事への情熱を失い、昼間から家で酒を煽るようになった。生活を支えなければいけない沙羅は、知人の紹介でホームページの制作会社の広報の仕事に就いた。久しぶりに社会復帰したこともあり、沙羅は充実した毎日を過ごすようになった。一方、仕事がうまくいかない月岡は、沙羅の楽しそうに働く姿が疎ましく思うようになった。
仲の良かった夫婦が、喧嘩の絶えない夫婦に変貌するのに時間はかからなかった。たびたび沙羅は千鶴を連れて家を出て行くようになり、月岡も外に女を作るようになった。
「好きな人ができたの」
沙羅の突然の告白に、半分は驚いたものの、半分は仕方がないという思いがあった。普通に離婚を切り出せばいいものを、あえて「好きな人ができた」と言ったのは、彼女なりの嘘が言えない性格から出てきた言葉だった。恋に落ちた相手は、職場の同僚だと言った。それ以上のことは聞きたくなかったので、差し出された離婚届にすぐに判を押した。
辛うじて家族という糸でつなぎ留められていた月岡の常識は、離婚によってぷっつりと切れてしまった。背負うものがなくなったことで、身の危険にさらされるような取材を片っ端から請け負うようになった。取材のリスクが高まれば高まるほどアクセス数が稼げることから、ネットニュースの仕事が一気に舞い込むようになった。
「元新聞記者」というプライドを捨てたことも仕事が激増した要因だった。芸能人の不倫や政治家のスキャンダルまで幅広く取材をするようになったことで、あらゆるテーマの取材をこなせるスキルを身につけた。
気づけば取材した記事で金を生み出す錬金術にのめりこんでいた。企業から報酬をもらい嘘八百の誇大な記事を書いたり、取材相手を脅して金を巻き上げたり、ライター稼業を利用して、別の方法で金を稼ぐことが本業の“ゴロツキ”になっていった。
人間のクズ以下の仕事に吐き気を覚えることが何度もあった。しかし、守る家族もいなければ、明るい未来も描けない自分にとって、今のゴミ溜場を這いずり回るような仕事のスタイルは妙に居心地が良く、そして肌にあった。
「わっ!」
月岡が振り返ると、千鶴が立っていた。淡いピンクのミニスカートに白のTシャツ、パステルブルーの帽子をかぶり、ニコリと笑って「よっ!」と手を挙げた。
「驚いた?」
千鶴は腕に手を回してきた。上目遣いの甘えた表情に、見たことのない大人っぽさが漂っていた。強く抱きしめたい衝動を抑えながら、月岡は「いくぞ」といって歩き出した。
園内に入ると、千鶴は率先して動物たちに近づいていった。可愛らしい仕草の動物を見ると、「写真撮ってよ」と月岡にせがんだ。
オラウータンの展示場の前に来ると、ちょうどロープを使って移動しているところだった。
「ほら、シャッターチャンス」
千鶴が月岡の腕をぐいぐいと引っ張った。「ちょっと待ってろ」と月岡がスマホを取り出しているうちに、オラウータンはロープを渡り切ってしまい、隣の敷地に降り立ってしまった。千鶴が「もー」と頬を膨らませた。
「トロいんだから」
「すまん」月岡が頭を掻いた。千鶴はじっと顔を見つめると「次のライオンバスで名誉挽回だね」と、再び手を掴んで歩き出した。
アフリカ園のキリンを見たところで、千鶴が「お腹がすいた」と言い出した。月岡は園内マップを広げて、近くの二階建ての大きな飲食店に入った。
千鶴はライオンの顔の形をした「オムハヤシライオン」を選んだ。月岡はきつねうどんを注文した。
「面白くないもん食べるんだね」
トレーの食事を指して千鶴が言った。
「腹が減ってないんだよ」
「それでも、うどんはないでしょ」
二人は食事を持ってテラス席のある二階に移動した。
「みて! ペリカン!」千鶴は柵から身を乗り出した。
「あっちには、キリンがいるぞ」
「ほんとだ!」
千鶴は長い髪の毛をなびかせながら、くるりと身体を回した。
「すごいいい席だね」
月岡の頬が緩んだ。千鶴も月岡の表情にあわせて、口の端をニーッと伸ばした。
「いただきまーす!」
千鶴は両手を合わせ、オムハヤシライオンにスプーンを入れた。
「学校はどうだ」うどんをすすりながら、月岡が言った。
「普通かな」
質問が抽象的過ぎたと思い、「勉強は何が得意なんだ?」と話を変えた。千鶴は「えーっ」と笑うと、首を傾けながら「理科かな」と答えた。
「今、磁石の勉強をしているの」
「実験とかやるのか?」
「うん、何が磁石にくっつくのか調べるの」
「たとえば」
「ハサミとか、釘とか、リンゴとか」
「リンゴはないだろ」
千鶴が「だよね」と吹き出した。
「男子はバカだからさ。磁石を無理やりリンゴに刺しちゃって。先生に『くっついた!』って持って行って。それで怒られてんの」
月岡と千鶴は大きな声で笑った。
時計は午後四時を回っていた。オーストラリア園でカンガルーを見た後、千鶴が「こっちに何があるの?」と坂の上を指した。月岡はポケットからくしゃくしゃになった園内マップを出した。
「『みはらし広場』だって」
「景色、いいのかな」
千鶴は坂に向かって突然走り出した。月岡もあとを追いかける。長い坂道を上りきると、通路の脇に「みはらし広場」と描かれた看板があった。小さな階段があり、千鶴が「こっちだ!」と駆け上がった。月岡は息を切らせながら再び追いかけた。
階段を上がり切ると、周囲を見渡せる小さな広場があった。中央にはカワセミが展示されている小屋があり、脇には白いコアラの像と、時計台が建っていた。奥に目をやると、木と木の間から景色が抜けていた。千鶴はカワセミには目もくれず、広がる空の方向に向かって走っていった。
「わーっ、すごい!」
目の前にはジオラマのような住宅街と、奥多摩の稜線が広がっていた。
「今日は空気が澄んでるな」追いついた月岡が、息を吐き出しながら言った。
「夕焼けだったら、もっとキレイかな」
「そうだろうな」
「待ってみようか」
月岡は腕時計に目をやった。
「残念、そろそろ閉園だ」
あと一時間で千鶴とのデートは終わる。そう思うと気持ちが急速に冷めていった。
「パパ」
千鶴がつぶやくように声を出した。
「知ってるよね、ユウスケが警察に捕まったの」
ユウスケ? 月岡は瞬時に誰の名前なのか分からなかった。が、「警察」と「捕まった」という単語で、鈴木の名前であることを察した。
「ユウスケ、悪いことしてないんだよ」
今は千鶴と二人だけの時間だ。その話はしないでほしいと思った。しかし、それを拒否するほど、月岡の心は強くはなかった。
「夜、ご飯を食べていたらね。突然、男の人たちがやってきて。ママが泣き出して、ユウスケが大声をあげて。それで連れていかれて」
千鶴が帽子のツバをぎゅっと下げた。
「ユウスケ、優しいんだよ。いつも笑っているし、遊んでくれるし。絶対に悪いことなんかしてないんだよ」
月岡は「そうなんだ」と力のない声で言った。千鶴が他の男と楽しそうに過ごしていることを想像するだけで息が苦しくなった。優しくすることだって、笑うことだって、遊ぶことだって、その男に負けないぐらい自分はできる。しかし、それがすぐにどうにもならない嫉妬心であることに気づき、激しい嫌悪感に襲われた。
「パパ、お願い」
千鶴は月岡のジャケットに顔を押し付けた。
「ユウスケのこと、助けて」
肩が震えていた。月岡は千鶴のことをぎゅっと抱きしめた。
もし、自分が警察に捕まったら、同じように千鶴は泣いてくれるのか――
そんなことを考えると、余計に自分が惨めに思えた。
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