やっぱり心震える作品🔔
お久しぶりです。
すごく、すごーく間が空いてしまった。
このまま埋もれてしまうのは嫌なので、観劇記録をこちらに残しておきたい。
ということで、劇団四季「ノートルダムの鐘」大阪公演。
久しぶりのノートルダム、響いたなぁ。。。
しかもセンブロ2列目。ものすごかった。
今回でミュージカル観劇2回目(1回目は去年の大阪ウィキッド)という友人に同行してもらったので、彼からいただいた問いについても考えつつ、観劇レポートというか作品観や人物の私なりの考察をば。
『ノートルダムの鐘』
今回もたくさん泣いた。
そして、たくさん考えた。
まず、やっぱりこの作品の根底にある、
「答えてほしい謎がある
人間と怪物
どこにちがいがあるのだろう」
という問い。
冒頭で投げかけられたこの問いが、すべての物語を見届けた最後に、もう一度同じ言葉で繰り返される。
言葉は同じなのに、二時間あまりを経たあとではまったく違う問いに聞こえる。
この構成が本当に秀逸で、終曲では涙が止まらなかった。
■山下泰明さんのカジモド
山下さんのカジモドを一言で表すなら、とても「ピュア」だった。
特に心に残ったのが、「天国の光」と「奇跡求めて」で繰り返される「僕は醜いから/諦めてたんだ」。
「天国の光」では、ずっと自分は醜いからと諦めていた。
でもエスメラルダという「天使」が自分に微笑みかけてくれた。
「好きになってくれたのかな」と、ほんの少しだけ、自分にも誰かから愛される可能性があるのかもしれないと希望を持ち始める。
だからここでの「諦めてたんだ」は、過去形になりかけている言葉に聞こえる。
ところが「奇跡求めて」では違う。
エスメラルダとフィーバスが愛し合っていることを知ってしまったあと。
一度は期待してしまった自分の心を閉じ、もう恋など求めずに生きていこうとする「諦め」になっている。
「諦めていた。でも、もしかしたら」
から、
「期待してしまった。だから、もう期待しない」
へ。
同じ言葉にまったく違う感情を宿しながら、決して「ここはこう演じ分けています」と感じさせない。
山下さんの繊細さと、それを計算に見せない純粋さに胸を打たれた。
そして、トプシー・ターヴィーのあと。
あれほど酷い目に遭わされ、辱められた直後なのに、エスメラルダから差し出された水を飲み、カジモドは「ありがとう」と言える。
私はあの場面でいつも涙が出る。
カジモドは、どれだけ人から酷い目に遭わされても、「人の善意を信じること」をやめない人なのだと思う。
だからこそ、その善意をフロローの不実によって利用され、奇跡御殿の場所を案内してしまったあとの「石になろう」が、あれほど絶望的なのだと思う。
恋に破れただけではない。
自分が信じてきたもの、自分が人に向けてきた善意そのものを利用され、大切な人たちを危険にさらしてしまった。
だから観客も、カジモドと一緒に怒り、悲しむ。
この日の「石になろう」の終盤、山下さんの声は本調子ではなく、しゃがれてしまうところもあった。
もちろん歌唱としては万全ではなかったのだと思う。
でも、それでも山下さんは最後まで「カジモドであること」をやめなかった。
声が苦しくなっても、「なんとか歌を歌い切ろうとしている俳優」にはならなかった。
最後まで、そこにいたのはカジモドだった。
その姿にも涙が出た。
■カジモドは、本当に「純粋」なのか
今回一緒に観た友人から、終演後にとても面白い問いをもらった。
「カジモドには、本当に不純な思いは湧かないのか」
これは今回、私が作品を見るうえでとても大切な問いになった。
私は山下さんのカジモドを「ピュア」と感じた。
でも、「ピュア」とは、欲望や嫉妬のような「不純な感情」を一切持たないことなのだろうか。
考えてみれば、そんなはずはない。
カジモドはエスメラルダに恋をする。
「天国の光」で、自分を好きになってくれたのかもしれないと期待する。
ということは当然、
「自分を好きになってほしい」
「自分を選んでほしい」
という欲望があるはず。
そしてエスメラルダとフィーバスが愛し合っていると知れば、傷つく。
「奇跡求めて」のあれほどの悲しみがある以上、嫉妬だってまったくないとは思えない。
カジモドは、恋愛的・性的な欲望から超越した「無垢な天使」なのではないのだと思う。
むしろ、ここでフロローとの対比が鮮明になる。
フロローもエスメラルダを欲する。
カジモドもエスメラルダを欲する。
二人とも人間だから、欲望を持つ。
でも、その欲望をどう扱うのかが決定的に違う。
フロローは「愛してくれ」とエスメラルダに要求する。
自分が彼女を欲していることを、自分自身の問題として引き受けることができず、やがて彼女の存在そのものに原因を求める。
一方でカジモドは、エスメラルダがフィーバスを愛しているという現実に深く傷つく。
怒りもするし、心を閉ざそうともする。
でも、その感情を理由にエスメラルダの意思を奪おうとはしない。
「自分を選んでほしい」という欲望があっても、
「だから自分を選ぶべきだ」
にはならない。
もしかしたらカジモドの「ピュアさ」とは、不純な感情を持たないことではなく、自分の中にある欲望や嫉妬よりも、最後には相手の意思を尊重できることなのかもしれない。
欲望を抱くこと自体が、人を怪物にするわけではない。
その欲望とどう付き合うのか。
自分がどれほど相手を欲していても、その人も自分とは別の意思を持った一人の人間なのだと認められるのか。
そこに、カジモドとフロローの大きな違いがあるように思った。
■宮田愛さんのエスメラルダ
宮田さんのエスメラルダで強く感じたのは、「人間的」ということだった。
悲鳴の上げ方、恐怖に怯える表情や身体。
最後のほうで、自分は「勇敢な気がしない」と語るところも含めて、宮田さんはエスメラルダを決して「聖人」や「天使」にしない。
怖いものは怖い。
追い詰められれば悲鳴を上げる。
自分を特別勇敢な人間だとも思っていない。
でも、それでも人のために行動する。
恐怖を感じないから勇敢なのではなく、恐怖を感じる一人の人間が、それでも誰かのために動こうとする。
そんな宮田さんのエスメラルダに、私はとても心を揺さぶられた。
そして、やはり身体表現が見事。
脚を上げる一つの動きでも、「意図して曲げている」のか、「伸ばそうとした結果として曲がってしまっている」のかがわかる。(もちろん前者である)
私はバレエも好きでよく公演を観るので、こういうところも気になってしまうのだけど(笑)、宮田さんの身体には、一つひとつの動きにきちんと意思が通っているように見える。
もともと身のこなしの美しい方だと知ってはいたけれど、今回も本当に目が離せなかった。
■エスメラルダは、どんな世界を見ているのか
友人からもう一つ、
「エスメラルダの考えや価値観を、もう少し掘り下げて知りたい」
という言葉をもらった。
確かに、カジモドやフロローに比べると、エスメラルダが「なぜそのような人間になったのか」はあまり語られない。
でも、彼女の行動を追ってみると、かなり一貫した世界の見方があるように思う。
特に好きなのが「世界の頂上で」の近辺。
カジモドの石像たちについて、
「あなたのお友だち、好きよ」
と言うところ。
そしてカジモドに「ふたりで、いる」と伝えるところ。
エスメラルダの言葉には嘘がない。
カジモドに恋愛感情があるふりはしない。
でも、その正直さでカジモドを傷つけようともしない。
石像が「本当に存在するのか」を問題にして笑うこともない。
「あなたにとって大切な友だちなんだね」と、そのまま受け止める。
そこには、「かわいそうな人に優しくしてあげる」という上下関係がない。
私はそこに、エスメラルダの公平さ、公正さを感じる。
彼女にとって大切なのは、「この人は何者と呼ばれているか」ではなく、「目の前にいるこの人は誰なのか」なのではないか。
「醜い鐘つき男」ではなく、カジモドを見る。
「兵士」という属性だけではなく、フィーバスを見る。
自分自身も、誰かが決めた「ジプシー」という枠の中だけでは生きない。
フロローが世界を、
「正しい/間違っている」
「導く者/導かれる者」
というカテゴリーに分けて見ようとする人だとすれば、エスメラルダはまず一人ひとりを見る人なのかもしれない。
だから彼女は「すべての人を無条件に愛する聖女」なのではない。
怖いものは怖いし、嫌なものは嫌。
恋をすれば一人の人を選ぶ。
それでも、自分が選ばなかった人の尊厳まで否定しない。
そこに、エスメラルダという一人の人間の価値観があるように思った。
■芝清道さんのフロロー
芝さんのフロロー。
エスメラルダに向ける、
「憐んでくれ」
「愛してくれ」
という言葉が、あまりにもちぐはぐに聞こえた。
「私が人間だということを知った」のなら、自分にも欲望があり、弱さがあり、誰かを求める気持ちがあることを認めればいい。
でも、フロローが身につけてきた価値観、宗教観が、それを許さない。
自分の中に生まれた欲望を自分のものとして引き受けられないから、その原因をエスメラルダの側に置いていく。
そして「愛してくれ」と言いながら、エスメラルダを自分と対等な、一人の人間として見ることができない。
「私はあなたを愛している」ではなく、
「私の苦しみを、お前が解消してくれ」
になってしまう。
だから、あれほど救われない。
そして今回考えたのが、フロローがジェアンにも、カジモドにも、エスメラルダにも、一貫して「私が導いてやる」という姿勢で接していること。
カジモドやエスメラルダに対してなら、大助祭という地位を得たあとに出来上がった人格や権力意識として理解することもできる。
でも、ジェアンに対してもそうだった。
フロローとジェアンは、幼くして両親を失い、共に修道院へ預けられた兄弟。
本来なら「同じ境遇を生きてきた兄弟」だったはずなのに、フロローはいつしか「弟と共に生きる兄」ではなく、「愚かな弟を正しく導く兄」になっていく。
フロローは、他者と横に並ぶことがとても苦手な人なのかもしれない。
誰かを愛するときにさえ、
「あなたと私は対等だ」
ではなく、
「私があなたを正しく導く」
という上下関係になってしまう。
これは彼自身の人格の問題である一方で、幼くして親を失い、大聖堂の規範の中で育った生育歴とも無関係ではないのではないか、と考えた。
もし幼いフロローが、
「正しくても、間違っていても、あなたはあなたのままで愛される」
というような無条件の愛情を十分に受けて育っていたら。
人を愛することも、愛されることも、違う形で知ることができたのだろうか。
『美女と野獣』のビーストが、ベルとの関係の中で「愛することは所有することではない」と知っていったように、フロローにもそんな可能性があったのだろうか。
そう考えると、少し辛くなる。
ただし、それはフロローを免責することとはまったく違う。
彼がそうなった背景は「本人だけのせいではない」かもしれない。
でも、「本人のせいではない」とは思わない。
ジェアンを一人の人間として見る機会もあった。
エスメラルダを一人の人間として見る機会もあった。
何度も選択肢はあったはず。
それでも彼は、自分の正しさを手放さず、他者を「導く/支配する」ことを選び続ける。
だから、芝さんのフロローにはまったく同情できなかった。
気持ち悪くて、醜い。
でも単純な「悪人」だから醜いのではない。
なぜそうなったのかを考える余地がありながら、それでも本人が選び続けたものの先にあの姿がある。
そんなフロローを成立させた芝さんは、本当に素晴らしかった。
■「聖域」でフロローを傷つけるカジモド
友人からもう一つ、とても鋭い問いをもらった。
「あれほど聖域を大切にしていたカジモドが、その聖域でフロローを傷つけた。そのときカジモドは何を思っていたのだろう」
これもずっと考えている。
物語の最初、カジモドにとって大聖堂は絶対的な世界だったと思う。
鐘がある。
石像たちがいる。
そして、自分を育てたフロローがいる。
外の世界から自分を守ってくれる「聖域」であり、フロローから与えられた価値観と大聖堂そのものが、まだほとんど分かれていなかったのではないかと思う。
でもカジモドは外へ出る。
酷い目に遭う。
それでもエスメラルダから水をもらい、人の善意を知る。
恋をする。
失恋する。
裏切られる。
絶望する。
そして最後には、フロローから教えられた「正しさ」ではなく、自分自身で何が正しいのかを判断するようになる。
そう考えると、カジモドが聖域でフロローを傷つけたことは、「聖域を大切にしなくなった」ということではないのかもしれない。
カジモドにとって、「何が本当に聖なるものなのか」が変わったのではないか。
建物そのものなのか。
大助祭という権威なのか。
フロローの教えなのか。
それとも、目の前で奪われようとしている一人の人間の命なのか。
あの瞬間、カジモドは初めて、自分自身で「守るべきもの」を選んだのかもしれない。
だとしたら、聖域の中でフロローに抗うことは、聖なるものを冒涜したのではなく、
「何が本当に聖なるものなのか」
をカジモド自身が決めた瞬間だったのではないかと思う。
■フロリカ
最後にカジモドを愛で包み込むようなフロリカの歌声。
私はあそこで、いつも涙腺が決壊する。
そして今回、初めて気づいたことがあった。
火炙りにされようとしているエスメラルダを助けるため、カジモドが飛び出していく場面。
大聖堂の石像?柱?を表現するアンサンブルの中で、フロリカを演じた方だけが、カジモドを見守るように目で追っていた。
その表情が、私にはとても慈愛に満ちているように見えた。
もちろん、そこにどこまで明確な演出意図があるのかはわからない。
でも私は、母フロリカが息子を見送っているように見えてしまった。
カジモド自身は知らない。
でも観客は知っている。
「僕は醜いから」と、愛されることを諦めてきたこの人は、最初から愛されて生まれてきた。
そして父ジェアンがかつて、教会という「正しい世界」を離れてでもフロリカを選んだように、その息子もまた、大聖堂から飛び出して愛する人を救いに行く。
その背中を、母が、
「行っておいで」
と見送っているように思えた。
胸がぎゅっと締め付けられて苦しかった。
でも、まったく嫌な苦しさではなかった。
■白井拓也さんのクロパン、佐久間仁さんのフィーバス
白井拓也さんのクロパン。
奇跡御殿を率いる者としてのダークさを決して消さないのに、とにかく華やか。
危険な匂いがちゃんとする。
でも登場すると目を奪われる。
あの両立はなんなんだ!
と、ただただ魅了された。
佐久間仁さんのフィーバスも素敵だった。
まず上背があって端正な顔立ち。
フィーバスとして説得力がある(笑)。
そして特に印象に残ったのが、フロローから免職されたときの、
「大変光栄です!」
「あなたの下で働かなくてよくなることを光栄に思う」という、フィーバスの明確な意思を持った言葉。
でも今回の佐久間さんは、そこにさらに強い感情を乗せていたように感じた。
フロローへの嫌悪も、怒りも、決別の意思も、全部まとめて「大変光栄です!」の一言に込めて、叩きつけるように。
「ああ、この台詞をこんなふうに表現するんだ」と、なるほど!と思わされた。
フィーバスの意思がはっきり表れる大好きな台詞だけれど、その意思をさらに感情的に、鮮明に見せてくれた佐久間さんの「大変光栄です!」が、とても好きだった。
■「人間と怪物」の違いとは
今回、自分の中で『ノートルダムの鐘』の見方が少し変わった。
以前の私は、カジモドやエスメラルダを、どこか聖人や天使のように見ていたのだと思う。
でも今回、宮田さんの「聖女ではないエスメラルダ」を観て、友人から「カジモドに不純な思いは湧かないのか」と問われて、改めて思った。
二人は「怪物性を持たない特別に美しい人間」なのではない。
カジモドだって欲望する。
嫉妬する。
傷つく。
怒る。
絶望する。
エスメラルダだって怖がる。
悲鳴を上げる。
すべての人を同じように愛するわけでもない。
フロローにも、欲望がある。
弱さがある。
愛されたい気持ちがある。
みんな人間なのだと思う。
人間性とは、「善い感情だけを持つこと」ではない。
欲望も、嫉妬も、恐怖も、怒りも、醜さもある。
人間は、人間性と怪物性の両方を自分の中に持っている。
では何が違うのか。
もしかしたら、その感情を抱いたあとに何を選ぶか、なのかもしれない。
自分の欲望を相手に押しつけるのか。
相手の意思を認めるのか。
自分の恐怖を理由に他者を排除するのか。
怖くても相手のために動くのか。
「自分が正しい」という世界を守るために目の前の人間を切り捨てるのか。
それとも、今まで信じてきた「正しさ」を疑ってでも、その人の命を守るのか。
最後、カジモドの顔から墨が消え、他のキャストたちの顔には墨が塗られる。
「この人が人間です」
「この人が怪物です」
という線など、最初から存在しない。
カジモドも人間。
エスメラルダも人間。
フロローも人間。
そして客席にいる私たちも人間。
誰の中にも、人間性も怪物性もある。
そのどちらを前面に出すのか。
どちらを選び取って生きるのか。
その積み重ねによって、人は「人間」にも「怪物」にもなり得るのではないか。
今の私は、そんなふうに思う。
だからこそ、物語の最後にもう一度、
「答えてほしい謎がある
人間と怪物
どこにちがいがあるのだろう」
と問われたとき、涙が止まらなかった。
冒頭で聞いたときと、まったく同じ言葉なのに、もう同じ問いには聞こえなかった。
そしてカーテンコール。
山下さんは、最後までやっぱり誠実で、ピュアだった。
「カジモドを演じた」というより、
今日、この舞台の上でカジモドとして生きた。
そう感じた。
そして最後。
山下さんと芝さんが、ハグ!!
本編であれほど激しくぶつかり合ったカジモドとフロロー。
舞台の上で真剣勝負をした二人だからこそ、すべてが終わったあとに「山下泰明さん」と「芝清道さん」として抱き合う姿が、なんとも嬉しかった。
あれはもう、最後まで物語を見届けた観客へのご褒美タイムだと思った。
今回、この作品を初めて観る友人と一緒に観られたことも、とても幸せだった。
何を話しても鋭い考察を返してくれる、私がとても尊敬している友人。
「カジモドには本当に不純な思いは湧かないのか」
「あれほど聖域を大切にしていたカジモドが、聖域でフロローを傷つけた。その心理は」
「エスメラルダの考えや価値観をもっと知りたい」
終演後にもらったそんな問いによって、観劇中に感じたものをもう一度見つめ直すことができた。
一人で観て、一人で泣いて終わるのではなく、
誰かと同じ舞台を観て、
「私はこう見えた」
「でも、こういう見方もできない?」
と語り合うことで、作品の中にまだ知らなかった扉が開いていく。
舞台そのものだけではなく、そこから誰かと考え、語り合う時間まで含めて、なんて豊かな観劇だったんだろう。
たくさん泣いた。
たくさん考えた。
そして結局、また思う。
私は『ノートルダムの鐘』が、本当に好きなんだ。
