【知の小話】道があって、道草がある
今回の記事は、「エッセイ風の文章」の実験です。
柔らかな文体でありながら、同時に、ときどき真に迫るような奥深さが垣間見える。そんな文章を目指しました。
簡単に自己紹介します。私はこんな人(↓)

では本文にどうぞ。
(短めです。じっくりどうぞ。)
目的を定め、それに向かって努力する。それは人間らしさの一面で、大人になるにつれ鍛えられる、意志の力だ。「やろうと決意して、やる力」だ。
でも、でもだ。
実はさ、世の中にはさ、意志の力以外の力もあると思う。それは夢中になる力だ。夢中になると、我を忘れて、追いかけてしまう。楽しさのあまり、追いかけてしまう。
・・・
目的への道を突き進む意志の力を鍛えることも大事だ。けれども、たまにはちょっと寄り道をしてみたら、どうだろう?足元に目を向けてみれば、そこには花が咲いているかもしれない。動物がいるかもしれない。水の音が聞こえてくるかもしれない。
寄り道を楽しむことで人は、「こういうのもいいものだったな」と、忘れていた感覚を思い出す。切り離されていた世界とのつながりを回復し、生きものとしての充実感を取り戻す。
道草をしても、強くはならない。強くはならないけども。果物が熟するように、人は道草によって、円熟する。複雑さを増し、味わい深くなるのだ。能力を高めるとは限らないが、自己が耕されcultivated、深みを増す。
だから、だからだ。
たまに、でいい。道草をしよう。道があって、道草があるのだ。道を進むのが人間らしさであれば、道草をするのもまた、人間らしさなのだ。
・・・
人は、道をつくる生き物だ。生活の必要性に追われる中で、「こうすべき」と自分で道を固めることもあるのである。
しかし、そういう「べき」(理想:遠い目的)にばかり目を向けていると、そうする以外の方法が見えなくなってくる。他の可能性が閉ざされてしまってunable not to be、息苦しくなってくるのである。
こうして「べき」に息苦しさを感じたときにこそ、道草の精神を思い出してほしい。たまには道を進むだけじゃなくて、あえて、寄り道するのである。
するときっと、「それだけではなかった」と別の世界が開けてきて、「そうじゃなくてもいいんだable not to be」と心を緩めることができるだろう。一本道の世界から、彩り豊かな世界へ。
理想を掲げて努力することは、人間ならではだ。
だが、そこから逸脱することもまた、人間ならではなのだ。
いつもの私の記事の分量じゃないですね。
しかし伝えたいことをギュッと凝縮して、噛めば噛むほど味が出る文章に仕上がった気がしています。
いかがでしたでしょうか?
内容に関してでも形式に関してでも、はたまた他のことに関してでも、何でもコメントくだされば嬉しいです。
では短いですが、今回はこの辺で。
また別の記事でお会いできれば幸いです。
ごきげんよう~

(あとがき)
実は、この記事は、もっと後に投稿しようと思っていたものです。しかし「もけ」という方の記事に触発され、今投稿することにしました(↓)
もけさんは、娘さんが折り紙を折る姿を見て、自身の在り方が「未来の目的のため」に偏っていたと気づかれたそうです。
子どもと接するというのは、そういうことなのだと、私は感銘を受けました。子どもと接する中で大人は、自身が忘れていた生の在り方を思い出す。
子どもというのは、不思議な生き物ですね。
