目的なき折り紙がもたらすものとは
小2の娘が折り紙に沼っている。
小学生にはよくあることだと思う。
私もそうだった。学校の自分の机で折り紙屋さんを開店していたし。
パックンチョに始まり、チューリップや飛行機、そしてツルを折る。
最近では折り紙の折り方を紹介するYouTubeを見て、そんなものも作れるのか!?と、驚くようなものを作っている。
そんなこんなでここ数日の間、娘はひたすら折るのだ。
朝起きたら朝飯前にまず折る。
学校から帰ってきたら宿題そっちのけで折る。
お風呂から出ても髪が濡れた状態で折る。
寝る前には目を擦りながらも折る。
そんな姿を見て、私としてはやはり気になった。
なぜ、そんなに折るのかと。
ということで、実際に娘に聞いてみる。
「なんで折ってるの?」と。
予想としては「楽しいから」とか「好きだから」とか「誰かにあげるから」みたいな言葉が返ってくると思った。
しかし、そのどれでもなかった。
一言「うーん、わかんない」と言うのだ。
「いや、折り紙やってて楽しくないの?」と聞いたら、「まぁ、楽しいは楽しいんだけど…けっこう難しくて時間もかかるし」と、はっきりしない。
こうして私と話している間も、体の正面は机、目はYouTube、手は折り紙で、どう考えても夢中なのである。
周りの声が聞こえず、視野が1点になるほどの没頭だ。
私という人間は、そこには何か目的や理由があるのではないか、と考えてしまう節がある。
とかく何かを作ったり、書いたりするのは、何かを成し遂げるための手段と捉える傾向にあるのだ。
しかし娘にとって、折り紙を折るという行為は、“何かのため”という目的があってやっていることではなかったのだ。
それに気付いたとき、私はまるで頭を万力で締め付けられるかのように、じわじわとショックを感じることになった。
なぜなら、娘はコンサマトリーに生きていて、私はインストゥルメンタルに生きていると分かったからだ。
コンサマトリーとは、簡単に言えば、何らかの目的を達成するためではなく、行動のプロセスそれ自体を楽しむことを指す考え方。自己充足的や即時充足的とも言われる。
インストゥルメンタルは、コンサマトリーと対をなす概念である。
すなわち、行動というものを道具的に捉え、何らかの目的を達成するための手段とする考え方だ。
どちらの生き方が良いか、といった二項対立には意味がないと思っているが、それでもバランスしていくことは大切だと考えている。
それなのに近頃の私ときたら、インストゥルメンタルな考え方にひどく偏っていた。
noteを書く意味はなんだっけとか、今作っている動画は何につながるんだっけとか、この業務の目的は○○だというふうに。
つまり、その時、その瞬間を楽しむことよりも、まだ見ぬ未来の何かのために今を投資するような生き方に傾いていたのだ。
しかし、折り紙をしている娘は、”今ここ”の自分を全力で使い切っていた。
傍目で見ている私ですら、その姿から得もいえぬ充足感を感じ取るのだから、やはり善い時間を過ごしていたのだろう。
娘との会話は、私自身の生き方を見つめ直すきっかけを与えるためのトリガーなのではないかと思うほど貴重な時間だ。
さて、そんなことを考えながら書いたこの記事は、インストゥルメンタルなのだろうか。否。
今回はこの記事を書くこと、それ自体が目的だった。
