八木誠一『宗教の行方』第二講評
某大学院キリスト教学研究科2026年春季鳥居ゼミ発表
八木誠一著『宗教の行方 現代人のための宗教12講』
第二講
発表者: 濱和弘
本レポートは、某大学院における現代キリスト教思想演習における八木誠一氏の『宗教の行方ー現代人のための宗教12講』の講読において、筆者が発表を担当箇所の発表原稿です。
八木氏の『宗教の行方』は、八木氏が一般の方向けに行った講義原稿を記載したものであり、それぞれの講義は、連続しつつも、一つの講義として完結しています。その第二講のタイトルは「生の表層・中層・深層」は、八木氏自身が「本義では、全体を見渡すお話をしたいと思います」と記しているように、八木氏がこの書で述べたかったことの核心部分が要約的に提示されている箇所であると言えます。では、以下で筆者の発表内容を掲示します。
はじめに
発表の内容に入る前に、発表者が、本書を読み解いていった視点というものについて述べておきたと思う。それについては、柄谷行人(からたに こうじん〈ゆきと〉)の書評の言葉を、取り上げたておきたい。柄谷は、八木自身が、「キリスト教からは異端とされ、仏教に歓迎されるわけでもなく、更には哲学からは宗教は軽視される。自分のやっていることをどう呼べばいいのかわからないので『宗教哲学』といっているという」と述べていると記している。
この「宗教哲学」という言葉は、信仰や神(超越者)といったもの、あるいは宗教的言説等々を、社会学的に観察し叙述する宗教学とは異なり、その本質や真理性を理性的・論理的に追及する学問分野として、確立している用語である。しかしながら八木は、「自分のやっていることをどう呼べばわからないので、とりあえず『宗教哲学』といっている」というのである。つまり、八木自身は、自分のやっていることは、いわゆる一般的な「宗教哲学」ではないという意識が、垣間見える。それでも、「とりあえず」であっても「宗教哲学」と呼ばしめているものは何なのであろうか。
発表者(私)は、「哲学」という言葉に、そのカギがあるように思う。一般に「哲学」とは、ものの根源や本質を、理性用いて、論理的に追及するものである。しかし、「哲学(Philosophy)」には、もう一つの意味がある。それは「生き方」である。哲学(Philosophy)は、単に、ものの根源や本質を知的に探究する知性の営みだけはなく、人間の「より善い生き方」や「より善い在り方」の追求もまた「哲学(Philosophy)」なのである。だとすれば、一般的意味で、「宗教」を対象として、その本質と根源を追求し、その言説の真理性を知性において解明し、論理的に叙述するという「宗教哲学」(すなわち、宗教を哲学するという「宗教哲学」)と、「宗教」を通して、人間の「より善い生き方」や「より善い在り方」を追求するという意味での「宗教哲学」(カントの実践理性批判やエラスムスのChristiani Philosophi)の間に、ズレが生じる。
発表者は、八木が「とりあえず」といった言葉の背後には、この二つの「宗教哲学」の狭間にたった揺らぎを感じる。そして、本書(『宗教の行方』を読む限り、おそらく八木の重心は、後者の「人間の「より善い生き方」や「より善い在り方」を追求する「宗教哲学」に置かれていると拝察する。よって本発表は、その視点から、八木が単に『宗教の行方』を語っただけでなく、我々人間が、共に生き(共生し)、共に平和を築き上げる「より善い生き方」・「より善い在り方」といった未来を構築するための生き方を論じた書として、本書を読み解き発表する。
1. 第二講の趣旨
2.
著者である八木誠一は、この第二講の冒頭で「本講義の全体を見通すようなお話をしたいと述べている。だとすれば、第二講全体は何を述べていたのであろうか。八木は、そのキーワードは「表層・中層・深層」であるとし、この三層の各層を、キリストの言葉と関係づけながら述べることが、この
第二講の目的であるとしている。
2.表層・中層・深層の概略的把握
この八木のいうキーワードである「表層・中層・深層」について、概略的に把握しておきたい。この表層・中層・深層について、八木は、表層は日常生活の層である(38頁)であると述べ、さらにイエス・キリストに関連させて「イエスの場合、律法を行うという現実の場、それが『表層』になる」と述べている。一方、中層に「対しては、その律法のもと(濱註:元/根元)にあるもの、律法がその表現であるようなもの、それが中層になります」と述べる。そして、それを「神の支配」と言いい、この「神の支配」を人格化した形姿、それを「人の子」であるという。
八木は、本文中では明確に述べていないが、「『人の子』というのは神の子であると同時に人間性がある、そういう形姿」と述べているところから、この「人の子」という言葉に、受肉した(完全な神の像である)イエス・キリストを想定していると思われる(42頁)。そしてこの受肉したイエス・キリストこそが、人間の本来の「より善い生き方」・「より善い在り方」を体現しているものである見ているものと思われる、だからこそ、「『神の支配』を人格化した形姿、それが『人の子』」だと言えるのであるといえよう(参照40頁)。
こうしてみると、表層と中層は、人間の生き方、在り方という視点から言うならば、表層とは、私たち人間が、自己の利益を追求し、自己の欲のために他者を支配し抑圧するような生き方(八木はそれを、律法において「『殺すな』と言われているが心の中で兄弟に対して腹を立てているものは、その兄弟を殺したことになる」という言葉や「『姦淫するな』と言われているが、情欲をもって女を見たものは姦淫したのだ」という言葉をもって示す〈41頁後半~42頁前半〉)として捉え、中層とは、イエス・キリストの内にある「神を愛し、隣人を愛する生き方として捉えていると言えよう。
その上で深層であるが、八木は、深層は、すべてを包み込む層であると言いう。その意味で表層と中層は、人間の生き方「於いてある場」であるが、深層は表層や中層を超えて(超越して)、それを包み込んでいる層(57頁)だと言えよう。
「表層・中層・深層」における関係と神の働きの問題
八木の神学思想における重要な概念は「極」である。「極」は、「個」である人間であるが、この「個」たる人間が他者たる人間との間に関わりを持つとき、磁石のN極とS極とが作用しあって磁場を築くように場が開かれる。その「場」に「於いてあるに極」として、個々の人間は、日常生活の場である表層がコミュニティ(共同体)構築されるのであるが、八木は、この第二講において、そのことをユダヤ教における「神の民」の共同体の形成の中で見ている。神の民の「共同体」の形成における神の働きが「律法」である。いわば律法は「神の意思」であると言える。この「律法」が文字の意味だけが独り歩きをし、その精神が見失されてしまった表層である日常生活という「場」(この場合の場は西田哲学の「場所の論理」がいう「場所」)であると言えよう。
その神の働きである律法のもと(濱註:元/根元)に、律法の文字に著された言葉となる以前の、言葉を生み出す「場」にある一つの「極」となってイエス・キリストと人とが関わりを持ち「神の意思」を表す「神の支配」という「場」が開かれる。そこにある神の働きが「律法」の大元にある隣人愛である。この「神の支配」のもとにある人間の在り方が、すなわち隣人愛に生きる生き方が、人間にとって人間的生の自然な姿だというのである(41頁)。だとすれば、人間にとって自然な生き方が具現化されるのが中層であり、神の層であると言えます。
八木は、自然においては、マルコ4:26―28の種の譬えを用い、蒔かれた種は自然を芽生え、成長し、実を結ぶという。それに対して、八木は、表層にある人間の生き方は、自然ではない人為的なもの(律法を完全な道徳の命令として、その言葉を実現しようとして、自分の意志のみで頑張っている「単なる自我」に生きる姿)であると言っている。だからこそ、表層から中層へ移行することの大切さを主張するのである(濱註;ちなみに、この表層から中層への移行を、キリスト教の救済論の次元で捉えるとしたならば、東方教会の神化論が類似するといえよう)。
ところで、この自然は、人間の自然であり、ユダヤ人・キリスト者だけのものではないであろう。事実、八木が、この人間の自然である中層での自然を「良きサマリヤ人」の譬えを用いていることからも、そのことがうかがえる。だからこそ、この表層から中層への移行は、キリスト教の独占事項ではない。それは、仏教等にも開かれている。そのことを八木は「阿弥陀の願」を用いて示唆する(48頁―49)。
表層から中層への移行の道
八木は、表層から中層へ至る道は、二つあるという。一つは律法主義から行く道であり、もう一つが自分のための配慮に戦している生き方から中層に深まっていく道である(46頁)。そしてそのいずれの道も挫折する共ともいう。前者は、自分の意志と努力だけで言葉で言い表された律法的完全、倫理的完全に支配され、その言い表された言葉に支配され、それを自分の意志だけで行おうとする自我の働きであるがために自我と自然が分裂してしまい無力状態になるから挫折する。また後者は、自分のために配慮する生き方(自分の生活の中で自分の欲望・欲求を得ようとする生き方)は、何か、本物ではないものではないと気付くことによってある。いずれも、八木が、自我の不完全性と呼ぶものであり、表層の世界は、この「単なる自我の世界」なのである(47頁)。
ところで、この自我はどのようにして形成されるのであろうか。それは情報に他律的に支配されているからである(39頁および48頁)。言葉化された律法(法と倫理をあわせたようなもの)が、言葉とされ、それが「何が正しい生き方」か、あるいは「何が余地よい生き方か」という情報や価値観となり、それを実践しようとする意志をもつ「わたし」である。結局、表層から中層に移行し至る道は、自我における「わたし」の生き方が破れ、そこを脱却し「無心」になり、自己における「わたし」になることによってであるのだが、それを自力で行おうとすると、結局、トートロジー(同語反復)に陥ってしまう。だから、表層から中層への移行の道は、まず願を立てること、正しいことを求める(義を求める)ことだと八木が言う。八木は、この願と求めを通して、中層の世界に触れているというのである。
では、中層に生きるということは、どういうことであろうか。これまでのべてきたことから、それは神の意志を生きるということであるということはわかる。八木はそれを、邪(よこしま)な心がない心の清い状態であるという。邪な心とは「、自分だけ得をして、他人に害を与えること」であり、「競争相手を蹴落とすとか、要するに他人に不利益を与えて自分だけに利益を求めようとすること」(53頁)である。このような邪な心が一切ないところに、正しいことを求める者になると八木は言うのである。
この清らかな心を持つ者は、憐れみ深い優しい心を持つ。そして憐れみ深い優しい心は、他者の苦しみに共感する。この心に湧き上がる共感が行為となるとき、人間は、自我ではなく自己として生きる中層の世界で生きるということなのであろう。
中層的共同体
ここで、この第二講の原点に戻ろう。この第二講の出発は、旧約聖書において、ユダヤ教は、神は人間の日々の生活の表層で、「神の民」の共同体を形成するために律法を与えたということから出発している。それが、律法を言葉による情報としてその根底にある精神を見失ったことから、表層における共同体が、本来の自然な人間の「生き方」、「在り方」から逸脱したしまった状況にある現状を指摘することから始まった。
その本来の自然な人間の生き方が慈しみ深い心に基づく生き方であり、苦しむもの心に共感し生きる生の在り方です。そのような生き方にある「個」たる人として「極」として生きる時、平和を生み出す者の共同体となり、他者を支配するのではなく共生する者となるということを、八木は主張しているものと考える。
深層の世界
最後に八木のいう深層の世界に触れたいと思う。八木のいう深層の世界はちょうえつのせかいであって、すべてを包み込む世界である。ここまで八木は、表層の世界と中層の世界が人間の生を中心に描いてきた。それゆえに、それは宗教と言う人間の営みを場所として語り得る世界であり、叙述的には宗教学的語りとしても語り得るものであり、人間学としてかたりうるものであった。だからこそ、表層の世界と中層の世界において語られる神は、意志あるものとして、また、その神の意思が人格化されることが可能な人格神として語られるのであり。
しかし、深層の世界は超越の世界であり、表層の世界と中層の世界を包み込む。ここにおいて、人格神として認識されてきた神は、「場」という非人格的な存在としてとらえ、深層である超越の世界は非人格性(濱註:ロゴス/理、理法)の世界である(58頁)。この「場」である、超越世界は、すべての者を包み込んでいる世界であるから、すべてのものが受け入れられる世界である。発表者(濱)は、このような八木の「場(場所)の論理」に基づく、「表層・中層・深層」の三層構造に、着目したい。特に、深層において全てのものが包み込まれているという主張は、排他主義と排斥運動が跋扈する現代社会において、存在論的には宗教多元主義に道を開き、救済論的には万民救済論への道を開くものだからである。そしてそれは、十分に評価されるべきものであると考える。
