洗礼志願者への手紙 2026 四旬節第5主日
朗読箇所
1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
カテキズム
黙想
復活の聖なる徹夜祭まで、あと13日。
第一の気づき 私たちは命を失っていた。
私たちは、何も欠けていない世界に生きてきたと信じていました。
しかし、灰の水曜日に「あなたは塵であり、塵に帰る」と告げられたとき、その前提は根底から崩されました。それは死の宣告ではありません。 自分が「命を失っていた」という暴露でした。塵に帰るとは終わりではありません。自分が何者であるかを最初から問い直せという招きでした。
荒れ野で声を問われ、変容の山で光を見せていただきました。井戸のそばで渇きを知り、盲人の癒しの場で光と闇の分岐に立たされました。そのたびに何かが剥がれていきました。安定だと思っていたもの。揺るぎないと思っていたもの。自分を保つために頼りにしてきたもの。それが一枚ずつ取り除かれるたびに、自分の内側に何があるのかを見せられました。輝いていたものは、今や塵に変わっています。 そして今、私たちはその剥がれ落ちた先に立っています。四旬節の旅は、喪失の旅ではありません。剥がれ落ちることによって、本当のものだけが残っていく旅でした。
創造のはじめ、神は人に命の息を吹き込まれました。 聖書は「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と述べています(創世記2・7参照)。ヘブライ語の「ルーアハ」、霊・息・風を重ねて意味するこの言葉が、人間に吹き込まれました。人間は、神の息によって生きるように造られた存在です。塵から造られたにもかかわらず、神の命を内に宿す者として立てられました。
しかし、人は、その息によって生きることをやめ、自分で生きることを選びました。その結果、息は消えていないにもかかわらず、その息によって生きていないという断絶の中に置かれています。満たされているように見える。整っているように見える。しかし命がない。高層ビルの奥に荒れ野があったように、表面の豊かさの奥に、この断絶がずっとあったのです。これは人類のはじまりから続いてきた断絶です。その結果が、現代の豊かに見える世界の奥にある荒れ野です。高層ビルが消えたとき、初めて見えたものがありました。それがこの断絶でした。
この断絶を回復するために、キリストは来られました。その断絶の中に入り込み、十字架の上で死を引き受け、復活によって命の道を開かれました。そして復活されたキリストは、聖霊という形で、その命を人間に渡されます。五旬祭に弟子たちの上に炎のような舌として降った聖霊は、この命の渡し方の原型です。死んでいた者が、神の息によって生きる者にされる。エゼキエルの枯れた骨の幻が、キリストにおいて完成されます。
四旬節のこの旅は、その命を受け取るための準備でした。今までの旅は、まさにその命を受け取るための場所を作る作業でした。火を受けるためには、場所が必要です。
火はまだあなたの内に灯されていません。しかし今、その直前に立っています。 第3スクルティニア(Scrutinia、清めと照らしの式)は、この準備の最後の照らしです。すべての照らしはここに向かっていました。「あなたは今、何によって生きているのか」という問いの前に、私たちは立っています。
第二の気づき 火は、どこから来るのか
火とは何か。 それは聖霊です。そして、キリストご自身の命です。
五旬祭の朝、弟子たちが一か所に集まっていたとき、激しい風が吹いてきて家中に響き渡りました。聖書は「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記しています(使徒言行録2・3参照)。これは穏やかな体験ではありませんでした。家を揺るがす風、炎のような舌。この火を受けた者は変えられました。扉を閉じて隠れていた者たちが、外に出て語り始めました。恐れていた者たちが、死を恐れなくなりました。それが聖霊の火の性質です。
聖霊の火は、人を温めるためではありません。人を変えるために来ます。それは安全ではありません。自分の正しさを焼き、自分の計画を焼き、自分が拠り所にしてきたものを焼きます。 使徒たちに起きたことを考えてください。彼らはガリラヤの漁師でした。学者ではもなく、権力もありませんでした。しかし、聖霊の火が降ったとき、彼らはエルサレムの広場に出て、群衆に向かって「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった」と、語り始めました。この大胆さは、自分の意志によってではありません。火によってもたらされたものです。聖霊の火が燃えるとき、人は別の存在になります。火は自己を保持することを許しません。それは、自分の実存を燃やし尽くします。
しかし、聖霊には、もう一つの側面があります。トマス・アクィナスは「罪とは神に向かう秩序(Ordo オルド)からの逸脱である」と述べています(『神学大全』第1部第2編71問参照)。人間は本来、神に向けて存在するように造られています。その秩序を失うとき、命そのものが歪められます。聖霊の火は、人をその秩序へと引き戻す力です。焼かれることは失うことではありません。本来の姿に戻ること、変容させられるのです。そして、変容された私たちの心に、キリストの火が灯ります。
イエスはその方を「弁護者(パラクレートス)」と呼ばれました。「わたしは父にお願いして別の弁護者を送り、永遠にあなたがたと共にいるようにしていただく」と言われました(ヨハネ14・16参照)。パラクレートスとは、傍らに呼ばれた者という意味です。弁護者、慰め主、助け主。聖霊は、荒々しい変革の力でありながら、同時に傍らに立って離れない方です。炎のように来て、友のように留まる。これが、「変えながら、共にいる。焼きながら、守る」聖霊の二重の性質です。
第2主日、変容の山で御父は「これに聞け」と命じられました。どの声に従うかによって、人の向きが決まります。しかし、聖霊が与えられるとき、その問いは新しい次元へと移ります。聖霊は、外から「どの声に従うか」を問うのではなく、内から「キリストの声が聞こえる者」へと、私たちを変えられます。 聖霊の火を受けた者は、聞くことができるように変えられます。これが「霊に従って生きる」ということの意味です。パウロが「霊の思いは命と平和である」と語るとき、それは努力によって霊的になることではありません。聖霊の火によって、命に向かう存在へと変えられることです。
この方は「永遠にあなたがたと共にいる」方です。荒れ野であなたを試みたのと同じ声が、受洗後も聞こえてきます。しかし、弁護者はその傍らにいて、「どの声に従うべきか」を内から示してくださいます。聖霊の火は、一度燃えて消えるものではありません。永遠にあなたと共にいる、生きた炎です。 あなたはまだその火を受けていません。しかし、その火は、すでにあなたに向かっています。
第三の気づき 火は、渇きとして近づいてくる
火は、まず燃え上がるのではありません。渇きとして近づいてきます。
サマリアの女は水を求めていましたが、イエスは彼女の渇きを満たす前に、その根を暴かれました。それまで自分を支えていたもの、安心、関係、自己像、正しさ、それらが崩されるとき、人は渇きます。第3主日に直面したのは、この渇きの現実でした。渇きは欠乏ではありません。火が近づいているしるしです。火は、他のすべてを焼き尽くさなければ、自らを現すことができないからです。古い自分が終わるときにのみ、神の命は流れ込みます。渇きは痛みです。しかし同時に、それは恵みです。
エゼキエルの幻において、枯れた骨が広野に積み重なっていました。絶望の象徴です。民は「我々の骨は枯れた。我々の望みは消えうせ、我々は滅びる」と叫んでいました。バビロンの捕囚において、神殿は崩れ、国は滅び、民は異国の地に散らされていました。これ以上の絶望はないように見えました。しかし神はエゼキエルに告げられます。「わたしの霊をあなたたちの中に吹き込む。あなたたちは生きる。わたしがこれを語り、また成し遂げる」と述べています(エゼキエル37・14参照)。ルーアハが吹き込まれるとき、枯れた骨は立ち上がりました。
これは五旬祭の出来事の先取りです。家を揺るがす風として来た聖霊は、エゼキエルの幻の中で枯れた骨に吹き込まれたルーアハと同じ力です。神の息は、人間の絶望を終点とは見なしません。自分の力が尽きたところで、神の息が入ってきます。「もう終わりだ」と思ったその場所が、神の息が吹き込まれる場所です。創造の初めに人間の鼻に吹き込まれた息が、捕囚の絶望の中で枯れた骨に吹き込まれ、そして五旬祭の朝に弟子たちの上に炎の舌として降り注ぎました。同じ一つの神の息です。この息はあなたの上にも、もうすぐ降ります。
渇きを渇きとして知る者だけが、水を受け取ることができます。自分が渇いていないと思う間は、与えられても受け取れません。この四旬節の旅で、あなたは何度も渇きと向き合いました。その渇きは無駄ではありませんでした。その渇きが、火を受け取る場所を作ってきたのです。自分の力が尽きたと感じるとき、それは弱さではありません。神の息が入るための余白が生まれているということです。エゼキエルの民が「我々の望みは消えうせ」と叫んだとき、その空虚の中にルーアハが吹き込まれました。あなたの渇きも、その空虚も、火を迎えるための場所です。
そして今日、イエスはその宣言をご自分の人格において完成されます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と述べています(ヨハネ11・25-26参照)。「エゴー・エイミ(わたしはある)」という宣言は、出エジプト記で神が自らを啓示した言葉を背景に持ちます。イエスは復活の仲介者ではありません。ゾーエー(いのち)そのものが、この方の人格において実在しているのです。渇きは終点ではありませんでした。渇きは、ここへ向かっていたのです。灰の水曜日からの旅は、この方のもとへと向かっていました。荒れ野の声も、変容の山の光も、サマリアの女の渇きも、盲人の信仰告白も、すべてがこの方を指していました。命とはキリストご自身です。
この渇きは、やがて水へと導かれます。その水とは、単なる慰めではありません。洗礼の水です。その水の中で、人は古い自分とともに葬られ、キリストとともに立ち上がります。パウロは「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです」と述べています(ローマ6・4参照)。渇きはここに向かっていました。空虚は、この水を受けるための場所でした。
第四の気づき 火は、名前を呼んで死から引き出す
ラザロは四日間、墓の中にいました。
マルタはイエスに向かって、「主よ、もし、ここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言いました。マリアも同じ言葉を繰り返しました。これは責めではありません。「絶望」が言葉になったものです。「もう遅い」「もう変われない」「神は間に合わなかった」。これらは、打ちひしがれ、もう何も変えられないと知った者の声です。
その声が自分の内側から上がってくるとき、それはマルタとマリアの声と同じです。二人は、絶望を抱えたまま、イエスのもとに来ました。これが大切な点です。 二人は、絶望が消えてから来たのではありません。絶望したまま来ました。信仰とは、すべてが解決されてから神に近づくことではありません。絶望を絶望として受け入れ、それでも、なお、イエスを信頼し、イエスに向かうことです。絶望が言葉になるとき、その言葉がイエスに向けられるなら、それはすでに信仰の動きです。
ナザレのイエスは涙を流され、そして、神の子が友の死を前に泣かれました。これは距離を置いた憐れみではありません。絶望のただ中に入り込んだ共苦です。そして同時に、この涙を流された方は、「わたしは復活であり、命である」と宣言された方です。 深い人間的な悲しみと、死を超える神の力が、この一人の人格の中に共存しています。涙を流しながら、死を打ち破る。これこそ、キリストという方の本質です。
イエスは墓の前に立ち、叫ばれました。ヨーゼフ・ラッツィンガー(ベネディクト16世)は「ヨハネが語る『いのち』とは、御言葉が肉となり、エウカリスチアにおいて私たちが参与する神自身の愛のダイナミズムです」と述べています。この叫びこそがそのダイナミズムの原型なのです。
「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・43参照)。名前が呼ばれました。 「人類」ではなく、この一人の名前が呼ばれました。第4主日に地面にかがんで泥を作り一人の盲人の目に触れられた、あの同じ愛の形です。神は抽象的に救いません。名前を呼んで、具体的に救われます。ご復活の夜、その声は「あなたの名前」を呼ぶことになります。それは人類への一般的な招きではありません。暗闇のなかにいるあなたへの、固有の呼びかけです。
ラザロは自分で起き上がったのではありません。呼ばれ、引き出され、立たされました。この受動性が命の本質です。人間は自らを生かすことができません。命は常に与えられるものです。与えられなければ、命はありません。エゼキエルの枯れた骨も、自ら立ち上がることができたのではなく、ルーアハが吹き込まれるとき、立ち上がりました。五旬祭の時、使徒たちも、自ら変わったのではなく、聖霊の火が降ったとき、変えられました。そして、ラザロも、「出て来なさい」と呼ばれたとき、出てきました。命の動きはいつも同じです。神が先に動かれ(神が主導し)、人間がそれに応えます。 「ほどいてやって、行かせなさい」。死の束縛から解かれ、神の新しい秩序の中へと送り出されます。これが洗礼の出来事の原型です。
ここに決定的な分岐があります。 奇跡を目の当たりにした人々の中、信じた者と、イエスを殺そうと決意した者がいました。アウグスティヌスは「自らが病んでいることを認めない病人は、医者を必要としないと強弁することで、自らを救いから切り離してしまうのである」と述べています(『ヨハネ福音書講話』44・15参照)。命の火を受け取った者と、その火が自分の正しさを焼くことを恐れて拒んだ者の違いです。
あなたは今、どの場所にいますか。呼ばれることを待っていますか。それとも、まだ墓の中で閉じていますか。
第五の気づき キリストの火によってのみ、人は生きる
ラザロが呼ばれた出来事は、過去に起きた奇跡ではありません。五旬祭に火が降った出来事も、過去の一度限りの出来事ではありません。エゼキエルの枯れた骨に吹き込まれたルーアハも、歴史の記録の中に閉じ込められてはいません。典礼において、これらの出来事は現在化されます。
「典礼は過去の出来事の思い出ではなく、現在においてキリストの神秘に参与することである」と伝えられています(『典礼の精神』参照)。「思い出す」のではありません。「その中に入る」のです。ラザロが墓から呼び出された出来事は、洗礼の夜にあなたの上で起きます。五旬祭に炎の舌が降り注いだ出来事は、堅信においてあなたの上で起きます。典礼において、時間は直線ではありません。キリストの死と復活という出来事は、歴史の一点に刻まれながら、すべての時代に開かれています。洗礼の水盤の前に立つあなたは、2026年の日本にいながら、同時に初代教会の受洗者と同じ出来事の中に入ります。あなたが洗礼の水に入るとき、あなたはラザロとともに墓から出てきます。あなたに聖霊の火が灯されるとき、あなたはあの朝の弟子たちとともに炎の舌を受けます。あなたはその出来事を読むのではありません。その出来事になるのです。
イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と述べています(ヨハネ14・6参照)。
これまでのすべての歩みは、この一点に収束します。
火とは何か。それはキリストご自身です。 キリストの命であり、聖霊です。荒れ野で問われた声の識別も、変容の山で命じられた「これに聞け」も、サマリアの女の渇きも、盲人の信仰告白も、ラザロを呼んだ声も、すべてはこの一点へと向かっていました。キリストご自身が道であり、命そのものであるという宣言です。道は方向を示すだけではありません。道そのものが目的地です。私たちは、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちへと歩まされることによって、御父のもとへと辿り着けることができるのです。
今日この後、ミサの中で一枚の小さな白い小麦の円板が捧げられます。アンチオケのイグナチオは聖体を「不死の妙薬(ファルマコン・アタナシアス)」と呼びました(『エフェソの信徒への手紙』20・2参照)。 これは象徴ではありません。実際に人を死から命へと移す力です。 教会は、ミサにおいてキリストが真に現存し、ご自身のいのちを与えてくださると伝えています(教皇ヨハネ・パウロ2世『教会に命を与える聖体』1項参照)。
洗礼の夜、その火があなたの内に灯されます。水の中で古い自分が葬られ、キリストとともに立ち上がらされます。堅信において、五旬祭の朝に弟子たちの上に炎の舌が降り注いだように、その同じ聖霊の火があなたの上に置かれます。炎は荒々しく来て、弁護者として留まります。あなたを変え、あなたと共にいます。あなたを焼き、あなたのそばを離れません。五旬祭の弟子たちがそうであったように、その火を受けたとき、あなたは別の存在になります。自分の力で立っていた者が、キリストの命によって立つ者になります。
この火は消えることがありません。弁護者は「永遠にあなたがたと共にいる」方です。荒れ野でイエスを試みたのと同じ声は、受洗後も響いています。しかし、古い自分への引力も続きます。しかし弁護者はその傍らにいて、内から光を与え続けます。外から「どの声に従うか」を問うのではなく、内から「聞こえる者」へと変えてくださいます。これがキリストの命が人の内に灯されるということです。聖霊は、炎のように来て、友のように留まります。
あなたは今、その前に立っています。
灰から始まった旅が、今日ここに至りました。灰とは燃え尽きた後の姿です。そこにはすでに火の痕跡が刻まれています。その灰の中に、キリストの火の種が置かれています。キリストの火が燃えていなければ、人は死んでいます。しかし、キリストの火が燃え始めるとき、人は初めて生きる者となります。灰の水曜日に「あなたは塵だ」と告げられたとき、私たちはまだその意味を知りませんでした。しかし今、見えてきます。塵から造られた者が、神の息によって生きる者とされた。そしてその息が消え、再び塵のように生きていた。しかしキリストが来て、その息を取り戻す道を開いた。あと13日で、あなたはその道に入ります。
灰の水曜日に告げられた「あなたは塵であり、塵に帰る」という言葉の答えが、今日ここに置かれています。「ラザロ、出て来なさい」という声が、あなたの名前を呼んでいます。あと13日で、あなたはその声に応えます。
ここで言葉は尽きます。
説明はすべて終わりました。灰の水曜日から今日まで、四旬節の旅は一つのことに向かっていました。それは言葉ではなく、応答です。典礼の直前に置かれる沈黙のように、あなたの内にも今、沈黙が訪れています。その沈黙の中で、あなたは呼ばれています。残されているのは、ただ一つのことです。その声に応えるかどうか。それだけです。
祈り
命であるキリストよ。
あなただけが道であり、真理であり、命です。あなたを通らなければ、父のもとに行くことができません。
あなたの火を与えてください。焼かれることを恐れず、あなたの命によって生きる者としてください。
「ラザロ、出て来なさい」という声が、今日、私の名前を呼んでいます。
アーメン。
