見出し画像

2026年 四旬節第5主日(A年)

簡単な解説

第1朗読 エゼキエル書 37章12〜14節

エゼキエルは紀元前597年の第一回バビロン捕囚において、エホヤキン王とともにバビロニアへ強制移送されたザドク系の祭司であり、ケバル河畔のテルアビブの難民共同体の中で預言者としての召命を受けました。紀元前586年にエルサレム神殿が崩壊し、民は「我々の骨は枯れた。我々の望みは消えうせ、我々は滅びる」(エゼキエル37・11)という絶望のことばを口にしていました。ここで語られる「墓(ケヴェル קֶבֶר)」は文字通りの埋葬の地である以上に、捕囚という存在ごとの死を指しており、今日の箇所(12〜14節)はその絶望に対する神の応答として置かれています。

この箇所の鍵語は、ヘブライ語の「ルーアハ(רוּחַ)」です。このことばは霊・息・風の三つの意味を重ねて持ちます。創世記1章2節で「神の霊(ルーアハ・エロヒーム רוּחַ אֱלֹהִים)が水の面を覆っていた」と語られるように、天地創造を動かす神の力そのものを指しており、また創世記2章7節で神が人間の鼻に「命の息(ニシュマット・ハイイーム נִשְׁמַת חַיִּים)」を吹き込んだ場面とも呼応しています。主が「わたしの霊をあなたたちの中に吹き込む。あなたたちは生きる」(37・14)と宣言するとき、これはいわば捕囚の民に対する第二の創造の宣告にほかなりません。

注目すべきは、この同じルーアハが「主の霊がわたしを連れ出し」(37・1)とエゼキエル自身にも注がれていることです。預言者が霊によって谷へ運ばれ立たされ、その霊によって語った言葉がさらに民の上に霊を送るという二重の動きが、この箇所の構造を成しています。「わたしが神であることを知るようになる」(37・13)という表現はエゼキエル書に繰り返し現れる定型句であり、神の歴史への介入によって人々が神の主権を知るようになるという宣言です。ルーアハは人間の努力による回復ではなく、神が一方的に歴史の外から吹き込む先行する力として語られており、アウレリウス・アウグスティヌスが「平和とは、あらゆるものが神の法に従って配置された秩序の静穏である」と述べているように(『神の国』第19巻13章参照)、民の回復もまた人間が主導する再建ではなく、神が秩序へと民を配置し直すことから始まります。

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8〜11節

ローマの信徒への手紙は、パウロがコリントに滞在した55〜57年頃に書かれたと考えられており、ローマの共同体はユダヤ人とギリシア系住民が混在する複合的な信者集団でした。8章はパウロ神学の頂点と呼ばれる章であり、7章での律法との格闘から一転して、御霊による生の全体像が展開されます。

この箇所の言語的核心は「サルクス(σάρξ 肉)」と「プネウマ(πνεῦμα 霊)」の対比にあります。パウロにおけるサルクスは単に身体のことではなく、神から疎遠になった人間の性質全体を指します。「カタ・サルカ(κατὰ σάρκα)すなわち肉の基準に従って」という語句は、肉体的感覚の問題というより、神に向かわない存在様式そのものを意味します。対するプネウマは、ほとんどの場合、定冠詞をともなった「ト・プネウマ(τὸ πνεῦμα)」という形で神から与えられる霊、すなわち神の霊を指しています。「神の御霊があなたたちの内に宿っているなら、あなたたちは肉の中ではなく霊の中にいる」(8・9)と語られるとき、「宿る(オイケイン οἰκεῖν)」とは居住・居着くことを意味し、御霊が信者の内部に定住するという存在論的な変容を指しています。

さらに11節において「あなたたちの死ぬべき体(ト・スネトン・ソーマ τὸ θνητὸν σῶμα)をも生かしてくださる」と語られます。パウロは魂だけを救済するのではなく、死に定められた「体」そのものが御霊によって生かされると言っており、これはギリシア的な霊肉二元論——霊は善、肉体は悪という思想——を根本的に退けるものです。「死者を復活させた方の霊」(8・11)という表現において、過去に起きたキリストの復活という出来事が、今ここで信者の内に宿る霊の根拠として語られており、パウロの論理は歴史的・客観的な事実から出発しています。トマス・アクィナスは「秘跡は、神の道具として、その執行自体によって事効的に恩寵を与える」と述べていますが(『神学大全』第3部62問1項参照)、御霊の内住というパウロの宣言もまた、人間の熱意や準備を先行条件とせず、神の側から働く客観的な力として次の福音朗読へと直接連なる地平を開いています。

福音朗読 ヨハネによる福音書 11章1〜45節

ヨハネによる福音書は1世紀末のエフェソ周辺で書かれたと考えられており、「いのち(ゾーエー ζωή)」をテーマとして福音書全体を貫いています(20・31参照)。A年四旬節第3〜第5主日に読まれるヨハネ4章・9章・11章は、古代教会において洗礼志願者を入信の秘跡へと導く伝統的な箇所であり、第3主日の「水」、第4主日の「光」に続き、今日の第5主日は「いのち」をシンボルとしてラザロの復活がその頂点に置かれています。

ヨハネが用いる「ゾーエー(ζωή)」は、時間的に有限な生存を指す「ビオス(βίος)」とは明確に区別されます。ゾーエーは神の前に置かれたいのち、神によって支えられるいのちを表しており、ラザロが「眠っている(ケコイメータイ κεκοίμηται)」(11・11)とイエスが語るとき、「眠り」のことばには死が最終的な無ではないという神学的含意があります。

3節と36節で「愛する」と訳されることばは「フィレオー(φιλέω)」であり、友としての人間的な親愛の情を表します。一方、5節の「愛する」は「アガパオー(ἀγαπάω)」であり、そのものを無条件に大切にする神の愛を指します。ヨハネはイエスのラザロへの愛が、人間的な愛着とは次元の異なる愛であることを、この動詞の使い分けによって意図的に示しています。

25節における「エゴー・エイミ・ヘー・アナスタシス・カイ・ヘー・ゾーエー(ἐγώ εἰμι ἡ ἀνάστασις καὶ ἡ ζωή わたしは復活であり、命である)」という宣言は、ヨハネ福音書に繰り返し現れる「エゴー・エイミ(ἐγώ εἰμι わたしはある)」定式の一つです。ギリシア語では「エイミ(εἰμι)」だけでも「私が〜である」を表せますが、「エゴー(ἐγώ)」を付すことで「私こそは」という強調が生まれており、出エジプト記3章14節で神が自らを「わたしはある(エヘイェー・アシェル・エヘイェー אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)」と啓示した言葉を背景に持ちます。イエスは復活という出来事の仲介者や予告者ではなく、「アナスタシス(ἀνάστασις)」そのものが彼の人格において実在していることを宣言しています。「アナスタシス」は「立ち上がる・起き上がる(アニスタナイ ἀνίστημι)」に由来し、墓の暗闇から立ち上がるという動的な意味を内包しています。

33節で「イエスは心に憤りを覚え(エネブリメーサト・トー・プネウマティ ἐνεβριμήσατο τῷ πνεύματι)、興奮して」と記されるとき、「エンブリマオマイ(ἐμβριμάομαι)」は激しい感情の動きを表し、原文は「霊において憤りを覚えた」です。死という敵そのものに対してイエスが霊的な憤りをもって立ち向かう姿がここに描かれており、35節の「イエスは涙をされた(エダクリュセン・ホ・イエースース ἐδάκρυσεν ὁ Ἰησοῦς)」はヨハネ福音書中の最短の文として、友人の死を悼む神の子の人間的な涙の深みを二語の凝縮に刻んでいます。ヨハネ福音書が描く「神的な力を持ったイエス」と「人間的な感情を持ったイエス」という二つの面は切り離せず、このコンパッション(共感・共苦)の深みの中にこそ「死を超えるいのち」が輝いています。

41節で天を仰いで「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」と祈る場面の「感謝します(エウカリストー εὐχαριστῶ)」は、エウカリスチア(εὐχαριστία)と同根のことばです。御子が父との深い一致の中で行為するこの祈りの姿は、祭壇における感謝の祈りの原型的なかたちをすでに示しています。ヨーゼフ・ラッツィンガーは「ヨハネが語る『いのち』とは、御言葉が肉となり、エウカリスチアにおいて私たちが参与する神自身の愛のダイナミズムです」と述べていますが、「ラザロ、出て来なさい(ラーザレ・デウロ・エクソ Λάζαρε, δεῦρο ἔξω)」(11・43)という具体的な名前を呼ぶ命令は、そのゾーエーが抽象的な救済論の命題ではなく、歴史の中に根を下ろした客観的な現実として告げられることを示しています。「ほどいてやって、行かせなさい」(11・44)という最後のことばは、死の束縛から解かれ神の新しい秩序の中へと送り出されるという、典礼における派遣の原型的なかたちを帯びています。

カテキズム

ペリコーぺ

わたしを信じる者は、死んでも生きる

友の死を神の栄光に捧げたイエスと、絶望から立ち上がらされたラザロ

灰から火へ 死の現実の中に灯される命

四旬節の歩みは、灰の水曜日において始まりました。「あなたは塵であり、塵に帰る」ということばは、人間存在の逃れることのできない現実を突きつけます。私たちは死すべき存在であり、自らの力では命を保持することができません。

しかしこの「灰」は終点ではありません。むしろ、それは火の前提です。灰とは燃え尽きた後の姿であり、そこにはすでに火の痕跡が刻まれています。四旬節とは、この灰の現実から出発し、再び火へと至る歩みなのです。

第1主日において、荒れ野で誘惑を受けられたイエスは、人間に決定的な問いを突きつけられました。「どの声に従うのか」という問いです(マタイ4章参照)。ここで問われているのは倫理ではありません。識別です。人は常に声の中に置かれています。神の声、自己の声、恐れの声、欲望の声。その中でどの声に従うのかによって、人の存在の向きそのものが決まります。罪とは単なる行為ではなく、神に向けて創られた存在が、その秩序から逸脱することです。トマス・アクィナスは「罪とは秩序(Ordo オルド)からの逸脱である」と述べており(『神学大全』第1部第2編71問参照)、人間は本来、神に向けて存在するように創られているにもかかわらず、その秩序を失うとき、命そのものが歪められるとしています。

第2主日において、この問いに対して神ご自身が答えを与えられます。変容の山において「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました(マタイ17・5参照)。識別は、ここで初めて具体的な方向を持ちます。どの声に従うのかという問いは、「この方に聞け」という命令へと変えられます。人間は自ら善を選び取ることによって生きるのではありません。御子の声に耳を傾け、そのことばに自らを委ねることによって生きるのです。聞くことなしに従うことはできません。そして従うことなしに、命に至ることもありません。

第3主日において、「何に渇いているのか」という問いが突きつけられます(ヨハネ4章参照)。この渇きは単なる欲求ではありません。それは、古い自分が崩れ始めているしるしです。人は本当に渇くとき、自分ではもはや生きることができないことを知ります。サマリアの女が求めていたのは水ではなく、自分を支える何かでした。しかしイエスはそれを満たすのではなく、むしろ崩されます。なぜなら、真の命を受けるためには、まず自分が拠り所としてきたものが偽りであったことを知り、それを手放さなければならないからです。この意味で渇きとは恵みであると同時に死です。古い自分が終わるときにのみ、神の命は流れ込みます。

第4主日において問われているのは、「何が見えるか」です(ヨハネ9章参照)。しかしそれは単なる認識の問題ではありません。「あなたは本当に見たいのか」という問いです。光は慰めではありません。光は暴き出します。したがって人は必ずしも光を望みません。なぜなら光の中で明らかになるのは、神ではなく、まず自分自身だからです。盲人は見えるようになり、イエスを見ました。しかし見えていたはずの人々は、見えなくなりました。決定的な分岐がそこに刻まれています。信仰の眼を持つ者は、荒れ野の中におられるイエスを見ます。しかし信仰を持たない者は、神の姿をした自分自身と、そこに約束される安全や富を見ます。この主日は癒しではありません。審判です。光は人を生かすか、あるいはその盲目を明らかにするか、そのどちらかです。

このように四旬節は、識別から始まり、従順へと導かれ、渇きによって古い自分が崩され、光によってその現実が暴かれる歩みです。後戻りはもはやありません。そしてこのすべての過程は、ある一点に向かっています。それは、新しい命を受けることです。

しかしこの命は、単に与えられるものではありません。それは火として与えられます。神の命とは、私たちを保つものではなく、私たちを変えるものです。それは聖霊の火です。創造の初めに人に吹き込まれた息は、単なる生命ではなく、神ご自身のいのちでした。そしてその息は、今もなお、死の中にある者を生かす力として働いています。聖霊は、私たちを安全なままに保つために来られるのではありません。むしろ、私たちがしがみついているものを焼き尽くすために来られます。だからこそこの火は恐れを伴います。しかし焼き尽くされることなしに、新しい命に入ることはできません。

ラザロの死 神の栄光のために友を死に渡されたイエス

ラザロの出来事において、私たちは衝撃的な事実に直面します。それは、イエスが友の死を「防がなかった」という事実です。

イエスはラザロの病を知らされながら、すぐに行かれませんでした。むしろ、二日間その場にとどまられました(ヨハネ11・6参照)。これは怠慢でも無関心でもありません。意図的な遅れです。イエスは言われます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(ヨハネ11・4)。

イエスのこの遅れは、単なる理解の困難さを超えて、私たちにとって「つまずき」です。なぜならそれは、私たちが「善」と呼んできたものを根底から揺るがすからです。もし私たちがその場にいたなら、おそらくこう言ったでしょう。「なぜ今すぐ行かないのか。それが愛ではないのか」と。しかしイエスは、その問いに直接答えられません。なぜならその問い自体が、すでに人間の尺度の中に閉じているからです。

神の栄光とは、人間の苦しみを回避することではなく、死そのものを貫いて命を現すことです。断絶はそこに刻まれています。人間は「苦しみを避ける善」を選びます。神は「死を通して命を与える善」を行われます。この違いを受け入れないかぎり、十字架は理解できません。そして実際に、多くの人がここでつまずき、離れていきます。

人間の倫理においては「苦しむ友をすぐに助けること」が善とされます。しかしイエスは、その善を超えて「神の栄光」を選ばれました。つまり、より深い善、すなわち存在そのものを救う善を選ばれたのです。教会は、キリストのしるしは単なる苦しみの除去ではなく、罪という根源的束縛からの解放を示すものであると伝えています。したがってラザロの死は失敗ではなく、救いの現れの場です。

この視点は、聖母マリアの姿において完成します。マリアは十字架の下で御子を救うことを選ばず、御父の御旨にすべてを委ねました(ヨハネ19・25参照)。そこに真の従順があります。人間はしばしば、自らの判断によって善悪を決定しようとします。しかし神の秩序に従うとは、自らの判断を超えて神の働きに身を委ねることです。神の栄光を優先することこそが、最も深い意味での善であり、それは、より深い善——存在そのものを救う善——を選ばれたということにほかなりません。

火としての命 霊に生きるか、肉に生きるか

ラザロの出来事は、「命とは何か」という問いを決定的に明らかにします。イエスは言われます。「わたしは復活であり、命である」(ヨハネ11・25)。

教会は、復活はキリストご自身の人格に結びついていると伝えています。すなわち命とは抽象的な概念ではなく、キリストという人格そのものです。第2朗読の主題がここで結びつきます。「肉によって生きる者は神に喜ばれることができない」(ローマ8・8参照)というパウロのことばは、サルクス(σάρξ 肉)に従って生きることとプネウマ(πνεῦμα 霊)に従って生きることの根本的な対立を描いています。

肉に生きるとは、自己保存に閉じることです。霊に生きるとは、神の息——すなわち火に身を委ねることです。火は自己を保持することを許しません。それは燃やし尽くし、変容させます。したがって霊に生きるとは「自分を守ることをやめること」であり、それは死のように見えますが、その死の只中にこそ命があります。

火は、単に温めるものではありません。それは、保持することを許さない力です。火に触れたものは、そのままでいることができません。形を変えられ、本質にまで達して変容させられます。したがって、神の命が火であるということは、私たちがそのままの自分で生き続けることができないということを意味します。自分の正しさ、自分の安全、自分の理解、自分の信仰さえも、その火の前では焼き尽くされなければなりません。人は命を求めながら、その命が自分を壊すことを知っています。そこに恐れが生まれます。しかし、焼き尽くされることなしに、神の命に参与することはできません。なぜなら神の命とは、単なる延長ではなく、全く新しい存在への移行だからです。この意味で、霊に生きるとは「よりよく生きること」ではありません。それは「別の仕方で生きること」、すなわち一度死ぬことです。

この火は、単なる比喩ではありません。それは聖霊ご自身の働きです。教会は、聖霊を「火」として語ってきました。五旬祭において、弟子たちの上に現れたのは「炎のような舌」(使徒2・3参照)でした。それは彼らを慰めるためではなく、彼らを変えるために与えられたのです。聖霊は、私たちを守るために来られるのではありません。むしろ、私たちがしがみついているものを手放させるために来られます。だからこそ、聖霊はしばしば「危険な存在」として経験されます。なぜなら、聖霊が来られるとき、私たちの計画は崩れ、私たちの正しさは揺らぎ、私たちの生き方そのものが問われるからです。しかしその破壊こそが、創造です。聖霊の火は、焼き尽くすと同時に、新しく生み出します。神の命の決定的な特徴がそこにあります。それは保存ではなく、創造であるということです。

教会は、キリストの霊が私たちのうちに宿るならば、その霊が私たちの死ぬべきからだをも生かすと伝えています(ローマ8・11参照)。死の中に命があり、喪失の中に充満があるのです。この逆説は決定的です。ヨーゼフ・ラッツィンガーは「ヨハネが語る『いのち』とは、御言葉が肉となり、エウカリスチアにおいて私たちが参与する神自身の愛のダイナミズムです」と述べていますが、ラザロの出来事においても同じ逆説——死を貫く神のいのちのダイナミズム——が現れています。

問われているのは、単に神学的な命題を理解することではありません。「霊に生きる」とは、自分の安全や正しさにしがみつくことをやめ、すべてをイエスに明け渡すという実存的な決断です。それは、ラザロが墓の中で呼ばれたときのように、自分では何もできない状態で、ただイエスの声に応答することです。


「出て来なさい」 絶望から立ち上がらされる存在

イエスは叫ばれます。「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・43)。

ラザロは「起き上がった」のではありません。「起き上がらされた」のです。この受動性こそ、命の本質です。人間は自分で自分を生かすことはできません。命は常に与えられるものです。エゼキエルの幻において、枯れた骨は自ら立ち上がることができませんでした。しかし神の息(ルーアハ רוּחַ)が吹き込まれるとき、彼らは立ち上がりました(エゼキエル37・10参照)。

教会は、キリストの復活もまた御父によってなされた出来事であると伝えています。すなわち「復活した」のではなく「復活させられた」のです。この真理は私たちに深い慰めを与えます。なぜなら、絶望の中で立ち上がる力がなくても、神が私たちを立ち上がらせてくださるからです。絶望の中にある者にとって、これは決定的な福音です。神にできないことはありません。

この「呼ばれ、立ち上がらされる」という構造は、典礼の構造とまったく同じです。ミサにおいて私たちは自らの力によって神の前に立つのではなく、神の招きによって召し集められ、御言葉に照らされ、聖体によってキリストの命に参与させていただきます。「ほどいてやって、行かせなさい」(ヨハネ11・44)というイエスのことばは、死の束縛から解かれ、新しい秩序の中へと送り出されるという、典礼における派遣の原型的なかたちをすでに帯びています。

この出来事は、洗礼の現実そのものでもあります。洗礼とは、単に罪が赦される儀式ではありません。それは、死んでいる者が呼び出される出来事です。パウロが語るように、私たちは洗礼によってキリストとともに葬られ、そして新しい命に生きる者とされました(ローマ6・4参照)。つまり、私たちはすでに一度、墓の中にいたのです。そしてその墓から呼び出されたのです。それにもかかわらず、私たちは再び墓の中に戻ろうとします。自分を守るために、閉じこもるために、傷つかないために。しかしそこは命の場所ではありません。キリストの声は一度きりではありません。今日も、繰り返し響いています。「出て来なさい」と。洗礼は過去の出来事ではなく、今も続いている現実なのです。

四旬節の最終章における問いの核心がそこにあります。私たちは今、絶望の中で膝をついたままでいないでしょうか。自分の力で立ち上がろうとして疲れ果てていないでしょうか。ラザロへの呼びかけ「出て来なさい」は、今ここで私たちに向けられています。墓とは何も、地下の埋葬の地だけではありません。自己保存のために閉じこもった心の場所、絶望の中で動けなくなった魂の場所、それもまた「墓」です。イエスはその墓の前に立ち、今日もあなたの名前を呼ばれています。

拒絶される命 善の名による殺害

ラザロの奇跡の後、指導者たちはイエスを殺そうと決意します(ヨハネ11・53参照)。命を与える出来事が、死を招いたのです。

さらに厳しい現実を見なければなりません。イエスを殺そうとしたのは、無関心な人々ではありませんでした。むしろ、神を真剣に求め、律法を守り、正しく生きようとしていた人々でした。つまり、「正しい人々」が神を殺したのです。これは偶然ではありません。神の火は、罪人よりもまず「自分は正しいと思っている者」を焼くからです。

したがって教会が、秩序を守り、正しさを維持し、安全であろうとするとき、最も危険な状態に入ります。なぜならそのとき教会は、もはやラザロを呼び出す場所ではなく、「墓を管理する場所」になってしまうからです。外に出て傷つくことを恐れ、内側の整合性だけを守るとき、教会は知らず知らずのうちに、キリストの命ではなく、自分たちの秩序を守り始めます。そのとき、キリストは再び排除されます。しかも今回は、「善」の名によって。

彼らは「民のため」という善を理由に、イエスを排除しようとしました。しかしその善は、神の働きに対する拒絶でした。教会は、復活信仰がしばしば反対と無理解に遭うと伝えています。命の光は、自己中心的な秩序を暴き出すからです。イエスが罪びとを集め、徴税人や娼婦と食卓を囲まれたのは、その場所にこそラザロを呼び出したのと同じ火が燃えているからです。この火は慰めではありません。私たちの内にある偽りの善、自己正当化、裁きの心を焼き尽くします。そして何も持たない者として、ただ神の命を受ける者へと私たちを変えます。アウレリウス・アウグスティヌスは「神を愛さずに隣人を真に愛することは不可能であり、神なき一致は空虚である」と述べており(『説教集』241番参照)、人間的な善意だけで結ばれた共同体が、真の命の源であるキリストを排除してしまうという逆説を、ラザロの出来事は鮮明に映し出しています。

問題は、「彼ら」ではありません。「私たち」です。私たちはしばしば、福音を守っているつもりで、福音から逃げています。正しい教えを語りながら、その教えが要求する変化からは身を引こうとします。もし教会が、痛みを避け、対立を避け、変化を避ける場所になるならば、そのとき教会はもはや火を失っています。それは安全かもしれません。しかしそこには命がありません。キリストのいるところには、必ず分裂が起こります。なぜなら、火はすべてを同じ状態に保つことを許さないからです。したがって、何も揺さぶられない共同体があるとすれば、それはすでに火が消えているしるしです。


感謝として現存する火 エウカリスチアにおけるラザロの出来事の完成

ラザロの出来事は、単なる奇跡の物語では終わりません。それは、典礼において現在化される現実へと開かれています。

イエスはラザロを呼び出す前に、まず祈られました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」(ヨハネ11・41)。重要なのは、出来事が起こる前に「感謝(エウカリストー εὐχαριστῶ)」がなされているという点です。教会は、この祈りが御父の計画に対するイエスの完全な一致であり、常に御父が御子の祈りを聞き入れておられることの表れであると伝えています。この「感謝」ということばは、エウカリスチア(εὐχαριστία)と同根です。すなわちラザロの出来事においてすでに、十字架と復活の秘儀が先取りされているのです。死のただ中において感謝が捧げられ、その感謝の中で命が現れる——これはまさにミサの構造です。

パンとぶどう酒が捧げられるとき、それはまだ「変わっていない」ように見えます。しかし感謝の祈りが捧げられるとき、キリストご自身が現存されます。それは象徴的な現存ではなく、御体と御血における真実の現存であり、私たちはその現実にあずかるのです。教会は、エウカリスチアにおいてキリストは真に現存し、私たちにご自身を与えてくださると伝えています。アンチオケのイグナチオ(35年頃〜107年頃)は、聖体を「不死の妙薬(ファルマコン・アタナシアス φάρμακον ἀθανασίας)」と呼びました(『エフェソの信徒への手紙』20・2参照)。この「妙薬」は単なる象徴ではなく、実際に私たちを死から命へと移す力です。ラザロが「呼ばれ、立ち上がらされた」その出来事は、エウカリスチアにおいて今も起こっています。私たちは死の中にあります。しかし感謝のうちにキリストが現存されるとき、その死のただ中から命が呼び出されます。そしてその命は、私たちのうちで燃え続ける火となります。エウカリスチアとは、ラザロの出来事の完成です。この現実に身を置くとき、私たちはもはや自分で生きるのではなく、与えられる命によって生かされる者となります。ヨハネ・パウロ2世は「教会は、聖体によって生きていると伝えています」と述べていますが(『教会に命を与える聖体』1項参照)、この「生きている」とは静的な存在の維持ではなく、復活の火によって絶えず燃え続けるいのちへの参与です。


燃え続ける火として生きる あなたは、今ここで信じるか

四旬節の旅は、頂点に達します。灰から始まり、水と光を経て、今や火に至りました。この火は消えることのない命であり、神の息であり、聖霊の働きであり、キリストご自身のいのちです。

ラザロが立ち上がらされたとき、人々は信じたのではなく、イエスを殺そうと決意した者たちがいました(ヨハネ11・53参照)。なぜでしょうか。この出来事があまりにも明白に、彼らの「正しさ」を揺るがしたからです。自分たちが守ってきた秩序、自分たちが善だと信じてきた判断、そのすべてが崩される。そのとき人は、真理に従うのではなく、真理を排除するという選択をしてしまうのです。これは遠い昔の話ではありません。私たちの教会もまた、同じ誘惑の中にあります。

ラザロは自分で墓から出てきたのではありません。彼は呼ばれ、引き出され、立たされたのです。私たちも同じです。絶望の中で膝をついたままの私たちを、神は呼び、立ち上がらせてくださいます。命はそこにあります。火もそこにあります。肉に従って生きるとは、自分で善悪を決め、自分の安全を守り、自分の正しさにとどまることです。しかし霊に従って生きるとは、そのすべてを明け渡し、神によって生かされることを受け入れることです。この逆説は人間の理解では矛盾しています。死の中に命があり、絶望の中に希望がある。しかし神にできないことはありません。

エウカリスチアにおいて今日もイエスは私たちの名前を呼ばれます。感謝の中に入り、現存するキリストの火に触れ、死のただ中から命へと呼び出される者として、この場に招かれています。このしるしは、死者を生き返らせる奇跡そのものではありません。キリストの十字架と復活を指し示し、私たち一人ひとりに決断を迫る出来事です。洗礼志願者だけでなく、すでに洗礼を受けた私たち一人ひとりに、今日この問いが向けられています。それは、キリストとともに十字架の上で死に、自分のすべてを手放し、神によって立ち上がらされることを受け入れるかという問いです。

この問いは、理解するためのものではありません。答えるためのものです。そしてその答えは、言葉ではなく、生き方によって示されます。この問いから逃げることはできません。中立もまた、拒否だからです。
イエスは、私たち一人ひとりの名を呼びながら問われています。
「あなたは、今ここで信じるか。」


いいなと思ったら応援しよう!