【娘への手紙】自分への適合
〜プロローグ〜
自分がどうして笑っているのか分からなかった。
会社のトイレ。
鏡にうつる私。
五十二歳。
口角が少し上がっている。目は、笑っていない。
いつからこの顔になったのか、わからない。
今日も、会議があった。部長が的外れなことを言った。
「おっしゃる通りですね。」アンは言った。
後輩が明らかに間違えた提案をした。
「いい視点だと思います。」アンは言った。
誰も傷つけなかった。波風も立てなかった。仕事は、滞りなく進んだ。
それが、アンの仕事だった。
三十年近く、そうしてきた。
「うまく立ち回る」ことを、アンはいつの間にか身につけていた。感情を殺す。本音を隠す。相手の速度に合わせる。
足音が聞こえない。
それを「大人になること」だと思っていた。
いや、思うことにしていた。
帰り道、アンは駅のホームで電車を待ちながら、ふと思った。
私は今日、自分の言葉を一度でも言っただろうか。
答えは、出なかった。
その夜、アンは実家に寄った。
母が亡くなってから、誰も住んでいない家だった。片付けのために、月に一度来ている。
父の書斎は、最後に残してあった。
本棚。古い机。引き出し。
引き出しの奥に、ノートがあった。
父の日記。
古びた文字。
アンはノートをそっと開いた。
父の日記からの学び
① 「大人になること」の正体
日記の中ほどに、こんな文があった。
私はもう、自分を消費しきることだけを働くとは呼ばない。無理をして笑うことを、適合とは呼ばない。誰かの速度に合わせて、自分の足音を消すことを、大人になることだとは思わない。
アンは、その文を読んで、手が止まった。
「誰かの速度に合わせて、自分の足音を消すことを、大人になることだとは思わない。」
もう一度、読んだ。
三十年間。
アンは、ずっとそれをやってきた。
上司の顔色を読んで、言葉を選んだ。後輩の感情を傷つけないよう、本音を飲み込んだ。会議では、場の空気を壊さないよう、自分の意見を薄めた。
それを「大人の対応」と呼んでいた。それを「社会人として成熟した」と思っていた。
でも父は、それを「大人になること」とは呼んでいない。
アンは、少し息が苦しくなった。
私の足音は、どこへ行ったのだろう。
いつから消したのだろう。
最初から消すつもりはなかった。ただ、少しずつ、遠慮して、合わせて、飲み込んで。
気がついたら、自分の足音が聞こえなくなっていた。
アンは、日記のページをめくった。
② 自分に戻る許可証
別のページに、こんな文があった。
あれは、私が壊れたことを知らせる言葉ではなかったのかもしれない。むしろ、ずっと置き去りにしてきた私自身のところへ戻るための、入場許可証のようなものだった。
「適合障害」という診断を受けたときのことを、父は書いていた。
アンは、その言葉を何度も読んだ。
「ずっと置き去りにしてきた私自身のところへ戻るための、入場許可証。」
アンは、今の自分に置き換えてみた。
私は壊れてはいない。でも、何かがずっとおかしい、とは感じていた。
会議のあとの、あの空虚感。「おっしゃる通りですね」と言ったあとの、あの微かな吐き気。鏡の中の、笑っていない目。
それは、壊れたサインではないのかもしれない。
ずっと置き去りにしてきた、本当の自分が、まだそこにいることのサインなのかもしれない。
アンは、窓の外を見た。
夜の住宅街。どの家にも、明かりがついていた。
父は、社会から切り離されたあの時間を「ゼロ地点」と呼んでいた。
私のゼロ地点は、どこだろう。
まだ、足音を消す前の自分は、どこにいるのだろう。
③ ゼロの存在を喜んでくれる人
日記の終わりのほうに、こんな文があった。
何もできない私が、何もしなくてもそこにいていいことを、娘は毎日、言葉なしで教えてくれた。
「娘」というのは、私のことだ。
アンは、その事実に、少し時間がかかった。
父が社会から切り離されていたとき。何者でもなかったとき。何もできなかったとき。
そこにいたのは、一歳の自分だった。
一歳の自分は、何もわかっていなかった。父が何に診断されたかも、仕事を失ったことも、社会の中でどんな位置にいるかも。
ただ、父の服を小さな手でつかんだ。
それだけで、父の「今日」が始まったと、日記には書いてあった。
アンは、目が熱くなった。
私は、何もしていなかった。ただ、そこにいただけだった。
それが、父にとってのすべてだった。
五十二歳のアンは、思った。
私はずっと、何かをしなければ、誰かの役に立たなければ、うまく立ち回らなければ、と思ってきた。
でも、一歳の私は、ただそこにいるだけで、父の今日をつくっていた。
役に立とうとしていたわけじゃない。うまく立ち回っていたわけじゃない。足音を消していたわけじゃない。
ただ、そこにいた。
それだけだった。
アンは、日記を閉じた。
書斎の中は、静かだった。
古い本棚の匂いがした。
アンは、ゆっくりと立ち上がった。
「自分の足音を、消さなくていい。」
声には出さなかった。でも、胸の中で、はっきりと言った。
三十年間、消してきた。これからも消し続けるかもしれない。すぐには変わらないかもしれない。
でも、今夜、アンは知った。
それは「大人になること」ではなかった。
父が、教えてくれた。
〜エピローグ〜
翌朝の会議で、部長がまた的外れなことを言った。
アンは、少しだけ間を置いた。
「少し違う見方もできるかもしれません。」
小さな声だった。うまい言い方ではなかった。場の空気が、一瞬だけ揺れた。
でもアンは、その揺れを、今日は飲み込まなかった。
大きな変化じゃない。誰かに気づかれたかどうかも、わからない。
でも、アンには聞こえた。
自分の足音が、少しだけ。
【あとがき】
愛し君へ
君が一歳のころ、私は何者でもなかった。仕事を失い、社会から切り離され、自分の扱い方もわからなくなっていた。それでも毎朝、君は小さな手で私の服をつかんだ。それだけで、私の今日が始まった。君は何もしていなかった。ただ、そこにいただけだった。それが、私にとってのすべてだった。だから、誰かの速度に合わせて、自分の足音を消すことを、大人になることだと思わないでほしい。無理をして笑うことを、適合と呼ばないでほしい。自分を消費しきることだけを、働くことだと思わないでほしい。君がただそこにいるだけで、誰かの今日が始まる。一歳の君が、それを私に教えてくれた。君の足音は君が歩んだ証だよ。
父より
