【日記】無職は無色~内へのパスポート~
ゼロ地点の公園。
適合障害、と医者は言った。
その言葉は、診察室の白い壁に一度ぶつかってから、ゆっくりと私の内に落ちてきた。
適合障害。
それは、外の世界と不適合になった印。
けれど今になって思う。
あれは、私が壊れたことを知らせる言葉ではなかったのかもしれない。
むしろ、ずっと置き去りにしてきた私自身のところへ戻るための、入場許可証のようなものだった。
その日から、世界の音が遠くなった。
会社へ行く人たちの靴音。
朝の電車のアナウンス。
コンビニの自動ドアが開く音。
誰かが電話で謝っている声。
そういうものが、全部、分厚いガラスの向こう側にあるみたいだった。
私はそのガラスのこちら側にいた。
働くことが当たり前だった。
朝起きて、顔を洗って、服を着て、社会の中に自分を差し出す。
一日を終える頃には、私の中の何かはすり減っていた。
それが普通だと思っていた。
みんなそうしている。
だから私もそうする。
それが大人になることだと思っていた。
けれど私は、ある日、止まった。
止まったというより、止められたのかもしれない。
身体が、心より先に白旗を上げた。
もうこれ以上は行けない、と。
突然、時間だけが残った。
朝も、昼も、夕方も、夜も。
どこにも行かなくていい時間。
誰にも会わなくていい時間。
何者にもならなくていい時間。
それは自由とは程遠くて、ほとんど絶望だった。
あまりにも広すぎる部屋に、ひとりで置かれたような気がした。
その時間の隣に、娘がいた。
娘は一歳だった。
まだうまく言葉を話せなかった。
私が何に診断されたのかも知らなかった。
社会から見て、私がどんな位置にいるのかも知らなかった。
私が不適合者だろうが、自閉症スペクトラムだろうが、娘には関係なかった。
娘にとって私は、ただの父だった。
朝、娘は小さな手で私の服をつかんだ。
それだけで、今日という日が少しだけ始まった。
私たちは近くの公園へ行った。
毎日、同じ道を歩いた。
同じ角を曲がり、同じ自動販売機の前を通り、同じベンチのそばを通った。
夏だった。
セミが鳴いていた。
いや、そのころの私には、泣いているように聞こえた。
娘は芝生の上を歩いた。
歩くというより、世界と戯れているみたいだった。
右足を出して、止まる。
左足を出して、少し笑う。
しゃがんで、草を触る。
何かを見つけたような顔をする。
私はその後ろ姿を見ていた。
何もできない私が、何もしなくてもそこにいていいことを、娘は毎日、言葉なしで教えてくれた。
私は父のもとへも行った。
長いあいだ、うまく話せなくなっていた父だった。
どんな顔をすればいいのかわからなかった。
何を話せばいいのかもわからなかった。
父は、私の話を聞いた。
そして泣いた。
「良かった、良かった。」
父はそう言った。
そのとき私は、何が良かったのかわからなかった。
私は仕事に行けなくなった。
社会から切り離された。
自分でも自分の扱い方がわからなくなっていた。
何が良かったのだろう。
今ならわかる。
父は、私がちゃんと生きていたことに泣いていたのだ。
もしかしたら父は、私がこの世界からいなくなってしまうことを、どこかで想像していたのかもしれない。
だから、私が父に会いに行ったこと。
私が自分の足でそこにいたこと。
私がまだ、この世界の側にいたこと。
それが、良かったのだ。
わたしのゼロの存在を喜んでくれる人を知った。
社会から離れて、私は無職の無色だった。
でも、公園に行くたび、ほんの少しずつ色が戻っていった。
芝生の緑。
娘の帽子の黄色。
夏の午後の白い光。
滑り台の赤。
ベンチの影。
夕方になると少しだけやわらかくなる風。
世界は、私が働けなくなっても終わらなかった。
むしろ、働いていたころには見えなかったものが、ひとつずつ見えるようになった。
蟻がまっすぐ歩いていないこと。
小さな石にも影があること。
娘が葉っぱを拾うとき、まるで宝物を選ぶみたいな顔をすること。
私はそれらを見ながら、自分の中に戻っていった。
外の世界に適合できなくなった私は、内なる自分に少しずつ適合していった。
三年が経った。
今、私は社会復帰している。
また朝に起きて、服を着て、社会の中へ出ていく。
誰かと話し、仕事をし、役割を持ち、日々を進めている。
けれど、以前の私とは少し違う。
私はもう、自分を消費しきることだけを働くとは呼ばない。
無理をして笑うことを、適合とは呼ばない。
誰かの速度に合わせて、自分の足音を消すことを、大人になることだとは思わない。
久しぶりに、あの公園を訪れた。
芝生は、あのころと同じようで、少し違っていた。
娘が一歳のころに歩いていた場所に立つ。
そこにはもう、小さな娘はいない。
でも、たしかにいる。
夏の熱気の中に。
セミの声の奥に。
芝生を踏む足の裏の感覚に。
あのころの娘が、まだ歩いている。
小さな手を広げて、世界と戯れながら、一歩ずつ。
私はそれを思い出すことができる。
あの世界を、今の私は、ありのまま思い出すことができる。
あれがゼロだった。
あれが、私のスタート地点だった。
適合障害。
それは、外の世界と不適合になった印である。
けれど同時に、内なる本当の自分に適合するための、入場許可証でもある。
社会から切り離された時間。
何者でもなくなった時間。
莫大な絶望を抱えた時間。
その時間の中で、
私は父に会った。
私は父になった。
娘と歩いた。
公園の芝生の上で、少しずつ自分に戻っていった。
適合障害。
それは、外と切り離された烙印。
適合障害。
それは、自分の内に戻るための許可証。
私はあの公園を、ゼロ地点と呼ぶ。
そこから私は、もう一度始まった。
