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ディズニー『ノートルダムの鐘』 中学生への回答2

思うに、オタク女子と呼んでも怒らないでくれるであろう元教え子は、知らない間に中学三年生になっていた。私立を第一志望にしていた彼女は、公立高校の試験を迎える前に一足早く受験生を終え、手持ちの様々なコンテンツを改めて見直して楽しんでいたそうである。殊勝なことに、せっかく受験生を終えたというのに、来たる高校生活に向けて勉強をしなくてはいけないと思っているようだったので、思う存分、好きな推し活をするようにアドバイスをした。
それはそうと、そんな元教え子がハマったというのが、ディズニーの名作『ノートルダムの鐘』である。ヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』を原作にした本作は、中学生がディズニーアニメにハマるというには、渋いチョイスだと思うが、ぜひ劇団四季のPVと合わせて見てほしいというので、期待に応えて見た。見たからには、感想を述べなくてはなるまい。
感想を述べるにあたって、一番注目したいのは判事フロローである。というのも、本作の極悪ヴィランでありながら、ネット上にはコアなファンがいるようで、何より、わたしに勧めてきた元教え子もこのフロローが面白く魅力的なキャラクターだったと言っている。普通に考えたら、一人のジプシーの女を自分の愛人にしたいという理由で、町を火の海にすることも辞さないこの男は、ろくでもないことこの上ないはずだが、その魅力はどこにあるのだろうか。この問いに答える形で話を進めていけたらと思う。

(以下、ネタバレあり)

1 愚かな群衆

物語の基本線は、ノートルダムの判事フロローによって、大聖堂の鐘撞き塔に閉じ込められて育ったカジモドが、その醜い見た目とは裏腹に、心優しい内面によって、民衆に認められるというハッピーエンドを迎えるまでを描く物語である。
原作は、まったくハッピーエンドではなく、YouTubeの岡田斗司夫ゼミの解説によると、『雨月物語』や『宇治拾遺物語』を彷彿とさせる怪奇譚らしいのだが、少なくともディズニーアニメ版は、そんな怪奇譚が、怪物のような見た目のカジモドが大衆に受け入れられるというイイ話に脚色されている。とはいえ、ディズニーアニメがイイ話になりきれていないところに、(読んだことないけど)原作の強度の高さを感じさせる。何より、フロローの横暴に対して、暴動を起こした民衆に手を貸したカジモドが、少女に抱擁され、民衆に認められるラストは、単純にハッピーエンドとは言い難いというところが、この物語を楽しむうえで肝になってくるように思われる。
『ノートルダムの鐘』に出てくる民衆というのは、最初に声を上げた人間に集団で流されていく典型的な愚かな群衆として出てくる。カジモドが初めて町のお祭りに降りてきて、「トプシー・ターヴィー」が流れる場面では、カジモドのその醜い顔がマスクでないことに息を呑み、「ノートルダムの鐘撞き男だ!」と誰かが叫ぶと、束の間、静寂に包まれる大衆が描かれる。この静寂を元のお祭り騒ぎに戻すことになるのは、クロパンの「今日はパリで一番醜い男を選ぶ日です」といった趣旨の一言だった。(ちなみに、手元に映像がないので、セリフの引用はテキトーであることをご容赦ください。)
クロパンの一言により、今の今まで醜い顔に引いていた群衆は、手のひら返しで今度はカジモドに王冠を被せ、王様だと担ぎ上げ始める。しかし、返された手のひらは、すぐにまた返される。カジモドが最後に連れて行かれたのは、見せしめ台のような高い台座の上であり、そこで兵隊が醜い男だと言ってトマトを投げつけると、今の今まで王様だとカジモドを担ぎ上げていた群衆は、途端に果物や野菜を投げつけはじめる。群衆は、声の大きな人に集団で追従していく、典型的な衆愚として描かれているのである。

2 善意の判事

フロローが悪役らしく見える一つの要素に、鐘撞き塔への監禁という、彼のカジモドに対する仕打ちがある。しかし、以上のような群衆のありさまを見る限り、フロローの判断も、あながち間違っていなかったような気がしてくるところがポイントだ。そもそも見た目がおぞましいせむし男であるカジモドを、鐘撞き塔の中に閉じ込めていたのは、その姿かたちゆえに、町の人々にカジモドが受け入れられるわけがないとフロローが考えていたからだった。この考えは、カジモドに直接に教え込まれ、自分は、町に降りることができる人間ではないという信念を植え付けていた。だから、カジモドは布で顔を隠し、塔の上から祭りへと降り立つことにためらいを覚えるのである。
しかし、民衆の現実は、上述のように、フロローの考えていた通りだった。そのため、フロローは、群衆にものを投げつけられる様子を見ながら、「やつは思い知らなくてはならない」といった発言をするのである。
ここで注意しておきたいのは、フロローが、カジモドの唯一の庇護者だったということである。たしかに、ジプシーであったカジモドの母を殺したのは、フロローであったし、見るからにかわいそうな目に遭っているカジモドを放置している様子も残酷である。しかし、自分が原因だったとはいえ、身寄りがなくなってしまったカジモドをここまで育ててきたのは、フロローであり、実際、彼は、食事をカジモドとともにし、きちんと教育を施してもいたところを見ると、根っからの悪人だとも言いがたい側面がある。
このフロローの善意の源は何かと言うと、キリスト教に対する信仰心となる。物語の冒頭、ノートルダム大聖堂の前で、カジモドの母であるジプシーの女を殺してしまったフロローは、女の抱いていた赤子の顔を見て、その醜さから井戸に捨て、殺してしまおうとする。しかし、そこに現れた大聖堂の司祭に、これ以上まだ罪を犯すのか、神はお前を見ているぞと諭され、ノートルダム大聖堂からの視線を感じる。こうして、フロローは、赤子に「出来損ない」という意味のカジモドという名前を与え、鐘撞き塔で育てることを決心するのである。
肝心なのは、赤子を殺すことは罪だと諭したはずのノートルダム大聖堂の司祭は、フロローのその育成方針については、何も諭していないことだ。感覚的には、赤子に「出来損ない」なんていう名前を付けることも、鐘撞き塔に幽閉して育てることも、かなり罪深そうな気がするが、これらのことは、物語の中で咎められることはない。
物語の中では、ノートルダム大聖堂が、聖域であることが、登場人物たちによって度々言及される。フロローが赤子を殺そうとした場面もそうであるし、エスメラルダがフィーバスと争った場面で、聖域を汚すのかと司祭が怒りを露わにしていることからも、大聖堂は罪を最も犯してはならない場所として神聖視されている。しかし、カジモドが、「出来損ない」と名付けられて幽閉されるのは、まさにその聖域の中である。つまり、「出来損ない」という名と、鐘撞き塔への幽閉は、神によって赦されているのだと言えるのだ。
醜い者に対して、見た目の通り「出来損ない」という名を与えることが赦されるのなら、醜い者を醜い者として汚物を投げつけることも赦されるのではないかという気さえしてくる。カジモドにトマトが投げつけられたのが、ノートルダム大聖堂の真正面だったことも象徴的だと思う。そこは、まさしくフロローが神の視線を感じた場所であり、神に見られているはずの場所である。そこで民衆たちは、カジモドに向かってものを投げつけたはずなのにもかかわらず、物語の中で、民衆が裁かれることはない。民衆の行動もまた、神に赦されているものとして描かれている。
フロローというのは、神を畏れる敬虔なキリスト教信者だった。その信仰の下で、赤子を殺すことを思いとどまり、名前と住む場所と、食事と教育を与えた。フロローが与えたものは、信仰に基づく限り善行だったのである。

3 フロローの罪

以上のように考えてくると、フロローが物語上で赦されていない罪というのは、何だったのだろうか、という疑問が湧いてくる。それは、エスメラルダへの恋である。
「トプシー・ターヴィー」の祭りで、踊るエスメラルダに寄り添われスカーフを渡されたフロローは見事に彼女の虜になる。そして物語の中盤、彼は、彼女に対する恋心を「地獄の炎」として歌いあげるのである。
この歌の中で重要なのは、正しく美しく生きてきたはずの自分が、エスメラルダを見るだけで心を乱され、彼女を求めて身を焼かれるような思いになることを、「地獄の炎」「罪の炎」に喩えていることである。キリスト教の教えについては明るくないが、どうやら、ジプシーの女の虜になることは、信仰上、赦されないことであるらしいのだ。だから、最初は「ああ、マリア様」と、マリア様に呼びかけ、救いを求めるのであるが、赦しを乞うたか思ったら、この恋は「悪いのは私なのか」と自問しはじめる。そして、すぐに自分をかどわかしたエスメラルダを自分よりも強い悪魔だとして責任転嫁をしはじめたかと思うと、マリア様が自分を助けてくださらないのであれば、エスメラルダを自分一人のものにしてほしいと願いだし、あげくは、自分をかどわかした彼女を地獄の炎が焼くぞと脅しだす始末である。
短い時間で、急速に変わっていく心情もツッコミどころ万歳だが、それ以前に、敬虔なキリスト教徒であるフロローにとっては、カジモドへの仕打ちよりも、ジプシーの女に恋したことの方が罪なのだ。その罪を認めたくなかったがために、女の方が悪いとし、地獄の炎がお前を焼くぞと高らかに歌いつつ、エスメラルダを自分一人のものにするために、本当にパリの町を火の海にしてしまうのである。
皮肉なことに、フロローの最期は、ノートルダムの鐘撞き塔のてっぺんから、火の海に落ちて死ぬことになる。結局、地獄の炎に焼かれたのは、彼の方だった。これは、映像的にも表現されており、フロローが死ぬとき、しがみついていたノートルダム大聖堂の彫刻が動いて見える。この演出は、冒頭の神の視線を感じるときと似た演出で、神の視線が彼に最期の引導を渡したと読めるだろう。
ちなみに、この女への責任転嫁へ向かう心性は、物語の冒頭からフロローが持っていた性質だった。導入歌「ノートルダムの鐘」の中で、逃げるジプシーの女を死なせてしまった彼は、司祭に「今度は子どもを殺して罪を犯すのか」と問いただされたときに、「罪など犯してはいない!」と返している。このように、フロローは、自分の罪を自分で分かっていながら、認められないキャラクターとして出てきている。彼が自分の犯している罪を罪として認められたのは、神の視線を感じられたからであり、その視線を諭した司祭がいてくれたからである。結局、「地獄の炎」のくだりで、自分の罪を自覚できなかったのは、教え諭してくれる人がいなかったからだと言える。

4 結論

こうして見てくると、フロローというキャラクターがいかに弱く、人間味のあるやつであるかということが分かってくるように思われる。信仰心の厚いがために、神への畏れからカジモドを育て、美しい女に心を奪われてしまった自分の罪を認められないがために、地獄の炎に自ら身を落としていくことになってしまう。実際、彼のやったことを肯定するのはいかがなものかと思う一方で、こうしたキャラ造形が、一部の視聴者にこのキャラクターに対する憎めなさを生んでいるのではないかと思われる。
また、フロローを単純な悪役として見れないことのもう一つ理由として、他のキャラクターが、手放しにいいキャラクターだと言えないことも上げられる。特に、エスメラルダ(美人)とフィーバス(イケメン)が、結局、最後には結ばれるという結末は、現実はそんなものだよなと思いつつも残酷な結末である。火の海になりつつあるパリの町を見下ろしながら、カジモドのイマジナリーフレンドである三体の石像が、彼の恋を応援する「ガイ・ライク・ユー」では、彼女はきっとカジモドの心優しさに恋に落ちると歌っているが、現実は残酷にも、大して活躍したわけでもないフィーバスに、エスメラルダが恋に落ちる。これをルックス以外の理由で説明するのは困難である気がする。
加えて、先にも言った通り、フロローというのは、なんだかんだ嫌なところがたくさんありつつも、カジモドの唯一の庇護者であったことは確かである。カジモドは、そんな唯一の庇護者を自らの手で殺さなくてはならないところまで追い込まれる。ノートルダム大聖堂が聖域であったことを考えると、人の命を手にかけなくてはならなくなるというこの展開の意味は大きい。ちなみに、原作のカジモドは、自分の手でフロローを突き落として殺害している。そして、自らが大きな罪を犯してまで助けた女とは、結ばれることがない。カジモドの孤独は、こうして終わらない。
ラストシーン、一人の女の子が、カジモドに寄り添い、民衆から受け入れられるシーンは感動的ではあるものの、そこにいる民衆は、一人の人間が醜い者にトマトを投げつければ、その場のノリでものを投げつけ始める衆愚であることに変わりはない。「トプシー・ターヴィー」の祭りがそうであったように、この民衆の承認も、一時の気休めに過ぎないかもしれないのだ。
そうしたわけで、ディズニー版『ノートルダムの鐘』は、表面上のハッピーエンドとは裏腹に、醜い者が、醜い者として蔑まれるという現実は変わらないという救済なき救済の物語なのだろうというのが、基本的な感想である。心優しいカジモドに、神の加護があらんことを。そのように「ゴッド・ヘルプ」を祈るしかない、悲しい物語である。

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