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手のひらのイリュージョン(ミステリ小説第8話 スパイか否か?)

「それは、わかります」
 そう返したが、自分でも空々しく聞こえた。夜船との会合が終わる後、綿引は1人で待ち合わせの場所に向かう。
 そこはレストランだった。まだ午前11時なので、人はまばらだ。音乃と会う時には決まって使う、囲いで仕切られたボックス席に入る。
 そこにはすでに、音乃がいた。獲物を追うよな、鷹の目をしている。口元に、舌なめずりするような、笑みがこぼれた。
 ウェイトレスが注文をとりに来たので、ホットココアを頼む。音乃の方は、すでにコーヒーを飲んでいた。
 ドアが閉まると、扉の外から聞こえていた物音が聞こえなくなる。
 2人のいるボックス席は天井までしきられており、音はかなり遮断されているようだ。注文の品が来て、ウェイトレスが再び去った。
「一体どんな情報だ?」
「ただじゃあないよ。大手の新聞社やテレビ局は、蓬莱虹羽死亡の一件を事故らしいと報じてるけど、事実はどうなの?」
「先にそちらの話をしてくれ。言えば、こっちも回答する」
「弓削田の事は知ってるよね? 彼は公安のスパイよ」
「証拠はあるのか?」
 つい声が、大きくなる。音乃が自分のスマホを出した。そして動画を再生する。音声を出さなかったが、弓削田が1人の男と話す場面が映る。
 その人物は、綿引も知ってる公安の刑事だ。
「蓬莱虹羽が死んだ件、恐らく事故ではないと見てる」
 綿引の発言に、音乃は目を丸くした。
「証拠はあるの?」
「ない。が、事故死にしては不自然だ。それにうちの上層部が、無理やり事故にしようとしてるのもおかしい」
 眼前の女が、目を輝かせた。嬉しくてしょうがないらしい。権力の腐敗や不正が、彼女の好物なのだから。
「それ以上の話は、できない」
 綿引は、きっぱりそう断定した。
 音乃が基本的には権力の腐敗を憎む真っ当なジャーナリストで、週刊スプリングもそのスタンスなのは認めるが、時折状況をからかっているように感じるのが不快である。
「綿引さんのような人がいるから、あたし達も世の中の不正を追求できる」
「お世辞を言うな」

 綿引はレストランを出た後、ある男にスマホから電話をした。何度か鳴らしたが出ない。しかたないので一旦切った。
 向こうも忙しいのだろう。何度鳴らしても出ないというケースも考えられた。スマホからメールを送ろうとした時に着信音が鳴り響く。
 液晶画面に『氏家(うじいえ)』という名字が浮かんだ。
「久々じゃないか。何の用だよ?」
 氏家の声が響いた。嬉しそうな響きがある。
「俺達は警察学校の同期だろ? たまにはメシでも食いたいと思ってね」
「本当か? 俺から何か情報を引き出す気じゃないの?」
「まさか。そんなはずねーよ。聞いたって教えねーだろー?」
「まあ、そうだけど」
「忙しそうだから30分だけでいいよ。今夜どう?」
「今夜はダメだ。明日の夜ならいい」
「わかった」
 2人で待ち合わせの約束をしてスマホを切った。氏家は、今公安で刑事をやっている。音乃が見せた動画に映っていたのが、彼だ。

 翌日11月26日火曜日の午後5時。綿引は、待ち合わせた渋谷の居酒屋にいた。個室である。
 時間が早いので、店内の人通りはまばらだ。5時半になっても氏家は現れない。スマホも鳴らないしメールも来なかった。
 午後6時近くになって、ようやく氏家が現れる。昔に比べて太ったようだ。
 以前の彼ならまず遅刻などしなかったし、遅くなる時は電話を入れた。今は遅くなった詫びも入れない。


手のひらのイリュージョン(ミステリ作家第9話 新教祖)|空川億里

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