【フォーミュラ1】 #060 - シームレスシフト開発秘話——ホンダが2,500kmのテストを積んで実現した「トルク途切れゼロ」の変速機
F1を観ていると、マシンが加速しながらギアを上げていく場面で速度が落ちない。変速のたびに一瞬でも失速するとき、それはエンジンの力が車輪に届かない瞬間があるからだ。ところが2005年以降のF1では、その「届かない瞬間」がほぼゼロになった。BARホンダが世界で初めて実戦投入したシームレスシフトは、F1のギアチェンジを根本から変えた技術だ。
今回は、その開発の経緯と逆境の中での世界初投入、そして2026年の新時代への影響を追う。
本記事は、エンジニア&コンサルタントの著者が選んだ技術の最新動向をわかりやすく約3,000字で発信しています。もし記事がためになったと思った方は、高評価とフォローをお願いします。
「前の車との距離が縮まった」——バトンが感じた0.4秒の意味
2005年、BARホンダ007に乗るジェンソン・バトンは珍しい感覚を体験したと語った。「シフトチェンジはシームレスで頭打ち感がまったくない。シフトアップするたびに前の車との距離が縮まった」。
バトンが感じたのは、1周あたり平均0.4秒のラップタイム短縮だ。レースで0.4秒といえば、ピットストップ作戦を1段階上書きできるほどの差になる。0.4秒は、1周あたり15〜20回のギアチェンジで積み上げた合計値だ。1回のシフトで約0.02〜0.03秒の短縮になる。通常のF1ギアチェンジにかかる時間0.05秒と比べると半分以下に圧縮されている。
今あなたが画面で見ているF1マシンのシフトアップは、ほぼ全てこの技術の上に成り立っている。車載映像でエンジン音が途切れずに上昇し続けるとき、それがシームレスシフトが機能している瞬間だ。
旧世界の痛点——変速のたびにトルクが途切れていた時代
シームレスシフトが登場するまで、F1のギアチェンジは単純な手順で動いていた。現在のギアを外し、次のギアを入れる。2段階の動作の間、エンジンの力は必ず一瞬だけ車輪に届かなくなる。
この空白は1990年代のF1でも問題になっていた。7速・8速の多段ギアボックスを採用した時代でも、変速中の「力の空白」は物理的に避けられなかった。空白時間は電子制御の進化で50〜60ミリ秒から25〜30ミリ秒まで縮まった。だが縮まっても、途切れることに変わりはなかった。
さらに深刻だったのは、この空白がクラッシュの引き金になりうることだ。コーナー立ち上がりでアクセルを全開にした瞬間にギアチェンジが入ると、後輪に力が突然戻り、タイヤが限界に近い状態では横滑りやスピンを引き起こした。ホンダのエンジニアたちは、ギアチェンジの「順序そのものを逆転させる」という発想でこの課題に向き合った。
「次のギアを先に入れる」——逆転発想の機構とFIAへの抗議
ホンダが実装したシームレスシフトの仕組みはこうだ。シフトアップ時、次のギアをドグが噛み合う直前の位置まで事前に移動させておく。現在のギアがトルクを伝えている間に待機させ、アクセルを一瞬緩めたタイミングで現在のギアが外れるのと同時に次のギアが滑り込む。エンジンの力は途切れることなく次のギアへ移行する。
問題は、2つのギアが同時に接触する瞬間が生じることだ。通常のギアボックスでは、2段のギアが同時に噛み合えばドライブトレーン全体に壊滅的な力が集中してギアが折れる。ホンダはワンウェイクラッチという機構で解決した。ワンウェイクラッチとは、一方向にしか力を伝えない部品だ。一方通行にすることで、2つのギアが瞬間的に共存できる状態を作り出した。
ホンダは1本のドラムに全ギアを収めるシングルバレル方式を採用した。対して後にマクラーレン等が採用したのは、偶数ギアと奇数ギアを別々の2本のドラムに分けるツインバレル方式だ。どちらも「先に次のギアを待機させる」原理は同じだが、機械的な実装が異なる。
2005年開幕戦オーストラリアGP後、フェラーリはFIAに「この変速機はCVTに相当し禁止規定に違反する」と抗議した。CVTとは、段階的なギアの切り替えをせず連続的に変速比を変える機構のことだ。当時のFIA会長マックス・モズレーは技術委員会の審査を経て合法と判断した。ホンダの技術は生き残った。
出場停止処分の渦中で——逆境が生んだ世界初投入
BARホンダが世界初投入を果たした2005年には、チームを揺るがすスキャンダルが同時進行していた。2005年サンマリノGP後、FIAの技術審査でBARホンダ007の燃料タンクに違反が発覚した。タンク内に燃料と誤認させる構造物を組み込み、最低重量をクリアしていたとされた問題だ。チームは第6戦・第7戦の2レースの出場停止処分を受けた。
出場停止明けにチームはシームレスシフト搭載の007で復帰した。スキャンダルの渦中にいたからこそ、新技術への賭けは大きかった。エンジニアたちはコースでの結果で答えを出すしかなかった。
ライバルの追随は速かった。2006年にフェラーリとルノーが類似技術を導入し、2007年にはマクラーレンがツインバレル方式で参入した。2008年にはシームレスシフトがFIA規定の標準技術となり、全チームに4レース連続使用の義務が課された。BARホンダが2005年に世界初投入してから3年で、F1全体の標準になった。
ホンダはさらに次世代の「インシャフト型」改良版を開発中だった。目標は2,500kmの耐久テストをクリアすることだった。しかし2008年末、ホンダはF1から撤退を発表した。開発は1,300km時点で中断となり、インシャフト型は幻の技術として記録に残った。
2026年、MGU-Kの出力3倍増——シームレスシフトが問われる新次元
2026年のF1技術規則改定は、シームレスシフトに新たな問題を突き付けている。電気モーターの出力が現行の120kWから350kWへ、約3倍に拡大される。3倍の電力が変速の瞬間にも流れ続けることになる。
シームレスシフトは内燃エンジンのトルクの空白を埋める技術として設計されたが、これからは電気モーターとの統合制御を含めて動力の途切れをゼロにし続けなければならない。ギアが切り替わる瞬間の内燃エンジンのトルクと電気モーターのトルクをどう組み合わせるかが、各チームのエンジニアが取り組む課題だ。
ホンダは2026年にアストンマーティンにパワーユニットを供給する形でF1に復帰する。シームレスシフトを生み出したホンダの技術的系譜が、電気モーターとの統合制御という新次元でどんな答えを出すか。2005年の世界初投入から20年を経て、技術の本質的な問いは変わっていない。変速の瞬間に動力をいかに途切れさせないか、だ。
まとめ
シームレスシフトの歴史は、F1技術革新の典型的な構造を映している。変速のたびにトルクが途切れるという長年の問題に対し、ホンダは「順序を逆にする」発想でブレークスルーした。フェラーリの抗議を退け、燃料スキャンダルの逆境の中で実戦投入し、3年で業界標準になった。
今あなたがF1の映像でエンジン音が途切れずに加速し続けるのを聞くとき、それはシームレスシフトが機能している証拠だ。2026年の電気モーター出力3倍という新しい課題に、次世代のエンジニアたちがどう答えるかを観戦しながら意識してほしい。
F1の技術革新をこれからも一緒に追いたい方は、フォローと高評価をいただけると嬉しいです。
参考文献
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