文学青年崩れ、アラ還で再発する
小学校の頃から、作文はわりと得意だった。
もっとも、本を読む子どもだったわけではない。
高校までは読書の習慣もほとんどなく、文学とはどこか遠い世界のものだった。
そんな私が本を読み始めたのは、大学に入ってからだった。
少し背伸びをしたかったのだと思う。
大岡昇平に始まり、安部公房、大江健三郎、中上健次、村上春樹。
純文学の作家たちを夢中で追いかけた。
今振り返れば、それは読書そのものを楽しむというより、自分自身に酔うような行為だったのかもしれない。
世間知らずだったこともあり、作家になる夢をほんのり描いたこともあった。
大学時代、阿佐田哲也の不朽の名作『麻雀放浪記』に夢中になった。
その流れで、氏の別名である色川武大の『狂人日記』を手に取った。
そして打ちのめされた。
鬼気迫る筆致に圧倒され、自分は作家なぞには到底なれないことを思い知らされた。
それ以来、本は書くためのものではなく、純粋に楽しむものになった。
純文学だけにこだわることもなくなり、ジャンルを問わず乱読するようになった。
中でも、中島らものエッセイは今でも大好物だ。
人の弱さや滑稽さを笑いながら受け止めるあの感覚は、心情を書くときに少なからず影響を受けている気がする。
もし今も生きていたら、どんな文章を書いていたのだろう。
今なお、その早逝が惜しまれてならない。
もちろん、私の文章など足元にも及ばない。
それでも、noteでは「アラ還のぼやき」という、こてこての関西弁のエッセイを連載している。
人生の愚痴や後悔や笑い話を、ぼやき半分で綴っているのだが、どこかに中島らもの残り香のようなものが紛れ込んでいるのかもしれない。
同じ本を何度も読み返すことはあまりない。
それでも、山田詠美の青春小説『僕は勉強ができない』だけは別だった。
何度読んだか、自分でも覚えていない。
読むたびに、少し違う景色が見えた気がする。
そんな年月を過ごしてきた私が、noteを始めてから六週間と少しが経った。
そのnoteへの初投稿のとき、「短編小説にも挑戦してみたいと考えています」と書いた。
それもあり、noteを始めて間もない頃、ふと青春小説を書いてみようと思いついた。
もっとも、文学青年崩れの私は、ありきたりな青春小説では面白くないと思っていた。
どうせ書くなら、読後感が爽やかではない青春小説を書いてみたい。
そんな少々ひねくれた発想から生まれたのが『炭酸の抜ける音』だった。
四千字ほどの短い作品だったが、思いのほか早く完成した。
その後は、人の業をテーマにした、こちらも読後感のどんよりした純文学に取り組んでいる。
人間の暗い部分を書き続けていると、時々息苦しくなる。
そこでガス抜きのつもりで書き始めた恋愛小説が、『ホイッスルはまだ鳴らない』だった。
こちらは逆に、読後感の爽やかさを意識した作品である。
一昨日完成し、noteに投稿した。
『ホイッスルはまだ鳴らない』には、自身の経験の一部も取り込んでいる。
一時期はまった北方謙三のハードボイルドな文体が、遺伝子に刻み込まれているかのように顔を出す。
若い頃に夢中になったものは、結局どこにも消えていないのかもしれない。
小説を書くたびに思う。
東野圭吾のように次々と作品を書き続ける作家の頭の中は、一体どうなっているのだろうかと。
物語を生み出し続ける才能というものに、素直な驚きを覚える。
もちろん、私の小説執筆はあくまで趣味の範囲である。
作家を目指しているわけでもない。
それなのに、自分の書いた小説を誰かに読んでほしいと思ってしまう。
読まれれば嬉しい。
感想をいただければ、もっと嬉しい。
承認欲求と言われれば、その通りなのだろう。
アラ還にもなって、なかなか往生際が悪い。
困ったものである。
もしnoteを始めていなければ、小説を書くこともなかっただろう。
若い頃に一度しまい込んだはずの「書きたい」という気持ちを、もう一度引っ張り出してくれたのだから。
そう考えると、noteとの出会いには感謝しかない。
もっとも、そのせいで次の小説のことばかり考えるようになってしまったのだが。
ただ、こうして文章を書いている時間は嫌いではない。
だからこれからも、細々とではあるが、小説執筆は続けていきたいと思う。
もしかすると、次の物語の種は、もうどこかに転がっているのかもしれない。
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