中編小説|ホイッスルはまだ鳴らない
あらすじ
大学サッカー部のサイドバック・中村一徳は、忘れ物をきっかけにマネージャーの今井智子と恋に落ちる。
交換留学で離れ離れになった二人は、「毎朝六時に電話する」という約束で距離をつなごうとするが、やがて心はすれ違い、恋は終わりを迎える。
それから六年。
社会人となった一徳は、失恋の痛みを抱えたまま日々を過ごしていた。
そんなある日、会社近くの小さな定食屋「みなと食堂」と出会う。
止まっていた時間が、温かな湯気の向こうで再び動き出す。
青春の終わりと大人の再生を描く、喪失と希望の恋愛小説。
第一部 朝六時のホイッスル
第一章 忘れ物
俺はヒーローになったことがない。
一度だけ、ヒーローになるチャンスがあった。
その時、俺はボールじゃなくて、人を選んだ。
ポジションはサイドバックだ。
フォワードが点を決める。
歓声が上がる。
ベンチが飛び出す。
マネージャーが笑う。
サイドバックは、
その少し後ろで息を切らしている。
名前は中村一徳。
かずのり、と読む。
けれど大学に入ってから、誰もそう呼ばなくなった。
「いっとく」
それで十分だった。
大阪の私立大学で、二部リーグ所属。
強豪というほどではないが、弱小というほどでもない。
リーグ戦では勝ったり負けたりしている。
たまに勝ち続けると、部員全員が急に勘違いする。
一回生の五月。
俺はまだ、大学という場所に馴染みきれていなかった。
高校までのサッカーとは違う。
練習はきつい。
先輩は怖い。
同級生は妙に上手い。
府立高校でくじ運にも恵まれ、
最後の大会で運よくベスト8入り。
おかげで、推薦で入ったくせに、レギュラーにはほど遠かった。
その日も、練習後の部室で着替えながら、足の裏がじんじんしていた。
「いっとく、お前、スローイン下手すぎへん?」
同級生の浩二が笑いながら言った。
「うるさい。肩が温まってなかっただけや」
「最初から最後まで温まってへんかったぞ」
「黙れボランチ」
「ポジションで悪口言うな」
くだらない会話をしながら、俺は急いで荷物をまとめた。
グラウンドの横を抜け、正門へ向かう。
五月の夕方は、まだ明るかった。
芝生の匂いと、土の匂いと、制汗スプレーの安っぽい匂いが、全部混ざっていた。
そのとき、後ろから声が飛んできた。
「いっとく、これ忘れてる」
紺色のジャージ。
肩までの髪。
少し日に焼けた頬。
手には、俺の練習用ジャージ。
同学年でマネージャーの今井智子だ。
まともに話したことはなかった。
「え、俺の?」
「名前書いてあるやん」
智子はジャージのタグをつまんで見せた。
「ほんまや」
「今日三回目やで」
「何が?」
「忘れ物」
「うそやろ」
「ほんま。水筒、タオル、これ」
智子は指を一本ずつ折った。
「俺、そんな忘れてた?」
「忘れてた。逆に何を持って帰るつもりやったん?」
「夢とか」
「小さそう」
智子が目の奥からふっと笑う。
「ありがとう」
「どういたしまして。明日も何か忘れる?」
「予約制なん?」
「常連さんには優しいで」
その日から、俺は智子に忘れ物を届けられる人間になった。
次の日は、タオル。
その次は、テーピング。
一週間後には、なぜか片方の靴下を忘れた。
「いっとく、これ何?」
智子は指先でつまむようにして、俺の靴下を差し出した。
「靴下」
「それは見たら分かる」
「忘れた」
「片方だけ?」
「片方は履いてる」
「怖いわ」
俺は慌てて足元を見た。
本当に片方だけ履いていた。
智子は腹を抱えて笑った。
「いっとくって、サイドバックやんな」
「そうや」
「ようライン管理できるな」
「靴下とディフェンスラインは別や」
「一緒やと思うで」
それから、練習後に少し話すようになった。
駅までの方向が同じだと分かったのは、六月に入ってからだった。
「こっちなん?」
「うん。いっとくも?」
「俺も」
「なんや、今まで別々に帰ってたん、損してたな」
「損なん?」
「私の話聞けるんやで」
「得かどうかは内容による」
「失礼やな」
智子はよくしゃべった。
授業の話。
友達の話。
コンビニの新作アイスの話。
マネージャーの仕事が思ったより地味で、思ったより楽しいという話。
「いっとくって、あんまり自分の話せえへんな」
「そうか?」
「うん。相づちは上手いけど」
「守備的な性格やから」
「ポジションに引っ張られすぎちゃう?」
「サイドバックは大事やぞ」
「分かってる。見てるもん」
練習中に智子の姿を探すようになった。
給水ボトルを並べている。
ビブスを数えている。
先輩に呼ばれて走っている。
怪我をした部員に氷を渡している。
誰にでも同じように接する。
誰にでも同じように笑う。
夏が近づく頃には、俺は智子と話すために部活へ行っていた。
「いっとく、最近よう走るな」
浩二が言った。
「元から走ってる」
「いや、前より真面目や」
「前から真面目や」
「嘘つけ。絶対なんかあるやろ」
「ない」
「智子ちゃんか」
俺は水を吹きそうになった。
「何でやねん」
「分かりやすすぎるねん、お前」
「黙れボランチ」
「ポジションで逃げるな」
智子は、俺の忘れ物を見つけるのが上手かった。
七月の終わり、練習試合があった。
俺は後半の二十分だけ出た。
相手の右ウイングは速かった。
何度も抜かれかけた。
一度だけ、完全に置いていかれた。
けれど最後のところで足を伸ばし、クロスを防いだ。
試合後、へとへとになってベンチに戻ると、
智子がボトルを差し出してくれた。
「ナイス」
「どこが」
「最後、止めたやん」
「見てたん?」
「見てたって言うてるやん」
「俺だけ?」
智子は少しだけ目を丸くした。
それから、にやっと笑った。
「何それ」
「いや、今のなし」
「なしにするん早いな」
「忘れて」
「忘れ物係やけど、忘れるのは苦手やねん」
俺はボトルの水を飲んだ。
やけに冷たかった。
駅の手前に、小さな河川敷がある。
大学から駅へ向かう途中、少し遠回りすればそこを通れる。
「今日、こっちから帰らへん?」
「ええけど」
二人で土手を下りた。
草いきれが鼻をくすぐる。
智子は芝生に腰を下ろした。
「遠い」
「何が?」
「距離」
「ああ」
俺は少し近づいた。
「近い」
「どないせえ言うねん」
智子は笑った。
しばらく、二人で川を見ていた。
「いっとくって、夢ないん?」
「またそれ?」
「前も聞いたっけ」
「聞いた」
「で、答えは?」
「レギュラー」
「小さいな」
「現実的と言え」
「でも、いっとくらしい」
「どういう意味や」
「ちゃんと目の前のこと見てる感じ」
「そんなええもんちゃうで」
「そうかな」
「私は、いつか海外行きたい」
「海外?」
「うん。留学とか。ちゃんと勉強して、知らん場所で暮らしてみたい」
「すごいな」
「すごくはない。行きたいだけ」
川の向こうで子どもの声がした。
「いっとくってさ」
「ん?」
「自分では気付いてへんけど、めっちゃ優しいよな」
「急になんやねん」
「いや、思っただけ」
「そんなことない」
「あるよ」
智子は笑った。
「怪我した先輩おったやん」
「ああ」
「毎日練習終わりに荷物運んでたやん」
「近かっただけや」
「そういうとこやと思う」
俺は返事に困った。
「みんな普通やと思ってること、いっとく普通にやるやん」
「知らん」
「知らんのは本人だけやな」
「どうやろな」
「だからな」
「ん?」
「レギュラーなれると思うで」
「何でそこにつながるねん」
「知らん。でも、なれる気がする」
「適当やな」
「結構本気」
智子はいつも通り笑った。
ある日、練習後に俺のスパイクの紐が切れた。
「またボロボロやん」
「まだ履ける」
「それ、靴が言うセリフちゃう?」
「高校からの相棒や」
「相棒、限界きてるで」
「買う金ない」
「バイトしなさい」
「してる」
「何に使ってるん?」
「飯」
「夢ないなあ」
「生きるためや」
「縫ったろか?」
「できるん?」
「たぶん」
「たぶんで相棒を預けるの怖いな」
「じゃあ裸足で試合出る?」
「まかせた」
「まかせとき」
翌日、スパイクが戻ってきた。
縫い目は曲がっていた。
でも、ちゃんとくっついていた。
「不器用やな」
「文句あるんやったら返して」
「ない。ありがとう」
秋の終わりだった。
練習後、俺は智子を河川敷に誘った。
空気は少し冷たくなっていた。
芝生に座ると、夏より地面が硬く感じた。
「今日、忘れ物ないで」
「ある」
「何?」
「言うこと」
「それは忘れたらあかんやつやな」
川の向こうで、自転車のベルが鳴った。
俺は深く息を吸った。
「智子」
「うん」
「好きや」
「知ってる」
「何を」
「いっとくが私のこと好きなん」
「何でや」
「顔に書いてた」
「そんなに?」
「うん。油性ペンくらい濃く」
「最悪や」
「最悪ちゃう」
「私も好き」
「ほんまに?」
「ここで嘘つく?」
「いや、でも」
「いっとく、疑いすぎ」
「守備的な性格やから」
「またそれ」
夕陽が沈みかけていた。
頬をなでる風が、少しだけ冷たかった。
膝には芝生がついていた。
帰り道、駅までの坂を二人で歩いた。
「明日も部活来る?」
「行く」
「忘れ物する?」
「するかもしれん」
「ほな、見つけたるわ」
「頼むわ」
智子は手を振って、改札の向こうへ消えていった。
家に帰って鞄を開けると、タオルが入っていなかった。
明日、智子が笑いながら持ってきてくれる。
そう思えるだけで、俺はしばらく眠れなかった。
第二章 六時の約束
智子と付き合い始めてから、俺の大学生活は少しだけ忙しくなった。
別に予定が増えたわけじゃない。
授業に出る。
部活へ行く。
バイトをする。
やっていることは以前と変わらない。
ただ、その全部の終わりに智子がいるようになった。
毎日が妙に早く過ぎた。
「いっとく」
「ん?」
「今日、何の日か知ってる?」
「水曜日」
「違う」
「カレーの日」
「たぶん違う」
「知らん」
「付き合って一か月」
「もうそんな経ったん?」
「最低」
「いや、違うねん」
「何が違うん」
「毎日会ってるから、まだ二週間くらいの感覚や」
「その言い訳、ちょっとだけ許したる」
映画館。
水族館。
ショッピングモール。
大学生が行ける場所なんて限られている。
金もなかった。
ある日、梅田を歩いていると、
智子がショーウィンドウの前で立ち止まった。
「これ可愛ない?」
銀色の細いリングだった。
「そうか?」
「女の子にその返しはあかん」
「高そうやな」
繋いだ手を、一瞬離した。
「高いから買わへんけどな」
「似合うと思うで」
「覚えといて」
手を繋ぎ直し、駅に向かった。
サッカー部では相変わらず補欠だった。
たまに試合に出る。
たまに褒められる。
たまによく分からない理由で怒られる。
それでも以前より頑張れた。
智子が見ているからだ。
ある日の練習後、監督が珍しく俺を呼び止めた。
「いっとく」
「はい」
「来週、先発な」
「え?」
「聞こえへんかった?」
「聞こえました」
「じゃあ返事しろ」
「はい!」
俺はそのままグラウンドを飛び出した。
智子を探した。
ベンチの横でボトルを洗っていた。
「智子!」
「びっくりした」
「先発や」
「ほんま?」
「ほんま」
初先発の試合は引き分けだった。
「今日、良かったやん」
「そうか?」
「うん」
「どこが」
「最後まで走ってた」
鼻の穴が少しだけふくらんだ。
冬が近づく頃だった。
駅へ向かう坂道。
「どうした?」
「んー」
「何や」
「まだ確定ちゃうねんけど」
「うん」
「交換留学、応募してん」
「海外の?」
「うん」
「どこ?」
「シンガポール」
「受かるか分からんけど」
「そうか」
「受かったらええな」
「ありがとう」
少しだけ心がざわついた。
年が明けた。
キャンパスの桜の蕾が膨らみ始めた。
智子は本当に受かった。
シンガポール国立大学。
一年間の交換留学。
「すごいやん!」
「英語ペラペラになるんちゃう?」
「向こうで彼氏作るなよー」
男子部員が茶化した。
智子は笑っていた。
俺も笑った。
出発の日が近づいた。
俺たちはよく会った。
大学へ行く。
飯を食う。
河川敷を歩く。
それだけなのに、全部覚えていた。
出発一週間前。
「一年って長いかな」
「そら長い」
「即答やな」
「長いもんは長い」
「スマホあるやん」
「ある」
「ビデオ通話もある」
「ある」
「飛行機もある」
「高い」
智子は笑った。
「大丈夫やと思う?」
「大丈夫や」
智子は小さく頷いた。
その帰り道、改札の前で俺が言った。
「毎朝六時」
「え?」
「通話しよう」
「毎日?」
「毎日」
「無理ちゃう?」
「起きる」
「絶対寝坊する」
「するかもしれん」
「するんや」
俺は笑った。
「でも起きる」
「分かった」
「約束な」
「約束」
二人は小指を絡めた。
出発前日。
俺はアルバイト帰りに梅田へ向かった。
以前、智子が立ち止まったアクセサリーショップ。
あのリングはまだあった。
値札と財布を交互に何度も見る。
店員が不審そうに見ていた。
人生で初めて女の子に贈る指輪だった。
関西国際空港。
智子は大きなスーツケースを引いていた。
サッカー部の仲間たちも来ていた。
笑い声が飛び交う。
みんなで記念写真を撮る。
花束。
餞別。
寄せ書き。
智子の両手が埋まっていく。
出発ロビーが近づく。
「智子」
「ん?」
「これ」
銀色のリングが光った。
「いっとく」
「お守りや」
愛おしそうに指輪を指にはめる。
「ありがとう」
涙はこらえた。
二人とも笑っていた。
搭乗口へ向かう直前、智子が振り返った。
「明日」
「うん」
「六時やで」
「分かってる」
「寝坊したら許さん」
「そっちこそ」
やがて姿が見えなくなった。
その夜、俺は目覚ましを五時三十分に合わせた。
五時四十分にも合わせた。
五時五十分にも合わせた。
五時五十五分にも合わせた。
念のため五時五十八分にも合わせた。
眠れなかった。
明日の朝六時。
スマホが鳴る。
それが当たり前のように、一年続くのだと。
第三章 タイムラグ
最初の一か月は、思っていたより簡単だった。
朝六時にスマホが鳴る
「起きてる?」
画面の向こうで智子が聞く。
「起きてる」
「絶対うそ」
「半分寝てる」
「やっぱり」
大阪の朝六時。
向こうは五時だった。
俺は寝癖のまま。
「ずるいな」
「何が」
「お前だけちゃんとしてる」
「女の子やから。朝の五時から大変やで」
「俺も女の子やったらよかった」
「無理やな」
「即答か」
俺のスマホいっぱいに、
シンガポールの朝の空が映える。
背の高いヤシの木。
ガラス張りの校舎。
「暑そうやな」
「暑い」
「一年中?」
「一年中」
「地獄や」
「いっとくには無理やな」
「溶ける」
「五分で溶ける」
距離は感じなかった。
十月。
通話の中に知らない名前が出てくるようになった。
「今日、リサと課題しててな」
「誰?」
「日本人」
「なるほど」
「あと韓国のハユン」
「うん」
「インドネシアのラトナ」
「もう覚えられへん」
ある朝。
通話を繋ぐと、智子は食堂にいた。
「おはよう」
「おはよう」
英語が飛び交っている。
笑い声も聞こえる。
知子は誰かに呼ばれた。
振り向いて手を振る。
その表情が、俺の知らない顔に見えた。
「最近楽しそうやな」
「楽しい」
「勉強も?」
「大変やけど」
「友達も?」
「うん」
それで終わる話だった。
そのはずだった。
十一月。
通話が十五分になり、十分になり、やがて五分になる。
理由は全部ちゃんとしていた。
レポート。
プレゼン。
グループワーク。
課題。
「ごめん、今日ちょっと忙しい」
「ええよ」
「また明日」
「うん」
俺はしばらくスマホを見ていた。
学食で浩二に言われた。
「遠距離って大変やな」
「別に」
「顔が別にじゃない」
「そんな顔してる?」
「してる」
俺はぬるくなった味噌汁を飲み干した。
「智子ちゃん、頑張ってるんやろ」
「頑張ってる」
「ほなええやん」
その通りだった。
十二月。
朝六時。
目覚ましより先に起きる日もあった。
スマホを見る。
五時五十八分。
五時五十九分。
六時。
画面は光らない。
六時一分。
六時二分。
六時三分。
着信。
「ごめん!」
「寝坊?」
「違う!」
息が切れている。
「課題!」
「意味分からん」
「徹夜!」
「ああ」
疲れているのに笑っていた。
その顔を見ていると怒れなかった。
クリスマスの日だった。
俺はコンビニのケーキを買った。
智子とビデオ通話をするつもりだった。
六時。
通話が来ない。
七時。
来ない。
八時。
ようやくメッセージが届いた。
『ごめん!』
『友達に連れ出されてた!』
その後、送られてきた写真。
その写真の隅に、男の手が映っていた。
智子の肩に触れていた。
俺は、それを見なかったことにした。
大勢の留学生。
クリスマスパーティー。
楽しそうな笑顔。
その中心で笑う知子。
俺は画面を閉じた。
年が明けた。
智子の返信は少し遅くなった。
既読は付く。
返事も来る。
ただ時間がかかる。
数時間。
半日。
一日。
それだけだった。
本当にそれだけだった。
一月の終わり。
朝六時。
ビデオ通話が繋がった。
智子は部屋にいた。
「眠そうやな」
「眠い」
部屋の外から英語の声がした。
男の声だった。
意味は分からない。
智子が一瞬だけ振り向く。
「ごめん」
「ん?」
「ちょっと待って」
画面が揺れる。
「何でもない」
信じろ。
そう思った。
二月。
通話は週に二回になった。
毎朝六時の約束は、
砂浜の文字が波で消えるみたいに、
なくなっていた。
ある朝、俺は六時前に目が覚めた。
スマホを見る。
通知はない。
窓の外はまだ暗い。
俺は布団の中で天井を見た。
智子は今、何をしているんだろう。
誰と笑っているんだろう。
どんな景色を見ているんだろう。
春は、もうすぐそこまで来ていた。
第四章 ホイッスル
三月の終わり。
大阪は少しずつ春の匂いがしていた。
大学のキャンパスには、
新入生らしい姿が増え始める。
智子が帰国した。
その連絡を受けたのは、共通の友人からだった。
責める理由にはならなかった。
向こうも忙しいのだろう。
そう思うことにした。
俺は智子にメッセージを送った。
『帰ってきたんやな』
返事は翌日に来た。
『うん』
俺は続けて送った。
『今度会えるか?』
夜になって返事が来た。
『うん』
それだけだった。
待ち合わせは河川敷だった。
昔、告白した場所。
二人で何度も座った場所。
そこを選んだのは、俺自身だった。
約束の日。
俺は三十分も早く着いた。
春の風はまだ少し冷たかった。
高校生らしい集団がサッカーをしている。
ボールを追う声が遠くから聞こえる。
俺は何度もスマホを見た。
五分。
十分。
十五分。
智子が来た。
一瞬分からなかった。
髪が少し伸びていた。
服装も変わっていた。
化粧も以前より大人っぽかった。
もちろん智子だった。
でも少し違った。
「久しぶり」
智子が言った。
「久しぶり」
それだけだった。
二人で河川敷を歩いた。
二人の間を風が駆ける。
智子は留学の話をした。
授業。
友達。
旅行。
卒業式。
俺は相槌を打った。
川の流れる音だけが聞こえた。
智子が立ち止まった。
「話がある」
俺は頷いた。
急かしたくなかった。
「ごめん」
「向こうで、好きな人ができた」
川面が揺れた。
遠くで誰かの笛が鳴った。
「そうか」
「怒ってへんの?」
「怒る理由ないやろ」
「あると思う」
「ない」
智子の目が少し赤かった。
「いっとく」
「ん?」
「私、最低やと思う」
「思わん」
「でも」
「思わん」
「その人のこと、好きなんやな」
「うん」
風が吹いて、前髪が少し揺れた。
「私な」
「うん」
「もっと早く言うべきやった」
「……」
「怖かってん」
智子は小さく笑った。
「毎朝の電話が減っていった時も」
「……」
「クリスマスの日も」
「……」
「帰国してからも」
知子は拳を握った。
「傷つけるん分かってたから」
川の音だけが聞こえた。
「ごめん」
「謝らんでええ」
ほんまは、もっと早く聞きたかった。
でも、その言葉を口にしたら、
何かが壊れてしまいそうだった。
智子は指を握りしめていた。
その薬指にリングがあった。
ゆっくり外そうとした。
「そのままでええよ」
智子が顔を上げた。
「お守りやったやろ」
俺は笑った。
「返されたら困る」
智子の目から涙がこぼれた。
「ごめん」
「謝らんでええ」
空が少し赤くなった。
「そろそろ行くわ」
「おう」
「いっとく」
「ん?」
「今までありがとう」
「元気でな」
遠くのグラウンドからホイッスルが聞こえた。
試合終了の笛だった。
その音を聞きながら、俺は少しだけ笑った。
智子との物語は終わった。
夕陽が柔らかな光を放っている。
俺は河川敷を後にした。
知らなかった。
六年後。
会社近くの小さな定食屋で。
もう一度、自分の人生が動き出すことを。
第二部 みなと食堂、開店前
第一章 ロスタイム
あの日、ホイッスルは鳴った。
六年近く経った今でも、
俺はまだピッチの外に出られずにいた。
大学を卒業し、俺は大阪に本社のある中堅食品メーカーに就職した。
サッカーは、就職と同時にやめた。
正確に言えば、やめると決めたわけではない。
続ける理由をひとつずつ失っていくうちに、いつの間にかボールを蹴らなくなっていた。
社会人になってからも、会社のフットサルに誘われることはあった。
「中村、大学までやってたんやろ。来いや」
そう言われるたびに、俺は適当に笑って断った。
「もう走れませんて」
嘘ではなかった。
走った先に何かが待っていると思えなくなっていた。
仕事は、真面目にやった。
営業部に配属され、スーパーや量販店の本部を回った。
扱うのはレトルト惣菜や冷凍食品だ。
商談というのは、
思っていたより夢のない言葉でできている。
売上計画。
粗利率。
販促条件。
そんな数字の積み上げだった。
サイドバックに似ている、
と一度だけ思ったことがある。
華やかではない。
けれど、穴を空ければ一気に崩れる。
上司からは、
「中村は堅いな」
と何度も言われた。
褒め言葉か、小言かは分からない。
ただ、しっくりは来た。
たぶん昔からそうだった。
同僚からは、ときどきこう言われた。
「いっとくさんって、真面目すぎるんですよ」
大学時代からのあだ名は、いつの間にか会社でも残っていた。
最初にそう呼び始めたのは同期の森だった。
「一徳って、いっとくって読めるやん」
と笑い、それが部署に広がった。
スーツを着て、名刺を出して、頭を下げる。
気が付けば二十七歳になっていた。
恋愛も、何度かした。
どれも長くは続かなかった。
最後に付き合った女性には、こう言われた。
「中村さんって、優しいけど、遠い」
彼女は怒っていなかった。
むしろ困ったように笑っていた。
「ちゃんと聞いてくれるし、ちゃんと返事もしてくれる。でも、どこかで線引いてる感じがする」
俺は返す言葉がなかった。
自分では、もう立ち直ったつもりでいた。
智子のことを毎日思い出すわけではない。
朝六時に目が覚めることも、もうほとんどなくなった。
シンガポールという言葉を聞いても、胸が痛むことは減った。
銀色のリングを見ても、昔ほど息が止まることはない。
人は、ちゃんと忘れていく。
そのことに気づかないふりをしながら、俺は毎日会社へ行っていた。
会社の近くに、小さな定食屋があった。
名前は、みなと食堂。
看板は古く、青いペンキはところどころ剥げていた。
俺が初めてその店に入ったのは、六月の終わりだった。
その日は、朝から雨が降っていた。
午前中に得意先での商談がうまくいかず、会社に戻るころには気分が重くなっていた。
コンビニの弁当を食べる気にもならず、かといって洒落た店に入る気力もなかった。
会社の裏道を歩いていると、湯気の匂いがした。
だしの匂いだった。
それだけで、足が止まった。
のれんをくぐると、店内は思ったより狭かった。
四人掛けのテーブルが三つ。
二人掛けが二つ。
奥にカウンターが五席。
昼時を少し過ぎていたせいか、客はまばらだった。
「いらっしゃい」
奥から女の人の声がした。
顔を上げると、カウンターの内側に彼女が立っていた。
年齢は、俺より少し上に見えた。
後で知ることになるが、三十歳だった。
髪は後ろで雑に束ねている。
化粧は薄い。
白いエプロンの胸元に、小さな染みがあった。
愛想が悪いわけではない。
ただ、必要以上に笑わない人だった。
「お一人ですか」
「はい」
「空いてるとこ、どうぞ」
俺は入口に近い二人掛けの席に座った。
メニューを見た。
日替わり定食。
焼き魚定食。
唐揚げ定食。
生姜焼き定食。
カレー。
特に迷う理由もなかったので、日替わりを頼んだ。
「今日、鯖の味噌煮ですけど」
「それでお願いします」
「ご飯、大盛りにします?」
「普通で」
「足りへんかったら言うてください」
数分もしないうちに、定食が運ばれてきた。
鯖の味噌煮。
小鉢のひじき。
味噌汁。
漬物。
ご飯。
どれも特別なものではなかった。
インスタ映えするような見た目でもない。
皿も少し古い。
味噌汁をひと口飲んだとき、肩の力が少し抜けた。
自分でも意外だった。
うまい、と思った。
声に出すほどではない。
誰かに勧めて回るほどでもない。
ただ、今日の昼にこれを選んでよかったと思える味だった。
食べ終えて会計をすると、さっきの女性がレジに立った。
「八百五十円です」
千円札を出す。
「百五十円のお返しです」
「ありがとうございます」
真由はそう言って、次の客の湯呑みにお茶を注いだ。
その横顔が少しだけ疲れて見えた。
昼時の食堂なんて、どこもこんなものだろう。
店を出てからも、なぜかその顔が頭に残った。
店を出ると、雨はほとんど止んでいた。
会社に戻る途中、俺は自分が少しだけ回復していることに気づいた。
午後にはまた商談の資料を作らなければならない。
上司への説明も必要だった。
それでも、午前中よりはましだった。
翌日も、俺はその店に行った。
理由は、特になかった。
コンビニよりは落ち着く。
会社から近い。
値段も高くない。
そういう理由なら、いくつも並べることはできた。
けれど、本当のところはよく分からなかった。
その日の日替わりは、チキンカツだった。
その次は、豚汁とコロッケ。
さらに次は、肉じゃが。
気がつけば、週に三回は通っていた。
俺はいつも同じ席に座るようになった。
入口に近い二人掛けの席。
壁には、地元の信用金庫の名前が入った、
古いカレンダーが掛かっている。
店には、いろいろな客が来た。
近所の会社員。
タクシーの運転手。
作業着姿の男たち。
老夫婦。
たまに学生らしい若者。
常連客らしき人たちは、店に入るなり勝手に水を取った。
新聞を広げる人もいた。
カウンターの端に座る白髪の老人は、
いつも焼き魚を頼んでいた。
「今日も魚?」
女の人が聞く。
「魚しか信用してへん」
「うちの肉に失礼やな」
「肉は若いもんの食べもんや」
「よう言うわ。この前唐揚げ食べてたくせに」
「覚えとらん」
そんな会話を、俺は味噌汁を飲みながら聞いていた。
女の人の名前を知ったのは、通い始めて二週間ほど経ってからだった。
昼のピークが過ぎ、店内には俺と、いつもの老人しかいなかった。
奥の厨房から、大きな声がした。
「真由、醤油どこや」
「右の棚」
「ないぞ」
「ある」
「ない言うてるやろ」
真由と呼ばれた彼女は、ため息をついて厨房に入った。
すぐに戻ってきた。
「目の前にあったで」
「見えにくい場所に置くな」
「お父ちゃんの目が節穴なだけや」
「客の前で親に向かって節穴言うな」
「節穴に節穴言うて何が悪いんや」
カウンターの老人が笑った。
「今日も平和やな」
「どこがですか」
真由はそう言いながら、俺の空いた湯呑みにお茶を足した。
「ありがとうございます」
「いえ」
その時、初めて彼女と少し目が合った。
目の下に、うっすらと疲れがあった。
俺は、何も聞かなかった。
客と店員。
その距離を越える必要はない。
会社では、相変わらず数字に追われていた。
六月の月末は、どこの部署も空気が悪くなる。
営業会議での数字の詰めも、淡々とこなす。
見込みの再考、販促費の根拠、新商品の導入率。
上司の指示に機械的に「はい」と答え、俺は手帳にメモを走らせた。
同期の森が、会議後に缶コーヒーを持って俺の席へ来た。
「いっとく、顔死んどるぞ」
「元からや」
「いや、今日は特に死んどる」
「おおきに」
「褒めてないわ」
森は遠慮がない。
営業成績は良い。
口も回る。
けれど嫌なやつではなかった。
「昼、行くか?」
「今日は外出る」
「また、あの定食屋か」
「たぶん」
「ハマりすぎちゃう?」
「近いだけや」
「それ、好きな人がいる時の言い訳みたいやぞ」
「何で定食屋に恋せなあかんねん」
「看板娘とか」
「違う」
「即答が怪しい」
「仕事しろ」
森は笑いながら戻っていった。
真由に対して、特別な感情があったわけではない。
きれいな人だとは思った。
近づきたいわけではない。
手に取りたいわけでもない。
ただ、そこにあることを知っているだけで少し安心する。
みなと食堂は、そういう場所だった。
七月に入ると、暑さが本格的になった。
昼に外へ出るだけで、シャツが背中に張りついた。
会社の周りにはチェーン店がいくつもある。
牛丼、うどん、ラーメン、カレー。
どこも冷房が効いていて、早くて安い。
それでも俺は、みなと食堂へ向かった。
店の戸を開けると、古い扇風機が首を振っていた。
冷房はあるが、効きは強くない。
厨房からは揚げ物の音がしている。
「いらっしゃい」
真由がこちらを見た。
「日替わりでいいですか」
「はい」
「今日はアジフライです」
「お願いします」
「ご飯は普通?」
「はい」
「たまには大盛りにしたらいいのに」
「午後、眠くなるんで」
「営業さん?」
「はい」
「大変ですね」
「まあ」
「普通が一番大変ですけどね」
そう言って、真由は厨房に戻った。
客に対する何気ない言葉。
俺はその言葉を午後も覚えていた。
普通に会社へ行く。
普通に働く。
普通に飯を食う。
普通に帰る。
普通に眠る。
その普通を続けるために、
何を犠牲にしているのだろう。
翌日の昼、俺はまた、みなと食堂にいた。
日替わりは、豚の生姜焼きだった。
いつもの席に座り、味噌汁を飲む。
店内では、カウンターの老人がテレビのニュースに文句を言っていた。
カウンターの老人が席を立った。
空になった湯呑みが一つ残る。
真由が厨房へ呼ばれた。
俺は立ち上がり、その湯呑みを返却口へ運んだ。
席へ戻ると、真由がこちらを見ていた。
「ありがとうございます」
「いや」
「普通のお客さんはしないですよ」
そう言われて、少しだけ戸惑った。
「そうなんですか?」
「そうですよ」
食べ終えて箸を置くと、真由が皿を下げに来た。
「今日は静かですね」
「いつも静かです」
「そうでしたっけ」
「たぶん」
「疲れてます?」
俺は少し驚いた。
「分かります?」
「毎日来てたら、だいたい分かります」
「そんなに顔に出てますか」
「顔というか、箸の進み方ですかね」
「そこ見ます?」
「食堂なんで」
真由は真顔でそう言った。
俺は少し笑った。
それ以上踏み込んでは来なかった。
それがありがたかった。
久しぶりに、何も考えずに笑った気がした。
会計を済ませて店を出ると、外はよく晴れていた。
ビルの隙間から差す光が、アスファルトに強く反射していた。
会社のビルが見えてきた。
昼休みは、もうすぐ終わる。
俺の人生は、終わってはいない。
けれど、始まっているとも言えなかった。
試合で言えば、ロスタイムみたいな時間だった。
笛は鳴っていない。
どちらのゴールへ走ればいいのか、まだ分からない。
背中に、みなと食堂のだしの匂いが、少しだけ残っている気がした。
第二章 日替わり定食
気がつけば、みなと食堂に通うのが習慣になっていた。
週に一度だったものが二度になり、二度だったものが三度になる。
気づいた時には、昼休みになると自然に足が向いていた。
理由は説明できなかった。
味が飛び抜けているわけではない。
値段が安いわけでもない。
店が綺麗なわけでもない。
それでも行ってしまう。
そういう店だった。
昼の十二時を少し過ぎると、店内はだいたい満席になる。
近くの会社員。
工事現場の作業員。
タクシー運転手。
年金生活らしい老人たち。
客層はばらばらなのに、不思議と店の空気は似ていた。
みんな急いでいるようで、急いでいない。
スマホを見ながら食べる客もいる。
新聞を読む客もいる。
テレビのワイドショーに文句を言う客もいる。
誰も特別ではない。
だから落ち着く。
「いっとく、今日も来たんか」
ある日、カウンターの老人が言った。
俺は思わず振り返った。
「俺ですか?」
「他に誰がおる」
老人は焼き魚をほぐしながら笑った。
「名前知られてたんですね」
「真由が言うてた」
「何をですか」
「毎日同じ席に座る営業マンがおるって」
俺は少し恥ずかしくなった。
その時、真由が味噌汁を運んできた。
「別に悪口ちゃいますよ」
「悪口やと思ってませんよ」
「ならええです」
そう言いながらも、真由は少しだけ笑った。
その笑い方は、まだどこか距離があった。
七月の終わり頃になると、店の人間関係が少しずつ見えてきた。
厨房で怒鳴っているのは父親の誠二。
六十歳前後だろう。
声が大きい。
短気。
頑固。
そして忘れっぽい。
三日に一度は醤油の場所を忘れている。
「真由!」
「何」
「醤油どこや」
「昨日と同じ場所」
「ない」
「ある」
「ない言うてるやろ」
「目の前や」
毎回同じ流れだった。
ある日など、本当に目の前にあった。
誠二は何事もなかったように醤油を使い始めた。
謝りもしない。
「お父ちゃん」
「何や」
「一回くらい謝れ」
「家族やろ」
「意味分からん」
客席から笑いが起きた。
誠二は不機嫌そうな顔をした。
だが少しだけ口元が緩んでいた。
そのやり取りを見ながら、俺は味噌汁を飲んだ。
「毎回あれですね」
俺が笑うと、
誠二さんが鼻を鳴らした。
「娘がうるさいだけや」
「いや、でも店の味は誠二さんが作ってるんですよね」
「そらそうや」
「俺、ここの味噌汁好きなんです」
「だし取ってるからな」
真由は黙ってそのやり取りを見ていた。
数日後、昼のピークが終わった頃、
今度は若い男が店に現れた。
「腹減った」
入ってくるなりそう言った。
身長は高い。
髪は少し長め。
二十代半ばくらい。
真由と目元が似ていた。
「大吾」
真由が呆れたように言う。
「働け」
「今からや」
「どこが」
「気持ちが」
「帰れ」
どうやら弟らしかった。
後で聞くと、配送関係の仕事をしているらしい。
働いているのか遊んでいるのか、よく分からない男だった。
「兄ちゃん常連?」
突然聞かれた。
「まあ」
「真面目そうやな」
「よう言われる」
「損するタイプや」
真由が頭を叩いた。
「余計なこと言うな」
「ほんまやろ」
「余計や」
俺には姉が二人いる。
仲は悪くない。
けれど大人になってからは、こういうやり取りをすることも減った。
その日の帰り際。
大吾が言った。
「また来いや」
なぜか嫌な気はしなかった。
八月に入ると、さらにもう一人増えた。
今度は女子大生だった。
「ただいまー」
そう言って店に入ってきた。
肩までの髪。
日焼けした肌。
明るい声。
真由とは正反対だった。
「お姉ちゃん、お腹空いた」
「知らん」
「家族やん」
「その理屈嫌いや」
次女の葵だった。
大学二年生。
よくしゃべる。
よく笑う。
よく食べる。
そして客にも遠慮がない。
「お兄さん常連さん?」
「まあ」
「営業?」
「何で分かるん」
「スーツ」
「そのままやな」
「私、賢いから」
真由がため息をついた。
「聞いてくださいよ」
葵が勝手に向かいへ座った。
「大学のゼミの先生、めっちゃ変なんです」
真由がため息をつく。
「また始まった」
だが葵は止まらない。
「それでな」
「それでな」
「それでな」
やっと終わった。
「大変やな」
俺がそう言うと、
葵は満足そうに頷いた。
真由が呆れた顔をした。
「最後まで聞いた人、初めて見た」
店内が笑った。
みなと食堂には、いつの間にか人が集まっていた。
料理だけではない。
この家族を見に来ている客もいるのだろう。
俺自身も、そうなり始めていた。
ある日の昼。
店へ入ると空気が少し違った。
誠二が静かだった。
厨房の音も少ない。
真由の顔色も悪い。
常連客たちも、どこか声を潜めている。
何かあったのだろう。
けれど誰も何も言わない。
俺も聞かなかった。
食堂という場所には、
客が踏み込まない方がいいことがある。
その日の帰り際。
パートのおばちゃんが俺を呼び止めた。
「中村さん」
「はい?」
「来週の日曜日、空いてる?」
「たぶん」
「手伝って」
意味が分からなかった。
「何をですか」
「手伝い」
「いや、何の」
「来たら分かる」
真由が奥から出てきた。
「断ってください」
「何でや」
「お客さんやから」
「常連やん」
「意味分からん」
結局、理由は分からないままだった。
数日後、真相を知ることになる。
服部家の母親の一周忌だった。
店は休み。
親族が集まる。
人手が足りない。
だから常連が呼ばれた。
俺以外にも常連客が三人いた。
魚しか信用していない老人。
タクシー運転手。
近所のクリーニング屋。
全員普通にエプロンを着けていた。
「何で皆さんいるんですか」
俺が聞くと、老人が言った。
「断りきれんかった」
「同じですね」
「同じや」
葬儀場ではなく、小さな集会所だった。
遺影を見て、俺は少し驚いた。
真由に似ていた。
優しそうな人だった。
そして、ようやく理解した。
店の空気がおかしかった理由。
真由の目の下に疲れがあった理由。
誠二の機嫌が不安定だった理由。
みなと食堂は最近まで母親が中心だったのだ。
誰も説明しなかった。
だから俺も知らなかった。
法要が終わった後、料理が並んだ。
客でも親族でもない俺たちは、
なぜか配膳を手伝わされた。
「何で俺まで」
「知らん」
真由も呆れていた。
だが、少しだけ表情が柔らかかった。
大吾が酒を運び。
葵が親戚の子どもに追いかけ回され。
誠二が怒鳴り。
祖父の栄作が居眠りしている。
相変わらず騒がしかった。
俺は空いた皿を重ねながら、その様子を眺めていた。
すると、栄作さんがふいに目を開けた。
「兄ちゃん」
「はい」
「よう働くな」
「手伝いに来ただけです」
「うちの親族より働いとる」
周囲から笑い声が上がった。
「そんなことないです」
「ある」
「真由の婿になる気あるか」
一瞬だけ場が静かになった。
次の瞬間、親戚たちが吹き出した。
「おじいちゃん!」
真由が顔をしかめる。
「冗談や」
「まず面接通らんと思います」
栄作さんが腹を抱えて笑った。
「分かっとるやないか」
真由も堪えきれずに吹き出した。
その笑い方を見たのは、その日が初めてだった。
帰り際。
エプロンを真由に渡す。
「ありがとうございました」
「何もしてません」
「してました」
「皿運んだだけです」
「十分です」
真由が少し疲れた顔で笑った。
三十歳の女性ではなく。
家族を支えている長女の顔だった。
帰り道。
駅へ向かいながら、ふと思った。
真由が笑った顔を、今日初めて見た気がする。
今までも笑っていたのだろう。
ただ、俺が見ていなかっただけかもしれない。
店へ通い始めた頃は、定食を食べるために来ていた。
今は少し違う。
誰がいるか。
今日は誰が機嫌が悪いか。
誰が怒られているか。
そんなことを気にしている。
いつの間にか俺は、みなと食堂という店の空気を食べに来ているのかもしれなかった。
第三章 オフサイド
九月に入っても暑かった。
大阪の夏は、毎年しつこい。
昼休み。
俺はいつものように、みなと食堂へ向かった。
のれんをくぐる。
揚げ物の音。
味噌の匂い。
誠二さんの怒鳴り声。
いつも通りだった。
ただ一つ違ったのは、真由の顔だった。
疲れている。
最近ずっとそうだった。
「いらっしゃい」
声はいつも通り。
けれど目の下の隈が少し濃い。
「日替わりで」
「今日は鶏の照り焼きです」
「お願いします」
真由は伝票を書きながら、
小さくため息をついた。
俺は聞かなかった。
聞けるほど近い関係ではない。
それに、聞かれたくない疲れもある。
俺自身がそうだからだ。
会社へ戻ると、同期の森が声をかけてきた。
「いっとく」
「ん?」
「金曜日空いてる?」
「接待か」
「違う」
森は笑った。
「紹介」
嫌な予感がした。
金曜日。
梅田の居酒屋。
相手は森の大学時代の友人だった。
名前は佐伯奈緒。
二十六歳。
広告代理店勤務。
よく笑う人だった。
「森から聞いてます」
「何をですか」
「真面目な営業マン」
「半分くらい嘘です」
「残り半分は?」
「知りません」
奈緒が笑った。
話しやすかった。
仕事の話。
学生時代の話。
休日の話。
自然に会話が続いた。
二軒目まで行った。
帰り際、奈緒が言った。
「またご飯行きません?」
断る理由もなかった。
「ぜひ」
そう答えた。
二回目は映画。
三回目は中之島のカフェ。
四回目は神戸だった。
気付けば付き合うことになっていた。
大人の恋愛だった。
学生時代みたいに、
毎日電話をするわけでもない。
会いたくて眠れなくなるわけでもない。
それも悪くなかった。
奈緒は明るかった。
自分の意見を持っていた。
仕事も好きそうだった。
一緒にいて疲れなかった。
だから今度こそ、
ちゃんと続くかもしれないと思った。
ある日。
奈緒が聞いた。
「一徳さんって、学生時代モテた?」
「急になんで」
「何となく」
「モテてへん」
「嘘や」
「ほんまや」
奈緒はコーヒーを飲みながら首を傾げた。
「元カノ、忘れてないやろ」
図星だった。
「分かりやすい?」
「ちょっとだけ」
窓の外を見た。
秋の空だった。
智子のことを思い出す回数は減った。
けれどゼロではない。
それが問題なのかどうか、
自分でも分からなかった。
十月。
みなと食堂へ行くと、
昼時なのに客が少なかった。
店の前に、新しい看板が立っている。
道路の向かい側だった。
大手チェーンの定食屋。
来月オープン。
派手な垂れ幕が風に揺れていた。
五百円ランチ。
ご飯おかわり自由。
オープン記念半額。
俺でも入る。
そう思った。
昼の客足が引いた後だった。
「ちょっといいですか」
俺は、真由に声をかけた。
「はい?」
「向かい、だいぶ安いですね」
「見てました」
少し迷ってから、俺は言った。
「メニュー、変える気とかないですか」
真由が顔を上げた。
「例えば?」
「日替わり、もう一品増やすとか」
「量少なめで、値段落とすとか」
誠二さんが、厨房の奥から言った。
「そんなん、うちの味ちゃう」
「ですよね」
「値段下げたら、質も下がる」
「それが一番あかん」
それでも、俺は続けた。
「でも」
「このまま何もしないで待つよりは」
真由がしばらく黙っていた。
「一回だけやで」
ぽつりと言った。
次の週、
“新・日替わり定食”が出た。
結果は、最悪だった。
味が安定しなかった。
常連の一人が首を傾げた。
「最近、ちょっと変わったな」
その一言が、胸に刺さった。
数日後、
新メニューはやめになった。
店は明らかに暇になった。
客が減ったわけではない。
常連たちは来る。
けれど新規客が流れている。
「勝てるわけないやろ」
厨房で誠二さんが言った。
「勝つとかちゃうやろ」
真由が返す。
「値段で勝てるか」
「勝てへん」
「ほな終わりや」
「終わらへん」
大吾が割って入る。
「二人ともやめろ」
「黙っとけ」
珍しく姉弟が同時に怒鳴られた。
店の空気が重くなった。
俺は何も言えなかった。
客だからだ。
その夜。
奈緒と食事をした。
イタリアンだった。
店内は明るい。
料理も美味かった。
どこか落ち着かなかった。
「何考えてるん?」
奈緒が聞いた。
「別に」
「別にじゃない顔してる」
俺は笑った。
「仕事」
半分嘘だった。
みなと食堂のことを考えていた。
十一月。
奈緒との関係は少しずつずれ始めた。
理由は小さなことだった。
会う頻度。
連絡の間隔。
休日の過ごし方。
どれも決定的ではない。
ただ、噛み合わなかった。
ある日。
奈緒が真顔で言った。
「一徳さんってさ」
「うん」
「誰とも本気で近づかへんよね」
「そんなことない」
「近づいてるようで、最後の一歩だけ引く」
「……」
「私だけやないと思う」
静かな声だった。
「昔、すごく好きやった人おった?」
「……」
奈緒は小さく笑った。
「おるんやな」
別れたのは、その一か月後だった。
喧嘩はしなかった。
泣かれもしなかった。
駅前で、
「元気で」
と言われた。
それだけだった。
十二月。
昼休み。
みなと食堂へ行く。
客は少なかった。
真由が一人でホールを回していた。
「大吾は?」
「配送」
「誠二さんは?」
「仕入れ」
食べ終わって会計をすると、
真由がレジに立った。
「最近、元気ないですね」
真由は少し驚いた顔をした。
「分かります?」
「毎日来てるんで」
以前、自分が言われた言葉だった。
真由は少し笑った。
「正直、きついですね」
初めて、弱音らしい弱音を聞いた。
「たまに、全部投げたなるねん」
そう言ってから、真由は慌てたように笑った。
「チェーン店ですか」
「それもあります」
真由はレジの引き出しを閉めた。
「母が亡くなってから、何とか回してきたんです」
「……」
「でも、何とかって、ずっと続かへんのですよね」
「父は昔ながらのやり方しか嫌や言うし」
「大吾は自由人やし」
「葵はまだ学生やし」
店内には客がいなかった。
テレビだけが流れている。
「すみません」
「お客さんに言う話ちゃいますね」
「いや」
言葉が出なかった。
励ます資格もない。
解決策もない。
帰り道。
スマホが震えた。
奈緒からだった。
最後のメッセージだった。
『今までありがとう』
俺はしばらく画面を見た。
ふと顔を上げる。
みなと食堂の看板が見えた。
古い。
小さい。
少し傾いている。
それでも、まだ立っていた。
俺はなぜか少しだけ安心した。
第四章 閉店時間
正月明け。
空気がやけに冷たい。
毎年のことなのに、身体はなかなか慣れない。
その日も俺は昼休みに食堂へ向かった。
店の前まで来て、足が止まった。
のれんが出ていない。
代わりに貼り紙があった。
【本日休業いたします】
定休日ではない。
臨時休業もほとんど見たことがなかった。
スマホを見る。
時間は十二時十分。
近くのうどん屋へ行こうかと思ったが、何となく気になった。
結局その日はコンビニでサンドイッチを買った。
味は覚えていない。
翌日も店は閉まっていた。
三日目も閉まっていた。
四日目の昼。
会社の帰りに前を通ると、店のシャッターは半分だけ開いていた。
中では明かりが点いている。
そっと覗く。
真由がいた。
一人だった。
テーブルに書類を広げている。
「服部さん」
声を掛けると、真由が顔を上げた。
「あ」
小さく笑った。
「いっとくさん」
久しぶりにその呼び方を聞いた気がした。
「どうしたんですか」
真由は少し迷った。
「父が倒れました」
「え?」
「脳梗塞です」
「軽いんですけど」
「今は?」
「入院してます」
「大丈夫なんですか」
「命は」
真由はそこで言葉を切った。
「ただ、右手が少し動きにくくて」
厨房で包丁を握る右手だった。
「そうですか」
真由は無理に笑った。
「大丈夫です」
翌週の日曜日。
俺は病院へ向かった。
ただただ、気になった。
受付で病室を聞く。
個室ではなかった。
四人部屋だった。
誠二はベッドの上でテレビを見ていた。
「あれ」
俺を見るなり言った。
「営業マンやん」
「営業マンです」
「何しに来た」
「見舞いです」
「暇なんか」
「少しだけ」
元気そうだった。
右手には違和感があった。
ペットボトルを持つ動きがぎこちない。
誠二は機嫌が悪かった。
「店どうですか」
「知らん」
「真由に聞け」
病室を出ると、廊下に真由がいた。
「来てたんですか」
「たまたまです」
病院のロビーで缶コーヒーを買う。
「大変ですね」
「まあ」
「大吾は配送の仕事あるし」
「葵は大学やし」
「祖父は祖父やし」
「だから私がやるしかないんです」
「……」
それから俺は時々病院へ行くようになった。
週に一回。
多い時は二回。
誠二は相変わらず文句ばかりだった。
「飯まずい」
「リハビリしんどい」
「退屈や」
看護師に怒られる。
翌日には同じことを言う。
だが少しずつ歩けるようになっていた。
右手も少しずつ動くようになっていた。
真由と話すことが増えた。
病院のロビー。
自動販売機の前。
駐車場。
仕入れ先の話。
店の家賃。
ガス代。
人件費。
売上。
真由はあの時と同じように弱音を吐いた。
「正直」
「ちょっとしんどいです」
一徳は何も言わなかった。
二月に入った。
みなと食堂はまだ休業していた。
シャッターは閉まったまま。
店の前を通るたびに寂しかった。
ある土曜日。
真由から珍しく連絡が来た。
「少し手伝ってもらえますか」
「何を?」
「店です」
翌日。
みなと食堂へ行く。
店内は思った以上に荒れていた。
厨房には段ボール。
仕入れ伝票。
掃除道具。
食材。
真由はエプロン姿だった。
「すみません」
「何したらいいですか」
「聞けへんのですか」
「何を」
「何で呼ばれたか」
「人手不足」
「正解です」
久しぶりに真由が笑った。
その日、俺は三時間働いた。
段ボールを運ぶ。
棚を掃除する。
冷蔵庫を整理する。
気付けば夕方になっていた。
帰り際、真由が缶コーヒーを渡してきた。
「バイト代です」
「安いですね」
「経営苦しいんで」
「それは困る」
冬の空気は冷たかった。
「ありがとうございます」
真由が言った。
「助かりました」
俺は缶を見つめた。
智子を好きになった時。
会いたかった。
声を聞きたかった。
笑ってほしかった。
今は違う。
真由がちゃんと眠れているか。
店が大丈夫か。
誠二の容体はどうか。
そんなことばかり考えている。
店を出ようとした時だった。
奥から誠二の声がした。
退院してきたばかりの誠二が、杖をつきながら立っていた。
「営業マン」
「はい」
「また来るんか」
「たぶん」
「物好きやな」
「そうかもしれません」
真由が小さく笑った。
ほんの少しだけ。
俺は、その笑顔を初めて綺麗だと思った。
外へ出る。
店の看板は消えたままだった。
みなと食堂はまだ開いていない。
それでも俺には、不思議と閉店しているようには見えなかった。
試合終了の笛は、まだ鳴っていない気がした。
第五章 朝六時の仕込み
一月いっぱい、店は開かなかった。
二月も臨時休業を繰り返した。
みなと食堂が本格的に再開したのは、
三月に入り二週間ほど経ってからだった。
【本日より営業します】
黒板には、真由の字でそう書かれていた。
その下に、小さく、
【日替わり 豚汁定食】
とある。
十二時になると、結局いつもより早足で会社を出ていた。
店の戸を開けると、だしと味噌の匂いがした。
「いらっしゃい」
少し痩せたように見えた。
「日替わりで」
「再開初日から迷わないですね」
「迷うほどメニュー見てませんから」
「失礼ですね」
そう言いながら、真由は厨房に声をかけた。
「豚汁一つ」
奥から誠二の声が返ってきた。
「聞こえてる」
その声は前より少し低かった。
勢いも少し足りない。
誠二が厨房に立っている。
包丁を握るのは真由だった。
誠二は味噌汁の鍋を見る。
焼き魚を返す。
時々、口だけを出す。
「そこ、もうちょい薄く切れ」
「分かってる」
「分かってへんから言うてるんや」
「お父ちゃん、今その手で切られへんやろ」
「口は動く」
「一番厄介やな」
客席から小さな笑いが起きた。
俺も笑った。
豚汁はうまかった。
具が多すぎるほど入っていた。
大根。
人参。
ごぼう。
こんにゃく。
豚肉。
食べながら、身体の奥が少し温まっていくのが分かった。
店はまだ本調子ではない。
客も以前ほど多くない。
向かいのチェーン店には、昼時になると相変わらず人が並んでいる。
それでも、みなと食堂は開いていた。
会計の時、真由が言った。
「日曜、空いてます?」
俺は財布をしまいながら聞き返した。
「また人手不足ですか」
「はい」
「今度は何を」
「仕込みです」
「俺、料理できませんよ」
「知ってます」
「何で知ってるんですか」
「できそうに見えへんから」
「失礼ですね」
「事実です」
真由はそう言って、少しだけ笑った。
日曜の朝。
俺は六時前に目が覚めた。
窓の外はまだ暗い。
冬の朝六時。
その時間には、少しだけ記憶がある。
昔なら、スマホを見ていた。
画面が光るのを待っていた。
今は違った。
着替えて、顔を洗い、まだ薄暗い道を歩く。
みなと食堂の裏口には、すでに明かりが点いていた。
「おはようございます」
「早いですね」
「六時って言われたんで」
「ほんまに来ると思ってませんでした」
「呼んだのそっちですよ」
「そうでした」
厨房は寒かった。
大きな鍋が並び、シンクには野菜が山のように置かれている。
キャベツ。
玉ねぎ。
大根。
人参。
段ボールの中にはじゃがいももあった。
「とりあえず、これ洗ってください」
「はい」
俺は袖をまくった。
水が冷たい。
指先がすぐに痛くなる。
真由は横で手際よく大根を切っていた。
その背中が少し小さく見えた。
「毎朝こんな感じですか」
「毎朝ではないです」
「じゃあ?」
「もっと早い日もあります」
「店って大変ですね」
「今さらですか」
「食べる側やったんで」
「食べる側の人は、知らん方が幸せです」
真由は笑わずに言った。
「でも、知ってもらえるのは、少し助かります」
一徳は大根を洗い続けた。
しばらくして、大吾が入ってきた。
「寒っ」
「遅い」
真由が言う。
「六時半集合やろ」
「六時や」
「聞いてへん」
「聞いてないふりすな」
大吾は俺を見つけると、にやっと笑った。
「兄ちゃん、ほんまに来てるやん」
「来てます」
「もう店員やな」
「違います」
「いや、ほぼ店員や」
葵も遅れてやって来た。
「おはよー」
声だけは元気だった。
目は半分閉じている。
「葵、髪」
真由が言う。
「分かってる」
「分かってないから落ちてる」
「お姉ちゃん細かい」
「食品扱うねん」
「はいはい」
祖父の栄作は、いつの間にかカウンターに座っていた。
手伝うわけでもなく、新聞を広げている。
「じいちゃん、何しに来たん」
大吾が聞く。
「監督や」
「いらん」
「サッカーにも監督おるやろ」
なぜか俺を見る。
「はい」
「ほな必要や」
「たぶん違います」
厨房で笑いが起きた。
朝七時を過ぎる頃には、店の空気が少しずつ動き始めていた。
米を研ぐ音。
鍋が沸く音。
包丁がまな板を叩く音。
誠二の文句。
真由の返事。
大吾の雑な歌。
葵のあくび。
栄作の咳払い。
その全部が混ざって、みなと食堂の朝になっていく。
俺はキャベツを切らされた。
最初の一玉はひどかった。
太さがばらばらだった。
「これは千切りですか」
真由が聞いた。
「そのつもりです」
「短冊ですね」
「短冊キャベツ」
「商品名みたいに言わんといてください」
大吾が横から覗いた。
「不器用やな」
「営業なんで」
「関係ある?」
「ない」
真由が少し笑った。
その笑顔を見て、俺は手元を見るふりをした。
十時前。
一通りの仕込みが終わった。
真由は大きく息を吐いた。
「助かりました」
「役に立ちました?」
「キャベツ以外は」
「キャベツも努力はしました」
「努力は認めます」
その時、栄作が新聞を畳んで言った。
「お前、婿か?」
厨房が止まった。
大吾が笑いかけて止まり、葵が目を丸くし、
誠二が鍋の前で固まった。
真由だけが、顔を赤くした。
「じいちゃん」
「違うんか」
「違う」
「ほな何や」
「常連さん」
「常連が朝六時からキャベツ切るか」
栄作は満足そうに茶を飲んだ。
「まあ、ええけどな」
その日の昼営業は忙しかった。
再開を待っていた常連客が来た。
魚しか信用していない老人も来た。
タクシー運転手も来た。
近所のクリーニング屋も来た。
俺は客席ではなく、厨房の端にいた。
皿を運ぶ。
水を出す。
空いた食器を下げる。
注文を間違えそうになって、真由に睨まれる。
「生姜焼き二つ、唐揚げ一つ」
「はい」
「違います。逆」
「すんません」
「営業さん、注文取るの弱いですね」
「いつも売る側なんで」
「今日は受ける側です」
昼のピークが過ぎた時には、足が重かった。
会社の営業で歩き回るのとは違う疲れだった。
逃げ場がない。
次から次へと用事が来る。
誰かが水を欲しがる。
誰かが会計をする。
誰かが箸を落とす。
誰かが味噌汁をこぼす。
その全部に、真由は当たり前のように対応していた。
俺は初めて思った。
自分はこの店のことを、何も知らなかったのだと。
夕方。
店を閉めた後、真由は裏口の外に出た。
俺も缶コーヒーを持って外へ出た。
「疲れた?」
真由が聞いた。
「めっちゃ疲れた」
「正直やね」
「嘘ついてもばれそうなんで」
真由は少し笑った。
俺は缶コーヒーを飲んだ。
ぬるかった。
「うちの家族、重たいやろ」
「父はあんなやし」
「大吾は適当やし」
「葵はまだ学生やし」
「おじいちゃんは何考えてるか分からんし」
「店は古いし」
「借金もあるし」
「母はもうおらんし」
一つずつ並べるたびに、真由の横顔が少し硬くなった。
「普通の人なら、関わらん方がええです」
真由はこちらを見なかった。
「いっとくさん、優しいから」
その言葉に、少し胸が痛んだ。
「重たいかどうかは、まだ分からん」
「でも」
「今日、朝から手伝って思いました」
「うん」
「店って、一人で持つもんちゃうんやなって」
「家族も、たぶんそうなんやろな」
「そういうこと言うから、困るんや」
「すんません」
「謝らんといて」
真由は缶コーヒーを見つめた。
「ほんまに困るんやで」
好きなのだと気づいた。
智子の時とは違う。
胸が跳ねるような恋ではない。
眠れなくなるような恋でもない。
もっと静かで、面倒で、逃げにくいものだった。
店の中から大吾の声がした。
「お姉ちゃん、米どこ置くん!」
「ほんま、何回言うたら分かるんやろ」
「行きましょか」
俺が言うと、真由は少し笑った。
「うん」
二人で店へ戻る。
暖簾はもうしまわれていた。
朝六時から始まった一日は、ようやく終わろうとしていた。
閉店時間の後にも、店にはまだ仕事がある。
「いっとくさん」
「また、来週も来てくれる?」
「キャベツ以外やったら」
「キャベツも」
「厳しいですね」
「育てますから」
真由が、いたずらっぽく、微笑んだ。
厨房の奥で、誠二が咳払いをした。
大吾がにやにやしている。
葵は笑いをこらえている。
栄作だけが、何もなかったように茶を飲んでいた。
「ほら」
栄作が言った。
「やっぱり婿や」
今度は、誰もすぐには否定しなかった。
第六章 ホイッスルの向こう側
十一月の終わりだった。
大阪にもようやく冬の気配が降りてきていた。
みなと食堂の換気扇から立ち上る湯気が、以前より白く見える。
客は帰り、店内には片付けの音だけが残っている。
俺は厨房の隅で洗い物をしていた。
休日だけの手伝い。
気付けば、それが当たり前になっていた。
最初は法事だった。
次は買い出し。
その次は配達。
そして今では、エプロン姿の俺を見ても常連客は驚かない。
「いっとく、キャベツそこ置いといて」
真由が言った。
「了解」
誠二さんは相変わらず怒鳴っている。
大吾は相変わらず怒られている。
葵は相変わらずうるさい。
祖父の栄作さんは相変わらず寝ている。
客足は戻り切っていなかった。
大型チェーンは予想以上に強かった。
常連は来る。
新規客は減った。
売上は前年を下回っている。
さらに追い打ちをかけるように、大家から連絡が来た。
建物の老朽化。
再開発計画。
契約更新は難しい。
半年後には立ち退いてほしい。
そんな話だった。
誠二さんは怒った。
大吾は大家に文句を言った。
葵は泣いた。
真由だけが黙っていた。
その日からだった。
真由の笑顔が減ったのは。
閉店後。
シャッターは半分閉まっている。
真由はメニュー書きの黒板を拭いていた。
「寒ない?」
俺が言う。
「寒い」
「中入ったら」
「もうちょい」
チョークの粉が舞った。
「たぶん、終わりやと思う」
シャッターの向こうで、何かが倒れる音がした。
真由は黒板を拭く手を止めた。
「なあ」
「いっとくさん」
「ん?」
「もう、ええねん」
「頑張っても、無理な時あるやろ」
「……」
「続けたい気持ちだけで、店は残らん」
「いっとくさん、優しいけどな」
「中途半端に関わらんといてほしい」
「お客さんのままでいてくれた方が、楽やった」
何も返せなかった。
「ごめん」
真由は小さく笑った。
「そういうとこやねん」
それから二週間、店には行かなかった。
昼はコンビニで済ませた。
味は覚えていない。
守ったらええ。
距離を取ったらええ。
今までみたいに。
またそれか。
帰り道、足が止まった。
店のすぐそばまで来ていた。
シャッターは閉まっている。
静かだった。
関係ないはずやった。
しばらく立って、思った。
ずっと線を引いてきた。
越えへんように。
失点せえへんように。
何か取れたか。
何もなかった。
今回も、引くんか。
智子の時と、何が違うんや。
向こうが忙しかった。
向こうに好きな人ができた。
そう言えば、全部きれいに終わる。
でもほんまは、
俺が何も言わんかっただけや。
嫌われるのが怖くて、
選ばれへん理由を、相手に預けてきただけや。
失点せえへんように、
ずっとラインの後ろにおった。
そのくせ、点が入らん人生やって、
文句だけは言うてきた。
真由は違う。
投げたなる言うてたくせに、
店にも、家族にも、残ってる。
逃げへん人の横で、
また何もせえへんかったら、
俺は一生、外から見てるだけや。
「ちゃうやろ」
自分に言った。
振り返らずに歩き出した。
翌日の夜、俺は再び店の前に立っていた。
半分閉まったシャッターの隙間から、真由が一人で片付けをしているのが見える。
俺はシャッターを叩いた。
驚いて顔を上げた真由と、視線がぶつかる。
「前に一回、間違えたからや」
「そやから今度は、逃げへん」
「え?」
「移転先」
「いや」
「資金」
「いや」
「常連客」
「いやいや」
真由は困ったように笑った。
「関係ないやん」
「関係ある」
「俺も一緒に考える」
「毎日昼飯食わせてもろた」
「それは客やから」
「父ちゃんの見舞いも行った」
「勝手に来てたやん」
「法事も手伝った」
「断れたやろ」
「断らへんかった」
「関係ないって言うなら、それでもええ」
「……」
「でも俺は関係あると思ってる」
「だから、一緒に考える」
「何で」
「好きやからやと思う」
「遅い」
「すまん」
「めっちゃ遅い」
「知ってる」
「全部、一人で決めたきたんやで」
「……」
「今さら一緒にって、都合よすぎるやろ」
「そやから、一緒に考える」
「アホやな」
「知ってる」
「ずっと待ってた」
真由は泣きながら笑った。
店の中から大吾の声が聞こえた。
「姉ちゃんー!」
続いて葵。
「お腹すいたー!」
さらに誠二さん。
「醤油どこや!」
真由が吹き出した。
店の中は相変わらずだった。
店の片付けが終わった頃には、日付が変わりかけていた。
最後の客が帰り、暖簾をしまい、厨房の火を落とす。
真由はカウンターの椅子に腰掛けた。
「疲れた」
「お疲れさん」
俺は湯呑みに茶を注いだ。
店内には換気扇の音だけが残っている。
真由がぽつりと言う。
「ほんまに、一緒に考えてくれるん?」
「言うたやろ。俺も当事者や」
真由は少しだけ笑った。
「当事者って。ただの客やったのに」
「今はもう、ただの客ちゃうやろ」
真由は天井を見上げた。
「一人やったらもう諦めてたと思う」
俺は湯呑みを置いた。
「真由」
「これからも、一緒にやらへんか」
「店も、人生も」
真由の目が少しだけ潤んだ。
「プロポーズ下手やな」
「知ってる」
「ほんまに下手」
「すまん」
「私も、一緒にやりたい」
「新しい店、絶対見つけような」
「うん」
二人の物語が、
新しいピッチへと動き出した瞬間だった。
エピローグ
結婚式まで、あと二か月になっていた。
休日の午後。
俺と真由は駅前のショッピングモールを歩いていた。
「緊張するな」
真由が言った。
「結婚式?」
「違う」
「ほな何や」
「指輪」
「結婚する方が大事やろ」
「それとこれとは別や」
エスカレーターを上がり、ジュエリーショップへ入る。
ガラスケースの中で、たくさんの指輪が照明を受けて光っていた。
店員がいくつか並べてくれる。
細いもの。
少し幅のあるもの。
艶の強いもの。
落ち着いたもの。
真由は真剣な顔で見比べている。
「どれがええと思う?」
「毎日つけるんやろ」
「そらそうや」
「ほな、あんまり派手なんはやめた方がええんちゃう」
「夢ないなあ」
「現実派やからな」
俺もケースの中を覗き込む。
同じように指輪を買ったことがあった。
その時は、背伸びをしながら選んでいた。
今は違う。
真由の手に馴染むか。
仕事の邪魔にならないか。
「これ」
真由が一本の指輪を差し出した。
「どう?」
派手ではないが、真由によく似合っていた。
「ええやん」
「ほんま?」
「うん」
「じゃあ、これにしよか」
真由が頷いた。
店員が手続きを始める。
その間、俺は隣に座る真由を見ていた。
季節は何度も巡った。
みなと食堂の暖簾は変わらず揺れ、
俺も変わらず家族として店を支えた。
変わらないように見える日々の中で、
気づけば、いくつかの大切なものだけが、
少しずつ増えていた。
春だった。
みなと食堂は今日も開いている。
昼前になると客が並び始める。
厨房では真由が怒り、
大吾が怒られ、
誠二が口を出し、
葵が笑っている。
昔と変わらない。
変わったこともある。
俺はカウンターの端で、小さな女の子を抱いていた。
「お父ちゃん」
「ん?」
「おなかすいた」
「さっき食べたやろ」
「また食べる」
真由に似ていた。
よく食べるところも。
よくしゃべるところも。
「将来大変やな」
誠二が言う。
「誰に似たんやろな」
「お前や」
全員が同時に答えた。
店内に笑いが広がる。
暖簾が揺れた。
新しい客が入ってくる。
忙しくなる。
俺は娘を抱き上げた。
窓の外では、
近くの小学校から子どもたちの声が聞こえていた。
その中に、運動場のホイッスルが混じる。
俺は少しだけ耳を澄ませた。
昔なら、終わりの音に聞こえたかもしれない。
今は違う。
「いっとく」
真由が呼ぶ。
「手ぇ空いてる?」
「空いてへん」
「空けて」
「無茶言うな」
娘が笑った。
俺も笑った。
ふと、思った。
あの朝六時の通話がなかったら、
俺はここにいなかった。
人生は、だいたいそんなもんだ。
遠くで、もう一度ホイッスルが鳴った。
今度は、試合開始の笛のように聞こえた。
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