【第2回】京都は子鹿と山椒魚と他人の町である
この映画のために取材で京都を訪れたときの話です。高野川のほとりに、小雨のなか子鹿が1匹うろうろしていました。その姿が雨宿りする木立を探しているみたいに見えて、ちょっとため息が出るほど感動してしまったので、先祖代々京都で暮らしている友人に伝えたんですよ。「京都は150万人の大都市なのに普通に鹿がいるなんてすごいですね」と。すると友人から「まあ山とつながってるから、降りてきたんやろね」と、当たり前としかいいようのない返事をもらいました。
あんまりだ。僕なんか(いかにも鹿がウヨウヨ出そうな)四国の山奥の出身なのに地元で子鹿の雨宿りなんていう情景を見たことがない。なんでこの人は自慢してくれないんだと、少々不満だった僕は続けて、「鴨川の河原にオオサンショウウオ出現というニュースを見たこともありますよ」と話しました。これなら友人も一緒に驚いてくれるはずと思ったら、またも涼しい顔で「まあ、上流から泳いできたんやろね」と身も蓋もないことを言うのです。特別天然記念物にして世界最大の両生類という生物界の大スターが自分の地元に生息していることにどうしてこの人は無関心なんだろうと、可笑しいような寂しいような気分になりました。
しかしこれ、あとで思ったんですけども、京都の人は「地元」としての京都と「記号」としての京都を分けて考えているということですよね。生活の拠点である地元は大事だけれど、記号は自分のものではないので距離を選ぶことができる。したがって京都以外の人が記号京都に関心を向けているのに直面した場合、もてなすのが仕事でもない限り、ふうんといった顔で他人事のように受け流すのは普通でしょう。文化的に高い価値を有するものが生活圏にたくさんあるので、よその人にいちいち同調していたらキリがないんです。天然記念物も世界遺産も、わがことのように自慢するわけがないんです。
それと同時にわかったのは、せっかく京都に来たんだから京都らしいものを見たいという自分の願望の大きさでした。ちょっと呆れましたね。川で鹿を見たくらいで気分がよくなっているなんてずいぶん手軽な人間です。見たのがオオサンショウウオだったら感激のあまり気絶したかもしれません。

主人公の渋澤まどかは夫の実家である老舗扇子店に滞在しつつ、コミックエッセイの題材として京都の商家を訪ね歩きます。商家の女将さんたちが何を自慢するでもなく淡々としているいっぽう、なにしろまどかはネタ探しの取材なので、見たもの聞いたものについていちいち大きく関心を向けます。ああ、まるであの日の自分のようだと振り返るたび笑ってしまうんですが、まどかのほうは笑うどころか真剣そのものです。持てるものすべてを使って憧れの京都を外敵から守ろうとする主人公を、深川麻衣さんは親しみをもって演じてくれました。
