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『悪魔は花弁に潜む』 #1

 あらすじ

 30歳の予備校講師・津田修司は、美しい浪人生・早瀬葵と出会う。
 家族から見放された孤独と、死への甘い憧れを抱える早瀬は、津田のなかにある空洞を見抜き、閉ざされた心に強引に踏み込んでいく。
 彼女に翻弄されるうちに、津田は愛、生命の尊厳、幸福の意味を問われ、やがて二人の関係は危うい地点へ向かう。
 逃げ延びた津田は、そこで新しい生活と穏やかな愛を得るが、早瀬が残した爪痕は消えない。
 毒花が咲き乱れるなか、一年後に再会した二人は、もう一度、生と死の境に立つ。
 これは、他者によって壊され、壊されたことで初めて生を知った男の物語。


 第一章 テレジアの肖像

 掌には、まだ薄い殻が潰れる感触が残っていた。


 窓の向こうには、初夏の光が滲んでいる。
 教室には午後のぬるい湿り気が漂い、わずかに開いた窓の隙間から青臭い街路樹が覗いていた。

 郊外にある予備校の一室。現役生が高校に通っているこの時間、そこは浪人生たちで満たされていた。

 講師の津田修司は、ホワイトボードにマーカーを走らせ、助動詞の活用表を淡々と書きつけていた。ペン先の擦れる音が、教室に単調な律動を刻んでいる。

 生徒たちは黙々とノートを埋めている。その様子は勤勉というより、むしろ惰性に近かった。ろくに顔を上げる者はおらず、質問の手も挙がらない。ここでの時間は、誰にとってもただの通過儀礼なのだと、いつしか津田は思うようになっていた。

 毎年の受験生を悩ませるこの活用表も、彼にとってはすでに無意味な日常の一部だった。

 津田があくびを噛み殺しながら、意識を半分だけ板書へ向けていると、残りの半分は昨晩の感触へと沈んでいった。

 昨晩、酒をしこたま飲んで帰った玄関先で、津田はよろめいた。あわてて手をつくと、壁の表面にあるはずのない、湿った柔らかさが掌に触れた。

 次の瞬間、掌の下で薄いものが、ぐしゅりと砕けた。

 津田は反射的に手を引いた。
 外灯の下に目を凝らすと、壁に小さなカタツムリが潰れていた。

 たいしたことではない。そう思った。
 殺した、というほどのことでもない。たまたま掌の下にいた小さな生き物を、酔った身体が潰してしまった。それだけだ。

 それでも、昨晩はなかなか寝つけなかった。掌を何度洗っても、あの薄い殻が手の下で潰れる感触だけが、皮膚の内側に残っている気がした。


 「『べし』には、どんな意味が含まれる?」

 津田は板書に区切りをつけ、生徒たちに向かって問いかけた。不快感を遠ざけたい思いから、無意識に声を張っていた。

 窓の外で、街路樹が風に揺れている。
 沈黙のなかで、誰かのスマートフォンのバイブ音だけが、やけに大きく響いた。

 「……誰もわからないか。ちょっと意地悪な質問だったかもな。
 この言葉は、当然、義務、推量、意志、決意、可能、命令、適当。これらの意味が含まれている」

 ホワイトボードに「べし」と改めて書きながら、津田は続けた。

 「一つの言葉にこれだけの意味を詰め込んでも、昔の人は普通に会話してたんだから、大したもんだよな」

 教室のあちこちで、ペン先がまた走りはじめた。

 「結局、言葉なんて文脈次第だ。なにを言ったかより、誰が、いつ、どこで言ったかのほうが大事だったりする。
 ……まあ、そこのところは入試も同じだ。前後を読むといい。次行くぞ」


 なぜ自分が学ばなければならないのか、本当の意味でわかっている者など、ここには一人もいない。津田にはそう見えていた。
 だが、この教室で求められているのは、そもそもそんな問いではない。
 出題者の意図を読み、用意された正解を返すこと。それだけだ。
 たしかに、世の中は正解のない問いで溢れている。
 しかし、そんなことは社会に出てから嫌というほど思い知ればいい。
 今ここで必要なのは点数だ、と。
 彼はそう割り切っていた。

 かつては自分も浪人生だった。
 予備校に通い、その後は有名大学を卒業し、今はこうして“新しい浪人生”に文法を教えている。
 誰もが名を知る大学を卒業したところで、希望した職に就けるわけでもない。
 30歳になった今、自分がなんのために大学へ進んだのかすら思い出せなくなっていた。


 換気をしているのに、教室の空気はどこか重たく、かすかに汗のにおいを含んでいた。
 ペンの音と時計の秒針が重なり、時間が粘つきながら進んでいく。

 知は、人を自由にする。
 津田はかつて、そう信じていた。
 だが今は、板書した文字が自分を檻に閉じ込めているように思えた。


 ふと視界の端に、一人の女生徒が入り込んだ。
 窓際の席、胸まである豊かな黒髪が光を受けて透けている。
 白い指先がノートをなぞり、赤いボールペンがその脇を滑っている。

 知的な顔立ちをしていた。
 少なくとも、津田にはそう見えた。

 白い額。幼さを残しながらも引き締まった口元。
 その顔を見た瞬間、一枚の絵画が脳裏に浮かんだ。
 ――『11歳の女帝マリア・テレジア』
 帝国を背負う少女。
 幼さの奥の、不思議な威厳。

 教室の窓際に座るその姿は、記憶のなかの絵画の少女と重なり、妙に現実離れして見えた。

 板書のために顔を上げたその女生徒と、目が合う。
 津田ははっとして目を逸らした。

 少し見過ぎていたか、と反省する。
 毎年入れ替わり立ち替わり現れる浪人生の顔など、覚える必要はなかった。
 名前と成績だけ押さえておけば十分だ。
 そう思いながらも、津田は座席表に視線を落とし、名前を追っていた。

 ――早瀬、葵。

 記憶していた模試の順位表と照らし合わせる。
 成績は、下から数えた方が早い。
 見かけ倒しだ。

 それが落胆か安堵か、自分でもわからなかった。
 だが、その直後にはまた視線が彼女へ引き戻されていた。

 津田はふと、彼女の手元に見慣れない奇妙な物体があることに気が付いた。
 はじめは消しゴムの欠片のように見えた。
 しかし、その輪郭は妙に細く、先端だけが鋭く尖っていた。

 津田は、すぐにホワイトボードへ向き直った。
 書きかけた文字を続けようとして、一瞬だけ、次の助動詞の活用を思い出せなかった。

 津田はそれを、昨晩の寝不足のせいにした。



 チャイムが鳴り、生徒たちが次々に席を立ちはじめた。
 椅子が軋み、鞄の金具が鳴った。

 津田はマーカーにキャップをはめ、ホワイトボードを一瞥した。


 「津田先生」

 背後から名前を呼ばれ、振り向いた。
 窓際に立っていたのは先ほどの女生徒、早瀬葵だった。
 他の生徒が教室を出ていくなか、彼女だけが教卓へ近づいてきた。


 「……どうした?」

 自分の声が硬くなっているのを感じた。


 「さっきの『べし』の説明、もう一回お願いできますか?
 意味がたくさんあるっていうのが、よくわからなくて」

 早瀬は少し首を傾けながら言った。
 それから手に持っていたノートを開き、赤で引いた行を指さした。
 細く白い指先の動きに、つい目が奪われそうになる。


 「……『べし』は、文脈で意味が変わる助動詞だ。受験でよく問われるのはこの三つ――『推量』『意志・決意』『当然・義務』」

 ホワイトボードに残っていた例文をマーカーの尻でなぞりながら続けた。

 「たとえば『人はパンのみをもって生くべからず』なら、“当然”の意味。
 『明日は行くべし』なら、“意志”。
 引っかかりやすいのは、“推量”の部分だな。
 『雨ふるべし』とあれば、“雨が降るだろう”になる」


 早瀬は素早くペンを走らせたが、眉間には皺が寄っていた。
 ノートを埋めたあとで首を傾げ、それから不服そうに顔を上げた。

 「なんでこんなことになってるんですか、この言葉。
 こんなに意味があったら、意味がないのと同じじゃないですか」


 「は?」


 「だって、こんなのわかんなくないですか?
 この言葉作った人、頭悪いのかな」


 「さっきも言ったが、文脈で判断するんだよ。一番自然になるようにな。
 試しにさっきの例文に、わざと他の意味を当てはめてみたらいい。成立しなくなるから。
 それに、言語ってのは長い年月をかけて実際に使われながら自然に培われていくものだ。作った人なんていない」


 「だけどこんなの、多少不自然だろうと、出題した人が“こっちが正解です”って言えば、それまでじゃないですか。あとでいくらでも言えちゃいます」


 「いいんだ、今はそんなこと考えなくて。
 出題者の意図を読み取れば、ちゃんと答えられるようになってるから。
 もし難しければ、パターンが限られているからそれを覚えるといい。受験ならそれで十分だろ」


 「……ねえ、津田先生って、こういうの教えてて嫌になったりしないんですか?」


 「なんでだ?」


 「だって先生、全然楽しそうじゃないから。
 数学の先生は、質問したら喜んで語ってましたよ? 半分くらい意味わかんなかったけど」


 「あの人は……変わってるから」


 「本当は、こんなことどうでもいいって思ってるんじゃないですか?」

 津田は少しの間、言葉を返さなかった。
 反論すべきか、流すべきか、決めかねていた。
 その間も、早瀬の目はじっとこちらを覗き込んでいた。まるで井戸のなかに石を落とし、その深さを確かめるように。


 「……お前がそう言うなら、そうなのかもな」

 努めて淡々と返したが、早瀬はそれを見て口元を歪めた。
 どこか満足したように。
 津田にはその意味がわからなかった。
 けれど、ひとつ確かに感じたのは、他の生徒とのやり取りにはない温度がそこにあった、ということだった。


 「ありがとうございました」

 そう言って彼女はノートを閉じ、大きな黒いリュックにしまった。


 「……ちょっと待て。
 お前さ、さっき授業中に、なにか変なものいじってなかったか?」

 津田がそう訊くと、早瀬は少しだけ目を細めたあと、筆箱のなかを探った。


 「ああ、これですか?」

 彼女の指先に摘まれていたのは、白く乾いた小さな欠片だった。先端は鋭く、根元に向かってわずかに黄ばんでいる。動物の牙のように見えた。


 「なんだ、それ」


 「拾ったんです」


 「拾った?」


 「なんか、よくないですか? 津田先生はこれ、なんだと思います?」

 津田は眉をひそめた。


 「犬かなにかの牙に見えるが」


 「私は、タヌキかなって思ってます。タヌキの牙」


 「……なぜ?」


 「よく車に轢かれてるじゃないですか、タヌキって。大体は回収されるけど、たまにこういうのだけ残るのかなって」


 津田は思わず顔をしかめた。

 「動物の口腔内には病原菌がいる。むやみに触るものじゃないし、まして持ち歩くなんて論外だ」


 「大丈夫です」

 そう言って、白い欠片を光に透かすように持ち上げた。

 「これ、そうとう時間経ってますよ。死んでから」

 早瀬は白い欠片を筆箱に戻し、何事もなかったように教室を出ていった。
 その背中を見送りながら、津田は掌を軽く開いた。
 昨晩、カタツムリを潰したときの感触が、なぜかまた皮膚の内側に戻ってきていた。

 窓からの光はまだ白く、教卓の上に差し込んでいた。



 六月の午後。
 同じ風景が反復される。

 津田がホワイトボードに文法事項を並べ、生徒たちは無言でそれをノートに写していた。
 時計の針の音とペン先の擦れる音が教室に漂い、時間はただ溶けていくだけだった。
 その単調さも、彼にとっては倦怠というより、むしろ習慣の一部だった。
 だからこそ、視線の端に映る横顔が、わずかな異物感をもたらしていた。

 窓際に座る女生徒。
 光を纏った黒髪。
 つんとした鼻先。
 白い頬には、淡い紅色が自然に差していた。
 その佇まいには、少女らしさと大人びた静けさが、危うい均衡で同居していた。

 その姿が教室の景色から浮き上がるたび、津田は心の奥で小さく苛立ちを覚えた。

 鬱陶しい、と。
 均一な灰色の時間に、一筋の光が差し込むようで。

 見なければいい。
 カーテンを引くように、視界から閉ざしてしまえばいい。

 それができなかったのは、ただその光が美しかったからだった。



 「先生、この『む』は“推量”ですか? “意志”ですか?」

 授業後、津田の元へまた早瀬が近づき、ノートを開いた。


 「推量だ。文脈で判断する。
 主語が一人称なら意志、三人称なら推量になることが多い」


 「ふーん……なるほど。でも、三人称でも意志の場合あるんですよね?」


 「ある」


 「じゃあ結局、感覚ですよね」


 津田は小さく息を吐いた。

 「そうだな。感覚だ」


 「なんだかなー……
 でもまあ、覚えなくてもいいってんなら、むしろ楽かも」

 早瀬は続けて「ありがとうございます」と言ってノートを閉じた。

 髪を耳にかける。
 リュックを肩に掛け直す。
 スカートの裾を軽く払う。

 ただそれだけの動作が、なぜだか妙に記憶に残る。

 ただの会話だ。

 津田は自分に言い聞かせた。



 別の日。

 「先生、なんか疲れてませんか?」 

 早瀬が顔を覗き込むようにして、津田に話しかけた。
 授業後に彼女が声をかけることは半ば日課のようになりつつあり、いつしか彼もそれを自然なこととして受け入れていた。


 「いつもどおりだ」

 ぶっきらぼうに返す。


 「じゃあ疲れてるじゃん」

 早瀬は唇の端を上げて、からかうように笑った。
 けれど、その軽い口調に反して、目はじっと津田を観察しているようだった。

 津田の胸には、嫌なざらつきが残った。

 ――この少女は、勘づいているのではないか。

 自分が決して表には出さず、胸の奥に隠しているもの。
 言いようのない空洞。
 そこに潜むもの。
 早瀬の何気ない言葉の端が、そこへ向けて伸びているような気がした。

 津田の脳裏に再び肖像が浮かぶ。

 ――マリア・テレジア。

 男児の誕生を熱望されていた帝国に生まれながら、その美貌と才覚によって周囲の愛情を勝ち取った女帝。
 早瀬もまた、そういう種類の人間なのかもしれない。
 生まれながらに愛されることを知り、それを疑ったことのない人間。
 だからこそ、他人の懐へも無邪気に踏み込めるのだろう。

 それも構わない。
 どうせ短い付き合いだ。
 そう言い聞かせたが、その声は自分のなかで思いのほか弱々しく響いた。



 夕方。自習室となっていた教室には、まだ数人が残っていた。
 大粒の雨が強風とともに窓を叩くなか、黙々と自習を続ける者もいれば、スマートフォンを片手にざわつく者たちもいた。

 「うわ、電車止まってる」

 そのうちの一人が声を上げ、別の生徒たちが反応した。


 「なんで? たしかにすごい雨だけど、電車止まるほどじゃないでしょ。台風でもあるまいし」


 津田も自分のスマートフォンで確認した。

 《人身事故。復旧は夜遅くの見込み。》

 小さくため息をつく。

 「……各自、迎えに来られるか、家族に連絡してくれ。徒歩や自転車で帰れるなら、雨降ってるから気をつけて帰れ」

 そう告げると、生徒たちは各々電話をかけ始めた。

 数分後、生徒たちは口々に「大丈夫そうです」などと言って鞄を担いでいった。


 最終的に、教室にはただ一人、早瀬だけが残った。

 「先生……私、無理みたいです」

 座席に腰掛けたままスマートフォンを見つめ、小さく呟いた。


 「電車に乗らないと帰れないのか?
 バスとか上手く使って、なんとかしろよ」


 「家の近くにバス停ないんです。歩くとかなりかかる」


 「なんでそんな変なところに住んでんだ。タクシー呼べ」


 「住むとこ決めたの私じゃないです。タクシーもさっき呼ぼうとしたけど、繋がりもしませんでした」

 津田は窓の外を見やった。
 雨脚が強まり、道路に水が跳ねている。
 たしかに、この天候もあっては、タクシーを捕まえるのは難しいだろう。
 ずいぶんと厄介な日に事故を起こしてくれた奴がいたものだ、と小さく息を吐く。


 「……みんな、考えることは同じか」

 しばし沈黙。
 そして、ため息をひとつ。

 「家、どの辺なんだ?」


 「うーん、説明難しいんですけど、国道沿いのホームセンターわかりますか?
 あそこから車で15分くらいです。最寄り駅からいつもチャリなんですけど……」


 あの辺りか、と津田は思う。
 大まかな周辺地図は把握していた。
 自分の帰り道を考えても、それほど遠回りではない。

 「……仕方ない、お前の家の最寄り駅まで俺の車で送っていく。そうしたら、あとは自転車で帰れるだろ」

 大雨のなか、自転車で早瀬が服の中までずぶ濡れになろうが、参考書が濡れて皺くちゃになろうが、そこまでは知ったことではないと思った。


 「え、いいんですか? やった、ありがとうございます」


 「仕方ないからな」


 「二回言った」


 「ああ、講師が二回言ったら大事なことだと思え」


 「はーい、先生」

 無邪気に返すその声に、津田は舌打ちをしたい気分になった。

 ――結局、自分はいつも他人に足を取られる。


 悪魔は花弁に潜む#2へ続く

 『悪魔は花弁に潜む』ショートPV


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