『悪魔は花弁に潜む』 #2
雨粒がワイパーに叩き落とされ、フロントガラスを絶えず流れ落ちていく。
窓を閉め切った黒いセダンのなかには、甘い匂いが充満していた。
早瀬の髪からは、安っぽいフルーツの香りが空調に乗って流れ、それが時おり津田の鼻をかすめた。
湿った衣服からは柔軟剤の匂いがほのかに漂っている。
狭い車内では、それらが思いのほか近く感じられた。
シートベルトの金具が小さく鳴り、隣の座席から衣擦れの音が伝わってくる。
匂いと音。それらが混ざり合い、津田の神経を刺激していた。
助手席に女性を乗せること自体が久しぶりのように感じ、前回はいつだったかと記憶を遡るが、すぐにやめた。
何年前だろうと、そのことに何か意味があるとは思えなかった。
「先生って電車とか使うんですか? 乗ってるとこ想像つかない」
何気ない口調で早瀬が言った。
この非日常的な状況を、早くも受け入れているようだった。
あるいは、そう装っているのかもしれない。
密室で聞く早瀬の声は、耳の奥をくすぐるような独特の響きを持っていた。
「使わないこともない。けど、満員電車に乗ると吐き気がするんだ。就職先もそれで制限された」
「なんか、しなくてもいい言い訳が聞こえた気がする」
「なぜ俺が“楽しくない仕事”をしているのか、行間で説明してみたよ」
「うわ、もしかして根に持ってます?」
「文脈で読み取れ」
「そればっかり」
早瀬は笑いながら、フロントガラスに額を寄せた。
ワイパーの動きに合わせて光が歪み、街路樹の影が流れていく。
この仕事が向いているかどうかなど、自分でもわからなかった。
実際、津田はこの仕事を愛してはいなかった。
以前、「浪人生を再生産するエコシステムに組み込まれた気分だ」と、別の予備校に勤める友人に漏らしたことがある。
友人は「浪人生を生み出しているのは俺たちじゃないだろ。俺たちがやらなくたって、誰かが講師をやる。それに、予備校なんかなくたって、浪人する奴はするしな」と笑った。
津田がそれに対し、「だから、それがシステムなんだよ」と、やや苛ついて言うと、友人は不思議そうに首を傾げていた。
意味を求めて努力するほど、気づかないうちに構造に組み込まれていく。そんな実感があった。
「……ねえ先生。さっきの人身事故って、やっぱり自殺かな?」
早瀬の言葉に、津田の思考は引き戻された。
思わずハンドルを握り直す。
指先に力がこもり、革巻きの縫い目の感触がじんわりと掌に食い込んだ。
「多いとは、聞くな」
声がいつもより硬くなっているのを、自分でも感じた。
「どんな人だったんだろう」
早瀬はフロントガラスの外に視線を流し、雨に滲む街灯を目で追っている。
「気になるのか?」
津田はちらりと早瀬を盗み見た。その横顔にテレジアの肖像がまた重なる。
「うん。どんな気持ちで線路の前に立って、なんで飛び込んだのか……いや、違うな。“なぜ飛び込めたのか”を、聞いてみたい」
結局、津田はその表情から何も見出すことができず、ただ前方に向き直った。
浅くなった呼吸と、自分の鼓動の嫌な鈍さを感じながら。
信号が青に変わり、車が再び動き出した。
津田の胸には先ほどの早瀬の問いが、小さな棘のように残り続けていた。
「……なんで、そう思うんだ」
ようやく返した声は低く、抑圧を帯びていた。
「んー、内緒」
今度はサイドガラスのほうに額を寄せた早瀬が、曇りかけたガラスに小さく吐息を残した。
津田は、無意識にアクセルを踏み込んでいた。まるで何かを振り切ろうとするように、黒いセダンが加速していく。
雨粒が車体を叩く音。タイヤが水を撥ねる音。それらが車内を包み込むように鳴っていた。
「うわ。雨、強すぎませんか?
先生、やっぱり私、駅からチャリで帰るの無理かも」
「若いんだから、それぐらい頑張れ」
「風邪ひいちゃうかも」
「帰ったらすぐ風呂に入れば大丈夫だろ」
これ以上は面倒を見切れないとばかりに突き放した。
早瀬はすぐには言葉を返さなかった。
長い髪の先を人差し指に巻き付け、どこか落ち着かない様子で窓の外へ視線を向けている。
それから数拍おいて、ようやく口を開いた。
「……ねえ、先生の家って近いんですか?」
予想していなかった投げかけに、津田は背筋を強張らせた。
「教えない」
その声は、硬かった。
「あれ、もしかして私、嫌われてる?
先生はさっき、私の家の場所訊いたくせに」
「好きも嫌いもない。講師と生徒だからな。
お前の家の場所はさっき必要だったから仕方なく訊いた。俺の家の場所はお前が知る必要ないから言わない。それだけだ。わかったか」
「……そうやって殻にこもって、人生楽しいですか?」
挑発の響きを帯びた声に、津田のこめかみがかすかに疼いた。
「どういう意味だ?」
「文脈から判断してくださいよ」
「お前の話は脈絡がない」
「じゃあ、教えてあげましょうか? “仕方ない”から」
早瀬は唇の端を吊り上げた。
目には、いたずらのような甘さが浮かんでいる。
「ああ、是非ともご教示願いたいね、早瀬先生」
「いいですよ。
でもその代わり、先生の部屋、見せてください」
「は? ダメに決まってんだろ」
津田は目を丸くした。
「残念。そしたらさっきの答えも一緒に教えてあげるのに」
見透かしたような、涼しい声色。
この女の持つ甘い空気と密室――その組み合わせが持つ危険性に、津田は気づきはじめていた。
いつの間にか、自分でも見ないようにしてきたものまで、この女に覗き込まれてしまうような気がしていた。
早瀬を自宅に連れて行くことは、あらゆる面で避けなければならない。
だが一方で、津田の内心には別の焦りもあった。
彼女の言葉の端が、雨どいを伝う雫のように、冷たいものを胸に落としてくる。
自分の奥底に隠しているはずのものが、実は外側に滲み出ているのではないか。
その可能性を意識するだけで、言いようのない胸苦しさを覚えた。
「……家を見せる以外なら、いい。
他の条件なら考えてやる」
「ダメです。他は認めません。
ちなみに、今日を逃したら、私は二度と話しませんから」
津田は舌打ちし、エアコンの温度を一段階下げた。
冷たい風が吹きつけても、背中の汗は引かなかった。
「……見せるだけだ。見せたら、すぐに駅まで送る。それでいいな?」
――なにが起きているのか、確かめなければならない。
最終的に津田を衝き動かしたのは、その一点への執着だった。
「うん、いいよ。約束ね」
早瀬の口元が、小さく歪んだ。目は遊んでいるようでいて、どこか計算めいて光っているのを津田は見逃さなかった。
ハンドルを握る手が、ぎこちなく固まる。
見せること――自分の生活空間を他者にさらすことには抵抗がある。そのうえ、もしも生徒を家に連れ込んだなどと噂が立てば、自分は職を失うだけでは済まない。
だが、そこまで考えたうえで、津田は彼女を突き放し切ることができなかった。
どこかで生まれつつある確執めいた興味が、彼の危機管理に曖昧な隙を作り出していた。
住宅街に入り、車は速度を落とした。
街灯の淡い輪郭が濡れたフロントガラスに滲み、アスファルトが艶めいていた。
使い慣れた駐車スペースへ車を入れたが、隣に早瀬がいることが津田のなかの現実感を奪っていた。
「……ほんの少しだけだ。すぐ戻るぞ」
そう短く言い放ち、パーキングブレーキのペダルを強く踏んだ。
アパートの共用部分は静かで、二人の足音だけが小さく反響していた。
津田が鍵を差し込んで玄関の扉を開けると、暮らしの匂いがふっと立ち上がった。洗剤と本の匂い、煙草に染まった天井と壁。冷蔵庫の低い唸りが奥から聞こえる。
そのワンルームは、必要最小限の家具で整えられていた。本棚には赤や青の背表紙が整然と並んでおり、廃棄のために縛った参考書と雑誌だけが床に置かれていた。
机の上には使い古した鉛筆立てと、メモの束。適度に整えられつつも、生活の跡がある。
ベッドは簡素だがきちんとされていて、椅子には洗濯物が一枚だけ掛かっていた。
「へえ。先生の部屋って、思ってたより整ってますね。あ、でもやっぱり煙草は吸うんだ。職場では我慢してるの?」
早瀬はそう言いながら素早くスニーカーを脱ぎ捨て、勝手知ったようにキッチンへ向かった。
津田が制止する間もなく、冷蔵庫のドアを開ける音がした。
「うわ、ビールばっかり! 甘いお酒ないの?」
振り返った彼女の声には、いたずらをする子どものような弾みがあった。
「ない。勝手に開けるな。それにお前、未成年だろ」
津田は低い声で応じた。
ジャケットを脱いで掛けようとしたところで、どうせすぐに着るのだと思い直し、椅子に置いた。そもそも脱ぐ必要自体がなかったのだと気づいたときに、彼は自分のなかの動揺をはっきりと自覚した。
どこかで、自分の私領に誰かを招き入れることが持つ意味を測り、怯えている。
見せることで、さらなるなにかを露呈してしまうのではないか。
そんな曖昧な不安がつま先から這い上がってくる。
津田は手に持っていた車のキーを、無意識に握りしめていた。
「先生の頃と違って、今は18歳で成人ですよー」
「……そういやそうだったな。でも酒は20歳からだろ」
「まあね。結局、成人式も20歳でやるし。なんだったんだろうね、あの法改正」
「社会契約。それに選挙権」
「社会契約ってなんだっけ? 言葉は聞いたことある気がするけど、忘れちゃった。
……あ、じゃあさ、先生は、私が立候補して選挙に出たらどうする?」
早瀬は冷蔵庫を閉めながら、挑発的に笑った。
「出馬できるのは被選挙権を得る25歳からだ。あと6年経ったら勝手に出ればいいが、別に俺はどうもしない。
まあ、お前は顔がいいから、SNSとか上手く使えば当選しちゃうかもな。今の日本でなら」
津田は何気ない調子でそう答えながら、自分が喋ることで多少は気が紛れるのを感じた。
頭のなかには例の肖像画が浮かんでいた。
「そしたらこの国、もうダメかもね」
早瀬は大して興味もないようにそう言い、カーテンをめくって外の景色を覗いていた。
――追い返せばいい。
そう思いながらも、津田はその一歩を踏み出せないでいた。
「……って言うか先生、私のこと、そういう目で見てたんですね?」
その一言に、津田の呼吸が一瞬止まる。
心臓が大きく脈を打った。
「違う……俺は現代社会のルッキズムを揶揄しただけだ……」
喉の奥が乾き、続けるべき言葉も見失った。
早瀬はその反応に満足の表情を浮かべ、ベッドの端に腰を下ろした。そして、片手でスカートの裾を整えながら、わざとらしく足を組んで見せた。
津田の重みに慣れたベッドが、不慣れな形に沈む。
それから彼女はどこからかビールの缶を取り出し、膝の上でプルタブを立てた。
「あ、お前いつの間に!」
津田が声を上げるのと同時に、缶の口から白い泡が小さく溢れた。
早瀬は口元に薄い笑みを浮かべたまま、挑発するような視線で津田を射抜いている。
膝丈のフレアスカートからは素脚が覗き、視界の端に薄い肌がちらついた。
ふくらはぎの柔らかな白さが、目を逸らしても瞼の裏に焼きつくように残った。
狭い空間のなか、津田は視線の行き場を奪われ、耳の奥で動悸を感じていた。
取り返しのつかないところに足を踏み入れている実感が、今になって強く湧き上がってくる。
「すぐ戻るって約束だったろ」
「はい、先生、質問です! “すぐ”っていったい何分ぐらいなんでしょうか?」
早瀬は缶を持っていないほうの手を高く挙げ、わざとらしく質問した。
「すぐと言ったら、その瞬間だ」
「それは“直ちに”でしょ?」
「同じ意味だ」
「そんなはずない。ちゃんと使い分けられてるよ。国語の講師がそんな適当なこと言っていいの?」
「……一般的には、5から10分程度だ」
津田は観念して答えた。
「ふふ。じゃあ、まだまだ時間あるね」
早瀬は勝ち誇ったように笑った。
その笑みは、教室で見せていた無邪気な挑発とは違うものに見えた。
時間を測る物差しまで彼女に握られてしまった気がして、津田は言いようのない居心地の悪さを覚えた。
自分の部屋でありながら、主導権が掌から零れ落ちていく。
場所も、時間も、彼女に握られていく。
津田は机の上の時計に目をやった。
針は確かに進んでいるのに、自分の時間は彼女の笑みによって奪われていく。
掌に汗が滲み、思わず力が入る。
「じゃあ、話せよ。さっきの“理由”。
そっちも、約束守れ」
「まあまあ、それはあとで車のなかで話すからさ。今は違うお話しようよ。せっかくビールもらったし」
「盗んだんだろ、まったく」
津田は悪態をつきながら、反撃の手を考えていた。
自分ばかりが暴かれて、主導権を握られていく。
このまま予想も付かない形で弱みを握られてしまうような、嫌な予感がしていた。
思い付いたのは、早瀬に“質問”をすることだった。
質問という行為には、場を制御する力がある。そのことを彼は経験上よく知っていた。
講師が生徒からの質問に上手く答えられず、主導権を失っていく様をしばしば目にした。それは彼にとって軽蔑の対象であると同時に、起こるべくして起こる現象とも考えていた。
内容は、何でもよかった。
彼が早瀬について知っているのは、名前と筆記試験の成績ぐらいのものであり、思考は今日の出来事に結び付いた。
「お前ってそんな調子じゃ、家族とも仲悪いんじゃないか?」
津田は思いついたまま口にした。
迎えが来なかったことと、短絡的に結びつけた。
そのような雑な推論で中傷されれば、誰しも苛立ちを覚えるだろう。
それでいいと思った。
彼女の顔からあの余裕を剥がしてやりたかった。
しかし、返ってきたのは彼が予想していなかった反応だった。
早瀬の笑みが、津田の言葉を聞いた瞬間に消えた。
その言葉が突き刺さったかのように、手の動きまで止まっている。
さっきまでの余裕は、もう影も見えなかった。
「なんで……」
それ以上、言葉は続かなかった。
その様子に、津田も思わず息を呑んだ。
「先生と違って、ちゃんと愛されてます」などと、軽い調子で反論してくると思っていた。
事実に反する指摘をされ、多少はムキになってくれるだろうと、そう予想していた。
マリア・テレジアのように溺愛されてきた早瀬には、それは聞き捨てならないはずだと。
勉強が苦手なのも、どうせ甘やかされた結果だろう。――そう思い込んでいた。
(もっとも、本物のマリア・テレジアは類稀なる才女であったが)
ところが、返ってきたのはわずかな言葉と、気まずい沈黙だった。
津田は適当な言葉を見つけることができず、黙っていた。
やがて早瀬は唇を噛み、わざとらしい軽さを装うように言った。
「……頼んでもどうせ来てくれないから。だから最初から電話なんてしない。
電車止まってるのなんて、ニュースで知ってるはずだし。
私がどこで何して、どんなことで困っていたって、あの人たちには興味のないことだから」
冷水を飲み下したように、胸の奥が冷えた。
迎えがないのは、たまたま都合が悪かったのではなかった。
その言葉の裏に、軽口では覆いきれない孤独の影が滲んでいた。
津田の脳裏で、女帝の肖像がひび割れる音がした。幼いながらも威厳を宿していたマリア・テレジアの顔が、砕け、剥がれ落ちていく。
その下から現れたのは、孤独に佇む19歳の少女の素顔だった。
津田は視線を落とした。
鉛のような感覚が、腹の底に沈んでいく。
この少女もまた、自らの内に虚無を抱えているのだと、そう感じずにはいられなかった。
「お前……親だけじゃないな?」
思わず口を突いた言葉に、津田自身が驚いた。
早瀬は一瞬、津田の顔を見た。
それから視線を宙に泳がせ、やがて小さく笑った。
自嘲のような、力なく零れる笑みだった。
「……なんで、わかっちゃうんだろう。
兄と妹がいて、二人は両親とも仲良しで、私だけが浮いてます」
声の中に、隠し切れない震えが混じっていた。
「兄は真面目で優等生。妹は可愛くて素直。家族の会話って、基本その二人が中心で。
そこに私が入ると……なんか空気が変わるんです。腫れ物っていうか、面倒な人っていうか。昔はそうじゃなかったんだけど、いつの間にか……
だから、今はもう、最初から混ざらないようにしてます」
彼女はベッドの端で足を組み直し、手元の缶を弄んだ。
灯りを反射するアルミの缶は、まるで彼女の震えを視覚的に増幅するための装置に見えた。
「この前、久々に食卓で会話に入ろうとしたら……あの人たち、まるで皿が急に喋りだしたみたいにびっくりしてて……ほんと、笑えましたよ」
津田が頭の中で重ねていた女帝の肖像は、もはや跡形もなく崩れ去っていた。
「……それでいいのか」
津田の声は低く、柔らかかった。
真正面から彼女の言葉を受け止めようとする意志が、その響きに滲んでいた。
早瀬はその言葉に小さく肩を揺らし、また笑みを作った。
だが、それはやはり長くは保たなかった。
視線を逸らし、缶を傾けて一口あおった。
「……まあ、仕方ないよ。私って、バカで我儘だし。結構、やらかしちゃったから」
湿った唇から、言葉が零れ落ちる。
「しかも浪人しちゃって、劣等感ばっかり。
私の高校、いわゆる“自称進学校”だったけど、周りの子は割と要領がよかったみたいで、みんな現役で大学に行ったんです。
私だけどこも受かんなくて、取り残されて。
親は予備校のお金だけ出してればそれでいいと思ってて、家では知らん顔。
“一年くらい大したことない”なんてみんな言うけど、上手くいった人たちの話なんか聞きたくなかった。
……私には、この一年がすごく重いんです」
そう言って、また缶を傾けた。
指先がアルミを歪め、小さく音が鳴った。
「高校のときは、見た目だけでちやほやされたんです。
でも、それってただの飾りでしかなかったみたい。卒業したら、あっという間に全部消えました。
“遊ぼう”って誘ってくる子もいないし、連絡くれる友達すら、ろくにいなかった。
もちろん、私から連絡したりもしました。だけど、そこでもやっぱり腫れ物扱い。
私って結局、誰かの本当の友達になったことなかったんだな、って」
彼女はそう言って再び缶を口に運び、喉を鳴らした。
虚ろな視線を部屋の隅に漂わせ、そのまま視線を津田へと向けた。
「……約束どおり、話しますよ。さっきの理由」
その目を見た瞬間、津田の胸の奥でなにかが波打った。
「……いや、やっぱりいい」
低く、短い言葉。
その言葉を聞いた瞬間、早瀬は瞬きをして、動きを止めた。
津田は視線を外さずに続けた。
「もう、分かったから」
口に出した瞬間、それは自分でも驚くほど自然な声だった。
早瀬の言葉を聞き、彼は自分のなかで長く名前の付かなかった感覚を思い出していた。
“生きる喜び”と呼ばれるものが収まるはずの場所。そこだけが、妙に空いているような感覚。
それは昔から、彼を静かに苛み続けていた。
だからこそ、思った。
目の前のこの少女も、おそらくそうなのだと。
そして、それゆえに彼女は、自分のなかの“それ”を嗅ぎ取ったのだと。
津田はそう理解した。
早瀬はしばらく黙って津田を見つめていた。
なにかを測るような、けれど力の抜けた視線。
やがて小さく息を吐くと、手に持っていた缶をテーブルに置いた。
こつん、と小さな音が響いた。
「……そう、ですか」
早瀬はそれだけ言うと、視線を伏せたまま静かに笑った。
笑い声とは言えない、息が零れただけの小さな音だった。
津田は言葉を探しながらも、なにも続けられずにいた。
沈黙が部屋を満たし、雨音に混じって車の走行音が聞こえる。
次の瞬間、早瀬がふとベッドに身を倒した。
白く細い腕がシーツに沈むのを見た瞬間、津田は、この部屋が自分のものではなくなっていく感覚に襲われた。
蛍光灯の冷たい光に照らされて、四肢の輪郭がくっきりと浮かんでいる。
身体に沿って薄いニットが波打ち、その起伏をあらわにしている。
「……もう少しだけ、ここにいてもいいですよね」
視線を宙に投げたまま、かすれた声で言った。
津田はまだ、言葉を探していた。
胸の奥で、なにかがゆっくりと崩れていくのを感じながら。
時計の針は進んでいる。
けれど、時の流れはどこか歪み、軋みを上げているような気がした。
「……居場所がほしいのなら、好きにしたらいい」
津田は本心からそう言った。
この“空洞”がもたらす苦しみを、彼は知っていた。
早瀬もまた、それを和らげるものを探さずにはいられないのだろうと思った。
拒む理由は、いくらでも並べることができた。
だが、この痛みを説明せずに済む相手を、彼自身、はじめて見つけてしまった。そのことが、彼を衝き動かした。
追い出すことも、できるはずだった。
「今日は帰れ」と言えば済む。
酒を取り上げて、彼女を駅まで送れば、それで終わる。
そうするべきだと分かっていた。
講師として、大人として、そうしなければならなかった。
だが、その正しさの先には、またこの部屋に一人で戻る夜が待っている。
煙草の匂いの染みついた天井。
冷蔵庫の唸り。
板書と採点を繰り返すだけの日々。
名前の付かない空洞。
そして、それを誰にも説明できない自分。
それを思った瞬間、すべての言葉は喉の奥で止まった。
津田は手に持っていた車のキーをテーブルに置いた。
そしてベッドへ近づき、そのまま端に腰かけた。
早瀬は視線を向けなかったが、代わりにゆっくりと手を伸ばしてきた。
衣擦れの音が近づく。
そして、その指先が太ももに触れた瞬間、彼はもう、自分を抑えることができなくなった。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光。
二人の影が重なる。
津田はその影を見つめながら、早瀬の息遣いを肌で感じた。
彼はもう、“すぐ戻る”という言葉を思い出すことはなかった。
「ねえ、先生」
湿度と熱気の充満した部屋のなか、枕元で早瀬が囁いた。
その声色は、まるで冷たい泉の底から湧き上がったように透明だった。
「ん……なんだ?」
一方、津田は気だるい声で応じた。
時刻はすでに深夜0時を回っている。
この数時間、二人はこの部屋で互いの空白を埋め合っていた。言葉はほとんどなく、雨音と冷蔵庫の低い唸りだけが、途切れ途切れの呼吸の隙間に残っていた。
そして今、二人はその余韻のなかで、互いの温度を確かめるように黙っていた。
「……先生は、“死んでもいいと思う瞬間”に出会ったこと、ありますか?」
津田はわずかに眉を寄せた。
指先に力が入り、無意識にシーツの皺をつまんでいた。
「なんだ、人身事故の話の続きか?
……あると言えばあるし、ないと言えばないよ」
早瀬は目を細め、暗がりのなかで津田を見つめていた。
まるで、水のなかの魚を、じっと息をひそめて探すように。
曖昧な返答の奥に、まだ何かが潜んでいるとでも言うように。
髪が枕元のシーツに擦れ、白い腕が津田の腰の辺りに無造作に伸びている。
「……ふーん。じゃあ質問変えますね」
早瀬は枕に頬を寄せ、濡れた瞳で津田を見上げた。
「“死にたいって思う瞬間”はありますか?」
「ない」
小さく、しかし即答した。
「……分かりました。
そしたら、“死んでもいいと思うこと”はあります?」
彼女の声は透明なまま、針のように鋭く胸を刺した。
津田は無言のまま息を吸い込み、ゆっくりと長く吐き出した。
沈黙のなか、雨音すら遠く感じる。
「……ばれてんだな、全部」
津田が低く言葉を吐き出すと、早瀬の唇が小さく吊り上がった。
「だって、ずっと漂ってるんですよ?」
「……なんのことだ」
「本当に分からないんですか、先生?」
早瀬は少しだけ笑った。
「死の匂い、ですよ」
津田は息を呑んだ。
自分の内奥だけにあると思っていたものを、嗅ぎ取られていた。
彼女のなかにある虚無が、自分のものと共鳴したのだと。
それはすでに理解していた。
しかし、空洞があれば、そこに住み着くものが現れる。
まるで、軒下に蛇やら蜘蛛やら鼠やらが巣食うように。
彼の空洞に巣を張っていたものは、“終わらせること”への小さな憧れであった。
津田はそれを、生の喜びの不在が招いた必然であると考えていた。
早瀬の今の口ぶりは、まるで――
「はじめから、そこまで……」
今日の出来事が、どこからどこまで早瀬の思惑通りだったのか、津田にはもうわからなかった。
彼女を問い詰めるだけ、意味もないと思った。
確かなのは、“自分のなかに早瀬の居場所ができてしまった”という事実だけだった。
「じゃあ……これが最後の質問です」
それは、津田の言葉への返答になってはいなかった。
なにが“じゃあ”なのかと、問い正してもよかった。
だが結局、津田はそうしなかった。
早瀬は唇を濡らし、また目を細めた。
彼女が質問を重ねるたびに、津田は追い詰められていく。
本人にも、その自覚はあった。
だからこそ、“最後”という宣言で気が緩んだ。
その油断すらも、早瀬の掌の上だったのかもしれない。
そう思った頃には、すでに遅かった。
「先生が“死んでもいいって思える瞬間”を私が作ったら、一緒に死んでくれますか?」
津田は身震いした。
その言葉を聞いた瞬間、背筋の奥で神経が深く波立ち、声にならない声が漏れた。
その波は、耳の奥から後頭部を伝い、体の芯を静かに貫いた。
それは、地上のものとは思えないほど、甘美な囁きだった。
津田は思わず目を閉じた。
その余韻に浸るように。
「答えなくてもいいですよ。もう分かってますから」
“お返し”とでも言うように、津田の言葉をなぞった。
彼女の白い指先が津田の首筋を這う。
触れるか触れないか、その境界が揺らぐような繊細な愛撫。
しかし、その瞬間に津田が感じていたのは、まるで刃物を突きつけられたような焦りだった。
与えられる快楽と、言いようのない悪寒の狭間で、彼は心身が乖離していくような錯覚を覚えていた。
「あり得ない。心中なんて……論外だ」
「答えなくていいって言ったのに。
じゃあ――」
「さっきのが最後の質問って言っただろ」
津田のようやく絞り出した言葉は、早瀬によってあっさりと切り捨てられていく。
反対に、彼女の言葉は異様な魔力を孕んでおり、抗いがたいものだった。
「……うん、だからこれは質問じゃなくて、“お願い”です」
早瀬は一度ゆっくりと瞬きをしてから、静かに吐息を漏らした。
それから指先をシーツに這わせ、白い腕でベッドの上に曲線を描いた。
その仕草は、これまでの態度をすべて脱ぎ捨てたかのようにゆっくりで、やけにしなやかだった。
視線は伏せたまま、横顔の輪郭だけが照らされ、淡く浮かび上がっている。
部屋には沈黙が拡がった。
雨音が窓にぶつかり、二人の間に流れる空気だけが濃くなっていく。
早瀬はそれを味わうように、ゆっくりと顔を上げ、濡れた瞳で津田を見据えた。
それから、ゆっくりと唇を動かした。
まるで、一語一語を大事に発するように。
「私のこと、殺してくれませんか?」
その囁きはどこまでも柔らかかった。
大切に抱えてきた花束を差し出すように。
ずっと隠し持っていた宝石を掌に載せるように。
丹精込めて作った料理をテーブルに運ぶように。
彼女は自分の命を贈り物として提示しているように見えた。
“温かいうちにどうぞ”、と。
その瞬間、津田は背筋が凍りつくと同時に、理解しがたい甘い気配に喉を詰まらせた。
胸の鼓動に反して、思考だけが鈍くなっていくようだった。
ぼんやりとした頭で、津田は思った。
――言葉というものは、あまりにも不自由にできている。
悪魔は花弁に潜む#3へ続く
