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『悪魔は花弁に潜む』 #2


 雨粒がワイパーに叩き落とされ、フロントガラスを絶えず流れ落ちていく。
 窓を閉め切った黒いセダンのなかには、甘い匂いが充満していた。

 早瀬の髪からは、安っぽいフルーツの香りが空調に乗って流れ、それが時おり津田の鼻をかすめた。
 湿った衣服からは柔軟剤の匂いがほのかに漂っている。
 狭い車内では、それらが思いのほか近く感じられた。

 シートベルトの金具が小さく鳴り、隣の座席から衣擦れの音が伝わってくる。
 匂いと音。それらが混ざり合い、津田の神経を刺激していた。

 助手席に女性を乗せること自体が久しぶりのように感じ、前回はいつだったかと記憶を遡るが、すぐにやめた。
 何年前だろうと、そのことに何か意味があるとは思えなかった。


 「先生って電車とか使うんですか? 乗ってるとこ想像つかない」

 何気ない口調で早瀬が言った。
 この非日常的な状況を、早くも受け入れているようだった。
 あるいは、そう装っているのかもしれない。
 密室で聞く早瀬の声は、耳の奥をくすぐるような独特の響きを持っていた。


 「使わないこともない。けど、満員電車に乗ると吐き気がするんだ。就職先もそれで制限された」


 「なんか、しなくてもいい言い訳が聞こえた気がする」


 「なぜ俺が“楽しくない仕事”をしているのか、行間で説明してみたよ」


 「うわ、もしかして根に持ってます?」


 「文脈で読み取れ」


 「そればっかり」

 早瀬は笑いながら、フロントガラスに額を寄せた。
 ワイパーの動きに合わせて光が歪み、街路樹の影が流れていく。

 この仕事が向いているかどうかなど、自分でもわからなかった。
 実際、津田はこの仕事を愛してはいなかった。

 以前、「浪人生を再生産するエコシステムに組み込まれた気分だ」と、別の予備校に勤める友人に漏らしたことがある。
 友人は「浪人生を生み出しているのは俺たちじゃないだろ。俺たちがやらなくたって、誰かが講師をやる。それに、予備校なんかなくたって、浪人する奴はするしな」と笑った。
 津田がそれに対し、「だから、それがシステムなんだよ」と、やや苛ついて言うと、友人は不思議そうに首を傾げていた。
 意味を求めて努力するほど、気づかないうちに構造に組み込まれていく。そんな実感があった。


 「……ねえ先生。さっきの人身事故って、やっぱり自殺かな?」

 早瀬の言葉に、津田の思考は引き戻された。
 思わずハンドルを握り直す。
 指先に力がこもり、革巻きの縫い目の感触がじんわりと掌に食い込んだ。

 「多いとは、聞くな」

 声がいつもより硬くなっているのを、自分でも感じた。


 「どんな人だったんだろう」

 早瀬はフロントガラスの外に視線を流し、雨に滲む街灯を目で追っている。


 「気になるのか?」

 津田はちらりと早瀬を盗み見た。その横顔にテレジアの肖像がまた重なる。


 「うん。どんな気持ちで線路の前に立って、なんで飛び込んだのか……いや、違うな。“なぜ飛び込めたのか”を、聞いてみたい」


 結局、津田はその表情から何も見出すことができず、ただ前方に向き直った。
 浅くなった呼吸と、自分の鼓動の嫌な鈍さを感じながら。

 信号が青に変わり、車が再び動き出した。
 津田の胸には先ほどの早瀬の問いが、小さな棘のように残り続けていた。


 「……なんで、そう思うんだ」

 ようやく返した声は低く、抑圧を帯びていた。


 「んー、内緒」

 今度はサイドガラスのほうに額を寄せた早瀬が、曇りかけたガラスに小さく吐息を残した。

 津田は、無意識にアクセルを踏み込んでいた。まるで何かを振り切ろうとするように、黒いセダンが加速していく。
 雨粒が車体を叩く音。タイヤが水を撥ねる音。それらが車内を包み込むように鳴っていた。

 「うわ。雨、強すぎませんか?
 先生、やっぱり私、駅からチャリで帰るの無理かも」


 「若いんだから、それぐらい頑張れ」


 「風邪ひいちゃうかも」


 「帰ったらすぐ風呂に入れば大丈夫だろ」

 これ以上は面倒を見切れないとばかりに突き放した。

 早瀬はすぐには言葉を返さなかった。
 長い髪の先を人差し指に巻き付け、どこか落ち着かない様子で窓の外へ視線を向けている。

 それから数拍おいて、ようやく口を開いた。


 「……ねえ、先生の家って近いんですか?」


 予想していなかった投げかけに、津田は背筋を強張らせた。


 「教えない」

 その声は、硬かった。


 「あれ、もしかして私、嫌われてる?
 先生はさっき、私の家の場所訊いたくせに」


 「好きも嫌いもない。講師と生徒だからな。
 お前の家の場所はさっき必要だったから仕方なく訊いた。俺の家の場所はお前が知る必要ないから言わない。それだけだ。わかったか」


 「……そうやって殻にこもって、人生楽しいですか?」

 挑発の響きを帯びた声に、津田のこめかみがかすかに疼いた。


 「どういう意味だ?」


 「文脈から判断してくださいよ」


 「お前の話は脈絡がない」 


 「じゃあ、教えてあげましょうか? “仕方ない”から」

 早瀬は唇の端を吊り上げた。
 目には、いたずらのような甘さが浮かんでいる。


 「ああ、是非ともご教示願いたいね、早瀬先生」


 「いいですよ。
 でもその代わり、先生の部屋、見せてください」


 「は? ダメに決まってんだろ」

 津田は目を丸くした。


 「残念。そしたらさっきの答えも一緒に教えてあげるのに」

 見透かしたような、涼しい声色。

 この女の持つ甘い空気と密室――その組み合わせが持つ危険性に、津田は気づきはじめていた。
 いつの間にか、自分でも見ないようにしてきたものまで、この女に覗き込まれてしまうような気がしていた。
 早瀬を自宅に連れて行くことは、あらゆる面で避けなければならない。

 だが一方で、津田の内心には別の焦りもあった。
 彼女の言葉の端が、雨どいを伝う雫のように、冷たいものを胸に落としてくる。
 自分の奥底に隠しているはずのものが、実は外側に滲み出ているのではないか。
 その可能性を意識するだけで、言いようのない胸苦しさを覚えた。


 「……家を見せる以外なら、いい。
 他の条件なら考えてやる」


 「ダメです。他は認めません。
 ちなみに、今日を逃したら、私は二度と話しませんから」


 津田は舌打ちし、エアコンの温度を一段階下げた。
 冷たい風が吹きつけても、背中の汗は引かなかった。

 「……見せるだけだ。見せたら、すぐに駅まで送る。それでいいな?」

 ――なにが起きているのか、確かめなければならない。
 最終的に津田を衝き動かしたのは、その一点への執着だった。


 「うん、いいよ。約束ね」

 早瀬の口元が、小さく歪んだ。目は遊んでいるようでいて、どこか計算めいて光っているのを津田は見逃さなかった。
 ハンドルを握る手が、ぎこちなく固まる。

 見せること――自分の生活空間を他者にさらすことには抵抗がある。そのうえ、もしも生徒を家に連れ込んだなどと噂が立てば、自分は職を失うだけでは済まない。
 だが、そこまで考えたうえで、津田は彼女を突き放し切ることができなかった。
 どこかで生まれつつある確執めいた興味が、彼の危機管理に曖昧な隙を作り出していた。



 住宅街に入り、車は速度を落とした。
 街灯の淡い輪郭が濡れたフロントガラスに滲み、アスファルトが艶めいていた。

 使い慣れた駐車スペースへ車を入れたが、隣に早瀬がいることが津田のなかの現実感を奪っていた。

 「……ほんの少しだけだ。すぐ戻るぞ」

 そう短く言い放ち、パーキングブレーキのペダルを強く踏んだ。


 アパートの共用部分は静かで、二人の足音だけが小さく反響していた。

 津田が鍵を差し込んで玄関の扉を開けると、暮らしの匂いがふっと立ち上がった。洗剤と本の匂い、煙草に染まった天井と壁。冷蔵庫の低い唸りが奥から聞こえる。
 そのワンルームは、必要最小限の家具で整えられていた。本棚には赤や青の背表紙が整然と並んでおり、廃棄のために縛った参考書と雑誌だけが床に置かれていた。
 机の上には使い古した鉛筆立てと、メモの束。適度に整えられつつも、生活の跡がある。
 ベッドは簡素だがきちんとされていて、椅子には洗濯物が一枚だけ掛かっていた。


 「へえ。先生の部屋って、思ってたより整ってますね。あ、でもやっぱり煙草は吸うんだ。職場では我慢してるの?」

 早瀬はそう言いながら素早くスニーカーを脱ぎ捨て、勝手知ったようにキッチンへ向かった。
 津田が制止する間もなく、冷蔵庫のドアを開ける音がした。

 「うわ、ビールばっかり! 甘いお酒ないの?」

 振り返った彼女の声には、いたずらをする子どものような弾みがあった。


 「ない。勝手に開けるな。それにお前、未成年だろ」

 津田は低い声で応じた。
 ジャケットを脱いで掛けようとしたところで、どうせすぐに着るのだと思い直し、椅子に置いた。そもそも脱ぐ必要自体がなかったのだと気づいたときに、彼は自分のなかの動揺をはっきりと自覚した。
 どこかで、自分の私領に誰かを招き入れることが持つ意味を測り、怯えている。
 見せることで、さらなるなにかを露呈してしまうのではないか。
 そんな曖昧な不安がつま先から這い上がってくる。

 津田は手に持っていた車のキーを、無意識に握りしめていた。


 「先生の頃と違って、今は18歳で成人ですよー」


 「……そういやそうだったな。でも酒は20歳からだろ」


 「まあね。結局、成人式も20歳でやるし。なんだったんだろうね、あの法改正」


 「社会契約。それに選挙権」


 「社会契約ってなんだっけ? 言葉は聞いたことある気がするけど、忘れちゃった。
 ……あ、じゃあさ、先生は、私が立候補して選挙に出たらどうする?」

 早瀬は冷蔵庫を閉めながら、挑発的に笑った。


 「出馬できるのは被選挙権を得る25歳からだ。あと6年経ったら勝手に出ればいいが、別に俺はどうもしない。
 まあ、お前は顔がいいから、SNSとか上手く使えば当選しちゃうかもな。今の日本でなら」

 津田は何気ない調子でそう答えながら、自分が喋ることで多少は気が紛れるのを感じた。
 頭のなかには例の肖像画が浮かんでいた。


 「そしたらこの国、もうダメかもね」

 早瀬は大して興味もないようにそう言い、カーテンをめくって外の景色を覗いていた。


 ――追い返せばいい。
 そう思いながらも、津田はその一歩を踏み出せないでいた。


 「……って言うか先生、私のこと、そういう目で見てたんですね?」


 その一言に、津田の呼吸が一瞬止まる。
 心臓が大きく脈を打った。

 「違う……俺は現代社会のルッキズムを揶揄しただけだ……」

 喉の奥が乾き、続けるべき言葉も見失った。


 早瀬はその反応に満足の表情を浮かべ、ベッドの端に腰を下ろした。そして、片手でスカートの裾を整えながら、わざとらしく足を組んで見せた。
 津田の重みに慣れたベッドが、不慣れな形に沈む。
 それから彼女はどこからかビールの缶を取り出し、膝の上でプルタブを立てた。


 「あ、お前いつの間に!」

 津田が声を上げるのと同時に、缶の口から白い泡が小さく溢れた。
 早瀬は口元に薄い笑みを浮かべたまま、挑発するような視線で津田を射抜いている。
 膝丈のフレアスカートからは素脚が覗き、視界の端に薄い肌がちらついた。
 ふくらはぎの柔らかな白さが、目を逸らしても瞼の裏に焼きつくように残った。

 狭い空間のなか、津田は視線の行き場を奪われ、耳の奥で動悸を感じていた。
 取り返しのつかないところに足を踏み入れている実感が、今になって強く湧き上がってくる。

 「すぐ戻るって約束だったろ」


 「はい、先生、質問です! “すぐ”っていったい何分ぐらいなんでしょうか?」

 早瀬は缶を持っていないほうの手を高く挙げ、わざとらしく質問した。


 「すぐと言ったら、その瞬間だ」


 「それは“直ちに”でしょ?」


 「同じ意味だ」


 「そんなはずない。ちゃんと使い分けられてるよ。国語の講師がそんな適当なこと言っていいの?」


 「……一般的には、5から10分程度だ」

 津田は観念して答えた。


 「ふふ。じゃあ、まだまだ時間あるね」

 早瀬は勝ち誇ったように笑った。
 その笑みは、教室で見せていた無邪気な挑発とは違うものに見えた。
 時間を測る物差しまで彼女に握られてしまった気がして、津田は言いようのない居心地の悪さを覚えた。
 自分の部屋でありながら、主導権が掌から零れ落ちていく。
 場所も、時間も、彼女に握られていく。

 津田は机の上の時計に目をやった。
 針は確かに進んでいるのに、自分の時間は彼女の笑みによって奪われていく。
 掌に汗が滲み、思わず力が入る。


 「じゃあ、話せよ。さっきの“理由”。
 そっちも、約束守れ」


 「まあまあ、それはあとで車のなかで話すからさ。今は違うお話しようよ。せっかくビールもらったし」


 「盗んだんだろ、まったく」

 津田は悪態をつきながら、反撃の手を考えていた。
 自分ばかりが暴かれて、主導権を握られていく。
 このまま予想も付かない形で弱みを握られてしまうような、嫌な予感がしていた。

 思い付いたのは、早瀬に“質問”をすることだった。
 質問という行為には、場を制御する力がある。そのことを彼は経験上よく知っていた。
 講師が生徒からの質問に上手く答えられず、主導権を失っていく様をしばしば目にした。それは彼にとって軽蔑の対象であると同時に、起こるべくして起こる現象とも考えていた。

 内容は、何でもよかった。
 彼が早瀬について知っているのは、名前と筆記試験の成績ぐらいのものであり、思考は今日の出来事に結び付いた。


 「お前ってそんな調子じゃ、家族とも仲悪いんじゃないか?」

 津田は思いついたまま口にした。
 迎えが来なかったことと、短絡的に結びつけた。
 そのような雑な推論で中傷されれば、誰しも苛立ちを覚えるだろう。
 それでいいと思った。
 彼女の顔からあの余裕を剥がしてやりたかった。

 しかし、返ってきたのは彼が予想していなかった反応だった。

 早瀬の笑みが、津田の言葉を聞いた瞬間に消えた。
 その言葉が突き刺さったかのように、手の動きまで止まっている。
 さっきまでの余裕は、もう影も見えなかった。


 「なんで……」

 それ以上、言葉は続かなかった。
 その様子に、津田も思わず息を呑んだ。

 「先生と違って、ちゃんと愛されてます」などと、軽い調子で反論してくると思っていた。
 事実に反する指摘をされ、多少はムキになってくれるだろうと、そう予想していた。
 マリア・テレジアのように溺愛されてきた早瀬には、それは聞き捨てならないはずだと。
 勉強が苦手なのも、どうせ甘やかされた結果だろう。――そう思い込んでいた。
 (もっとも、本物のマリア・テレジアは類稀なる才女であったが)

 ところが、返ってきたのはわずかな言葉と、気まずい沈黙だった。
 津田は適当な言葉を見つけることができず、黙っていた。

 やがて早瀬は唇を噛み、わざとらしい軽さを装うように言った。

 「……頼んでもどうせ来てくれないから。だから最初から電話なんてしない。
 電車止まってるのなんて、ニュースで知ってるはずだし。
 私がどこで何して、どんなことで困っていたって、あの人たちには興味のないことだから」


 冷水を飲み下したように、胸の奥が冷えた。
 迎えがないのは、たまたま都合が悪かったのではなかった。
 その言葉の裏に、軽口では覆いきれない孤独の影が滲んでいた。
 津田の脳裏で、女帝の肖像がひび割れる音がした。幼いながらも威厳を宿していたマリア・テレジアの顔が、砕け、剥がれ落ちていく。
 その下から現れたのは、孤独に佇む19歳の少女の素顔だった。

 津田は視線を落とした。
 鉛のような感覚が、腹の底に沈んでいく。
 この少女もまた、自らの内に虚無を抱えているのだと、そう感じずにはいられなかった。


 「お前……親だけじゃないな?」

 思わず口を突いた言葉に、津田自身が驚いた。

 早瀬は一瞬、津田の顔を見た。
 それから視線を宙に泳がせ、やがて小さく笑った。
 自嘲のような、力なく零れる笑みだった。


 「……なんで、わかっちゃうんだろう。
 兄と妹がいて、二人は両親とも仲良しで、私だけが浮いてます」

 声の中に、隠し切れない震えが混じっていた。

 「兄は真面目で優等生。妹は可愛くて素直。家族の会話って、基本その二人が中心で。
 そこに私が入ると……なんか空気が変わるんです。腫れ物っていうか、面倒な人っていうか。昔はそうじゃなかったんだけど、いつの間にか……
 だから、今はもう、最初から混ざらないようにしてます」

 彼女はベッドの端で足を組み直し、手元の缶を弄んだ。
 灯りを反射するアルミの缶は、まるで彼女の震えを視覚的に増幅するための装置に見えた。

 「この前、久々に食卓で会話に入ろうとしたら……あの人たち、まるで皿が急に喋りだしたみたいにびっくりしてて……ほんと、笑えましたよ」

 津田が頭の中で重ねていた女帝の肖像は、もはや跡形もなく崩れ去っていた。


 「……それでいいのか」

 津田の声は低く、柔らかかった。
 真正面から彼女の言葉を受け止めようとする意志が、その響きに滲んでいた。

 早瀬はその言葉に小さく肩を揺らし、また笑みを作った。
 だが、それはやはり長くは保たなかった。
 視線を逸らし、缶を傾けて一口あおった。


 「……まあ、仕方ないよ。私って、バカで我儘だし。結構、やらかしちゃったから」

 湿った唇から、言葉が零れ落ちる。

 「しかも浪人しちゃって、劣等感ばっかり。
 私の高校、いわゆる“自称進学校”だったけど、周りの子は割と要領がよかったみたいで、みんな現役で大学に行ったんです。
 私だけどこも受かんなくて、取り残されて。
 親は予備校のお金だけ出してればそれでいいと思ってて、家では知らん顔。
 “一年くらい大したことない”なんてみんな言うけど、上手くいった人たちの話なんか聞きたくなかった。
 ……私には、この一年がすごく重いんです」

 そう言って、また缶を傾けた。
 指先がアルミを歪め、小さく音が鳴った。

 「高校のときは、見た目だけでちやほやされたんです。
 でも、それってただの飾りでしかなかったみたい。卒業したら、あっという間に全部消えました。
 “遊ぼう”って誘ってくる子もいないし、連絡くれる友達すら、ろくにいなかった。
 もちろん、私から連絡したりもしました。だけど、そこでもやっぱり腫れ物扱い。
 私って結局、誰かの本当の友達になったことなかったんだな、って」

 彼女はそう言って再び缶を口に運び、喉を鳴らした。
 虚ろな視線を部屋の隅に漂わせ、そのまま視線を津田へと向けた。

 「……約束どおり、話しますよ。さっきの理由」


 その目を見た瞬間、津田の胸の奥でなにかが波打った。


 「……いや、やっぱりいい」

 低く、短い言葉。

 その言葉を聞いた瞬間、早瀬は瞬きをして、動きを止めた。
 津田は視線を外さずに続けた。

 「もう、分かったから」

 口に出した瞬間、それは自分でも驚くほど自然な声だった。

 早瀬の言葉を聞き、彼は自分のなかで長く名前の付かなかった感覚を思い出していた。
 “生きる喜び”と呼ばれるものが収まるはずの場所。そこだけが、妙に空いているような感覚。
 それは昔から、彼を静かに苛み続けていた。
 だからこそ、思った。
 目の前のこの少女も、おそらくそうなのだと。
 そして、それゆえに彼女は、自分のなかの“それ”を嗅ぎ取ったのだと。
 津田はそう理解した。


 早瀬はしばらく黙って津田を見つめていた。
 なにかを測るような、けれど力の抜けた視線。

 やがて小さく息を吐くと、手に持っていた缶をテーブルに置いた。
 こつん、と小さな音が響いた。

 「……そう、ですか」

 早瀬はそれだけ言うと、視線を伏せたまま静かに笑った。
 笑い声とは言えない、息が零れただけの小さな音だった。

 津田は言葉を探しながらも、なにも続けられずにいた。
 沈黙が部屋を満たし、雨音に混じって車の走行音が聞こえる。

 次の瞬間、早瀬がふとベッドに身を倒した。
 白く細い腕がシーツに沈むのを見た瞬間、津田は、この部屋が自分のものではなくなっていく感覚に襲われた。
 蛍光灯の冷たい光に照らされて、四肢の輪郭がくっきりと浮かんでいる。
 身体に沿って薄いニットが波打ち、その起伏をあらわにしている。

 「……もう少しだけ、ここにいてもいいですよね」

 視線を宙に投げたまま、かすれた声で言った。

 津田はまだ、言葉を探していた。
 胸の奥で、なにかがゆっくりと崩れていくのを感じながら。
 時計の針は進んでいる。
 けれど、時の流れはどこか歪み、軋みを上げているような気がした。


 「……居場所がほしいのなら、好きにしたらいい」

 津田は本心からそう言った。
 この“空洞”がもたらす苦しみを、彼は知っていた。
 早瀬もまた、それを和らげるものを探さずにはいられないのだろうと思った。
 拒む理由は、いくらでも並べることができた。
 だが、この痛みを説明せずに済む相手を、彼自身、はじめて見つけてしまった。そのことが、彼を衝き動かした。

 追い出すことも、できるはずだった。
 「今日は帰れ」と言えば済む。
 酒を取り上げて、彼女を駅まで送れば、それで終わる。
 そうするべきだと分かっていた。
 講師として、大人として、そうしなければならなかった。
 だが、その正しさの先には、またこの部屋に一人で戻る夜が待っている。
 煙草の匂いの染みついた天井。
 冷蔵庫の唸り。
 板書と採点を繰り返すだけの日々。
 名前の付かない空洞。
 そして、それを誰にも説明できない自分。

 それを思った瞬間、すべての言葉は喉の奥で止まった。

 津田は手に持っていた車のキーをテーブルに置いた。
 そしてベッドへ近づき、そのまま端に腰かけた。
 早瀬は視線を向けなかったが、代わりにゆっくりと手を伸ばしてきた。
 衣擦れの音が近づく。
 そして、その指先が太ももに触れた瞬間、彼はもう、自分を抑えることができなくなった。


 カーテンの隙間から差し込む街灯の光。
 二人の影が重なる。
 津田はその影を見つめながら、早瀬の息遣いを肌で感じた。
 彼はもう、“すぐ戻る”という言葉を思い出すことはなかった。



 「ねえ、先生」

 湿度と熱気の充満した部屋のなか、枕元で早瀬が囁いた。
 その声色は、まるで冷たい泉の底から湧き上がったように透明だった。


 「ん……なんだ?」

 一方、津田は気だるい声で応じた。
 時刻はすでに深夜0時を回っている。

 この数時間、二人はこの部屋で互いの空白を埋め合っていた。言葉はほとんどなく、雨音と冷蔵庫の低い唸りだけが、途切れ途切れの呼吸の隙間に残っていた。

 そして今、二人はその余韻のなかで、互いの温度を確かめるように黙っていた。


 「……先生は、“死んでもいいと思う瞬間”に出会ったこと、ありますか?」


 津田はわずかに眉を寄せた。
 指先に力が入り、無意識にシーツの皺をつまんでいた。

 「なんだ、人身事故の話の続きか?
 ……あると言えばあるし、ないと言えばないよ」


 早瀬は目を細め、暗がりのなかで津田を見つめていた。
 まるで、水のなかの魚を、じっと息をひそめて探すように。
 曖昧な返答の奥に、まだ何かが潜んでいるとでも言うように。

 髪が枕元のシーツに擦れ、白い腕が津田の腰の辺りに無造作に伸びている。


 「……ふーん。じゃあ質問変えますね」

 早瀬は枕に頬を寄せ、濡れた瞳で津田を見上げた。

 「“死にたいって思う瞬間”はありますか?」


 「ない」

 小さく、しかし即答した。


 「……分かりました。
 そしたら、“死んでもいいと思うこと”はあります?」

 彼女の声は透明なまま、針のように鋭く胸を刺した。
 津田は無言のまま息を吸い込み、ゆっくりと長く吐き出した。
 沈黙のなか、雨音すら遠く感じる。


 「……ばれてんだな、全部」

 津田が低く言葉を吐き出すと、早瀬の唇が小さく吊り上がった。


 「だって、ずっと漂ってるんですよ?」


 「……なんのことだ」


 「本当に分からないんですか、先生?」


 早瀬は少しだけ笑った。


 「死の匂い、ですよ」


 津田は息を呑んだ。

 自分の内奥だけにあると思っていたものを、嗅ぎ取られていた。
 彼女のなかにある虚無が、自分のものと共鳴したのだと。
 それはすでに理解していた。

 しかし、空洞があれば、そこに住み着くものが現れる。
 まるで、軒下に蛇やら蜘蛛やら鼠やらが巣食うように。
 彼の空洞に巣を張っていたものは、“終わらせること”への小さな憧れであった。
 津田はそれを、生の喜びの不在が招いた必然であると考えていた。

 早瀬の今の口ぶりは、まるで――


 「はじめから、そこまで……」

 今日の出来事が、どこからどこまで早瀬の思惑通りだったのか、津田にはもうわからなかった。
 彼女を問い詰めるだけ、意味もないと思った。
 確かなのは、“自分のなかに早瀬の居場所ができてしまった”という事実だけだった。


 「じゃあ……これが最後の質問です」

 それは、津田の言葉への返答になってはいなかった。
 なにが“じゃあ”なのかと、問い正してもよかった。
 だが結局、津田はそうしなかった。

 早瀬は唇を濡らし、また目を細めた。
 彼女が質問を重ねるたびに、津田は追い詰められていく。
 本人にも、その自覚はあった。
 だからこそ、“最後”という宣言で気が緩んだ。
 その油断すらも、早瀬の掌の上だったのかもしれない。
 そう思った頃には、すでに遅かった。


 「先生が“死んでもいいって思える瞬間”を私が作ったら、一緒に死んでくれますか?」


 津田は身震いした。
 その言葉を聞いた瞬間、背筋の奥で神経が深く波立ち、声にならない声が漏れた。
 その波は、耳の奥から後頭部を伝い、体の芯を静かに貫いた。
 それは、地上のものとは思えないほど、甘美な囁きだった。
 津田は思わず目を閉じた。
 その余韻に浸るように。


 「答えなくてもいいですよ。もう分かってますから」

 “お返し”とでも言うように、津田の言葉をなぞった。

 彼女の白い指先が津田の首筋を這う。
 触れるか触れないか、その境界が揺らぐような繊細な愛撫。
 しかし、その瞬間に津田が感じていたのは、まるで刃物を突きつけられたような焦りだった。
 与えられる快楽と、言いようのない悪寒の狭間で、彼は心身が乖離していくような錯覚を覚えていた。


 「あり得ない。心中なんて……論外だ」


 「答えなくていいって言ったのに。
 じゃあ――」


 「さっきのが最後の質問って言っただろ」

 津田のようやく絞り出した言葉は、早瀬によってあっさりと切り捨てられていく。
 反対に、彼女の言葉は異様な魔力を孕んでおり、抗いがたいものだった。


 「……うん、だからこれは質問じゃなくて、“お願い”です」

 早瀬は一度ゆっくりと瞬きをしてから、静かに吐息を漏らした。
 それから指先をシーツに這わせ、白い腕でベッドの上に曲線を描いた。
 その仕草は、これまでの態度をすべて脱ぎ捨てたかのようにゆっくりで、やけにしなやかだった。
 視線は伏せたまま、横顔の輪郭だけが照らされ、淡く浮かび上がっている。

 部屋には沈黙が拡がった。
 雨音が窓にぶつかり、二人の間に流れる空気だけが濃くなっていく。
 早瀬はそれを味わうように、ゆっくりと顔を上げ、濡れた瞳で津田を見据えた。
 それから、ゆっくりと唇を動かした。
 まるで、一語一語を大事に発するように。

 「私のこと、殺してくれませんか?」

 その囁きはどこまでも柔らかかった。
 大切に抱えてきた花束を差し出すように。
 ずっと隠し持っていた宝石を掌に載せるように。
 丹精込めて作った料理をテーブルに運ぶように。
 彼女は自分の命を贈り物として提示しているように見えた。
 “温かいうちにどうぞ”、と。

 その瞬間、津田は背筋が凍りつくと同時に、理解しがたい甘い気配に喉を詰まらせた。
 胸の鼓動に反して、思考だけが鈍くなっていくようだった。

 ぼんやりとした頭で、津田は思った。

 ――言葉というものは、あまりにも不自由にできている。 

 悪魔は花弁に潜む#3へ続く


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