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『悪魔は花弁に潜む』 #3

 第二章 悪魔は花弁に潜む


 あの夜の最後の問いかけに、津田は答えることができなかった。

 心中の誘いは断った。
 しかし、同じように早瀬の“お願い”を断ることができなかったのはなぜなのか。
 彼自身が一番混乱していた。

 けれど、その沈黙はかえって互いを惹き寄せ合い、二人はその後も逢瀬を重ねることになった。
 校舎の外であれば、もはや人目をはばかることすらなかった。

 慣れ、と言えばまだ聞こえはいい。
 だが実際には、脳のどこかが麻痺してしまったかのような感覚だった。
 一線を踏み越えてなお罰も訪れず、日々は平然と続いていく。
 危機感も緊張感も、結局は現実感という基盤の上にしか成り立たないものなのだと、津田は他人事のようにぼんやり思っていた。


 茜色の空を背に、二人は人気のない公園を歩いていた。
 芝生の上には夕立の名残がまだ濡れ跡を残し、木々の影が長く伸びてベンチを覆っている。


 ふと、前を歩いていた早瀬が立ち止まった。
 ベンチのそばで、くるりと振り返り、いたずらめいた笑みを浮かべている。

 「あ、先生。ちょっと待ってて」

 その声は日常の延長にあるようで、しかしどこか芝居じみたものを含んでいた。

 津田の胸が、小さくざわつきはじめる。

 早瀬は公園の植え込みに駆け寄り、枝先に濃い桃色の花をつけた木に手を伸ばした。

 どこからか取り出した白いハンカチを器用に操り、素手で触れぬように十輪ばかりを摘み取った。
 その所作は軽く、それでいてどこか慎重にも見えた。

 津田はベンチの前に立ったまま、なかば呆れてその様子を眺めていた。


 「おい、勝手に取ったら駄目だろ」


 「誰も見てないでしょ」

 早瀬は肩越しに振り返り、悪びれる様子もなく笑った。


 「そんなもん取って、どうする気だ?」


 「おいしいんだよ、この花。先生も一緒にどう?」


 津田の眉間に皺が寄る。

 「その辺になってるもん食うわけないだろ」


 「えー? 小学生の頃、サルビアの蜜とか吸わなかった? ビワとか、クワの実とか、食べたでしょ?」

 どこか懐かしむような声色だった。


 「お前……なんでそれ、素手で触らないんだ?」

 そう返す頃には、早瀬はすでに花を摘み終えたようで、ハンカチでそれを包んでいた。


 「そりゃあ、先生のお口に入るものを、私が汚しちゃマズいでしょ?
 はい、どうぞ」

 戻ってくるなり、花を包んだハンカチを津田に差し出した。
 白い布越しに覗く花弁は艶めいて、どこか妖しく見えた。

 「ほら、騙されたと思って」


 「これ、そのまま食うのか……?」


 「うん。お刺身にも生の花ついてるじゃん。タンポポみたいなやつ。花って食べられるんだよ」


 「あれは食用の菊だっての」

 津田は訝しみながらも、掌を差し出した。


 「あ、待って。ハンカチもう一枚あるから。はい、これ」

 早瀬はポケットからもう一枚の白い布を取り出し、津田の手の上で広げた。


 「……1個でいいからな」


 「ダメダメ、5〜6個一気に食べないとこの旨みはわからないよ」

 早瀬はそう言って、花を山分けした。


 「おい、この量……口に入れるだけで大変だぞ。本当に食ったことあんのか、お前?」

 「そこをなんとか!
 ほら、せーのでいこう?」


 津田は黙っていた。
 湿った沈黙が落ちる。
 雨上がりの空気のなかで、花弁の色だけが鮮やかに浮き立って見えた。

 遠くの方で救急車のサイレンが鳴っていた。
 それは一定の速度でこちらへ近づき、そのまま去っていった。

 津田は手元の花を見つめ、それからふとサイレンの行方が気になり視線を上げた。
 その手前の植え込みに目が吸い寄せられる。
 風が吹き、濃い桃色の花をつけた枝が、まるでこちらに手を振るように揺れていた。


 「……ん?」

 早瀬は首を傾げ、津田の顔を覗き込んだ。


 「……毒だろ、これ」

 津田は低く呟いた。


 「……バレた?」

 早瀬は一瞬だけ目を逸らすと、すぐにいたずらが露見した子供のように笑った。

 冗談めかしていても、その裏には本気が混じっているように、津田には見えた。
 “あの夜”の記憶が呼び起こされる。

 自分は、心中の誘いをはっきりと断ったはずだ。
 それなのに、この仕打ち。
 苛立ちと不信感が募っていく。

 同時に、早瀬といればいつか破滅するという強い予感も、胸の奥に燻っていた。
 それでも、早瀬を突き放すことは、津田のなかですでに“困難なこと”として捉えられていた。


 「……まあ、いい。
 なんだったか、この花……っていうか、木っていうか。見たことあったよ、俺」

 津田はハンカチの上で小さな花を転がし、眺めながら言った。
 夕日が沈みかけた空の下、風がわずかに冷えてきている。

 「キョウチクトウだよ。可愛いね」

 軽やかな声だった。
 そう言って笑う彼女の横顔には、花と似た色が差していた。


 「ああ、それだ。葉っぱ数枚で死ぬような猛毒のくせに、その辺の公園にあるってやつ。
 けど、花にも毒があるとは知らなかったから、危なかったな。
 酔っぱらってたら食ってたよ、たぶん」

 津田は皮肉混じりに言いながら、やや距離をとるように身を引いた。
 だが、それでも目を逸らし切ることはできなかった。
 早瀬の手にあるハンカチと花、それを包む指の白さはどこか現実みがなく、かえってそれがひとつの絵として成立して見えた。


 「惜しかったかー。先にお酒飲ませなきゃいけなかったんですね、残念」

 殺しそこねたことを、まるでちょっとした失敗談のように言う。


 「断っただろ。
 心中なんて、論外だって」

 津田は今度こそ目を逸らし、吐き捨てた。
 けれど早瀬はその顔を一瞥するだけで、すぐには言葉を返さなかった。

 そのまま少しの沈黙が流れた。
 今度は遠くでパトカーのサイレンが鳴り、また同じように流れ去った。


 「口では、ね」

 ようやく口を開いた早瀬の表情は、穏やかだった。
 けれど、津田のほうにはそれを軽口でかわす余裕はなかった。


 「口から出た言葉が、すべてだ」


 「私は、そうは思いません。
 口では何とでも言えます。
 だけど、あの日――」

 早瀬の口が耳元へ寄せられ、髪からはふわりと甘いフルーツが香った。

 「身体は受け入れてましたよ」


 その言葉に、津田は身体の芯を強張らせた。
 喉の奥に否定の言葉が渦巻いたが、それは押し出す前に、腹の底へ飲み込まれた。

 早瀬は声を落として続けた。

 「……ねえ。そんな先生にお願いがあるんだけど」


 「……このタイミングで、お願い? どういう神経してんだよ、お前。
 なんで、今さっき俺を殺そうとした奴の願いを聞かなきゃいけない」


 津田の悪態にも、早瀬は曖昧に微笑んだ。
 そしてゆっくりと甘えるような口調で言った。

 「先生のそれ、私の口に入れてくれない?」

 彼女は静かに口を大きく開けた。
 赤みを帯びた唇の奥、白く整った歯並びと、湿った舌先が見えている。
 まるで、“口に入れて”という言葉が意味する別の行為を、予感させるように。

 それを見た津田の息が、一瞬止まる。
 布越しに花を摘まんだ指先に、わずかに力が入った。
 それは本当に一瞬のことだった。
 その赤く濡れた口内に、この花を押し込む光景が脳裏をかすめた。
 津田は思わず息を呑み、指を開いた。
 ――違う。そんなことを考える人間ではない。
 そうであるはずだ。


 「……俺は、人を殺すことに興味なんかない。お前の目には、俺が異常者のように映ってることは、わかったよ。たぶんそれは、俺の過失だ。だけど、見当違いなんだよ。犯罪者と一緒にしないでくれ」

 津田は落ち着き払って言い切ったが、その声は不自然にくぐもっていた。

 早瀬は唇を閉じ、持っていた花をハンカチからパラパラと落とすと、またも残念がって肩をすくめた。


 「大丈夫、犯罪者にはならないよ。遺書は書いてあるから、自殺ってことになるはず」


 「なめるなよ。警察とか、法律とか、いろいろさ。
 それに、そもそも俺にやってほしいというのがわからない。
 本気で死ぬつもりなら、自分で勝手にやればいいじゃないか。俺は止めないから」

 津田も花を地面に放った。だが、目は彼女の瞳を捉えて離さなかった。
 いや、見つめているはずが、いつの間にか見つめさせられていた。津田はそのことを、嫌でも自覚した。


 「先生のこと、愛してるからだよ」

 その言葉は、ひどく平坦で、ひどく真剣だった。
 冗談にしては重すぎる響きが、耳の奥に沈んでいく。


 「……お前のそれは愛じゃない」

 津田は足元に落ちた花を踏みしめながら視線を逸らした。


 「ふーん。じゃあ先生は、愛がどんなものか知ってるんだ?」

 他人事のような調子で、けれど目だけはまっすぐに彼の反応を見つめている。

 “愛を知っているか”

 その問いは、思いのほか深く津田の胸に突き刺さった。
 他者から愛された記憶は、確かにあった。人を愛したことも、たぶんある。
 けれど、それらはいずれも持続しなかった。
 そんなものが、本当に人々が求める“愛”というものだったのか。
 過ぎ去ってしまった今、津田には確かめようがなかった。

 「……別に。でも、俺は神様がどんなやつか知らなくても、その辺の虫けらが神様じゃないことはわかる」


 「あれ、さすがに怒らせちゃったか」

 早瀬は小さく笑って津田に背を向けると、とぼとぼと歩いていき、近くの草むらに腰を下ろした。
 津田はそれを見て、声をかけるべきか悩んでいた。

 しばらく眺めていると、早瀬は草むらから小さな花を摘んで自分の膝に置きはじめた。


 「別に、俺は怒ってない」

 津田はため息をつくように言って、彼女の隣まで行き、腰を下ろした。
 肩と肩が触れそうで、触れない距離。
 髪からは、人工的な甘い香り。

 「これも毒か?」

 津田が膝の上の花を摘まみ、冗談めかして言うと、早瀬は無言で首を横に振った。

 「……なあ、お前。
 なんでそんなに死にたいんだよ」

 早瀬は少しだけ唇を尖らせてから、空を見上げるように首を傾けた。
 そして、細く息を吐いた。

 「前に話しましたよね? 居場所がなくて、生きてる意味もないって」

 風が枝を揺らす音だけが、遠くで鳴っている。
 日が落ち、辺りは薄い藍色に包まれはじめていた。

 「性格はこのとおり最悪で、自分のことしか考えてない。
 それで、バカだから浪人して、こうやって先生の予備校に通ってる」

 早瀬は膝を抱えるように座り直し、スカートの上の花を指で撫でた。
 その指先の動きは、誰かの髪を撫でるような優しさと、無自覚な残酷さを帯びているように見えた。

 「家族とも、仲悪い。
 昔から、なにやってもダメなんです。
 無駄に“見てくれ”がいいから勝手に期待されて、結局は人並み以下にしかできないから、ひどくガッカリされる。そういうのに、疲れちゃった……」

 声の最後は、少しかすれた。
 早瀬は頬を膝に埋めるようにして、しばらく黙ったかと思うと、そのまま目を閉じた。

 津田は片膝を立ててその姿を見ていた。

 「それは、ぜんぶ知ってる。だけど、はっきり言って死ぬほどのことだとは思えない。
 悪いが、もっと大変な思いをしながらちゃんと生きてる奴らはいくらでもいる」

 津田の声は乾いていた。
 だがその言葉に、責める気配はない。
 むしろ、励ますような温度すらあった。

 「その人たちは、私じゃないから。この苦しみは、私だけのものだよ」

 早瀬の声には珍しく苛立ちが含まれていた。
 しかしすぐに、それを打ち消すように、かすかな笑みを浮かべた。

 「……いや、でも別にいいや。
 もう、どうでもいいんだ。本当は、そんなこと。
 なんていうか、感じるんだよね。
 お年寄りとか見てると、自分もいつかあんなふうに衰えていくんだって。
 だから、長く生きてる人たちは、それだけで立派だ。美しくなくなっても、体も頭も衰えても、それでも立派に生きてる。尊敬する。そういう人を、近くで見て、私にはできないことだって悟った。
 きっと、自分の価値を信じ続けられた人だけが、生き続けられる仕組みなんだ。人間って、そういうふうにできてるんだよ。
 だから、みんな、自分の価値を信じられるように、守りながら生きている」

 その視線はもう津田には向けられていない。

 「……高校受験で大変だったときにも思ったんだ。今まで、“この人たち、何が楽しくて生きてるんだろう”って眺めてた大人たちが、みんな受験なんかとっくに乗り越えて、もっと大変なことをこなしながら生きてる、強い人たちなんだって。
 みんな、立派だ。
 私は、そんな立派な人にはなれない。
 私が人に誇れるものなんて、綺麗なことだけ。
 それだって、すぐに失くなる」

 その言葉に、奢りは感じられない。ただ、彼女自身には、それが疑いようのない事実として受け入れられているようだった。

 「歳をとって綺麗じゃなくなったら、ひとつも価値が残らない。
 だから、まだ価値があるうちに、ちゃんと死にたい」

 津田はそれを、“呪い”だと思った。
 自分の意志を飛び越えて、そう思わされている。
 それだけのなにかが、彼女の人生にはあったのだと考えた。


 「……誰かから、そう言われたんだな」


 津田の言葉に、早瀬は一瞬、目を丸くした。
 そして、淡く笑った。


 「……そういうの、わかっちゃうんですね、先生には。
 誰かっていうか、まあね。
 言われ過ぎて、いつの間にか自分でもそうとしか思えなくなっちゃった」

 早瀬の言葉を聞いているうちに、津田のなかでは妙な連想が浮かんでいた。
 ――粗大ゴミのシール。
 処分料金を払い、「不要」と書かれた札を貼って、決められた場所へ運んでいく。
 彼女は、自分自身のあらゆるものに、そんな札を貼ってしまったのではないか、と。
 性格に。能力に。人間関係に。未来に。
 どうせ価値なんてないのだと。どうせ誰も困らないのだと。
 そう決めてしまえば、期待しなくて済む。失望もしなくて済む。
 そして、唯一彼女がまだシールを貼っていないもの
 ――それが、“外見”なのだ。
 もっとも、それはただの想像に過ぎなかった。ただ、そのような想像が彼のなかに浮かんでしまったことは、紛れもない事実だった。


 津田はポケットから煙草を取り出した。
 それを口に咥え、ライターの火を軽くあてた。
 ふっと吸い込むと、火種が赤く膨らんで、細く煙が立ち昇った。
 ゆらりと煙が風に流され、二人の間でかすかに揺れている。
 夜の冷えはじめた空気が煙を淡く漂わせ、やがて早瀬のほうへと導いた。
 彼女の表情が煙越しに揺らぎ、現実感が曖昧になる。
 そして、火のついた煙草を口元から下げたそのとき――


 「あ、それください」

 早瀬が火のついた煙草の先端に、顔を寄せてきた。


 「うお、危ねえな!」 

 津田は反射的に身を引いた。
 灰がズボンの上に落ち、白い痕跡になった。

 「お前、綺麗な顔が火傷したらどうすんだ」

 細くなった煙が早瀬の唇に引き寄せられ、やわらかなその輪郭をなぞるように絡んでいく。


 「ん、副流煙もらったんだよ」

 彼女の吐息と煙が交わり、灰色の靄が二人を包み込むように薄く広がった。


 「意味がわからない。おいしくないだろ」


 「だって、これで私がいつか肺癌になって死んだら、先生に殺されたことになるじゃん」


 「ならねえよ、そんなことで。
 俺のせいにも、肺癌にも」


 「いいの。私がそう思えれば、それで」

 早瀬は静かに言いながら、目を細めた。
 煙がゆらゆらと彼女の髪をすり抜けている。
 その豊かな黒髪は夜気に濡れたように、やや重たく頬に沿って垂れていた。
 淡い煙は彼女の髪に絡みつきながら、どこか遠くへと消えていく。

 彼女はそのまま、どこか遠くを見るような視線で続けた。

 「せめて、私の世界のなかだけでも、そういうことにさせてよ」

 風が吹き、煙が儚く霧散した。


 「本当に、自分勝手な奴だな」

 津田は煙草を指で弾き、灰を地面に落とした。
 言葉の端に、苛立ちよりも疲労が滲んでいた。


 「そうそう。だから嫌われてるんですよね」


 「そこまでは言ってない」


 「……じゃあ、なんで嫌われてるんだと思います?」


 「さあ。俺には分からん」


 その瞬間、早瀬の顔が険しくなった。

 「……あ、いいこと思い付いた。ちょっとその煙草、貸してくださいよ」

 早瀬はどこか意地の悪い微笑を浮かべながら、津田の手元を指さした。
 津田は嫌な予感がしながらも、黙って右手の煙草を早瀬に差し出した。
 会話をするのに疲れていたこともある。
 彼女がそれを吸って少しでも静かにしてくれるのなら、それがいいと思った。

 渡す瞬間、指先が小さく触れ合った。
 その華奢な指先の冷たさが、津田の中のなにかを掻き立てた。


 「ありがとうございます。
 ……ねえ、先生。私がこれで顔を焼いたら、先生はどうしますか?
 ほっぺとか、おでことかに、焼き跡をつけるんです。
 それでも私を抱きますか? この関係を続けますか?」


 「……やめろ。そんなこと、無意味だ」


 「なにを焦ってるんです?
 もしかして、都合のいい性欲の捌け口が、使い物にならなくなって困るんですか?
 それとも、どこかに責任でも感じて、一丁前に罪悪感とか抱えるんですか?
 私の身体に価値がなくなって、殺すことに抵抗がなくなるかもしれませんよ?
 それとも、利用価値がなくなって、捨てますか?
 先生には無意味でも、私にはそこに意味があるんです。
 ねえ、先生。さっきの質問、答えてくださいよ」


 「……わからない」


 「なんなんですか、それ。さっきから。
 まさか、今さら気を遣ってるんですか?
 それとも、そういうのが逆に興奮するタイプ?
 言っておきますけど、焼き跡つけるなら、一つや二つじゃないですよ。先生が私に興味を失うまで、徹底的にやります」


 「……“それでも続ける”って言えば、お前は満足なのか?」


 「私がどう思うかなんて関係ない!
 私が知りたいのは、先生がどうするかです!
 ……だったら、いいですよ。
 わかりました。
 わからないなら、試しにやってみたら、嫌でもわかるでしょ」


 早瀬はそう言って、赤く光る煙草の先を、自分の顎の辺りに近づけた。
 しかし、即座に津田の手が伸び、早瀬の手首を掴んだ。
 指の間に挟んだ煙草が、濡れた芝生の上に落ちた。


 「頼むから、やめてくれ」


 「……先生って、最低ですね」


 「認めるが、お前には言われたくない」


 「……どうして私の望み、叶えてくれないんですか?
 だって、先生にしたって、悪い話じゃないでしょ? 若くて綺麗な私と一緒に死ねるんだよ?
 人間どうせいつかは死ぬんだからさ、ボロボロの身体と頭で自分の糞尿にまみれながら孤独に死んでいくより、よっぽど幸せじゃないですか。
 それともなに? 長生きすることが幸せとでも言うんですか?
 薄めてるだけじゃないですか、人生を」

 早瀬は一息にそう言い切った。
 風が吹き、花の香りがいっそう強まったように感じた。


 「……お前のそれは、逃避だろ。
 幸せとも、命とも、ちゃんと向き合っていない。
 そんなやつが語る幸せに、なんの意味も感じない。
 あと、勝手に俺の未来を決めつけんな」

 口ではそう言いながらも、整った唇から紡がれる甘美な誘惑に、内心、津田は自分の理性が揺らぐのを感じた。
 しかし、転げ落ちそうになるその恐怖は、彼の反応をかえって頑にもしていた。


 「それができたら……こんなふうになってない。
 できないから、こんなふうに生きてる。
 だけど本当は、こんなふうに生きたくないから、だから、死にたい」

 早瀬の声はかすれていた。
 まるで初めて肌を重ねたあの夜のように。


 津田は後頭部をぼりぼりと掻いた。

 「……すまん。さっきのは、たぶん俺が悪かった。
 だけどお前のこと、まだちゃんと知らないのに、決めつけたくなかったんだよ」

 早瀬は俯いたまま、黙っていた。

 「お前、ずっと“死にたい”とか“価値がない”とか言ってるけどさ、お前はまだ若いんだから、そんなこと本当にわからないじゃないか。
 たまには、嬉しかったときのこととかも、思い出せよ。
 ほら、ずっと頑張ってきたことが報われた時とか、思いがけず幸運に恵まれた時とか、あっただろ?
 お前が嬉しかったときのことも、教えてくれよ。
 そうすりゃ俺だって、少しはお前のことわかるから」


 「……“報われたとき”のほうなら、あるかな。そういう嬉しい経験なら、何個かある。でも、思いがけない幸運とか、そういうのはダメ。怖い」


 「……怖い?」


 「うん。私は、“世界の優しさ”に耐えられない。世界の思いがけない優しさに触れたら、怖くなる。だって、私にはそれを受け取る資格がないから。
 いつか怖い人が来て、“返せ!”って言われる」

 早瀬は、それがまるで事実であるかのように言い切った。


 「極端だな。
 ……まあ、多少は理解はできるか。
 筋道があるときに安心できるのは、人間として自然だしな」

 自分が努力したから、耐えたから、こうして得られたと納得できる。
 逆に、思いがけない幸運は、こちらの理屈を超えている。だから怖くなる。津田は自分のなかにもそうした感覚があることを自覚した。


 「そーゆーことかな。
 私、顔が綺麗なうちは、たぶん資格があるんだと思う。でもそんなもの、すぐ剥がれる。残らない。そうなったとき、私はきっと……」

 早瀬の呪い。
 その自己認識は、どこか強迫的だった。
 まるで心に荊が絡み付き、棘が食い込むように、痛みを伴って早瀬を蝕んでいるように見えた。

 「でも、今思うと、はじめはちゃんと受け取れてた気がするな。
 たぶんみんな、子どものころはぜんぶ他人から与えられて、それを当たり前だと思ってる。
 だけど、いつからか、それが誰かからの“お恵み”だったことが分かっちゃう。
 それでも自分は受け取る資格があるって思えるほど、私は愛されてもいなければ、自分勝手でもなかったみたいです」


 「そう、か……」


 「そういう先生はどうなんですか?」


 「ああ。俺は、幸運を愛してるよ。
 努力してしまうと、それなりのものをもらっても、満足できない。
 “あんなに頑張ったのに、これだけか”って。
 だから俺は、最小限の努力で幸せを掴みたい。
 努力のし過ぎは、幸せを損なう。
 あくまで、俺にとってはな。
 けど、肝心のそういう経験があるかと言われると、まだあまりないな。そうそう落ちてるもんじゃない。幸運なんて」


 「あー、その考え方、先生っぽい。
 ……だから、なのかな」


 「ん?」


 「私が先生に惹かれたのって」


 「またそういう話に持っていくのかよ。せっかく上手く逸らせたと思ったのに」

 津田の軽口に構わず、早瀬は続けた。


 「たぶん、私は先生に“幸運”をあげたいんだ。
 私の命を奪う幸運とか、汚物にまみれた未来から逃れる幸運を。
 “この人なら、受け取ってくれる”って、そう思える人が津田先生だった」

 その言葉を聞いた瞬間、津田は沈黙せざるを得なかった。
 想像を掻き立てられてしまったからだ。
 彼は思わず、早瀬を盗み見た。
 遠くを見ながら、まるで夢でも語るような口調で微笑を浮かべる少女。
 その白く細い首筋に、わずかに汗が滲んでいる。
 煙草と整髪料の混ざった匂いが鼻先をかすめた。

 ――それは、逃れがたい憧憬だった。

 この美しい未成熟な女の命を、望まれて奪う。美しいままに。
 生命力に満ちたその身体に、決して取り返しのつかない楔を打ち込む。
 そして自分は、このしなやかな肢体に抱かれ、眠るように沈む。
 苦しまず、震えず、喘がず。甘い体温と香りに包まれて、この世を去る。
 灰色の世界に思いがけずもたらされる、そんな幸運。
 そんな甘美な終わり方を享受できる人間が、世にいるだろうか?

 「あ、じゃあもしかして、私って幸運の女神かも? いつか感謝する日が来るよ、先生?」

 彼女は先ほどの切実な様子とは打って変わって、急に戯けて言った。
 しかし、津田の脳裏には先ほどの想像が、まだこびり付いて離れなかった。


 「……たぶん、それは無い」

 低く返すが、その瞳はまだ虚ろだった。

 悪魔は花弁に潜む#4へ続く


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