哀切の海 (悲しみの風景 短編小説)
ある日、僕は眠れずに散歩をしていた。ここの所寝つきが悪い。昨日は嵐だったせいか、まだ風が強く空や木々がざわついている。
なんとなく海が見たくなって足を向けた。波が白く荒れ、ザアザアと音を立てている。少し恐ろしい気もしたが、そんなに近づかなければ大丈夫だろうと、砂浜から少し離れた堤防の上を歩いた。
ふと足を止める。何か、声が聞こえたような。
前方に人の姿がちらりと見えた気がした。
歩みを進めると、堤防の階段に女の人が座っている。こんな真夜中にどうしたんだろう。
彼女はまっすぐ海を見つめていた。散歩に来たのかと思ったが、どうやら違うらしい。
彼女は涙を流している。時々、しゃくりあげるようにして咽び泣いていた。声は聞こえないが口を開け、悲しみに浸っているようだ。顔を伏せることもなく、ただ一心に何かとても辛い事と、正面から対峙しているようにも見える。
薄ぼんやりと雲から見え隠れする月の光で、顔が見えた。髪は風であおられ、頬も濡れている。普段は美しいだろうと思われた。けれど、誰かに見られても恥ずかしく思う気持ちなど欠片もない様子で、純粋に悲しみに暮れていた。
周りを気にする様子もないその姿に、なぜか妙に胸を打たれる。
「どうしたの?」
思いきって声をかけてみた。けれど聞こえなかったのか、気にかける余裕もないのか返事はない。
しばらく待っても反応がなかったので、その場に腰を下ろす。
「イヤ」とも「いい」と言われなかったので、ただ彼女が泣くのを見ていた。
気づくと、朝になっていた。
「あれ、」
周りを見渡すが、誰もいない。
――夢でも見たんだろうか。
そう思いながら家へ帰った。
それから何日かして、また眠れなかったので散歩へ行く。海辺を歩いていると、泣き声が聞こえた気がした。
この間の人だろうか…… 足早にそちらへ向かう。すると、あの彼女がいた。前と似たワンピースを着て、頬を濡らしている。
近づいても、こちらを見ようともしなかった。
泣くことに夢中で気づいていないのかもしれない。けれど、それでもいいと思い、その場に座る。
風が彼女の方から吹いているのを確かめ、煙草に火をつけた。カチカチとライターの音がしても、気に留めずにただ泣いている。
潮風は相変わらず強く、塩からい味がした。
そんなことが何度かあった。夜中に散歩をし、彼女を見かけると傍に座って時おり煙草を吸った。
ある日のこと、また隣にいると、びーっと勢いよく彼女が鼻をかむ。
いつもハンカチで顔を拭っていたが、泣きすぎてぐしょぐしょになっていた。
パーカーのポケットを探る。偶然、前に入れていたポケットティッシュがあった。おずおずと彼女の前へ差し出す。
彼女は驚いたようにこちらを向いた。ずっと独りだと思っていたのに、突然妙な人が現れたかのようにまじまじと見つめてくるので、少々恥ずかしい。
その時、はっきりと彼女の顔が見えた。形のいい鼻が少し赤らんで、まぶたは腫れぼったくなっている。ノーメイクだが実際の年齢より幼いような感じがした。僕はそんな彼女をかわいい、と思ってしまう。
けれどそんな事など露知らぬ風に、ただぺこりと頭を下げ、勢いよく鼻をかんだ。その様子をただ呆気に取られて眺めていた。
ある日、また彼女と会った。珍しく涙を流していない。ただいつものように座って海の方を向いていた。どうしようかと迷ったが、おそるおそる傍に座る。
「吸い殻はちゃんと捨てなよ」
不意に声がして、驚いた。
彼女が話しかけている。想像よりもハスキーで、その響きは潮騒のようだった。
「…はい」
思わずそう返すと
「これ、あげる」
と何かを差し出す。銀色のヨーヨーのような形で、植物の葉か何かの模様が入っていた。ちょうど手のひらに収まる大きさだ。何だろうとフタを開けてみる。
「携帯灰皿」
とぶっきらぼうに説明した。
「――ありがとう。なんで」
「無理に聞かずに、そばにいてくれたから」
と答える。
「死んでしまいたくなるような事があったけど、ここでずっと泣いてたら何だか吹っ切れたの」
「そっか」
「とても大事な友人だった。もう会えなくなって」
「……もしかして」
「ううん、亡くなった訳じゃない」
長いまつ毛に縁取られた瞳を伏せる。
「でも、もう大丈夫。たぶん」
そう告げる彼女は、生き生きと生命力にあふれていた。
それを目にして、よかった、と胸の内でつぶやく。彼女は僕を見て、海の方へ視線を戻し、口を開いた。
「明日引っ越すの。その前にあなたにお礼を言いたくて」
「……そうなんだ」
「ありがとう。じゃあね」
そう言うと、長く美しい髪をなびかせて去っていった。後ろ姿をぼんやりと見送る。視界から見えなくなると、煙草に火をつけた。
黒く静かな波が、優しく浜辺に打ち寄せている。もうすぐ夜が明けるだろう。
──会えなくなるけど、新しい街でもどうか元気で。
僕は煙を深く吸い込むと、フーッと息を吐く。白い煙が空へ細くたなびき、やがて消えていった。
了(2000字)
花澤薫さんの「悲しみの文芸賞」に参加して期待賞をいただきました、ありがとうございます。
どうぞよろしくお願いいたします。
追記:花澤さんのお名前を間違って記載しておりました、大変失礼いたしました。訂正してお詫びいたします。
