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短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(8) エモバイト

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俺はトイレに行っていただけだ。

ある晩のこと。
すっきりして戻ってくると、PCの前にいる女は、こんなツイートを撃ちこもうとしているところだった。

彼の身体が、一日の営みを終えて静かに手放した残滓が、
消え去っていった…。
それは、生の記憶が
しずかに物質へと還っていく瞬間だった。
サヨナラ。
#残滓エモ #突然のさよなら #エモ山 #残り香エモ

「やめろ」
俺は女の手を払いのけようとしたが、間に合わなかった。
女はツイートを投稿し、瞬時に326いいねが返ってきた。

クラップクラップ。

「なにがいいのだ!」
こんなエモツイートは消すべきだ、と思ったが、そう考える間にもいいねはどんどん増えていった。
黙って見ていると、いいねはいつしか1000を越え、俺はエモ山の5万人のフォロワーたちの底力を感じた。
その底力は、目の前にいるこの女が湛える奇妙な落ち着きのなさに重なった。
いつもどこか震えているような、像がちらついているような、ざらついているような。
よくよく見れば、それは人間なのである。
しかしざっくり見るだけだと、人間じゃないような気がしてくる。
ざらざらした人影が、クラップクラップ、ばらばらに拍手しながら一歩一歩近づいてくるような気がする。
彼らは俺の残滓すら食らうような気がする。

クラップクラップ。

とはいえ俺も人間なので、1000を超えてしまったいいねをみすみす削除する気にはならなかった。
残滓でもなんでもお口に合うのならば存分に食らいやがれという気持ちでいた。
貪り食われる快感すら感じていた。
食らわれながら俺は震える手を叩き合わせる。

クラップクラップ。

「まあ、よい」
俺は床に腰を下ろし女を手招きした。
会社をクビになって以降、ひさびさの労働のあとだった。
筋力を失った俺の膝はやけにがくがくしていた。
これが働くということか。
俺の目は今きっとキラキラしている。
俺の傍ら身を寄せた女も微笑をたたえ俺を眺め、
「今日はどうしますか?」
などと、ぞくぞくするようなことばまで口にする。
どうしても好きになれない部分はあれど、この女のこういうところは好きだった。
この女は俺を堕落させる。

なけなしの50円玉はニセモノとわかり、最期の4円の電子通貨もこの女に奪われた俺は、
エモ山ツイートを女に任せ、まさにゼロからのスタート、実金を稼ぐため働きに出なければならなかった。
恐る恐る開いた求人サイト細目で眺めた。
スマホ画面に親指を当て、次々に出てくる求人情報をころころとスクロールしていく。

即戦力。
あなたの市場価値。
自分アップデート。
特性を活かし。
価値を創造。
パフォーマンスを最大化。

奴隷市場に並ぶような言葉は元天才少年の目に染みすぎて、目が慣れるまでには少々の時間を必要とした。

しかし俺はこの体を売らなければならなかった。

わたしはわたしらしく。

俺は気持ちをフレッシュにエクスチェンジして、この身この肉体売り渡す先を決めなければならなかった。
フレッシュフレッシュ。
わたしらしく。
ところが俺は俺自身のことが、なんとなくわからない。元天才少年であることと、金がないこと以外五里霧中。俺自身が俺のことをわかっていなければ、ほかの誰にもわかるはずがない。
「俺はどこだ」
求人広告をスクロールしながら俺はつぶやいていた。

仕事を探す際に主軸としたかったのはトッパライ、つまり日払いであることだった。そして俺は肉体労働は好まない。
トッパライのオフィスワークじゃなきゃだめ絶対。
そして見つけたのはNPO団体だった。
「利害関係調査委員会」
俺の親指はそこで止まった。俺の親指は、その文字列をタップした。

日給3万円。即日支給。
通勤手当全額支給。
簡単な抽出業務です。
未経験可。
履歴書不要。

決め打ちだった。

いちおう面接らしきものは実施されるらしいことが、応募してすぐ折り返されてきたメールに記されていた。日時は翌日朝9時。
面接は委員会施設内で行われ、持ち物不要、服装も自由。
唯一心配だったのは立地だった。俺は「利害関係調査委員会」がどこにあるかも知らず応募していた。金のない俺は電車に乗ることもできず、目的地には徒歩または借金で行くしか方法がない。金がないっていうのはほんとうにこういうことで、金さえあれば浪費せずにすむ時間や体力や利子を、生み出さざるを得なくする。

幸いにして調査委員会は、俺のアパートの近くだった。JR山手線O井町駅徒歩5分。これは福音ともいえる事実だった。もしかしたら自分は運がいいのではないかとさえ俺は思った。
なぜならばこの事実は俺にとってのアドバンテージであり先方にとってもアドバンテージだからだ。通勤手当を要求しない雇い人は組織にとっても貴重だろう。俺はもう面接に受かった気がしていた。

面接は服装自由だというが面接は見た目が最重要。俺はもともと服など寒すぎず暑すぎなければいい。服というものは隠すべきところを隠すもの。今の俺にとって最も隠すべき箇所といえば明白。それは「無職であること」だ。
仕事がないことを隠すために着るものといったら選択肢はひとつだけ。
スーツだ。
部屋にかけっぱなしだった紺色スーツはジャケットの肩に埃が積もり、ちょっとクリスマスみたくなっていた。
降りだした雪を肩に少し積もらせたお父さんのようだった。
ワイシャツは部屋の隅にうずくまっていた。暖炉の前で眠りこける白い老犬のようだった。老いて耳が遠くなり、雪の中をお父さんが帰宅したことに、まだ気づいていないのだ。

つまりワイシャツは、会社をクビになった数か月前の夜俺が脱いだそのままの形でほったらかされていた。
ノーアイロンのワイシャツに皺はできていなかった。これもまた福音といえる。俺は本当にラッキーだと思った。
念のため、においを確認したがそう強くはない。大丈夫。俺はワイシャツを広げ、首周りにうっすらと黄ばみがあることをみとめた。その黄ばみすら俺には美しく見えた。汗が作った黄ばみとは俺のいわば残滓がつくった有機的遺構であり、汗によって色が変わるということは、ここになにかしらの生命圏があったということ。有機的な働きが生じたということ。有機のミクロコスモスが広がったということ。俺たちが住むこの地球だってもっと巨大ななにかにとっての有機ミクロコスモスである可能性が否定できない以上、俺は自分の作った黄ばみを憎むことはしない。
俺はワイシャツに宇宙を見、ジャケットの埃に指でハートを描いて吐息で吹き払い、願いを込めた。

「利害関係調査委員会」はO井町駅から飲み屋街の小路に入る手前のビルの中にあった。
ゴミ捨て場にたむろするカラスを蹴散らしながら俺は意気揚々とビルの階段を6階まで一気に上り、肩で息しながらくもりガラスのドアを開けた。
狭い部屋を黄色い紙ファイルがぎゅうぎゅうに詰まった棚が囲う委員会事務局には灰色のスチール机がいくつか置かれそのすべてに黄色い紙ファイルがうずたかく積まれている。ファイルの間から顔を出したのは黒ぶち眼鏡をかけた妙齢の男性と女性。
黄色い紙ファイルの間を縫い奥の小部屋に通されて、面接は始まった。

「沼田ミソギと申します」
会議机越しに女が頭を下げ、隣の男を示して言う。
「こちらはニック」
「ニックです」
男がにこやかに頭を下げた。

机に置いた黄色いファイルを開き、沼田ミソギがぱちりと音を立て、ボールペンの芯を出す。

「やだわ」

ファイルに目を落としたまま、沼田ミソギがニックに頭を寄せた。

「どうしてハアハア言ってるのかしら」

ニックが俺に目をうつし、その怪訝そうなまなざしから、俺はその言葉が自分に向けられていることに気づいた。
俺はハアハアしながら答えた。

「すみません。階段を上がってきたもので」

体力が落ちている。
しかし体力の衰えなどということば、面接ではけして口にしてはならない。
そんなことは俺だって知っていたので、俺は黙ってハアハアし続けた。
水を持ってくればよかった。
面接ではお茶は出さないのだろうか。
ジャケットを脱いでも、失礼に当たらないだろうか。
困ったことに、俺の心臓はいつまでもおとなしくならないのだった。
窓から差し込む光が茶色い会議机に斜め線を引いて、俺たちを分断していた。

(続きはこちらです)



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