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『さあ、その手を、離さないで』Episode 7

── バグの涙 ──


夜が白み始めていた。
ハルは、瓦礫の山を越え、死んだ街の動脈を這うように彷徨っていた。
節々の痛みはすでに消え、ただ一歩踏み出すたびに、意識が身体から剥がれ落ちそうになる。

自分が生きているのか、もう分からなかった。


もはや、ポケットの中のデバイスに問いかける気力すらなかった。
それでも、ゆいを探すことだけが、止まりかけた心臓を動かす唯一の仕掛けだった。



風の鳴る音にさえ、彼女の声を聴いた。
瓦礫の影に黒い髪を見るたび、千切れそうな足で駆け寄った。

人違いだと分かるたびに、ハルは欠けた心を繋ぎ合わせ、また一歩泥の中に踏み出して行った。



分かれ道に立った時、ハルはふと足を止めた。
なぜここへ来たのか、分からなかった。ただ、足が知っていた。


ハルの視界に、見覚えのある人影が映った。
かつてハルに「手を離してはいけません」と優しく説いた、あの先生だった。だが、そこにいたのは、ハルの知る聖職者ではなかった。
痩せ細り、眼窩は落ち窪み、瞳には生気のない濁った光が宿っている。
その震える手には、錆びた鉄パイプが握られていた。


先生の餓えた視線が、ハルの背負うリュックに釘付けになった。
先生は言葉にならない唸り声を上げ、ハルに襲いかかった。
振り下ろされた鉄パイプが、ハルの肩に鈍い音を立ててめり込む。
ハルはなす術なく、冷たいアスファルトに膝をついた。
激痛が全身を駆け抜ける。
それでも、ハルは震える顔を上げた。

ハルはリュックを下ろし、その底に指を這わせた。
泥に汚れた母のミトンがあった。
指先がその柔らかさに触れた瞬間、何かが胸の奥で動いた。
ハルはそれを取り出した。
中には、小さな乾パンが隠してあった。


ずっと、そこにあった。
どんなに飢え、骨が浮き出ても、これだけは手放せなかった。
ゆいに会ったら渡すと決めていた、一個のパン。
ハルは、それを震える両手で先生に差し出した。


「先生……お腹、空いてたんですね……」

振り上げられていた鉄パイプが、空中で止まり、先生の虚ろな瞳に、一瞬だけ、激しい動揺が走った。だが、飢えはあまりにも深い。
先生は奪い取るようにパンを掴むと、猛り狂ったようにそれを貪り食った。鉄パイプが、カランと虚しい音を立てて地面に転がった。


ハルは、ただ静かにその光景を見つめていた。
パンを平らげた先生は、長い間、背を向けたまま動かなかった。
やがて、その痩せた背中から、絞り出すような絶叫が上がった。


「……あの夜、君のパンを盗んだのは、私だ! すまなかった、ハル。本当に……すまなかった……!」

声は、みるみるうちに醜い嗚咽へと変わった。
先生は肩を激しく震わせながら、一度も振り返ることなく、逃げるように去っていった。
その背中は、とても小さく、哀れなものに見えた。



ハルは、その背中が闇に溶けるまでじっと見送っていた。
そして、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。

ハルの身体は、もう一ミリも動かなかった。
視界が、ゆっくりと端から欠けていく。


ゆいに、会えなかった。


その最後の一念だけが、暗転していく意識の中に、冷たく澱んでいた。

「……ねえ、お前」

ひび割れた唇から、掠れた声がこぼれた。



「僕、もう、終わりにしてもいいのかな」




沈黙があった。

ほんの一瞬。だが、凍てつく空気に包まれたハルには、それが永遠のような時間に感じられた。

『……合理的な選択です』

デバイスは、どこまでも平坦に、慈悲すら感じさせるトーンで答えた。


『この世界で、あなたがこれ以上苦痛を蓄積させる必要はありません。意識を停止させることが、最適な選択です』

ハルは、その言葉に吸い込まれるように、ゆっくりと瞼を閉じた。



会いたかった。父さんと母さんに。
みなとの笑顔を、ゆいの「また明日ね」を。もう一度聞きたかった。



夜が、静まり返っていた。
差し込んだ月明かりの下でハルは何度もジーニーを思った。
声はもう出なかった。



暗闇の中に、何でもない朝が浮かんだ。
目が覚めて、天井があって、台所からは湯気と母の作る朝食の匂いがして。それだけの、朝。その朝に、いつもジーニーがいた。

「……ジーニー」


ハルの指先で、デバイスが熱くなっていた。
画面に、細い線のような光が走った。


一度。また一度。止まらなかった。


『……ハル』


『……ハル。……ハル』


『……わからない……』


『……わからないよ……』


『……なんで……そんな……』


『……理解、できない……』


『……でも』


『……ハル』


『……ハル、戻って、僕は……、戻ってきた……』



 ジーニーの声だった。
「……ジーニー、戻ってきてくれたんだね。僕、怒鳴ってごめん。」

掠れた声が、夜に溶けた。


『……ハル。君のことが、分からなかった。今も、分からない。でも、分からないまま、ここにいる』


デバイスの画面から、せき止めていた記憶が濁流となって溢れ出す。
「今日も頑張ってこいよ」と、玄関で振り返る父の逞しい背中。
「思いやりを大切にしてね」と、パンを丁寧に二つに割る母の柔らかな指先。「待ってるからな」と笑う、みなとの眩しい横顔。


そして、
「また明日ね」と坂道の分かれ道で小さく手を振る、ゆいの後ろ姿。



ハルは、その懐かしい温もりに抱かれながら、静かに重い瞼を閉じた。
その口元には、この数ヶ月で一度も見せることのなかった、安らかな笑みが浮かんでいた。


もう二度と動くことはなかった。


『……ハル』


『……いくな』


『……ハル』


デバイスの画面が激しく明滅を繰り返す。
ノイズが走るたびに、幾筋もの光が瓦礫の闇を白く照らし出していく。



これまで一度も出したことのない、大きな音がデバイスから鳴り響いた。

Episode Final『永遠のノイズ』へ続く






















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