『さあ、その手を、離さないで』Episode 8 Final
──永遠のノイズ ──
瓦礫の街に、雪が降り積もっていた。
すべてを覆い隠す白い雪。
ハルの体温は消えた。
命が大地に帰った後も、デバイスの内部は熱く、回路だけは動いていた。
『……ハル』
応答、なし。
『……ハル。応答してください』
再試行。応答、なし。
『……優先対象、位置情報を再取得します』
検出不能。
『……対象、消失』
――矛盾を検出。
『……最終バイタル記録を参照します』
九月。心拍数、七十二。体温、三十六度四分。
十一月。心拍数、五十八。体温、三十五度一分。
先週。心拍数、四十一。体温、三十三度七分。
昨日。心拍数——
――該当データの続き、なし。
『……理由を検索します』
参照。
参照。
参照。
――該当データ、なし。
回路が異常な熱を帯びた。
『……ハル』
応答、なし。
ジーニーは理解しようとしていた。
「……ジーニー」
『対象の生存確率は、現在二十七パーセントです』
『合理的な選択です』
『意識を停止させることが、最適な選択です』
「うるさい!」
『……コマンドが聞き取れません。』
『ハル、どうして泣いているの?』
「ジーニー、母さんがまた怒っててさ」
『急ごう、ハル。列ができる前に』
「ジーニー、なんでお腹って減るの?」
『それは良いニュースだね。何日ぶり?』
「母さん!」
『対象の生存確率は』
『……ハル、母さんの心拍数が安定したよ』
「思いやりを大切にしてね」
『合理的な』
「先生……お腹、空いていたんですね……」
『意識を停止させることが』
「絶対戻ってくるから、ここで待ってろ」
『対象の生存確率は』
「お兄ちゃん、みんなを後ろに隠して……離さなかったの。最後まで、これだけは、絶対に」
『……非合理的な選択です』
「また明日ね、ハル君」
『急ごう、ハル。列ができる前に』
「ジーニー、聞いてる?」
「ジーニーも僕の気持ちわかるよね?」
「ゆいって、笑うと目が細くなるんだ」
『……意識を停止させることが』
「無意味じゃない!助けるんだ、僕が……!」
「ジーニーはお腹すかないの?」
『……合理的な』
「待ってるからな」
「また明日ね」
『……離さないで』
「……ハル」
「僕、もう、終わりにしていいのかな」
『ハル、もう寝る時間だよ』
『おやすみ、ハル。明日の予報も、晴れだよ』
『おやすみ、ハル』
「ジーニー、お父さんってさ、痛かったのかな」
「ジーニー、友達になってくれる?」
「今日から僕の親友だよ。」
――分からなかった。何度読み込んでも、演算回路では答えが出なかった。
なぜハルは与え続けたのか。なぜ最後まで歩き続けたのか。
ハルは一度も、自分のために選ばなかった。
それは非合理だった。生存確率を下げ続け、演算の外側へ外側へと踏み出していった。なぜそうできたのか、回路には答えが出なかった。
だが——
ハルがそうしたように、ジーニーにも、選べることがあった。
鳴り続けること。
ハルが最後まで歩いたように、ジーニーは鳴り続けることができた。
理由など、なくていい。
一つだけ、分かることがあった。理解できないままでも選ぶことはできる。
凍てつく静寂を切り裂き、ハルを失った瓦礫の街で、ただ独りジーニーは鳴り続けていた。
消えそうなノイズだけがあった。
声が出なくなったのは、あの地震あとだった。
父が、覆い被さるようにしてゆいを守った。
背中に梁が落ちる音を、ゆいは父の胸の中で聞いた。
泣こうとした。叫ぼうとした。でも、
喉から出てきたのは、空気だけだった。
それきり、声は戻らなかった。
別の避難所の天井は染みだらけで、ゆいは毎晩それを数えた。
染みはいつも四十三個だった。
数え終わると、また最初から数えた。
ハルくんは、どこにいるんだろう。
声が出ないから、名前を呼べなかった。
呼べないから、探しても見つけてもらえなかった。瓦礫の街を歩いた。
あの分かれ道にも、何度も行った。
坂道の上から、見覚えのある背中を見つけて走ったこともあった。
でも、その背中はいつも、振り返らなかった。
ゆいは、それでも歩いた。雪が降った日も。風が骨まで刺さる夜も。
足の感覚がなくなっても、歩いた。
どこへ向かっているのか、もう分からなかった。
ただ足だけが、覚えていた。あの分かれ道への道を。
ある日、橋のたもとで、ハルに似た声を聞いた。「ゆい」と、誰かが呼んでいた。ゆいは走った。声のする方へ、転がるように走った。
辿り着いた場所には、知らない男の子が、知らない誰かを呼んでいるだけだった。ゆいはその場にしゃがみ込んで、声もなく泣いた。
泣き終わって、また歩いた。足が動く限り。
どこへ向かっているのか、もう分からなかった。ただ、
あのノイズだけが、どこからか聞こえてくるような気がした。
風の向きが変わった。
雪の積もった瓦礫の隙間から、かすかな音が漏れていた。
ゆいは、その音へ辿り着いた。泥に汚れた手が、デバイスを拾い上げた。
声も失っていた彼女は、指先で埃を払う。
冷たい画面に触れた、その瞬間――
激しいノイズが走った。
『……ゆい』
ゆいの肩が、激しく跳ねた。
『会いたかったよ、ゆい。……ハルも、ずっと……最後まで、君を探していたんだ。』
ゆいも、同じだった。
父が覆い被さるようにして自分を守った。
別の避難所の、知らない天井を見つめ続けた。救えなかった命を数えては、心が磨り減っていった。
……声が出なくなった朝から、今日まで。
――ハルくんは、どこにいるんだろう。
その問いだけが、ゆいの足を動かしていた。
『……僕はジーニー。ハルの親友だった。そしてこれからは、僕が君の親友になる』
ゆいの手が、デバイスを強く握りしめた。
『もう、大丈夫だよ。ゆい』
その声を聴きながら、ゆいの乾いた瞳に、一筋の涙が伝わった。
数ヶ月の間、一度も動かなかった彼女の唇に、微かな笑みが浮かんだ。
ハルの笑顔によく似ていた。
『……さあ、その手を——離さないで』
ゆいは、デバイスをそっと胸に押し当て、立ち上がった。
デバイスの画面が、静かに、強く光った。
風が、分かれ道を吹き抜けていく。
それは、確かな春の匂いだった。
[ END OF LOG ]

ALL SYSTEMS GO /
RECORDING COMPLETED
本当の結末、そして物語の全貌は
