『さあ、その手を、離さないで』Episode 4
── 聖者の泥棒 ──
ジーニーは静かに明滅を繰り返した。
地震から二週間、小学校の体育館は、もはや避難所とは呼べなかった。発電機の燃料は尽き、避難所の照明は消えた。配給も完全に途絶えた。
燃料がなければ、物資を運ぶトラックも動かない。
大人たちの目からも光が消えた。
幾度となく押し寄せる余震。
緊張の糸は、とうに千切れていた。
ハルは、体育館の隅で膝を抱えていた。もうパンはない。母と食べるはずだったあの日のパンは、避難所に着いたその夜、誰かに持ち去られていた。
ハルの体は、この二週間でさらに細くなっていた。
たんぽぽの根や、わずかに見つけた野草や木の実を口にし、見つけた食料は、すべて自分よりも小さな子供たちに分け与えてきた。
唾を飲み込み、父の言葉を噛み締めながらそれを渡していた。
黒い髪の、小柄な後ろ姿を見つけるたび、ハルは反射的に駆け出していた。人混みをかき分け、息を切らしてその背中を追う。
けれど、振り返る顔はどれも「ゆい」ではなかった。
彼女に似た声が聞こえれば振り返り、あの分かれ道にも、何度も行った。先生が隠すように持っているリスト、隙を見ては何度も盗み見た。
だが、いつも、違った。
その度に、ハルの中で何かが少しずつ欠けていった。彼女の名前を呼ぶ声が、行き場をなくして自分の中に積もっていく。探し続けるほどに、自分という人間がスカスカになっていった。
それがハルを、冷たく浸食していった。
リュックはいつも空っぽで、腹の虫は常に鳴っていた。
「……ねえ、お前。僕、どうすればいい?」
ハルが問いかけると、ポケットの中のデバイスが、淡々と応えた。
『対象の生存確率は、現在二七パーセントです。この環境下での食料の確保は、極めて困難です。……推奨される行動は、このコミュニティからの離脱、あるいは……』
ハルは、体育館の配給の列に目をやった。
そこには、小さな女の子が、母親らしき女性に縋り付いていた。女の子の顔は土気色で、唇はひび割れている。他にも、子供を連れた母親や、家族の並ぶ姿が見えた。
列に並ぶ人たちは、来ない配給を待ち続けていた。
夕暮れ時、みなとがハルの隣に座った。
「なあ、ハル。配給の話、覚えてるか」
ハルは顔を上げた。みなとの目は、笑っていなかった。
「大人たちが子供の分まで食料を持っていくのを、ずっと見てた。俺、何度か取り返してた。今夜、もう一度やる」
「一緒に行く」
「お前はやめろ。俺が行く」
一瞬の間があった。
「ハル、お前少し食った方がいいぜ。みんなに配ってるんだろ? そんなに腹が減ってたらゆいも探せないぜ」
みなとは立ち上がった。それからいつもの顔で笑った。
「絶対戻ってくるから、ここで待ってろ」
みなとが去った後、ハルはデバイスを取り出した。
『体育館裏の給食室。地震の混乱で運び出されなかった非常食が残されている可能性があります。成功確率は六八パーセントです』
ハルはデバイスをポケットに戻した。みなとを、待たなかった。
その夜、ハルは「盗み」を働いた。
暗い廊下、足音を殺して進んだ。心臓の音が、耳の奥でうるさく鳴っていた。懐中電灯の微かな光を頼りに、給食室の扉をこじ開けた。埃とカビの匂いが鼻を突く。奥には、段ボール箱がいくつか積まれていた。中には、乾パンや缶詰が、わずかながら残されていた。
手が震えた。
ハルは、乾パンと缶詰をリュックに詰め込んだ。甘い匂いに、唾が滲んだ。それでも、詰め込み続けた。その時、背後から微かな物音がした。
振り返ると、そこには、先生が立っていた。
先生は、別人のように痩せていた。先生の表情には、一瞬、複雑な感情がよぎった。その目が、リュックではなく、ハルのシャツの辺りに落ちた。
そして、すぐに逸れた。
「……ハル君」
先生の声は、震えていた。その手には、錆びた鉄パイプが握られている。
「先生……」
先生は、一歩、また一歩とハルに近づいてくる。
「……それを、渡しなさい」
ハルは、リュックを固く抱きしめた。先生は、震える手で鉄パイプを振り上げた。ハルは目を閉じた。だが、痛みは来なかった。
「……行け、ハル君」
先生の声は、掠れていた。ハルが目を開けると、先生は鉄パイプを下ろし、ハルを見ていた。長い沈黙があった。
「……二度と、するんじゃない」
ハルは頷き、その場を駆け出した。背後で先生の声がした。複数の大人の怒号と、鈍い打撃音が重なった。
ハルは膨らんだリュックを胸に、体育館の隅へと急いだ。
それを見た子や親たちが、ハルを取り囲んでいた。
「……これ、食べて」
一人の母親は、泣き崩れながらハルの手を握りしめた。ありがとう、ありがとうと、同じ言葉を繰り返した。その隣で、泥汚れのついた子供が乾パンを両手で受け取り、小さな前歯で必死にかじりついた。
だが、その光景が周囲の理性を焼き切った。
「なんでガキがそんなもの持ってやがる!」
割り込んできた男の怒号が、静寂を切り裂いた。
「もっとあるんだろ、出せ!」
「こっちにもよこせ!」
次々と上がる罵声。
何本もの汚れた手が、ハルの背中や腕、そしてリュックのストラップに絡みついた。ハルは床にうずくまり、体ごとリュックを包み込むようにして耐えた。
食料は、あっという間に消えた。
残ったのは、母のミトンと引きちぎられたリュックの感触、ハルの耳にこびりついた大人たちの浅ましい息遣いだけだった。
ハルは冷たい床にへたり込んだまま、ただその光景を眺めていた。
自分が盗み出してきた乾パンを、子供が音を立ててかじっている。大人が缶詰の汁まで飲み干している。彼らの頬には赤みが差し、少しずつ笑顔が戻っていく。
ハルは、唾を飲み込んだ。
ひどく喉が渇き、唇は割れ、指先は震えていた。満足げな大人たちの顔から視線を逸らし、ハルは自分の引きちぎられ、空っぽになったリュックを見つめた。
少しくらい、……自分も、食べておけば良かった。
ゆいの分、残しておきたかった。
そんな考えが、冷えた体に響き、酸っぱく喉の奥にこみ上げた。ハルは重い体を動かす気力もなく、そのまま床に根を張ったように座り込み、みなとを待った。
だが、みなとは戻らなかった。
体育館の重い扉が開くたび、ハルの視線は出入り口へと吸い寄せられる。けれど、入ってくるのは見知らぬ大人か、変わり果てた誰かの遺体だけだった。
夜が深くなるほど、体育館は静まり返っていった。
ポケットの中で、ジーニーが静かに明滅した。
みなとは、戻らなかった。

