『さあ、その手を、離さないで』Episode 5
── 見られていたパン ──
配給に並ぶ人はいなかった。
体育館の床には吐瀉物と争いの跡が残り、子供の食べ物を奪う大人がいた。
あの日から、みなとは戻ってこなかった。
ゆいを探す、みなとを探す。
ハルは夜明けから日暮れまで、瓦礫の街を彷徨い歩いた。
歪んだ廃墟の影を覗き込み、橋の下の暗がりに声を枯らす。みなとの背格好に似た人影を追って、もつれる足を動かした。
だが、そのたびにハルの希望は、見知らぬ他人の背中になって遠ざかっていった。
みなとの家の前まで来たとき、ハルは足を止めた。
見覚えのある屋根は地面に落ち、壁は無惨に崩れ去っている。
ハルはしばらくそこに立ち尽くしていた。
みなとの居場所がそこにはないことを、剥き出しの土台が静かに告げていた。
ハルは顔を上げ、別の空を見た。そちらへ行けば、自分の家がある。母が閉じ込められた部屋がある。
自分の家の方角だけは、歩けなかった。
静寂の中で、デバイスが久しぶりに無機質な声を発した。ハルは足を止めた。
『避難所の中に留まることは、対象の生存確率を著しく低下させます』
それは期待していた言葉ではなかった。慰めではなく、ただの計算結果だった。
正しくも思えた。それでも、ハルは、避難所の中に残る子供たちも見捨てることができなかった。
ハルの膝の震えは止まらず、呼吸をするたびに肺が煤の味を訴える。視界は泥に汚れ、自分が今どこを歩いているのかさえ、消えかけていた。
ただ前へ、一歩。
その一歩を、引きずるように踏み出した。
冬の陽が早くも傾きかけ、足元の泥が薄く凍りついていた。
「ハル」
息を呑み、足を止めた。
「ハル、こっちだ」
瓦礫の隙間に、みなとがいた。
泥にまみれ、痩せこけ、見る影もなくボロボロだった。
ハルは泣いた。みなとは笑っていた。
駆け寄って抱きしめると、その体は細く、頼りない。
みなとは、まるでおかしな冒険譚でも語るように笑いながら話し続け、ハルはその声を聞きながら、ただ溢れる涙を拭えずにいた。
「追いかけられたんだ。捕まって、かなりやられたよ。足、折れてるかもな」
みなとは、乾いた唇を震わせて笑った。
「家族が見つけてくれて、ここに隠れてた。……お前が来てくれるって、信じてたよ」
「ゆい、見つかったか?」
ハルが静かに首を振ると、みなとはそれきり口を閉ざした。遠くで何かが崩れる音だけが響き、二人は長い間、暗闇の中で黙り込んでいた。
翌日から、ハルは毎日みなとのもとへ来た。たんぽぽの根、野草。みなとはいつも同じ笑顔で受け取って、家族に先に食べさせていた。
「ハル、また頼む」
それだけで、ハルはまた明日も来ると決めた。
みなとの足はまだ治らない。みなとの家族、避難所の子供たち、来ない配給。
その日の夜、ハルは再び盗みに出た。
デバイスが示したのは、廃墟となったスーパーの裏口だった。
『成功確率は四三パーセントです』
いつもより低い。それでもハルは行った。
暗闇の中、震える指先をシャッターの隙間にねじ込んだ。錆びた鉄の抵抗を無理やりこじ開けると、埃とカビの混じった停滞した空気が鼻を突く。
奥には数個の段ボール箱。
中には、賞味期限の切れた乾パンや缶詰が、奇跡のように取り残されていた。リュックへ詰め込んでいると、背後で硬い靴音が響いた。
「おい、ガキ。何盗んでやがる」
振り返る暇もない。拳が顔面を捉えた。
視界が白く飛んだ。太い腕がハルの胸ぐらを掴み上げ、宙に浮かせる。投げ飛ばされ、背中が地面に叩きつけられた。肺の空気が追い出され、悲鳴さえ出ない。奪われたリュックを横目に、追い打ちの蹴りが腹部を抉った。
「避難所にいないと思ったら、こんなところでコソコソしやがって」
罵声とともに、背中を踏みつけられ、息も出来ない。アスファルトの冷たさと、砂利が頬に食い込む痛みが混ざり合う。
ハルは亀のように丸まり、ただ頭を庇って耐えた。
大人たちが去り、静寂が戻っても、ハルは動けなかった。冷たい地面に頬をつけたまま、肺を焼くような呼吸を繰り返す。
だが、シャツの内側には、確かな重みがあった。
――乾パンと、二つの缶詰。
襲撃の直前、反射的に懐へねじ込み隠していた。
肋骨に食い込むその硬い感触だけが、今のハルの希望だった。
ハルは震える腕で地面を押し、濁った唾を吐き捨てて、ゆっくりと立ち上がった。肋骨が軋んだ。膝が震えた。それでも、足を動かした。
みなとが待っている。
その一点だけが、ハルを前へ押し出した。
みなとは、いつもの場所にいた。
「……遅かったじゃないか」
みなとは、いつものように笑おうとした。
けれど、痣だらけになったハルの顔を見た瞬間、その表情が歪んだ。
みなとが泣いた。ハルも、泣いた。みなとの家族も、互いに寄り添い、声を押し殺して泣いた。
ハルは、シャツの中から乾パンと、体温で温まった缶詰を取り出した。みなとは涙を拭い、黙ってそれを受け取ると、祈るような手つきで家族へ手渡した。
その時だ。背後から、射抜くような鋭い視線を感じた。ハルは勢いよく振り返ったが、そこには濃い闇が広がっているだけだった。ざわめく胸を抑え、ハルはその場を離れられずにいた。
「ありがとう、ハル」
みなとの声は、夜の静寂に溶けるほど静かだった。
「明日も来いよ。……一個だけ残しとく。お前と一緒に食べたいんだ」
ハルは強く頷いた。
「うん。また来るよ。避難所の子供たちにこれを届けてから、明日の朝すぐに戻るよ」
みなとは、今度は崩れることなく、静かに笑った。
「待ってるからな」
翌日、ハルは一刻も早く約束を果たそうと、みなとのもとへ急いだ。
だが、目的地が近づくにつれ、遠くから、喉を掻き切るような女性の悲鳴が聞こえてきた。
ハルは走った。
昨日の暴行で軋む体に鞭打ち、転がるように瓦礫を越えた。辿り着いたそこでは、みなとの母親が崩れ落ち、獣のような声を上げて泣いていた。その傍らで、妹がただ呆然と母親の服を掴んでいる。
みなとは横たわっていた。あちこちに傷があった。衣服は破れ、ぼろぼろだった。でも、その顔は——
ハルは吸い寄せられるように、その隣に腰を下ろした。何も考えられなかった。声も出なかった。
みなとの右手は、固く、岩のように何かを握りしめている。
――血の混じった土に汚れた、乾パンの欠片だった。
ハルは、みなとの隣に膝をついた。胃の底から何かがせり上がってきた。
ハルは口を押さえたが、何も出なかった。出るものが、もう何もなかった。ハルは、うつむいたまま、動けなかった。
「見られてたの。来たんだ、大人たちが。お兄ちゃん、みんなを後ろに隠して……離さなかったの。最後まで、これだけは、絶対に」
ハルは顔を上げられなかった。喉の奥が熱く、声にならない叫びがせり上がってくる。その時、ポケットの中でデバイスが冷ややかに震えた。
『警告。対象の行動は自己の生存を放棄し、結果として他者の生存確率を著しく低下させました。……極めて非合理的です』
握りしめられた欠片を、ただ見つめていた。昨日、みなとが浮かべた静かな笑顔だけが、網膜に焼き付いて離れなかった。

