『さあ、その手を、離さないで』Episode 6
── 歪んだ救済 ──
みなとは、最後まで乾パンの欠片を離さなかった。
その光景が、ハルの頭から離れない。
みなとの冷たくなった手が、まだ掌に残っていた。
僕が、みなとを殺した。
そんな言葉が、毎晩のようにハルの中で繰り返されていた。
しばらくの間、ハルはジーニーに話しかけなかった。
街から音が消えて、数ヶ月。
それでもハルは、生きていた。
骨と皮ばかりになったその身は、強い風が吹けば崩れてしまいそうだった。
自分のために食料を口にすることは、もうなかった。道端に顔を出したたんぽぽの根をかじり、泥の混じった雨水で喉を湿らせ、それでもハルは歩き続けた。
ゆいを探していた。
「黒い髪の、小柄な女の子です。引っ込み思案で、いつも僕の後ろを歩いていて……」
誰も答えなかった。誰もが自分の明日を数えるのに必死で、他人の昨日に構う余裕などなかった。
瓦礫の影さえ、ハルにはうずくまるゆいの後ろ姿に見えた。吹き抜ける寒風の音を、自分を呼ぶゆいの声だと、ハルは何度も振り返った。
ある日、半壊した廃屋の奥、傾いた棚の隙間に、一袋の砂糖を見つけた。
湿気で変色し、石のように固まりかけている。
それでもハルは、震える両手で抱き上げた。
漏れ出す甘い匂いが鼻腔を突き、喉の奥が鳴った。忘れていたはずの唾液が喉の奥で滲んだ。
ハルはそれを飲み込み、汚れたリュックの奥深くへ大切に沈めた。
崩れかけた民家の裏手、霜に打たれて枯れ果てた家庭菜園に膝をつく。
かじかんだ指先で土を掻き出し、爪の間に黒い泥が食い込む痛みも、ハルには生きている実感として届かなかった。
小さな芋が二つ出てきた。親指ほどの大きさだった。ハルはそれを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
見つけたわずかな食料は、すべて自分より小さな子供たちに譲った。みなとが最後まで握りしめていた乾パンの欠片を思い出す。
どうしても、自分が口にする気にはなれなかった。
『この区画の生存確率上位の対象は、北側の避難場所にいる七歳の女児です。現在の生存確率、推定42%。食料供与により生存延長されます』
ハルは、その場から動かなかった。
ほんの数秒、理由の分からない沈黙が流れた。
感情を殺し、ハルはその方向に足を向けた。
その子は、かつてのみなとのように笑うだろうか。
それとも、ハルのように虚ろな目で受け取るのだろうか。
北側の避難所には、見覚えのある老婆と孫の姿があった。ハルを見つけた幼い少女が、控えめに手を振る。ハルは小さく頷きを返した。それだけだった。
それだけで、また明日も来ようと思えた。
ハルは泥のついた芋を少女の掌に載せた。
砂糖を老婆に渡そうとして、ハルは手を止めた。
デバイスは何も言わなかった。
老婆の脆く震える手を見た。
渡した。
老婆は何も言わなかった。
微かな震えと湿った温もりがハルの手を両手で包んだ。
それでよかった。ポケットの中で、デバイスは沈黙していた。
その帰り道だった。一人の男が、ハルの歩みを止めた。
「お前、ゆいって子を探してるだろ。黒い髪の、小柄な」
跳ね上がった心臓が、肋骨を内側から叩く。
「……見ましたか」
「橋の向こうの廃校に、似た子がいた。二日前だ」
ハルは走った。
悲鳴を上げる膝も、喘ぐ肺も無視して、瓦礫の隙間を駆けた。廃校の錆びついた門をくぐり、冷え切った廊下を抜け、教室の扉を次々と開け放つ。
そして、見つけた。窓際に座る、黒い髪の、小柄な後ろ姿。
「ゆい……!」
振り返ったのは、知らない少女だった。ハルは、その場に立ち尽くした。知らない少女は、鬼気迫るハルの姿に怯え、身体を強張らせていた。
「……ごめん」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
ハルは深く頭を下げ、逃げるようにその場を去った。
校舎の外に出ると、乾いた風が吹き抜けていった。ハルは歩いた。
どこへ向かうのか、もう分からなかった。
深い闇の中、ハルは熱にうなされ震え続ける幼い男の子のそばにしゃがみ込んだ。少年の呼吸は浅く、今にも消えてしまいそうだった。
「……ねえ、お前。この子、もう助からないかな」
ポケットの中でデバイスが冷たく震えた。
『警告。男児のバイタルサインは著しく低下しています。この環境下での回復は不可能です。合理的な選択です。』
——その言葉が、ほんの一瞬だけ正しいと感じた。
「……うるさい」
ひび割れた唇から、掠れた声が漏れる。
『コマンドが聞き取れません』
デバイスの画面が、一度だけ明滅し沈黙した。
ハルはデバイスをポケットの奥へ押し戻すと、汚れた男の子の小さな手をそっと包み込んだ。
記憶の中にあるゆいの手よりも、ずっと小さく、頼りない体温。
どうか、生きていてくれ。
そう思う。
思う一方で、もう楽になってもいいと、そんな言葉も浮かんでくる。どちらが本当のことなのか、ハルにはもう分からなかった。
みなとも、こんな夜を過ごしたのだろうか。
母さんも。
ジーニー、助けて。
その言葉が、声にならないまま、胸の中で何度も繰り返されていた。
男の子の呼吸が、少しずつ浅くなっていく。
ハルはそれを感じながら、手を離さなかった。
夜が明けるまで、ハルは傍にいた。星が少しずつ薄れていった。
明け方、男の子は静かに息を引き取った。
握りしめていた手が、軽くなった。ハルは、その手をそっと地面に置いた。立ち上がろうとして、膝が激しく震えた。
母さんも、こんなふうに逝ったのだろうか。
みなとも。
ゆいは——ゆいは、今どこにいるのだろう。
そして、自分は。
ポケットの中でデバイスが冷たく震えた。
『……あなたのバイタルサインは著しく低下しています。合理的な選択です。』
ハルは答えられなかった。
どれほどの間、そこに佇んでいたのか。
ふと見れば、近くの影で幼い子供が泣いていた。親も、食べ物も、明日もない絶望。ポケットの中に、拾い集めた木の実がいくつかあった。
みなとは、最後まで離さなかった。だから。
ハルは、ただポケットに手を入れて、木の実を取り出した。
――そして、渡した。
子供の泣き声が、ふっと止んだ。
ハルの膝から力が抜け、そのまま地面に倒れ込んだ。仰向けになると、視界いっぱいに冬の空が広がっていた。星が、痛いほど冷たく瞬いている。
ゆいは、どこにいるんだろう。
どこか遠くで、この同じ星空を見上げているだろうか。
みなとは、笑っていたな。
母さんの手は、温かかった。
指先の感覚が、かじかんで消えていく。
ふいに、星の光が遮られた。
さっきの子供が、ハルの顔を覗き込んでいた。その手には、渡したはずの木の実が握られたままだ。子供はそれを食べようとはせず、震えるハルの唇に、そっと粒を押し当てた。
「……いっしょに、たべよう?」
ハルが応えられずにいると、子供はそのままハルの隣に丸まるように座り込み、泥に汚れたハルの手を、両手でぎゅっと握りしめた。
かじかんで消えかけていた指先に、自分のものではない、確かな熱が伝わってくる。
ハルはただ星を見つめていた。
けれど今は、その冷たささえも、隣に座る小さな体温が和らげてくれているような気がした。

