『さあ、その手を、離さないで』Episode 2
──沈黙の断絶 ──
アスファルトの割れ目から、濃い緑の雑草が顔を出している。
湿った土と、遠くで燃える薪の煙の匂いがした。
「おーい、ハル、ゆい!置いてくぞー!」
前方で、ランドセルを背負ったみなとが、無邪気に手を振る。
みなとの声だけは以前と変わらず、突き抜けるように明るい。
「あいつ……少しは状況考えろよな」
ハルは隣を歩くゆいに、わざとぶっきらぼうに言った。
自分の心臓の音が、静まり返った町に響いてしまいそうで怖かった。
「ふふ、でも、みなとくんが笑ってると、今日も大丈夫だって思えるよ」
ゆいが小さく笑う。
燃料がなくなってから、ゆいはさらに痩せてしまった。ハルは、ゆいの歩幅に合わせてわざと速度を落とした。
「……ゆい、荷物、重くないか?持つよ」
「ううん、大丈夫。ハルくんこそ、昨日も井戸掘りのお手伝いしてたでしょ?」
そう言って見上げてくるゆいの瞳に、ハルの顔が熱くなる。
「……行こう。遅れると、みなとに野草、全部食われるぞ」
ハルはゆいの細い手首に触れないよう、彼女の影を追いかけるようにして、学校へと続く坂道を登り始めた。
学校に着くと、教室はすでに子供たちの声で溢れていた。声は以前より少なかった。
何人かの席が、もう長いこと空いたままだ。
担任の先生は、黒板に今日も『忍耐』と書いた。
チョークを握る指先が、ひび割れていた。
「手を、離してはいけません。隣の人の手を」
給食の時間、配られたのは野草のスープと、小さな黒パンが一切れずつだった。
ハルは自分のパンを、隣の席の痩せた一年生の前にそっと置いた。
ゆいは、自分のスープを別の子の前にそっと押した。
みなとはそれを見て、自分のパンを一番端の子の前に置いた。
「俺、今日なんか腹減ってないんだよね」
誰も何も言わなかった。
ただ、三人分の温もりが、冷えた教室に少しだけ残った。
下校の時間、三人は並んで坂道を下った。
分かれ道でゆいが先に曲がった。
振り返って、小さく手を振る。
夕暮れの光が、ゆいの痩せた頬に当たっていた。
「また明日ね、ハルくん。みなとくん」
ハルは手を上げた。
それだけで精一杯だった。
ゆいの背中が角を曲がって、消えた。
ハルはこの分かれ道で、いつもゆいの家までついて行きたかった。
「……好きなんだろ」
みなとが、ハルの顔を覗き込んだ。
「うるさい」
みなとの笑い声に、ハルも笑った。
それが、静まり返った坂道に響いた。
少年の親友は、画面の中にいた。
『ハル、この先の商店跡。政府の緊急支援物資が、一時間後に入荷する確率は六十三パーセントだ』
「ありがとうジーニー、行ってみる」
商店跡にパンがあった。一個だけ売ってもらえた。
「今日はパンが買えた」
『それは良いニュースだね。何日ぶり?』
「三日」
ほんのわずかな間があって、声が続いた。
『……なら、半分は君が食べるべきだ』
「いいよ。母さんにやる」
ポケットの中で、画面はしばらく何も言わなかった。
母親は痩せた。
朝になると咳き込み、起き上がれなくなっていた。
ハルはパンをシャツの裾に隠し、お腹に抱えた。
少しでも早く持ち帰ろうと、足を速める。
酸っぱいような甘い匂いが、鼻の奥にこびりつく。
甘い匂いに、思わず唾が滲んだ。
「母さん、ただいま」
玄関の引き戸に手をかけたとき、何かが、ずれた。
次の瞬間、地面が大きく跳ねた。立っていられず、膝をつく。
家全体がガタガタと激しく揺れ、梁が軋む音が頭上で悲鳴のように鳴り響く。外から女の子の甲高い叫び声が上がり、すぐに別の誰かの声が重なった。
『ハル、姿勢を低くして。落下物の回避を最優先に。……震度、計測不能。広域停電が発生したよ』
ジーニーの平坦な声が、耳元で鳴り響く。
少年は這いつくばいながら、それでも家の中へ進もうとした。指先が床板に食い込み、爪が白くなるほど力を込める。玄関の敷居に、額を思い切り打ちつけた。痛みより先に、嫌な鈍い音が頭の奥に残る。
「……母さん」
声は、揺れの音に飲み込まれた。返事はない。背後で棚が倒れる重い音。
食器が一斉に砕ける鋭い破砕音。そして――メキメキと、家全体の骨組みが折れる、決定的な「倒壊」の音が響いた。
すべてが、やけに鮮明に耳に突き刺さった。
シャツの中のパンを、無意識にかばうように抱き寄せる。自分の体温と、パンの温もりが、混ざり合った。
少年は歯を食いしばり、這いずるように奥の部屋へ進んだ。指の先が震え、床に小さな血の跡が残っていく。口の中に血の味がした。膝が割れているのか、点々と赤い跡が続いていた。
「母さん!」
まだ間に合うはずだ、と言い聞かせた。
奥から、ひどく静かな沈黙が流れ出していた。
『ハル、バイタルサインの検知範囲内に、母さんの生体反応を確認できません。……合理的な判断をしてください。二次災害の危険性が――』
「うるさい!」
少年は、初めて親友を怒鳴りつけた。
埃が舞い、視界が白く濁る中、デバイスの画面が一瞬だけ揺れた。
ジーニーは、何も言わなかった。
ハルは崩れた棚の隙間に手をかけた。
動かそうとした瞬間、上から何かが落ちてきた。
明日も、一緒に食べると約束したはずだった。
けれど、目の前にあるのは、かつて「家」と呼ばれていたものの残骸と、どこまでも続く、冷たい静寂だけだった。

