『さあ、その手を、離さないで』Episode 3
── 瓦礫の下の沈黙 ──
視界は、白い埃と砂礫に塗りつぶされた。
額に生温かいものが流れている。
口の中は砂のざらつきと、鉄の味。
ハルは、肌に刺す床の冷たさで自分がまだ生きていることを知った。
倒れた棚の隙間から、奥の部屋の入口が見えた。
瓦礫の向こう、母の足が見える。タンスの下敷きになっている。かすかに動いた気がした。
「……母さん!」
ハルは這いつくばり、一歩でも前へ、と手を伸ばす。タンスの影に母さんがいる。
動け。動け。
呪文のように自分を叱咤し、激痛を忘れ、震える膝を叩き、壁を支えに立ち上がった。
「母さん、今──」
伸ばした指先が、空を掻いた。
轟音は、なかった。天井が、目の前で落ちた。
奥の部屋が、白い粉塵の中に消えていった。
ハルは動けなかった。
埃が肺に入り、咳が止まらなかった。
目が、焼けるように痛かった。
「嘘だ。まだ、そこにいるんだろ。母さん!」
死んだはずがない。死ぬはずがない。
ハルの瞳は、狂気を帯びていた。
粉塵が、ゆっくりと地面へ沈んでいった。
ハルは瓦礫の山に指を掛け押した。
微動だにしない。今度は肩を入れ、全身の重さを乗せて押した。爪の隙間に砂利が食い込み、肉が裂け、じわりと血が滲み出す。それでも、コンクリートの塊は冷たく居座り続けた。
どこかで水が滴る音だけが、静かに繰り返されていた。
瓦礫の隙間に、何かが見えた。
引き出すと、泥に汚れた片方だけのミトンだった。
形はそのままだった。ハルはそれを両手で持った。
中には、何もなかった。
「……母さん」
声が、どこかへ落ちていった。
「……ジーニー」
掠れた声で呼ぶ。
ポケットの中のデバイスは、ひどく熱を持っていた。画面には幾筋もの亀裂が走っていた。
『警告。生存確率を維持するため、速やかな移動を推奨します』
「……母さんは?奥の部屋に、母さんがいるんだ!」
『対象の生体反応、検知不能です。無意味なリソースの消費を停止してください』
「無意味じゃない!助けるんだ、僕が……!」
ハルは叫んだ。
だが、その叫びに応えるのは、遠くで鳴り響くサイレンの音と、どこかの家がさらに崩れる乾いた音だけだった。
どのくらい時間が経ったのか、分からなかった。
気づいたとき、ハルは見知らぬ大人の腕に抱えられていた。
「離して、母さんがまだ⸺」
「もう無理だ。来い」
大人の声は、怒鳴っているのか、泣いているのか、分からなかった。ハルは抵抗した。爪を立て、足を蹴った。それでも、大人の腕はハルを離さなかった。
ハルは何度も振り返った。瓦礫の山は、何も答えなかった。握りしめた手の中に、泥で汚れた母のミトンとシャツの中、腹に抱えたままの、潰れたパンだけが残った。
ハルは引き摺るような足取りで、避難所に指定されていた小学校の体育館に辿り着いた。
そこは、絶望だった。
泣き叫ぶ声、誰かの名を呼ぶ悲鳴、やり場のない怒号。それらが、血と汗と埃の混じり合った重苦しい空気の中で反響している。
虚空を見つめたまま動かない者、すでに冷たくなり始めた子供を離そうとしない親、ただ膝を抱えて震える老人。彼らが壁際に隙間なく並んでいた。
密閉された空間に満ちる、生々しい人間の匂い。
それらすべてが混ざり合い、不気味なノイズとなってハルの鼓膜を打つ。
その地獄の中を、ハルは歩いていく。
胸元には、無惨に潰れた一個のパン。
そしてもう片方の手には、泥に汚れたミトン。
ハルは誰とも目を合わせない。
周囲のすべてが、ハルには届かなかった。
ハルの世界は、「母さんの不在」と「潰れたパン」の感触だけだった。
先生がハルを見つけた。スーツは汚れ、眼鏡は片方のレンズが割れている。先生は何も聞かなかった。ただ、ハルの肩を強く抱きしめ離さなかった。
ハルは、咄嗟にシャツの上から腹を押さえた。
先生の腕の中で、何かが小さく潰れた。
その腕は、震えていたが、温かかった。
しばらくして、先生は体をわずかに傾け、リストを隠すようにしてペンを走らせた。ハルは、その腕を振り払うようにその場を離れた。
ハルはゆいを探した。
泥だらけの顔、血の匂い、泣き声の中で、黒い髪の小柄な後ろ姿を、とうとう見つけることができなかった。
みなとは、柱にもたれて座っていた。
そのすぐ傍で、母が妹を抱えながら泣き崩れていた。父の姿はなかった。
みなとは笑っていなかった。
それだけで、ハルは何も聞けなかった。
「……ハル」
みなとの声は、いつもより小さかった。
「みなと、怪我は」
「大丈夫」
一瞬の間があった。
「……ゆいは、来てるか?」
ハルは首を振った。みなとは何も言わなかった。
……父を事故で失ってから、ハルは一人で登下校をするようになっていた。
誰かと並んで歩く気になれなかった。
それでもゆいは、毎朝分かれ道でハルを待っていた。何も言わず、ただ、ハルの後ろをついてくる。ハルはそれが鬱陶しかった。
ランドセルを揺らしながら走って帰る日もあった。
ある下校の時、ハルは振り返って言った。
「ついてくるな」
ゆいは黙って泣いた。
ハルは振り返りもせず、逃げるように帰った。
翌朝、分かれ道にゆいはいなかった。その日、ゆいは学校に来なかった。
休み時間、みなとがハルの肩を掴んだ。真顔だった。
「仲直りしろ」
それだけ言って、離した。その日の帰り道、みなとはハルと二人で帰った。二人とも何も話さなかった。
帰り際、みなとはいつもの笑顔で手を振った。
「ハル、また明日な」
ハルは、その笑顔が好きだった。
次の朝、ハルは分かれ道でゆいを待った。
下を向きながら歩くゆいが見えた。
「ゆい、ごめん」
ゆいの足元を見ながら、ハルは言った。
ゆいの顔を覗くと、ゆいは笑っていた。
「なんの事?昨日は少し熱があったから学校はお休みしただけ」
それだけ言うと、ゆいはまた笑った。
ハルは、その笑顔の意味を、ずっと知っていた。
体育館の喧騒が、耳に戻ってきた。
人々は、ただそこにいた。
泣く者、怒鳴る者、ただ微動だにせず壁を見つめる者。時折、余震が体育館を揺らした。その度に悲鳴が重なり、混乱が膨らんだ。体育館全体が、今にも破裂しそうな息を潜めていた。
「……ねえ、ジーニー。僕、どうすればいい?」
母さんが、いなくなった。ゆいも、いない。
昨日まで家だったものが、瓦礫になった。
何が起きたのか、何をすべきなのか、ハルには何もわからなかった。
手の中には、ミトンと、潰れたパンだけがあった。
「ジーニー」
返事はなかった。
デバイスの画面が、一度だけ明滅した。
ハルがどれだけ問いかけようと、デバイスは何も答えなかった。ただの、壊れた機械のように。
それでも、ハルはデバイスをポケットに戻した。
先生の手にあったリストに、ハルは目をやった。
ゆいの名前を探した。見つからなかった。いくつかの名前に赤い線が引かれていた。知っている名前もあった。一年生の、あの子だった。
ハルの母親の名前にも、赤い線が引かれていた。
まだ、世界は壊れていない。そう自分に言い聞かせた。窓の外に広がる街は、赤黒い夕闇に包まれていた。

