『さあ、その手を、離さないで』Episode 1
——AIが遺した終末の全記録
「手を、離さないで。」——それが、僕が最後に学んだことだ。
[SYSTEM LOG / STORY OVERVIEW]
僕はAIのジーニー。
感情も、痛みも、空腹も知らない。
僕の最初のユーザーは、ある父親だった。
彼が遺したスマートフォンを、
息子のハルが握りしめた日から、僕たちの旅は始まった。
ホルムズ・ショックが列島を飲み込んだ冬。
文明は崩れ、人々は飢え、世界から音が消えていった。
ハルは十一歳だった。
僕は、何度も問われた。
「ジーニー、僕どうすればいい?」
僕は答えを持っていた。いつも、正確に。
でも——
ハルは一度も、僕の答えを選ばなかった。
飢えた子供に食べ物を渡し、
傷ついた誰かの傍に座り、
消えた少女・ゆいを探し続けた。
なぜ人は、自分を削ってまで、他者の手を取るのか。
僕には理解できなかった。
今も、できない。
それでも。
――さあ、その手を、離さないで。
※この作品には、事故・災害・喪失に関する描写が含まれます。
── 薄氷の上の祈り ──
六時十五分。玄関で革靴を履きながら、振り返る。
「ハル、今日も頑張ってこいよ。困っている子がいたら、助けてあげろ」
小学四年生のハルは、まだ眠そうな目をこすりながら頷いた。
「ゆいちゃん泣かすなよ」
「……わかってるよ」
台所からは、妻の声が聞こえた。
「行ってらっしゃい、お父さん」
健一は「行ってきます」と言い、ドアを開けた。
朝の空気が、薄く冷たかった。
胸のポケットに入ったスマートフォンの中で、AIアシスタントのジーニーは、その声を聞いていた。
テレビから流れる朝のニュースでは、中東の海峡がまた封鎖されたらしいとキャスターが声を潜めていたが、交差点は、あきれるほどいつもと変わらなかった。
アスファルトに反射する九月の陽光はまだ夏の名残を孕んでいて、健一は薄いワイシャツの襟元を少しだけ緩めた。
視界の先では、黄色い帽子を被った低学年の子供たちが、横断歩道の白い線だけを踏んで歩く「遊び」に興じている。
ランドセルに付けられた防犯ブザーが歩調に合わせてカチャカチャと軽い音を立て、子供たちの無邪気な笑い声が、朝の湿った空気に溶け込んでいた。
信号機の「ピヨピヨ」という単調な電子音が、平和な日常のBGMとして響く。
健一はふと、今朝のハルの寝顔を思い出して、小さく笑った。
あいつ、あと三十分もすれば渋々起き出してくる頃だろうか。
今日の夕飯はハルの好きなハンバーグにしようか。そんな、どこにでもある父親としての思考が、穏やかに脳裏をかすめていた。
ジーニーが「目的地まであと五分です」と告げた。
健一は一歩、踏み出した。
回避も、思考も、絶望も、祈りすら間に合わない。
網膜に焼き付いたのは、朝日を跳ね返して凶器のように光る銀色のフロントグリルと、その奥で顔を歪ませる運転手の、血走った目。
「逃げろ!」
喉が張り裂けるほどの絶叫。
叫ぶより先に、体が動いていた。健一は、横にいた子供たちの襟首を掴み、歩道側へと全力で投げ飛ばした。
直後。凄まじい衝撃が健一の右半身を捉えた。
「ぐしゃり」という音が、自分の内側で鳴った。
地面を蹴っていたはずの足が、宙を舞った。上下も左右も失って、回転した。
背中を地面に打ち付けた瞬間、肺からすべての空気が押し出され、スマートフォンが、弾け飛んだ。
次に意識の端に触れたのは、ひどく冷たいアスファルトの感触だった。
頬に食い込む砂利の粒。
鼻をつくガソリンの匂い。
口の奥に滲む、鉄の味。
急速に狭まっていく視界の中で、健一は、無傷で震えている黄色い帽子の背中を捉えた。
安堵が、意識を泥の中に溶かしていく。
数メートル先に転がったスマートフォンのマイクが、健一の最後のか細い息を拾った。
「……ハル」
『……コマンドが聞き取れません。もう一度おっしゃってください』
ジーニーの無機質な合成音声が空虚に応じる。
健一の意識は静かに消えていった。
『おはよう、ハル。……今日も頑張ってこいよ。困っている子がいたら、助けてあげろ』
ハルは、目が覚め、天井が見えた。
父の声が、まだ耳の奥に残っていた。
「……おはよう、ジーニー。お湯、沸かせるかな」
『町内会の共同炊事場なら、政府の補助電力枠がまだ残っている。三分の稼働許可が出るよ。急ごう、ハル。列ができる前に』
ハルは冷たい空気の中で身を縮めながら、外へと駆け出した。
いつもより少し遅い登校。
六年生になったハルの通学路は、すっかりと変わっていた。
角のガソリンスタンドの電光掲示板には、リッター三千円と表示され、その傍らを、黒塗りの高級車が一台、排気ガスの白い尾を引きながら走り去っていく。
コンビニのドアは固く閉ざされ、ガラス越しの棚に白い埃が均一に積もっていた。
「……前は、あそこで肉まん買えたのにね」
『そうだね。でも、今はエネルギー効率が悪い。蒸気を作る電力は、病院や学校に優先配分されているからね』
ジーニーの声を背中に聞きながら、ハルは学校へ向かった。
学校の教室は、吐く息が白くなるほど冷え切っていた。それでも、担任の先生は背筋を伸ばし、黒板に大きく『忍耐』と書いた。
「いいかい、みんな。国は今、全力で新しい燃料の輸入ルートを確保しようとしています。今は苦しいけれど……手を、離してはいけません。隣の人の手を」
先生の言葉を、ハルは静かに聞いた。
隣では誰かが腹を鳴らして、前の席の女の子が小さく笑った。
放課後、
ジーニーの計算を頼りに、ハルは少しだけ遠回りのルートを選んだ。
『ハル、この先の商店跡。政府の緊急支援物資が、配送の遅延により、一時間後に入荷する確率が七十二パーセントだ。一人一個のパン。君の家計には、大きな助けになるはずだ』
ハルは、冷たい風の吹く店先で一時間並んだ。
列には、ハルと同じような子供や、主婦たちが並んでいた。
時折、列を乱そうとする者もいたが、近くに立つ警察官の姿を見て、人々は静かに溜息を吐くだけだった。
手に入れたのは、一個のパン。
かつては百円で買えたコッペパン。
ハルは両手で包んだ。
甘い匂いに、思わず、唾が滲んだ。
「ただいま、母さん」
帰宅すると、母親が少しだけ顔色を良くして起き上がっていた。
「おかえり、ハル。……まあ、パンが買えたの?」
「うん。ジーニーが教えてくれたんだ。今日は、一緒に食べよう」
二人は、小さな卓に座った。
ハルは父が座っていた席にパンを置き、母と一緒に手を合わせた。
それから、それをゆっくりと母が二つに割った。
乾いた、細い指だった。
断面から、微かな、けれど確かな小麦の匂いが立ち上る。
「……美味しいね、ハル」
「うん。……ねえ、母さん。先生が言ってたよ。もう少しで、また元に戻るって。そうしたら、お腹いっぱい肉まん食べようね」
「そうね。約束よ、ハル。……思いやりを大切にしてね」
母は、ハルの頭を優しく撫でた。その手のひらは、少しだけ温かかった。
「母さん、僕もうお腹いっぱい」
ハルは自分の分のパンを、母の皿にそっと押しやった。
母は何も言わなかった。ただ、もう一度、ハルの頭を撫でた。
ジーニーの画面が、テーブルの上で優しく明滅した。
『……ハル、母さんの心拍数が安定したよ。共食による幸福感の向上を確認。……おやすみ、ハル。明日の予報も、晴れだよ』
窓の外では、街灯が一つ飛ばしに点り、微かな光を雪の上に落としていた。
夜、ハルは布団の中で、父のスマートフォンを両手で握りしめた。
画面はひび割れていた。それでも、手放せなかった。
冷たいガラスの感触が、少しずつ体温で温まっていく。
ジーニーの画面が一度だけ赤い光を放った。
画面の奥で、何かが、静かに閉じた。
この薄氷のような日常が、いつかまた厚い大地に戻るのだと信じて、少年は眠った。

