【ダークファンタジー小説】チェスガルテン創世記【44】
第八章――炎の子 前編 【Ⅵ】――
覡巫の長屋からどうやってケヴァンの天幕まで帰ってきたのか、フェンリルは覚えていない。
天幕ではケヴァンの息子一家とヘルガたちが待っていて、フェンリルたちを出迎えてくれた。共に食事をし、他愛ない会話もした。そのはずだが、自分がそこにいたという実感はなかった。
気づけばフェンリルは、羊毛布団にくるまり横になっていた。
パンを小さくちぎっては口に運ぶ、ロッタの赤く腫れた目だけが、夢の名残として瞼の裏に張りついていた。
寝がえりをうって起きあがると、すぐ側から寝息が聞こえてきた。
少々迷ったが二つ並ぶ人影を、踏みつけないように這い出ていこうと試みる。するとそのうちの一つが話しかけてきた。
「――よう」
トルヴァの声だった。彼も眠れないでいたらしい。
トルヴァはルクーを起こさないよう、フェンリルと同じく慎重に起きあがった。
二人はそれから、無言のまま天幕から出ていった。どこへ行こうと指し示すわけでもなくもくもくと歩き続け、やがて暗闇の中で際立つ光源――世界の支柱の根元に辿りついていた。
「夜だと結構眩しいものなんだな」
そう言ってトルヴァは淡く発光する世界の支柱に触れた。その手のひらに光る結晶が集まり、物憂い顔が白く照らされる。
「じいさんと初めて会った時、顔を隠してたな」
トルヴァが手元の光を見つめながら切り出した。
「刺青を入れはじめたのは、きっとあの頃だ。――ちょうどその頃にオレたちさ、世話になってる集落で騒ぎになって、出て行くことになったよな」
「……そんなことあったか?」
「あったよ。じいさん、子供は置いてけって、集落の人たちに追いかけ回されたんだ。それでオレたち、そこの一員になるとかそんな話じゃなくなって……とにかくそれっきりだったろ。覚えてないのか?」
フェンリルは首を振った。
「オレだって自信満々じゃないけど、色々思い出してきたぜ。あんな大ごとになったのは、お前のせいでもあったぞ。確か」
トルヴァが眉根を寄せるので、フェンリルは思い出す努力をしてみた。だが、やはり答えは同じだった。
「あの頃のことはぼんやりしてるんだ。もやがかった感じで……」
「じゃあオレがいつから、どうして一緒にいるのかも、わかんないわけか」
「正直あんまり……いつのまにか、なんかいるなあと……」
「この薄情者」
脛を蹴られそうになったため、フェンリルは数歩ぶん後退した。追撃が来るかと身構えたが、蹴りはその一度きりだった。
トルヴァは眉間の皺を緩めた。
「まあ、しゃーないか。あの頃フェンリルもじいさんも、なんか大変そうだったもんな」
「そう見えたか?」
「訳ありそうだなとは、チビながらに思ってたよ。――騒ぎになった時は、理由がわからなかったけど、今ならわかる。じいさんは顔を見られたんだ。それから集落に立ち寄ることが、めっきり減ったんだよな」
トルヴァが白い息を吐きだした。世界の支柱のすぐ側とはいえ、真夜中ともなればさすがに冷え込むのだった。
「オレ、じいさんが何かにつけて天王様を引き合いに出すから、覡巫のお告げで、子供を拾うことになった巡礼者なのかな、なんて想像したこともあったぜ」
トルヴァは苦笑気味にぼやいた。
「……でも考えてみたらじいさんは、自分のことを話したことはなかったな。オレたちみんな……じいさんのことを、なんにも知らなかったのかもしれない」
トルヴァの言うことを否定することはできない。
むしろその通りだと思った。
「……おれは、じいさんは集落を追い出された人なんだろうと、なんとなく察してはいたんだ」
「罪人だってことをか?」
フェンリルは首の鎖を引っぱった。服の下から引きずり出た、鎖に通されたヘイルの腕輪に、世界の支柱の光が映える。
腕輪を見つめて、フェンリルは言った。
「きっと昔、何かの罪を犯して追放されて、それで、帰れなくなってしまった人なのかもしれないって……おれを助けて側においているのは、きっと、そういう理由からなんだと……」
ヴァナヘイムからずっとフェンリルを伴ってきたのは、同じ故郷をなくした人だからなのだと思っていた。
同じ郷愁、同じ喪失を知る人だから。
だからこそフェンリルであり、ここだったのだと。
「どこにもいつこうとしないのは、許される機会を失ってしまって……だから、いま、ここだったんだと。ヴァナヘイムの……故郷の流れを汲むっていうここで、じいさんの贖罪が終わるんだと、そう、勝手に思い込んでた」
だがそうではなかった。カザドこそ真実どこにも居場所のない――許されざる、同族殺しの罪人だったのだ。
「前も言ってたよな。そのヴァナヘイムってのは、お前のなんなんだよ」
フェンリルは、そういえば教えたことがなかったと気がついた。
「……ヴァナヘイムは、おれの生まれ育った集落の名前だよ。おれの祖父の代に作られて、ちょうどここと似た感じで……それで、ある日、女神の戦士がやってきて……全部壊された」
フェンリルが懸命に言葉を選んで語るのを、トルヴァは根気強く聞いていた。
フェンリルは、腕輪を握りしめる手に力を込めて言った。
「ここは……ヨトゥンヘイムは、ヴァナヘイムから旅立った人たちで築いたらしい。ブラギやグズリ……覡巫にエイナルも、同じ故郷の人なんだ」
「――なるほどね」
トルヴァは腕を組んだ。
「だから女神の戦士に対してあんなに――納得した」
彼は彼で、この無口な兄貴分にずっと疑問を抱いてきたのだった。そして真剣な口調で、トルヴァは切り出した。
「それならやっぱり、じいさんは、お前のためにここに来たんだ」
それはフェンリルもうぬぼれのように考えつき、そしてやはりうぬぼれだったと、カザドの正体に打ちのめされたことだった。
「ブラギたちの見解は、そんな風じゃなかったろ」
フェンリルはため息をつきながら、前髪をかき上げた。
「じいさんのこれまではつまり、贖罪のためで……おれたちを拾って育ててきたのは、その延長だってことなんだろう」
もしかしたらカザドはヴァナヘイムにやってきたあの日、すべてを壊す狂嵐の獣のさがに従い、破壊と死をもたらすつもりだったのではないか。
少なくともブラギはそう判断したから、あのような問答をしたのだ。カザドの過去を知った今となっては、そこに結び付ける方が妥当だった。
だが、獲物を横からかっさらわれてしまって、やることがなくなって――気まぐれに、罪を贖う気になったのかもしれない。
子供たちを拾い育てたのは贖罪のひとつに過ぎず、死に病を経て、今こうして彼らの元を去ったのだって、成り行きに違いない。
カザドと共にいた日々のすべては、彼の贖いのために費やされていた。
カザドは自らを偽り、フェンリルたちを偽り、そして再び去った。
誰ひとり、必要としないまま。
「本当にそれだけか?」
腕輪越しの視界に、トルヴァが侵入した。
「それなら同族殺しであることを隠してまで、オレたちを手元に置くことに、なんの意味があったんだ。もっと他の方法だってあっただろ」
それも何度も考えたことだった――でもぐるぐると渦を巻き、堂々巡りだ。
どうして、カザドはあの日、フェンリルを助けたりしたのだろう?
「それがわからないから、苦しいんだ……」
「本気で言ってんのかよ」
トルヴァは驚いた顔になった。
カザドの人柄を誰より知ったつもりでいた。なのに、今や誰よりも遠かった。知らなかったことのすべてが明らかになったのに、フェンリルの胸中は解放感どころか、裏切られたような虚しさでいっぱいだった。
盲目的にカザドを信頼していた分だけ、反動もまた大きかったのだ。
「そうじゃなきゃ、わからない……だっておれは、どう考えても面倒なガキだったはずだ。……なのに、なんで追われる身で、自分から厄介事を抱え込むような真似をしたんだ……」
フェンリルは、力が抜けたようにその場にしゃがみこんだ。
「それならオレたち全員、足手まといだったろうが」
トルヴァは歯切れよく言い放った。
「覡巫や長殿が言った通りの悪人のままだったなら、オレたちなんてとっくに斬り捨てられてる。その場でそうしなくとも、そこらに置きざりにするなりなんなり、いつだって好きにできたはずだ。そうすることになんの抵抗もないはずだろ。でもそうしなかったのは、お前と会って、何かが変わったからだ。お前がじいさんを変えたんだろうが」
フェンリルは自嘲気味に笑った。
「狂嵐の獣とまで言わしめた、血も涙も凍てついた同族殺しが、死にかけのガキひとりに、心を動かされたっていうのか?」
「オレはそう思うね。ただの気まぐれだけで、何年もこんなことやってられるかっての」
「……おれにそんな価値無い。誰かを変えられる力なんか……持ってないよ」
フェンリルは唇を噛んで、抱えた両膝に頭を乗せた。
するとトルヴァがフェンリルの前にかがみこみ、両手で彼の青い頭を掴んでわしわしとかきまわした。犬にするのとそっくりの手つきだった。
呆れ果てた口調で、トルヴァは続けた。
「馬鹿。肝心のお前がへこんでどうすんだ。――お前を自分と同じような復讐者に育てようとしなかったのが、何よりの証拠だろ」
ぐしゃぐしゃにされた頭で、フェンリルは世界の支柱の光が灯る、トルヴァの目を見返した。
トルヴァの目はフェンリルと同じように青いのに、発する光はまったく異なっている。――まばゆい程にまっすぐだ。
フェンリルはそんなトルヴァのまなざしを受けて、迂闊にも泣きそうになった。
彼にだって、フェンリルと同じくらい辛いことがあったはずなのに。その強さや優しさは、どこからくるのだろう。
……カザドは市で、フェンリルが過去の傷を愛していると言った。憎しみを手放せないことを愛だと。彼が囚われた復讐心を、そうして嘲笑った。
フェンリルが愛した人たちは過去の水底にしかおらず、憎悪と苦痛の中でしか蘇ることはないのだから、カザドの言うとおりなのかもしれなかった。
ぐちゃぐちゃに壊された心を癒そうとしないまま、固まりかけた血や膿でもってなんとか形を留めせたのがフェンリルなら、トルヴァはもっと、別の方法で新たに築き上げたのだろう。
きっとそれは、フェンリルには真似できない。思いつきもしないような方法で。
根本から生ずるものが違うのだと思うと、より悲しくなり、再び膝に頭をうずめた。
「トルヴァはすごいな」
「は? ――どうした急に」
「すごいよ。いつも思ってる。でも、おれは駄目だ……どうしたら、お前みたいになれるんだろう……」
突然の賞賛に、トルヴァは喜ぶよりも寒気がした。
これはいよいよ、駄目になっている気がする。こんなものを黙って放置していったカザドに、若干恨みが湧いた。
渋い顔で口を何度か開閉したのち、トルヴァは後頭部を掻いた。
「――いいんじゃねぇの。お前はそれで」
フェンリルが腕の隙間から、こちらを見つめてきた。泣きまではしないが、潤んだ目もとだった。
「いいよ、それで。変わろうとしなくてもさ。もう、これは性分ってヤツだろ。――そのかわり、お前が取りこぼした分は、オレが拾ってやるよ」
改めて告げると、トルヴァは口の端をわずかに持ちあげて、フェンリルに手を差し出した。握手を求める仕草だった。
「オレは銀梟の氏族。レイフとその妻ヴァルマの一子。レイフィア=トルヴァ。じいさんに拾われる前は、祖父と両親の他に、弟二人と暮らしてた」
突然名乗りあげたトルヴァを、フェンリルは怪訝そうに見た。
「なんだ急に」
「いや、きちんと名乗ったことなかったよなと」
カザドは成り行きで共だったトルヴァに対して、積極的に身の上を聞き漁ることはしなかった。反対にトルヴァも、彼らのこれまでをたずねたことはなかった。
無言のままでいたことは、当時の彼らにしてみれば、お互いに対する最大限の思いやりだったのかもしれない。
だがその結果、どうだろう。
お互いについてびっくりするほど、何も知らないままで来てしまっていた。
「ここは良いところだし、ケヴァンさんたちも良い人だけどさ。でも、オレたちはオレたちで、ずっとやってきたよな。それなのに、お互いにしっかり名乗ったことすらないんだ。それはそれで、気楽だったかもしれないけどさ――ちょっと水臭いよな」
フェンリルはトルヴァの顔と、差し出された手を交互に見た。
やがて鼻をすすりトルヴァの手をとると、ゆっくり名乗りをあげた。
「おれは……ヴァナヘイムの長、ディアスとその妻リンネアの三子。ヴァナシア=ディアス=サグム=フェンリル。両親の他に兄と姉がひとりずついて……それから、イル=カザドの養い子、イル=フェンリルとなった。いまは……カザディア=フェンリルだ」
「兄貴の名前はもう知ってるぞ。ヴィーダルだろ」
トルヴァは破顔した。
「きっとお前ほど名前が変わった奴、そういないぜ。――それで、どうする?」
「どうするって?」
「これからだよ。フェンリルはどうしたい?」
思いがけない質問に、フェンリルは考え込んだ。
ヘルガに似たことを聞かれた際もそうだった。あの時もフェンリルは、答えられずに言い淀んだ。
フェンリルは自分の望みや将来について真剣に考えてきたことはなく、カザドの動向やヘルガの望みに、自身をあてはめてきてばかりだったのだと、この瞬間気がついた。
――自らの願望に最も近い行いをしたとすれば、女神の戦士との戦闘だ。復讐心に駆られ、衝動のままに刃を振るった。あの行為にほかならない。
でもそうではない。フェンリルの望みは、そうではなかったはずだ。
フェンリルは上空に昇り、四方へと広がる光の束を見上げた。この光が伸びる先、同じ空の下のどこか――どこかに、カザドがいる。
きっとまだ、この世のどこかにいてくれている。
「……言ったら最後だ」
「そんなの、わかんないだろ」
「だって」
フェンリルはヘルガやルクー、ダインとロッタの顔を夜空に思い浮かべた。目の前のトルヴァの顔も思い浮かべた。どこで何をしてるかもわからない、ボズゥの顔も。
ボズゥもここに、辿りついてくれたら良いのに。
みんな、やっと、安らげるかもしれない場所に、辿りついたのに。
「もう、戻らないかもしれないんだ」
「お前は馬鹿」
トルヴァはフェンリルの額に、でこピンを喰らわせた。
「こういう時は、黙ってついて来いと言うんだよ。――じいさんに物申したいのが、自分ひとりだけだなんて思いあがるなよな」
額をさすり、フェンリルはトルヴァを見返した。
かつて兄の面影を見た銀髪の少年は、やはりなんでもないように笑った。
「オレが必要だろ? 言ってみろよ兄弟」
【次話】
【他本編】
これまでとこれからと。
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