【ダークファンタジー小説】チェスガルテン創世記【48】
第八章――炎の子 中編【Ⅱ】――
二人が夜の支度をしていると、ハティがおぉーん……と一声長く吠えた。いただきに挑み始めてからこちら、ハティは決まって同じ時に遠吠えをしていた。
ヨトゥンヘイムが近かった頃は、猟犬の群れが応えてくれていた。やがてその声は遠くなり、もうフェンリルやトルヴァの耳では、聞き分けられなくなっている。
かわりに山には狼の群れが存在していた。恐ろしく間近で複数の遠吠えが響いた夜もある。ただし、ハティを品定めしているからなのか、人間を警戒しているのか、姿をはっきりと見たことはない。
ハティの声にいつでも応えてくれるわけでもなかったが、この日の夜は返事があった。
「近い」
フェンリルが橇の寝床から身を乗り出すと、再び、ひとつの遠吠えが返ってきた。ハティが喉をのけぞらせて、おぉーん……と応える。
「お前の友達か?」
ハティは黒々とした目でどこかを見つめていた。日が落ち暗い藍色に沈んだ景色の中、積もった雪とところどころ剥き出しの岩とが重なり、模様のようだ。
眠りについたまま身じろがない、大きくて無慈悲な生き物の背にいるような心地がする。
今回も何も見いだせないだろうと、諦めて身体を戻そうとした時だった。ハティがさっと腰を上げて四肢をつっぱり、尻尾を高く持ち上げた。
「どうした?」
ぐるぐるとその場で回転し、見つめていた先に向かって吠えるハティの様子は、フェンリルを遊びに誘ってくる時と良く似ていた。
まさか本当に、お仲間でもやってきたのだろうか?
フェンリルが目を凝らすと、真正面の岩場で、切りとられたようなひとつの影がかすかに揺らいだ。ピンと立つ三角の耳と体格は、狼の輪郭をかたどっていた。
「――スコル?」
その名が口からこぼれ出た途端、狼はさっと、きびすを返して岩陰に身を躍らせた。眼光が虚空に光の筋を作った。
「待て――スコル!」
一度そうだと思ったら、もうそのようにしか見えなかった。咄嗟にフェンリルと、彼につられたハティが飛び出した。
ひとりと一匹で岩場まで辿りついた時には、もう、その姿はどこにも見出せなかった。
そのかわり、別の物を見つけた。
「おい、どうしたよ」
突然飛び出したフェンリルたちに、トルヴァが追いついた。
「スコルだ――スコルがいた」
しゃがみこみトルヴァに背を向けたままで、フェンリルは呟いた。
「確かか?」
「それから、これ」
フェンリルが差し出した物は、トルヴァがつまんだ瞬間にぼろぼろと崩れ落ちた。
それがなんだったかを察する前に、フェンリルが更にその場を掘った。そして雪に埋もれていたひと炭化して黒ずむ木々と、小動物の骨を発見した。
トルヴァはどきりとした。野営の跡だ。
雪深い険しいいただきで、火を使う何者かがここにいた――彼ら以外に。
「じいさんは、ここにいた。ここを通った――今すぐに、追わないと」
「――いや、駄目だ。待て!」
ゆらりと立ち上がり、今にも駆け去ってしまいそうなフェンリルの肩を、トルヴァが掴んだ。
「動くなら明るくなってからだ。もう夜が来る」
フェンリルはふり返るなり、トルヴァを睨みつけた。カザドを追ってからこちら、野営の跡ひとつ発見できていなかったのだ。道中、ひとすじの煙すらも見ていなかった。
彼らの予想を越えてカザドの歩みがずっと早かったのか。あるいはとうの昔に雪の下で凍りつき、知らぬ間にその上を通り過ぎてしまっていたのか――
口にこそしなかったが、何の足取りも掴めていないことが、じりじりとフェンリルの胸を燻り焦がしていた。
「足元が見えなくなってから動けば、危なくなるのはオレたちのほうだ」
「それなら――松明を持てばいい。ハティだっている」
「マジで言ってる? それ」
トルヴァは掘り出された骨を齧ったり、その場で腹を見せて転げまわるハティを半眼で見やった。
「あいつ、ずっと獣道ばかり行ってるだろ。オレたちでさえばてたのに、じいさんのとしを考えるときついぜ。病のことだってあるんだ。――本当にハティがじいさんのところまで案内してくれてるとは、限らないんじゃないか」
それはなるべく考えないようにしていたことだった。ハティの案内はどうあっても、伴う人への気遣いに欠けていた――つまりは、到底人間が使うような道ではなかったのだ。
「良い案内役」とは、もはや疑わしい称号だった。
「だったら、なおさら早く見つけないといけない。手遅れになる」
目線を落として、フェンリルは呻いた。
譲るつもりはまったくなかったが、トルヴァはいくらか口調を和らげた。
「それはオレたちだって同じだろ。こんな所で、ましてや暗闇で、足でも滑らせたらそれこそお終いだ――じいさんの教えを思い出せよ」
頭に血が昇った時ほど慎重になれ。冷静になれ。
カザドの教えはこびりついているはずだが、いざその時が来たら、ほとんど堪え切れないのがフェンリルだった。フェンリルの分、今はトルヴァの方が冷静だったと言えた。
今は彼らしかいないのだ。どちらかが無謀に振る舞えば、そのまま両方の危険に繋がる。
フェンリルは固く握りしめていた拳を緩めて、長く息を吐きだした。
「……明るくなったら、それからまた、探すことにする」
「おうよ。今は食って寝ようぜ」
事なきを得て、トルヴァはこっそりため息を吐いた。
「実際さ、そろそろオレたちの心配もしないといけないぞ。何か狩らないと、ハティを食う羽目になる」
エイナルが積んでくれていた食料には、まだ余分があった。だがトルヴァの言うことは一理ある。現地での調達を、視野に入れたうえでの量には違いないのだ。
腸詰めはとっくに食べ終えていたし、ハティにわける分も考えると、生きた獲物が必要だった。トルヴァの言うことはもっともだった。
「うん――そうだな。そうしないと」
「しょげんなよ。じいさんのことだ。そう簡単に、くたばりゃしないって」
「うん――」
トルヴァは見るからに肩を落とすフェンリルの背中を、渇とばかりに叩いた。
* * *
翌日は、二日目と同様によく晴れた日だった。
空は近く、地上は遠く、世界の支柱の破片の光はまったくわからない。本体は雲海の向こうから、時折何かの合図のように、ちかちかと閃く程度だった。
随分登った気がしていたのだが、実際のところ、彼らは中腹より上へはいっていなかった。高低差のさほど変わらぬところを平行し、南西の方角へと向かっていた。
ある時には下のほうから、とめどなく流れる水音がしたこともあり、ひょっとしたらヨトゥンヘイムに向かう際に利用した大川の流れが辿りつく先に、彼らも向かっているのかもしれなかった。
その気になれば橇を使ってヨトゥンヘイムまでひとっとびで戻れると、トルヴァが軽口を叩いた。
本当にそんなことをすれば、たとえ中腹であっても、橇ごとばらばらになるだろう。
「思ったんだけど、ハティが追っているのは、じいさんじゃなくてスコルかもしれない」
「スコル?」
荷物を一か所にまとめるフェンリルの発言に、トルヴァは片眉を跳ね上げた。
「多分な。だからスコルのいる先に、じいさんもいる……気がする。多分」
「ふわっふわじゃねえか」
呆れるトルヴァに、一応根拠はあるのだと、フェンリルは反論した。
「ハティは成りこそ大きいけど、月齢からすればまだ、母親から教わることが多いはずだ。じいさんを探せって命令が、群れの親を求める、自身の目的と混ざったから、ああなんじゃないか」
「それで獣道ばかりだったってのか」
フェンリルは頷いた。彼のこういう勘は、あながち馬鹿にできないし、どこか納得もできた。スコルがカザドと同時期に姿を消したと気づいた時、トルヴァも彼らが一緒にいると考えたのだ。
ただわからないこともある。昨夜現れた狼がスコルだったなら、どうして追われて立ち去ったのだろう? 狼の鼻は優秀だ。こちらにはハティもいたし、スコルならトルヴァたちのことがわからないはずはないのに……
トルヴァは鼻を鳴らして、昨夜発見した骨をまだ味わって遊んでいるハティの顔を、両手で撫でまわした。
今は考えてもわからないがフェンリルの予想通りなら、この先ますますハティの鼻が頼りとなる。
「じゃあハティはこれで、ちゃんとオレたちを導いてるわけね。相手は人間じゃないけども。その調子で、獲物のほうもよろしく頼んだぞ。お前の食いぶちでもあるんだから」
ハティは尻尾を振り、子犬のような声で吠えた。
【次話】
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