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「わからない」という棘を、そのまま愛せたら  『果てしなきスカーレット』

1. 導入:私はこの「破綻」をどう引き受けるべきか

 映画館を出たときの私の足取りは、まるで泥沼を歩いた後のように重かった。
 細田守監督の最新作である、映画『果てしなきスカーレット』見た日の事です。

 私のnoteを以前から読んでくださっている方はご存じかもしれませんが、私はあの映画版を「破綻の総合体」と断じました。

 夢を無理やり継ぎ接ぎしたような設定、あまりにも都合よく進む展開、そして何より主人公たちの心に「エンジン」が搭載されていないという空虚さ。
 それらを受け止めきれず、私はスクリーンに向かって内心で何度ため息をついたかわかりません。

 それでも、私はまだ諦めきれずにいました。
 なぜなら、映画よりも一足早く10月25日に角川文庫から原作小説が出版されていたからです。
「もしかしたら」という淡い期待が、私を書店へと向かわせました。
 映画は尺の都合上、どうしても説明不足になることがあります。あのちぐはぐな描写や説明不足の背景には、活字でなければ語り尽くせない緻密な設定が隠されているのではないか?
 あの「破綻」は、映像化の過程でこぼれ落ちた情報の欠落によるもので、小説を読めば全てが氷解し、スカーレットの真意に触れられるのではないか?
 そんな、縋るすがるような思いで文庫版『果てしなきスカーレット』を手に取りました。しかし、ページを捲るたびに、その期待は少しずつ、けれど確実に裏切られていくことになります。
※映画に対する私の印象がバイアスとして影響していた可能性は十分ありますが……


お読み頂いた皆さまありがとうございます


2. 筆致の違和感:ト書きで語られる「感情」と「自動調整」される世界

 小説を読み始めてすぐに感じたのは、奇妙な「軽さ」でした。
 冒頭、スカーレットが《死者の国》で目を覚ますシーン。「ここは、天国……?」と彼女が呟く場面があります。
 映画では美しい映像美で誤魔化されていた部分ですが、文章で読むと、彼女の意識の在り方がより鮮明になります。
 彼女はそこで、ぼんやりと霞むひじり(この時はまだ判然としませんが)の影を見て、「あれはきっと、私の運命の人——」という直感を抱くのです。
 ここで私は一度本を閉じかけました。
 復讐に燃えて毒を飲まされ、無念の中で死んだはずの王女が、目覚めた瞬間に見知らぬ男の影に「運命」を感じるでしょうか? 彼女はそんなに乙女趣味な、夢見がちな少女だったのでしょうか? この違和感が、後に記す『スカーレットの精神世界説』にも繋がりますが、その仮説を結実させることは私には難しそうです。


 読み進めるにつれ、その違和感は「文体」への疑問へと変わっていきます。
 この小説、驚くほど「地の文」が機能していないのです。まるで映画の脚本にあるト書きを、そのまま小説の形に整えただけのような、淡白で深みのない描写が続きます(私は脚本を書いた経験はありませんが)
 キャラクターの心情が、行動や風景描写を通して語られるのではなく、そのまま説明として提示される。
 「彼女は悲しかった」「彼は怒った」etc. etc.
 そう書かれてしまえばそれまでですが、小説の醍醐味とは、その「悲しみ」や「怒り」がいかにして発生し、どのように心を蝕んでいくかを追体験することにあるのではないでしょうか? 読者が想起する感情の幅が固定されているような感覚になる文章でした。
 感情の固有名詞はやたらに目につきますが、その前後の文脈における感情の発露を彩る表現は驚くほど乏しい。映画スタッフへの事前共有資料としては十分に機能を有していると思いますが、小説としては面白みに欠けます。やたらに兵士たちの時代設定や古典文学の引用文を明記する文章も、資料的な印象を強めている気がします。

これは私の全くの邪推ですが、小説版を執筆する時間的なリソースがあまりなかったために、事前調査の取材資料と設定資料、脚本のト書きを足して3で割り、体裁を整えたのがこの本なのではないかと思います。


 そして何より私が頭を抱えたのが、この異世界の設定における「自動調整」とも呼べる便利機能です。
 死者の国では、通貨も言語も「なぜだか自動調整・翻訳される」というのです。
 スカーレットは16世紀のデンマーク人、聖は21世紀の日本人。本来なら言葉が通じるはずがありません。
 しかし、小説はこの巨大な壁を「両替を必要とせずに通貨は流通し、翻訳せずとも会話できる」の一言で片づけてしまいました。
 これは異世界ファンタジーにおける「その世界でのことわり」ではありません。この「果てしなきスカーレット」という物語には、現実に地続きな固有名詞で地球の国々の名前が出てきます(特に小説ではこれでもかと明記されます)。
 先のような処理は、作者による「設定構築からの逃避」です。設定がないならないでもう少し誤魔化せば良いものを……。ある意味正直過ぎるのかも知れませんね。
 言葉が通じないもどかしさ、価値の違う貨幣でのやり取り。そういったディテールこそが、異界に放り込まれたリアリティを生むはずです。
 それを放棄し、「なんとなく通じる」ことにしてしまった時点で、この世界からは摩擦も、葛藤も、そして生々しい「生活」も消え失せていました。まさに夢の世界です。
 映画のレビューでも多く上がっていた世界観の不備(通貨システムや言語の壁、食糧供給など)に、小説版は一定の解を与えてくれますが「なるほど!」と思えるものではありませんでした。



意識と無意識の説明として用いられる氷山の一角、のような世界

 『雲の先にある見果てぬ場所』
 『天空に広がる海のような雲』
 『珊瑚のような死者の国の大地』 のような、見果てぬ場所を氷山の一角に見立てた海の階層構造を思わせる世界設定と、数々のご都合主義(先に挙げた世界観や、スカーレットの知り合いばかり登場するなど)から「これらは全てスカーレットの精神世界の出来事なのでは?」との仮説も浮かびます。
 時空が入り混じる場所だと言う割りには、16世紀までの兵器が最新鋭だとする設定も、それならば納得できます。
 なぜならスカーレットは16世紀の人間であり、その先の人類の叡智を知り得ないからです。
 しかし、そうなるとひじりや渋谷ダンスが邪魔になります。
 ヴォルティマンドに白馬で停戦を呼び掛けに行く姿や、冒頭のスカーレットの「運命の人」発言、理想主義・非暴力主義に偏ったかたよった考えなどから、ひじり——というか、スカーレットに変化をもたらすアイコン的役割を担う舞台装置、もしくはスカーレットの善性が分裂したイマジナリーフレンド、と考えると彼の物語上の立ち位置は理解できそうになるのですが、現代日本人かつ渋谷ダンスの幻影をスカーレットに見せる設定と描写によって、私のこの妄想は瓦解します。
 彼が中世の人間で、非実在美少年であれば仮説を推し進めても良いかな? と思えるのですが……

巷で囁かれている『渋谷開発事業を物語に組み込むことがスポンサーからの要求だった』という噂が本当であれば、細田監督もある種の被害者なのでは? とも


3. キャラクター論:やはり「エンジン」は搭載されていない

 映画版で私が最も失望したスカーレットの精神構造ですが、小説版ではその脆弱さがより残酷な形で露呈しています。
 彼女は復讐者です。父を殺され、国を奪われ、自身も殺された。その憎悪は、死の淵から蘇る(死者の国にですが)ほどの強烈なエネルギーであるはずです。
 しかし、彼女は旅の途中で追手に襲われ、胸を殴打されるとこう漏らすのです。
 「痛い……」「もう嫌だ……」
 活字で読むこの台詞の破壊力は凄まじいものがありました。ああ、やはり彼女には「復讐者としてのエンジン」は積まれていなかったのだ、と再確認させられます。
 彼女はもともと裏切り者として処刑された前国王の娘にも拘らずかかわらず、ドイツへの留学まで許されいたり、民の血税で織られた夢のようなドレスを纏ってまとって怒髪天でクローディアスの前に現れる「甘ちゃん」の王女です。
 貧困に喘ぐ国民の生活の元凶となっているクローディアスに怒りを覚えはするが、自身の生活が何者によって支えられているのかまでは想像が及ばない……。
 一部のレビューで「これは王女という記号を背負わされた美少女が自身の力では何も成さず、理不尽な暴力に晒される『リョナ』的な作品だ」という指摘を見かけましたが、小説版のこの痛々しい描写を読むと、あながち間違っていないように思えてきます。
 彼女は復讐者などではなく、ただ「イタい普通の女の子」だったのかも知れません。

 そして、もう一人の主人公、ひじり
 彼もまた、小説という媒体においてその矛盾を肥大化させています。
 彼は現代日本の救急救命士であり、「不殺」を信条としているようです。死者の国であっても、目の前の存在を救おうとする。その姿勢自体は尊いものです。
 しかし、彼は作中で人を殺します。それも二人。
「殺すな!」と周囲に説教を垂れ、理想論を振りかざしておきながら、いざ自分に刃が向けられると、彼は躊躇なく(映画よりは逡巡が見て取れますが)その手に血を染めるのです。
 小説では「鍛えてきた(弓道の)技を使わなければ……」といった独白がありますが、直前の描写で彼は「的以外を狙ったことがない」「殺人術として弓術を嗜んだわけではない」と明言しています。
 鍛えてきた技を活かさなければ自身のアイデンティティが崩壊するほど、弓術への重みづけはどうやらないようでした。
 「鍛えてきた技を……」の描写から、彼は由緒正しい武家の出身、もしくは現代忍者で、殺人術を叩き込まれた(もしくは実践してきた)為に、その殺伐とした世界に嫌気がさして不殺を説くようになったのか? とまで妄想してみましたが、「的以外を狙ったことがない」「殺人術として弓術を嗜んだわけではない」の発言で、それも無理筋となります。

 死者の国の戦場(スイス傭兵や火縄銃が登場する設定のようです)に、現代の医療技術を持った人間が現れるという面白さはあるものの、彼の精神的な支柱があまりに脆く、ご都合主義的に歪められているため、読者は彼に感情移入する場所を見失います。
 彼は「聖人」のふりをした、ただの「生存本能の強い現代人」に過ぎなかったのかもしれません。

 先にも述べたように、彼が疑いようもなく架空の美男子であれば、あの世界が夢見がちなスカーレットの精神を反映したものだと思えます。

 

4. 引用の迷宮:シェイクスピアとダンテの「継ぎ接ぎ」

 本作が『ハムレット』をベースにしていることは明白ですが、小説版ではその引用がさらに過剰になり、一種の「迷宮」を作り出しています。
 『ハムレット』『マクベス』、そしてダンテの『神曲』、果ては『バベルの塔』や『オデッセウス』まで。

 「サソリでいっぱいだ、俺の心は(Full of scorpions is my mind)」というマクベスの台詞や、墓掘りのシーンにおけるダンテ的な地獄の描写と文字としての明記。
 さらには、あの有名な「To be, or not to be(生きるべきか、死ぬべきか)」までもが、直接的に引用されています。
 正直に申し上げますと、読んでいてこれほど「サムい」と感じた瞬間はありませんでした。
 物語の血肉として昇華されているのであれば、古典の引用は作品に深みを与えると思います。
 しかし本作におけるそれは、物語の空虚さを埋めるための「高尚なデコレーション」にしか見えないのです。
「ほら、シェイクスピアだよ。深いでしょ?」と作者に顔を覗き込まれているような居心地の悪さがありました。
 スカーレットが父の影(亡霊)と対峙するシーンなどで、これらの引用が多用されますが、彼女自身の言葉があまりに現代的で軽いため、古典の重厚な台詞が浮いてしまっています。まるでジャージ姿でオペラ座の舞台に立たれているような、強烈な違和感です。


5. 映画との乖離:なぜ「そこ」を描かなかったのか

 それでも、小説版には読む価値が全くなかったのかと言えば、そうではありません。むしろ、「なぜこれを映画でやらなかったのか!」と叫びたくなるような重要な描写がいくつも転がっていました。
 その最たるものが、ガートルード(継母)とアムレット(父)の関係性です。
 映画では単なる裏切り者の母として描かれていたガートルードですが、小説では彼女が継母であり、アムレットからの寵愛を受けられなかったことへの深い嫉妬と絶望が描かれています。
 これは彼女の裏切りに説得力を持たせる極めて重要な「動機」です。なぜ、これを映像やセリフで描かなかったのでしょうか? 「夫はスカーレットを愛しずぎる」のセリフだけで、そこまでのことを想像する事は難しいと思います。
 ファミリー映画としての制約として「アムレットに抱かれていなかったから乾いているの……」などとは言えなくても(文中にこのような下卑た表現は出てきません。クローディアスとの一夜は映画よりは露骨ですが)、寵愛を受けられず男児を身籠ることが叶わない焦りがある実母という設定やセリフに変更しても映画のストーリー上は問題ないと思います。
 
 また、聖の葛藤について。
 あのリュートを手放す際の葛藤や、殺人の前に弓を引く決意のプロセスは、小説では一言添えられています。
 映画ではあっさりとリュートを手放し、唐突に人殺しに及んだように見えた彼も、文字の上では悩み、苦しんでいたのです。
 「本来、映像で見せるべきエモーショナルな瞬間」が小説に隔離され、逆に「説明不要なアクションや、説明台詞」が映画で長々と描かれている。
 このメディアミックスのバランスの悪さは、一体誰の意図だったのでしょうか?
 先行して発売されたこの小説を、映画の観客が予習として読んでいることを前提としていたのでしょうか? もしそうだとしたら、それはあまりに観客の善意に甘えた構成だと言わざるを得ません。

 映画への感想として、スカーレットから聖への恋心のようなものに、私は否定的でしたが
 小説では、冒頭の「運命の人」発言、渋谷ダンス後の二人のハグ(映画ではハグしていなかったように思います)とステップを踏むので、そこまで違和感なく読むことが出来ました。


6. 結末:理解不能な「現象」としての111分(+読書体験)

 そして物語は結末へ向かいますが、ここでも小説は私たちに明確な答えを与えてはくれません。
 特に象徴的だったのが、あのドラゴンについての記述です。
 映画でも謎の存在でしたが、小説版において作者は「ドラゴンとは何か分からない」というスタンスを崩しませんでした。というか作中にそう明記しています。
 全身に武器が刺さり、雷を落とすあの巨大な存在。あれは戦争の象徴なのか、神の怒りなのか、それともスカーレットを見守るアムレットの化身なのか。
 「分からないことは、分からないままにしておく」
 それはある種の誠実さかもしれませんが、ここまで風呂敷を広げた物語の結びとしては、あまりに無責任な「放り出し」にも思えます。

 しかし、本を閉じ、改めて映画と小説の両方を反芻はんすうしたとき、私はふと奇妙な納得感に包まれました。
 この「歪で、説明不足で、消化不良な石」を投げつけられた経験。
 「意味が分からない」「筋が通っていない」「描写が足りない」と、私たちは憤ります。けれど、そうやって憤り、自分で補完しようと頭を回転させているその瞬間こそが、実はこの作品が私たちに提供したかった「体験」そのものだったのではないか?(この詭弁は映画感想文でも用いましたが……)
 映画で呆然ぼうぜんとし、小説でさらに混乱する。
 その過程で、私たちは「復讐とは何か」「愛とは何か」「物語における整合性とは何か」を、作者以上に必死に考えさせられています。
 受動的に物語を消費するのではなく、能動的な「批判者」あるいは「考察者」として、作品の欠落を埋めようと足掻くことが求められる。
 だからこそ、私は映画を観た後に、懲りずにこの小説に手を出してしまったのでしょう。
 この『果てしなきスカーレット』という作品は、その破綻と描写の放棄によって、逆説的に私たちの心に「消えない棘」を残しました。
 美しく整った傑作は、時にさらりと忘れ去られます。しかし、この喉に刺さった小骨のような違和感は、きっと長く私の記憶に留まり続けるはずです。
 
 それが「名作」と呼べるものかは分かりません。けれど、私はこの奇妙な映画・読書体験を、決して無駄だったとは切り捨てられないのです。
 スカーレットが「見果てぬ場所」に何を見たのか。それは結局、書かれなかった余白の中で、私たち自身が決めることなのかもしれません。

 もし貴方が、映画を見てモヤモヤを抱えているのなら、この小説版を手に取ってみてください。
 スッキリすることは無いでしょう。むしろモヤモヤは倍増するかも知れません。でも、その倍増したモヤモヤこそが、この作品の本当の「味」なのかもしれません。
 安易に「チケット代を返せ!」などと叫ばず、自分の感情(不快感)がどこから来ているのかを探求してみてはいかがですか?




更新日:2026/01/04


筆者:棚島 香帆汰(プロフィール
映画好き小説も書いてます




#果てしなきスカーレット
#細田守

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