『物語の破綻』は悪夢か、それとも生々しい体験か? 「果てしなきスカーレット」
本作のあらすじ
父の敵への復讐に失敗した王女・スカーレットは、≪死者の国≫で目を覚ます。 ここは、人々が略奪と暴力に明け暮れ、力のない者や傷ついた者は<虚無>となり、 その存在が消えてしまうという狂気の世界。 敵である、父を殺して王位を奪った叔父・クローディアスもまたこの世界に居ることを知り、 スカーレットは改めて復讐を強く胸に誓う。 そんな中彼女は、現代の日本からやってきた看護師・聖と出会う。 時を超えて出会った二人は、最初は衝突しながらも、≪死者の国≫を共に旅することに。 戦うことでしか生きられないスカーレットと、戦うことを望まない聖。 傷ついた自分の身体を治療し、敵・味方に関わらず優しく接する聖の温かい人柄に触れ、 凍り付いていたスカーレットの心は、徐々に溶かされていく――。
一方でクローディアスは、≪死者の国≫で誰もが夢見る“見果てぬ場所”を見つけ出し、 我がものにしようと民衆を扇動し、支配していた。 またスカーレットが復讐を果たすために自身を探していると聞きつけ、 彼女を<虚無>とするために容赦なく刺客を差し向ける。 スカーレットと聖もまた、次々と現れる刺客と闘いながら、 クローディアスを見つけ出すために、“見果てぬ場所”を目指してゆく…。 そして訪れる運命の刻。 果てしない旅路の先に、スカーレットがたどり着く、ある<決断>とは――

0. 結論──この映画は“破綻の総合体”だった
まず初めに断っておきたいのが、私は細田守監督作品をあまり観たことがなく(サマーウォーズをテレビで観たことがあるか? くらい)、特に思い入れのある人物ではないという事。なので「やっぱ夏アニメじゃないとね〜」や「キービジュアルは青くないと……」とは思わないし「新境地開拓してて偉い!」とも思わない。
そのような訳で、以下の私の感想は的外れで細田さんとはこういう難解な物語を生み出す作家だという可能性もあると思う。
さらに、この感想文は作品に対してあまり友好的ではないこともここに記しておきますが、最後にはポジティブな解釈も併せて書いているので、一読いただければ幸いです。
では、私の率直な感想から
「夢を継ぎ接ぎしたような設定と、ご都合主義的展開に終始する」
「登場人物の誰の心にもエンジンが搭載されていない」
「キーワードは”間抜け”となるか。」
これらの要素が重なり合い、本作は破綻の総合体に成ったのだと思う。
それらについて、これから述べていく。

1. 世界の輪郭:彼らはどこにいるのだろう?
率直な感想としての「夢を継ぎ接ぎしたような設定と、ご都合主義的展開に終始する」だが、いくつかのシーンによってこの感想となってしまった。
例を挙げるとすると
継ぎ接ぎ
・死者の国の空を悠然と泳ぐドラゴン。
全身に武器が刺さっていたり(恐らく今まで討伐対象になってきたとは思える)、雷を落とすさまや影はカッコいい。
だが、死者の国においてどのような存在なのか、信仰や恐怖の対象として認識されているのかなどが不明瞭。
・キャラバンでの拒絶と受け入れ。
盗賊に対して疑心暗鬼になっているキャラバンの人達から聖やスカーレットは一瞬拒絶されるが、聖の献身的な態度によって受け入れられる。
この間隔と感覚に重さがないので「そうか良かったね」程度の感想しか抱けない。
また、聖がフラダンスを教えてもらうシーンで『神に祈りは届かない。だから踊りでそれを届けるのさ』みたいなセリフがあるが、ここは死者の国である。登場人物は皆死んでいる。誰に祈っているのだろうか? 死者たちに共通する信仰対象があるのだろうか? よく解らない。
ご都合主義
・クローディアス暗殺計画
クローディアス暗殺計画に加担した女中や衛兵たちは、なぜ無事だったのか? 兄王を貶めて王座を奪うほどの野心家で狭量なクローディアスが、城内でおこなわれている特訓や暗殺計画を知らぬはずがないと思う。現に、スカーレットに毒を盛って撃退しているので承知の上だったのだろう。なぜ粛清しないのか?
眠りこけるクローディアスの目の前でスカーレットの毒が効き始めるというのも、ドラマチックではあるけれど制作者にとって都合がよすぎる画だなと思う。
・攻撃してこない追手たち
聖はこと戦闘面において基本的には役立たずである。しかし遠距離武器で武装はしている。各個撃破として弱そうなこいつから仕留めるべきだと思う。馬を得る前の戦闘とか、山頂での戦いとか……
また、聖をかばって負傷したスカーレットを治療している隙にも誰も攻撃してこない。ドラゴンが回遊しているからという言い訳はあるだろうが、銃で撃つことは出来るだろうと思ってしまう。このシーンで私は「なんだか変身中には絶対攻撃しない戦隊モノみたいだな」と内心ニヤリとした。
治療が終わって剣を抜いたスカーレットに怖気づいて銃を取り落とすヴォルティマンドのなんと情けないことか……。ほんとに騎士長なのか? というか装備が銃しかないなんて事はないだろう。脇差ても暗器でも何かしら持っていると思うのだが?

・死者の国の亡者たち
死者の国に年代の概念は無いらしい。スカーレットから見れば未来人である聖が存在するのも、その証拠である。だがしかし、多くの亡者は中世以前の恰好や装備品しか持っていない。
聖が治療具を持ち込めているのだから、ある程度体に近い範囲の物体(衣服や鞄など)は持ち込めるのだと思うが、他に未来人や近代的な武器は見当たらない。スカーレットが戦闘をおこなう際に圧倒的に不利になる状況を避けたかったのだろうか?
全体感として、画面外の事は放っておいてシーンが進行しているような感覚があった。ショート動画を組み合わせているような感じである。
個々のシーンを切り出せば何となく綺麗で壮大な気もするが、全体を俯瞰してみるとチグハグな印象が拭えない。
2. 価値観の薄さ:キャラクターの感情が軽い
「登場人物の誰の心にもエンジンが搭載されていない」の感想を分解していきたいと思う。
スカーレット
まず、スカーレットは復讐者である。幼いころに父を殺され、祖国の民を苦しめたクローディアスに復讐するために血の滲むような鍛錬を積んだのだと思う。だが、それを果たせるままクローディアスによって毒殺されて死者の国に堕ちる。
その地にクローディアスが居ると知るや否や亡者の手を払いのけて覚醒する。死者の国に居る——つまり既に死んでいるクローディアスを更に殺すために立ち上がる。並みの執念ではない。
しかし、追手なのか野盗なのかは分からないが襲撃を受けた際に胸部を殴打されると『痛い……もう嫌だ』と泣き言をいう。もうそこでこの物語は終了である。死者を殺すなどという苛烈なエンジンは、実はスカーレットの中に搭載されてはいなかった。
なので、最後に復讐を果たさなかったとしてもそれほどの感動がないのだと思う。これは彼女の内面的成長をあまり感じられない事にも起因しているように思う。敬愛する父の『許せ』の真意らしきものについてはヴォルティマンドの言葉によって思い至り、それを軸にして終盤の『許す許さない』の自問自答をする。せっかく聖に感化されて剣を鞘から抜かずにヴォルティマンド一味と戦い、不殺を試みるシーンを描いたのだから、その事からスカーレット自身で気づきを得るような構成にした方が良かったのではないかと考える。
彼女が結局は決断を下さず、天罰のようにしてクローディアスが虚無に帰すという結末も、彼女のキャラクター性を弱める一因になっているように思う。

聖
不殺を信条とする救急救命士。盗賊にも略奪を止めるように訴え、追手にも話し合いを持ちかける。死者の国の亡者達も生者のように扱い、治療したり虚無にならないように対応したりする。大したいい子ちゃんである。
しかし彼は殺す。二人も殺す。それも他者を救うための武力行使ではなく、自分に刃が向いたから殺す。それまで散々刃を向けられている人たちに「殺すな!」と説教を垂れていたにも関わらず。大したもんである。
彼の信念がいかに脆弱であるかは置いておいたとしても、現世で暴漢にあっさり殺されるような人物が戦士を二人も殺せるだろうか? 一人目は弓矢を射ったからまだしも、二人目のような差し違えの攻防は無理筋だと思う。
要するに私は彼に対して好意的でもなく、感情移入も出来ていない。映画の途中で集中治療室のようなカットが挿入されることで観客のミスリードを誘ってはいるが、彼が生きていようが死んでいようが私にとってどちらでもいいので死者蘇生の展開に乗り切れない。彼がスカーレットに『生きたいと言え』と強く迫るが、死者の国で二人も殺した(少なくとも聖は亡者を生者と認定していた)人物がそれを願うことに違和感を覚えてしまうのだと思う。

クローディアス
願望と行動とが唯一合致している人物ではないかと思う。彼のエンジンによって物語はなんとか推進していたのでは? とも思えてしまう。
3. 演出の稚拙さ:真剣に見れば見るほど“間抜け”が浮かぶ
死者の国での最初の戦闘シーンは良かった。スカーレットや敵の動きも迫力と躍動感があり見応えがあった。
しかし、その後の画にはあまり力を感じない。制作陣が途中で飽きたのか? と疑ってしまうくらい落差があったように思える。
では何を観て私が「キーワードは”間抜け”となるか。」と思い至ってしまったのかを例示していく。
聖のフラを見ながら和やかに笑うキャラバンの人達。なぜあそこを止め画にしたのだろう? 確か背景も無かったように思うので安っぽく見えてしまった……。フラダンスも3Dモデルのボーンが見え見えで美しくはないように感じた。
聖と女性のフラを皆で囲って囃しているような、少し引きの画でよかったのでは? と思う。
山頂の戦闘で銃身に詰め物をして暴発させるだなんて、なぜあのようなギャグみたいなことをしたんだろう? 相手の銃はマスケット銃のように見えるしおそらく黒色火薬くらいの爆発力しかない。ヴォルティマンドが銃口から差し込んだ物もラムロッド(込め矢)のようだったし、あそこまでの銃身爆裂にはならないのじゃないかと思う。
見果てぬ場所へと続く階段を踏みしめるスカーレットの腕の位置は、あれが最適解だったのだろうか? 仇敵を打ち倒さんと死地に赴くにしては、あまりにもフワフワと頼りない。

クローディアスを目の前にして最上段に構えるスカーレットの画が長すぎる。「やぁやぁ我こそは!」と名乗りを上げそうな勢いである。
両者死して尚、仇敵として殺す。と信念を燃やしてここまで来たのではないか? 現世でも毒を盛られてあと一歩のところで思いを果たせなかった悔しさがあるのではないか? なぜ剣を鞘から抜いたというのに一思いに仇を討たぬのか? 逡巡するのであればここでも抜刀はせずに不殺を試みる心情に立ち返ったり、そこからのスカーレットの内面の変化を描けばよかったのではないかと思えてしまう。
そしてスカーレットは『許す許さない』の自問自答をおこなうわけだが、すべてセリフで口に出した上で自己の心情投影のような演出がされているので監督が言いたいことが分かりやす過ぎる。あのシーンを観て「センス系の学生の卒業制作みたいだな」と酷い偏見に基づいた感想を抱いてしまった。
4. 象徴表現が意味を持たない
聖が弓道の達人なのか何なのかはいいとして、彼が弓を構える前に大地を踏みしめる描写の意図が分からない。半死半生ゆえの特殊能力なのかとも思えたが、どうやら彼は普通に死人のようである。単にカッコいい演出というだけのことかもしれない。
聖の住む現世の記憶の中で歌い踊り、平和で穏やかな時代の在り方をスカーレットは感じ取ったようだが、そうであるなかもっと聖以外の者達とも踊ればいいのではないだろうか? 聖の横で安心して『愛を教えて』と歌うに留まらず、世界全てと踊るくらいの心象風景を見せて欲しかった。

そして聖の精神世界を垣間見たことで、スカーレットは聖きゅんしゅきしゅきモードになってしまう……。自分が生き返ることで聖と離れることを拒み、あまつさえ別れ際にキスをする。それは『愛』ゆえなのだろうか?
そんな甘ったれた根性で、生き返った後に世を平定できるのだろうか? 隣国との和平のためなら政略結婚などもする羽目になる未来もあり得ると思うが、彼女はそれに耐えられるのだろうか?
『子供が絶対に死なない世を創る』と民に宣言するのであれば、覚悟をもって聖を見送って欲しかった。
老婆が最後に『人間とは、生とは、死とは……そして愛とはなんだ?』のようなテーマ的な事を言うが、スカーレットの選択にも聖の選択にもそのような事柄は含まれず、ただ何となく歩を進めてきた結果を提示されたに過ぎないような感覚に陥った。
5. 総括──“間抜けさ”が残したもの
それでも観客が受け取れる“問い”や“経験”
ここまで、本作「果てしなきスカーレット」がいかに物語として破綻し、キャラクターの行動原理が迷走しているかを述べてきた。
論理的な整合性を求める観客にとって、この映画は確かに「悪夢」そのものだったかもしれない。しかし、映画館を出て冷たい夜風に当たりながら、私はふと奇妙な感覚に襲われた。それは、この「破綻」こそが、実は本作が我々に提供しようとした最も生々しい“経験”だったのではないかという問いである。
自分の感想を整理した後に色々な人のレビューを読むと、考察しようと思えばとことん考察することも可能なようではあるし。
本作から観客が持ち帰れるものがあるとすれば、それは以下の3点に集約されるのではないだろうか。
(1)「物語」を剥奪された死後のリアリズム
私は本作を「夢を継ぎ接ぎしたよう」と評したが、逆説的に言えば、死後の世界や混沌とした意識の流れとは、本来このようなものではないだろうか?
我々は映画に対し、整然とした因果関係(AだからBになる)を期待しすぎるあまり、思考が整理されないまま事象が連続する「悪夢的リアリズム」を拒絶してしまっているのかもしれない。
スカーレットたちの冒険が脈絡なく進み、シーンがショート動画のように分断されているあの感覚は、まさに「死」によって時間軸や因果律から解放(あるいは追放)された魂の浮遊感そのものだったとも受け取れる。
論理で納得させてくれる「物語」ではなく、理解不能な事象に翻弄される「現象」としての111分間。その居心地の悪さこそが、死者の国という異界を肌で感じるための装置だったとしたら──この破綻もまた、計算された(あるいは天然の)演出効果と言えるかもしれない。
(2)「エンジンを持たない」現代的なヒロイン像
スカーレットが「痛い、もう嫌だ」と泣き言を漏らし、復讐の刃を鈍らせる姿に私は失望した。しかし、それは彼女が「フィクションの住人」から「等身大の人間」へと引きずり下ろされた瞬間でもあった。
父を殺されたからといって、誰もが修羅になれるわけではない。覚悟を決めたつもりでも、実際に暴力を受ければ痛いし、怖い。
本作は、これまでのエンターテインメント作品が美化してきた「復讐者の強靭な精神」という幻想を、スカーレットの情けない姿を通してあっさりと解体してみせた。
エンジンが搭載されていないのではない。「復讐という巨大なエンジンを積むには、彼女はあまりにも普通の少女だった」という残酷な事実を突きつけられたのだ。
観客はここで、「もし自分が同じ立場なら、物語の主人公のように振る舞えるか?」という問いを突きつけられる。答えはおそらく否だ。彼女の弱さは、スクリーンの前の我々の弱さと鏡合わせになっている。
(3)「問い」の丸投げが生む、能動的な思考
最後に、老婆が口にする『愛とはなんだ?』という問いに対し、映画は何の答えも提示しなかったように思える(スカーレットは許すという決断を示したようにも思えるが、ドラゴンによって帳消しにされてしまっている)
これも作劇上の放棄に見えるが、裏を返せば「答えは観客自身で埋めろ」という強烈な空白の提示でもあるかもしれない。
スカーレットは聖への執着を「愛」と呼んだかもしれないが、それが正しいのかどうか、映画は肯定も否定もしない。聖の矛盾した殺生も、断罪されることなく描かれる。この倫理的なガイドラインの欠如は、我々に「教科書」を与えてくれない。だからこそ我々は、映画が終わった後に自分自身の倫理観でこのモヤモヤを裁定しなければならない。
「あの映画は破綻していた」と批判する行為そのものが、すでに私自身のロジックを総動員して「正しさ」や「あるべき物語」を再構築しようとしている証拠である。つまり、この映画は観客を「受動的な鑑賞者」から「能動的な批判者/思索者」へと強制的に変貌させる力を持っていたと言える。これだけ長々と感想を綴ってもいる訳だし。
結論として、この映画を私は決して「名作」とは思えないし、他人に勧めることもないだろう。しかし、整合性の取れた美しい物語が瞬く間に消費される昨今において、これほどまでに「歪(いびつ)で、説明不足で、消化不良」な石を投げ込まれたことは、ある種の貴重な事故体験として記憶に残るかもしれない。
美しく整えられた庭園ではなく、瓦礫の山を見せられた時、人は初めて「ここをどう歩くべきか」を真剣に考え始めるのだから。
原作小説を読んでの感想はこちらです。
いいなと思ったら応援しよう!
よければ応援していただけると嬉しいです。
いただいたチップは、私の物語のページを少しずつ彩る力に変えさせていただきます。