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「原発脳:原子力中毒症状」がはなはだしい経済産業省・資源エネルギー庁の電力観は,この「被爆国」を亡国へ誘導中(追加・前編)

【本日の話題】 「原発脳の原子力中毒症状」にどっぷりはまっていた「経済産業省・資源エネルギー庁の電力観」は,自国が敗戦直前に強いられた「被爆国(戦争時被害)の立場)」や,21世紀に自然災害を契機にして「被曝国(平和時被害の立場)」も強いられた経験を,なにやら特定の不思議な事情があるらしいが,意図的に軽んじてきた。

 いうまでもないが,後者の出来事は「日本の原発利用」によって結果していた。ところが,この事実を媒介にしてであったが,詭弁的に「原子力-火力-再エネ」の「3種混合になる電源構成が好ましい」などと,表記の工夫をくわえたすえ,電力生産のためにだとする「この種の〈にせ看板〉」をかかげ,いわば,そうした「国民洗脳戦術」をまかり通らせてきた。

 ▲-1 原子力も火力(石炭・LNGなど)と「同じ火力」発電のなかに置いてだが,その仲間に分類できるといったごとき,そもそも「間違いである定義」が,まるでウソではないかのように騙られてきた。

 ▲-2 原子力エネルギーも,再生可能エネルギーと同じに炭酸ガスを出さないから「温暖化対策」に有用であり「脱炭素」に役だつといった,そもそもが無根拠でしかない「虚偽そのものの定義」が,ウソを承知で創作されていた。

 だいたい原発は,燃料に焚く核燃料が発生させる放射性物質の,本来の理化学的な特性である「地球外的な有害性」を,この地球環境にばらまきつづけており,そのひどい災害(人的ならびに物的損害)が,たとえ原発の事故がなくとも与えてきた。

 その意味では,まさに「原発公害」だと定義してよい量的規模と質的水準でもって記録されてきたところの,「原発史」そのものがもたらした「環境破壊史」としての履歴を,原子力村の住民たちは,あたかも,当初から必要悪(害)とでも覚悟していたというつもりだったか,トンデモな原子力エネルギー「観」を抱いている。

 以下に,INES(International Nuclear Event Scale,国際原子力·放射線事象評価尺度)の評価基準・段階づけに関した,あれこれの図解をいくつか紹介しておきたい。そもそも「事故=事象(イヴェント)」と名乗らせる点からして,欺瞞性を感じさせるが,これは「火傷(ヤケド)」のことを「温傷」だからたいした症状ではない,と語りたいかのような語法に似ている。

事象と事故を使い分けているが「事故は事故」「事象も事故」
「事故」の基盤に「事象」が控えているというのであればそのようにいわざるをえまい
東電福島第1原発事故(2011年)の発生直後はそれこそ「東日本沈没」かという
瀬戸際にまでいっていたのにこの評価では2011年4月12日になってようやく
「レベル7(深刻な事故)」だと認めた
東電福島第1原発事故からの大気への放射性物質の少なさを強調した

この下部における説明は太平洋へ吸収された分を含めてだが
なるべく過少に評価したがっていた政府側機関のいいぶんゆえ眉唾さを回避できない

 つぎのINESの解説はより詳細な定義が記入されている。

電気事業連合会とは大手電力会社が組織する業界団体

「電気事業の健全な発展を図り,もって我が国の経済の発展と国民生活の向上に寄与する」
と謳っている原子力村の中枢機関である

そもそもこのような原発関連の事故段階・区分とその解説がこのように詳細になされている
という事情はこれじたい当然とはいえ問題は

《悪魔の火》である放射性物質を燃料に焚く原発ゆえの本来的な困難(各種事故の発生)が
このようにいちいちこまかに規定されねばならないところにあった

安全管理の問題はどのような事業経営においても必須の条件となり各種の制約を課すけれども
原子力発電所の場合となるとその悪魔性に由来した事故を起こしたら

その「パンドラの箱」(原子炉)の中の希望ということばまで爆砕される

 a) 本日のこの記述の本論に入る前に,『日本経済新聞』2025年11月22日朝刊が1面冒頭記事として,なんというか嬉々と報道したものを,紹介しておきたい。本ブログ筆者が批判する要点は,とりあえずこの記事の空白(右下)を利用し,記入した文句に表現してみた。

原子力エネルギーの使用が脱炭素になるというのは「完全なる偽命題」

 だいたい原発(原子力エネルギー)が「脱炭素=温暖化対策」に当てるべき適切なエネルギーであり,だから電源になりうるかといったら,これはエネルギー論としては「トンデモ論」の最たる見本であった。

 そもそも,原子力核工学者を大学工学部で専攻し,研究してきたのだが,原発・原子力の異次元的な危険性をどうしても看過できずに,とうとう「反原発派」の立場を採らざるをえなくなった人びと,そのもっとも有名な人物は「熊取六人衆」(「3・11」後においては,なかでも小出裕章がとくに有名になった)や,反原発では一番の有名人である広瀬 隆,高木仁三郎などにいわせれば,

 そもそもが「海あたため器」である原発は,「脱炭素(稼働中に限っては少ししか〔?〕炭酸ガスを排出しない)の見地」とは無縁どころか逆方向なのであって,炭酸ガスを集中的に発生させる器だとまで説明されてきた。

 つまり,原発(の建造から稼働を経て廃炉までの全工程)は,たいそう多量のCO2 を生産・排出する電力生産のための装置・機械であった。それゆえ,この原発をもって脱炭素などと呼称する専門家は,その専門家の看板を降ろすべきである。

 b)「原発・石炭火力が脱炭素社会を阻害する 長期戦略懇談会提言をうけて」『NPO法人原子力資料情報室』2019年4月17日,https://cnic.jp/8462 は,すでに7年以上前になるが,首相官邸に設置された「パリ協定に基づく成長戦略としての長期戦略策定に向けた懇談会」に向かい,「原発(原子力)が脱炭素とは縁遠いエネルギーである事実」を,以下のように説明し批判していた。

(前略) 〔その〕「野心的」なビジョンとは,温室効果ガス排出量の2050年80%削減(2013年度比)であり,非連続的なイノベーションの実態は原子力利用やCO2 の回収,貯留・利用(CCUS)を用いた石炭火力の脱炭素化,そして水素社会をいうに過ぎない。

 それでは,2050年に2013年度比で80%を削減し 1. 5℃目標を達成する目標にはとうてい届かない。非連続的なイノベーションは単なる現状維持のいいわけではないか。

 こうした羊頭狗肉な提言が策定されたのは,政府の長年の原子力・石炭火力推進政策が背景にある。1990年代以降,CO2 排出量削減が政治課題に上がるようになっても,原子力頼みで削減を図ったにもかかわらず,CO2 排出量は増加の一途をたどってきた。

 政府は,2030年の電源構成に占める原子力の割合を20~22%,石炭火力を26%(2010年時点で原子力は29%,石炭火力は25%)にするという。この目標を達成するため,政府は原子力と石炭火力を維持し,容量市場やベースロード電源市場,原子力向けの非化石価値取引市場といった施策をつぎつぎと打ち出している。

 補記)なおその「政府の2030年」の件は,その後「2050年」に再設定されていた。この変更がなにを意味するかとみれば,そもそも経済産業省・資源エネルギー庁の深慮遠謀があったわけだが,ここでは説明しない(つぎの段落に言及する)。

 みえすいた同省・同庁の企図・意向そのものが,2030年時点ではすでに実現困難だという見通し,展望をもたざるをえなかった点は,このさいひとまず,しっかり勘ぐっておけばよい。

〔本文に戻る→〕 しかし,福島第1原発事故前,54基が稼働していた原発は,2019年4月現在,9基が再稼働したのみで,21基が廃炉・廃炉検討中,8 基は審査の申請にも至っていない。その現実をどう考えるのか。

 2030年に20~22%という目標達成が不可能なことは明らかだ。一方,石炭火力については仮に2045年で廃炉になると仮定しても,目標を大幅に超過する。原子力の不足分をすべて再生可能エネルギーで補ったとしても,発電に伴うCO2 排出量は現状を大幅に上回ることになる。

 CO2 排出量の削減は,現実的に導入可能な技術の積み上げで達成するべきであり,将来の技術開発は上乗せ対策とするべきだ。願望に頼った技術開発偏重の長期計画では破綻が目にみえている

 いま必要とされている長期計画は,脱原発という世論,原発が再稼働できない現実に即した,再生可能エネルギーの全面導入という「非連続的なイノベーション」である。


 「原発(原子力)が脱炭素とは縁遠いエネルギーである事実」

 このような原子力資料情報室の批判は格別無理をいった提言ではなく,日本の産業経済・国民生活にとって必要となる「現実的な電力構成」論を語ったに過ぎない。ところが,政府:経済産業省・資源エネルギー庁側はそうした「対論的に明示されていた議論」に対して,けっして本気で耳を傾ける意向を示していなかった。もちろん,申しわけ程度には原子力資料情報室の幹部を審議会や委員会に呼ばないではない。その程度のことは現在も続けている。

 既述の論点であったが,どだい,原発(原子力)に脱炭酸ガスの問題を関連づけるという観点そのものが,非科学的どころか初歩の学問的な判断に関して誤論・謬説であったにもかかわらず,10年一昔どころか,何十年経っても「訳の分らない」つまり「科学的に道理の通らない」虚説にこだわり,しかも振りまわしている。

 いまのところ(2025年時点での話であったとしておくが),日本国内で原発の新増設はほとんどみこまれていない。既存の施設内あるは隣接地に新増設を計画しようとする動き(提案)がないわけではない。だが,現有の原発についてその耐用年数が,2011年3月11日に発生した「東日本大震災=東電福島第1原発事故」以来,時間が経過するなかで勝手に延長させられるという,本当に不思議な基本政策の変更が恣意になされていた。

 つまり,工学的原理の観点からは危険性が昂進的に増していくほかないと断言できる論点として,「原発の耐用年数60年(しかもその間における未稼働時間を除外して積算させての年月数!)」を決めていたとなれば,こうなるともう「工学理論の基礎知識すら放擲した方針変更」であると断定してもよい。それは,ほとんどキチガイ沙汰も同然の耐用年数の延長「操作」を意味する。

 そうした,なんら工学的原理の基礎概念から脱線したごとき,「原発だけは特別に耐用年数の積算を,延ばし延ばしにしてさせておく」という「荒技どころではない,メチャクチャな会計的なとりあつかい」は,絶対に許されない措置であった。

 にもかかわらず,そうした耐用年数の「経営会計学的な根拠・理由」すら完全にないがしろにしたまま,しかも,減価償却方法に関する発想の奇想天外「性」どころでない,つまり「原発に対してだけにほどこした格別かつ無謀なあつかいの要領」は,生産設備管理の見地に照らしても,その破廉恥さにまつわる〈デタラメ&ズサン〉さが,その最高度にまできわめたものであったと指弾せざるをえない。

 日本の地下鉄路線で20年以上使用された車輌を発展途上国に譲渡し,活用してもらう話とは大違いの話題が,原発の場合となると,自国内で「原発寿命を60年までの延長」になってだが(しかも純粋な稼働時間の積算でのみその期間を決めるという〈無謀の禁じ手〉まで繰り出して)決定していたのだから,こうなるともはや言語道断という前に,危険を徐々に盛りだくさんにしていくような原発政策が,わざわざ採用されたことになる。

 放射性物質を核燃料に加工して利用するからこそ,東電福島第1原発事故が起きてしまったのであり,日本の政治・経済・社会・文化どころか歴史そのものさえ,大きな変動=悪影響を被らざるをえなかった。にもかかわらずこれからも日本は「原発を多いに活用する」といっていた。いったい本気かと耳を疑う経過になっていた。

 c) 日本が地震大国である事実を無視してきた原発導入史はすでに半世紀以上になるが,そもそも『一般財団法人 国土技術研究センター』のホームページ,https://www.jice.or.jp/knowledge/japan/commentary12 には『地震の多い国,日本』の「地球物理学的な一問題要因」として,つぎのような「日本の地理的な諸特性」を挙げている。

  日本付近でマグニチュー6の地震が全世界の17.9%も発生する
  日本は,地球上で地震が起きやすい場所にある
  プレートの境目で起こる地震と断層が動いて起こる地震

  くり返し同じ場所で発生する地震
  日本に活断層は約2000あると推定されている
  世界でもマグニチュード8以上の巨大地震が起きている

  地震で,建物が倒れたり,火事が起きたり,津波などによって犠牲者が
  出る

  地震のある国とない国の違い
  津波によって大きな被害を受けてきた
  地球の裏側からも津波はやって来る

  予想をはるかにこえた東北地方太平洋沖地震
  地震に対する技術が発達している国 日本

地震の多い国:日本 


 もっとも,最後の項目「地震に対する技術が発達している国 日本」といったふうな蛇足にも感じられる説明は,まさか「原発のための『地震に対する技術が発達している国』」が「日本」だという理解を,喜んだり不利をして,受け入れる必要(この国の余裕など)はない。

 もともと原発は「自国全体が地震国ではないアメリカ」が最初に実用化・商用化したのであり,しかも現時点ではその採算性に関して問題なく,どの国の産業経済体制のなかにも導入できるような《しろもの》ではなくなっている。

 日本の実情だとすでに2010年代半ばに,原発の生産・販売を採算がとれるかたちで輸出できる企業体制(東芝・日立製作所・三菱重工の3社のこと)は,実質,喪失していた。

 「原爆」の応用技術展開としてこそ「原発」が登場させられた事実,その特性からいうと「原爆≧原発」という基本特性が無視できない。とりわけ,前段にあれこれ挙げてみた『国際原子力事象評価尺度・評価』の判断基準における「レベル7深刻な事故」が,再び,原発を所有するどこかの国が起こした分には,この地球上のすべての国々がまたもや非常な恐怖に襲われること必定である。

同工異曲の表だがこれも挙げておく

 だからか,その評価尺度は「事故」のことを「事象」(レベル3までだが,それでも奇妙な表記の「異常な事象」)という表記にいいかえているが,この用法は詭弁も同断であった。

 チェルノブイリ原発事故も東電福島第1原発事故も「異常な事象」であった事実に変りはなかった。それゆえ,その種の強引(狷介)な「いいかえ」がなされているばかりだとしたら,これは単にこざかしい表現でしかありえない。火事にたとえていえば,「大火」を「大きな小火」と表現したのに似ている。

 実際に,東電福島第1原発事故が地球環境に放出した放射性物質は,前掲した表などに関連して説明された分量だと,相当控えめに指示されているという疑いが濃厚であった。とりわけ太平洋側に飛んでいったその分量が完全に正確に把握できているとは,とてもいえない。

 なお,青山通夫(気象研究所)「福島第1原子力発電所から放出された放射性セシウム同位体の北太平洋における総量と分布」 は,買い日本原子力学会誌』第54巻第12号,2012年12月,https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaesjb/54/12/54_780/_pdf という雑誌に掲載された「雑誌の性格」上,信頼性に関して特定の影響が完全に除去できないが,興味ある解析をおこなっており参照に値する。

 d) 『日本経済新聞』2025年11月22日朝刊3面に掲載されたつぎ記事(紙面)も,ここに紹介しておく。以上の記述とももちろん直接関連するが,問題の焦点は,この紙面紹介につづけて議論する。この記事からは「左側寄りの上部に配置された〈年表〉」を切り出す形式で,つづけて紹介してみた。

年表は以下に切り出した
「3・11」以後初めてとなる東電の原発再稼動例だが
通常の装置・機械を15年近くもの未稼働状態から
再稼動させるという手順はそれこそ冒険モノ

 要するに,こうした『日本経済新聞』の原発関連の記事は,この新聞社なりになのだが,かなり悲観的な気分を漂わせながら,中見出しには「原発2割遠い目標」との文句もかかげ,解説を書いていた。

 なお,再生可能エネルギー分野のより広範囲になった拡大もまた,原発とは性格を異にした自然環境との調和の問題を抱えている。けれども,こちらの現実問題を,原発:原子力エネルギー分野と同じ次元に載せて議論する「日本経済新聞社の基本姿勢」は,結局「クソも味噌もいっしょくたにする」ことにしかなりえなかった。

 ごく単純化して表現する。実際,基本は「原発=クソ」「再エネ=味噌」であったのだから,そのクソの後始末すらいまだに全然できないでいる,換言すると日本の場合,使用済み核燃料の最終処分場すらなにも確保できていない現状が,まずもって大問題であった。

 原発問題のそれこそ「糞詰まり状態」を棚に上げたまま,この最難関である問題点を真正面からみつめようとはしないで,あたかも「臭いモノにはフタ」をしておいたわけでもあるまいに,「原発の電源比率」としては「2050年にその目標値を達成させる期限」に設定していた。けれども,「原発2割〔は〕遠い目標」だと記述・報道する日経の認識(神経)そのものが,まず大問題であった。

 そのように「原発2割遠い目標」と中見出しを出した記事は,つまるところ,2011年3月11日に東電が起こしてしまった過酷な原発大事故の,その後においても「この国に生きて暮らしているわれわれ自身」が,いったいどのような覚悟でもってエネルギー問題に接しつつ,生きていくべきかまで示唆していたといえなくはない。

 結局,「東電不可!」「原発無用!」が意味されているのだが,これからも長期間になること必至である「東電じたいの存在そのものの意義」,換言するならば,原発「事故現場においてはいまだ原子炉の惨状の後始末すら未着手である状態」に苦悩する,東電社長の「なんとも表現しづらい立場」がこの記事の内容から汲みとれるではないか。

 なにせいまもなお,東電福島第1原発事故のさい溶融した原子炉3基には総計で880トンのデブリが取り去れないまま眠っている。これは,東電福島第1原発事故がレベル7の超大事故を起こした顛末として,当分,東電が降ろすことのできないまま背負いつづけていく「重荷」を意味する。

 だいたい,チェルノブイリ原発事故を起こしたその4号機は石棺(いまのそれは2代目)でフタを被せられ,放射性物質の拡散(飛散)を防止しようとする状況に留まっている。ところが,東電福島第1原発事故現場はとみれば,大事故を起こした3基そのもののより適切な後始末方法すら,いまだになにも提案されていない。

 2011年3月11日から今日(2026年6月24日)まで,いったい何日が経過したか? 実質,15年間なにも事故現場の本格的な「肝心の後始末」がなにも着手できないまま,これからも時間だけが経過していくことになるのか?

 日本における原発導入そのものが,いうなれば最初から大失敗であった。この「歴史的な事実」を深く認識もせずに,これからも東電を生かしていく未来を,柏崎刈羽原発の数基の原発を稼働させる手順を採ってだが,その一角を確保しえたと思っていたら大間違いである。

 それほどに原発が必要だというならば,東京湾内に東電がもっている元火力発電所の敷地に原発を建設すればよいのである。しかし,そのような計画を立てた瞬間に東京都民からは猛反対が起こることは必至である。

 昔であれば原発に関してはなぜか,「安全神話」が「幸福の女神」のように付き添っていたかのような幻想が創説されていたものの,「3・11」以降におけるこの国ではそのような期待はできなくなった。

 そもそも「安全神話」なる教理は,原発がまったく安全ではなく,一度でも過酷事故を起こしたときには,手の着けようがなくなる怪物であった真実を,この点も知悉していた(はずの)者たちが提唱(デッチ上げた教説)であったに過ぎない。いまとなってのその神話は,なにをかいわんやの,有害無益の迷珍説そのものであった。

 広瀬 隆が以前(1986年),原発が安全だというならば「東京の新宿に原発を造ればいいじゃないか」といったら,これにまともに応えられる原子力村側の人士・識者は誰1人いなかった。原子力情報資料室の指導者であった高木仁三郎は,プルトニウムの危険性を説くことに格別熱心であったが,原子力村側は,その当然の事実をまともには言及しなかった。

 話が寄り道した。本筋に議論を戻したい。

 そもそも,電力会社は,これまで未稼働状態にあった原発を再稼動させ,自社の採算状態を改善していくために,少しでも貢献させうる今後をめざしている。

 しかし,原発の利用じたいが,もともと完全に否定されるべき方途が「最良の選択」になるほかない,この「大地震国日本における電力政策基本路線」であった。

 原発体制をこれからも維持していこうとする「錯誤の一途」は,第2,第3の東電福島第1原発事故「発生」を未然に防止しようとする意図とは縁遠いだけでなく,再生可能エネルギーを主軸・基盤とする電力生産・供給体制を妨害していくしかない「道筋」を,不可避にかつ明確に指示する。

 だから,前段で画像資料にして紹介した『日本経済新聞』2025年11月22日朝刊3面に配置された〈左上部分の当該記事〉は,最後の段落でつぎのように言及していた。

 柏崎刈羽の再稼働は電力消費地である大都市と,電源が立地する地方の関係に潜む対立をあらためて突きつけた。

 再稼働容認の過程で実施した〔新潟〕県民の意識調査は,原発じたいは必要だとする答えが過半を超す一方,柏崎刈羽原発の再稼働について否定的な回答が少なくなかった。この結果は,新潟県民の負担感を理解することなく電気を受けとる首都圏に対する警告であることを忘れるべきではない。

 福島第1原発の事故から2026年3月で15年,事故を起こした東電が原発を動かすことへの不安が根にある現実から目を背けることはできない。

 東電は事実上の国有下で柏崎刈羽の再稼働へ最大限の社内資源を注いできた。一方,企業としての成長では財務の苦境により他のエネルギー企業と比べて投資の余裕が限られ,自由度も少ない。会社を覆う閉塞感に幻滅し,去っていく社員も少なくない。

 小早川智明社長は「東電は福島への責任を果たすために存続が許された」という。これを風化させることなく新潟との信頼を築く一方,企業活力を取り戻し,競争を勝ち抜く稼ぐ力をどう手に入れるのか。柏崎刈羽原発の再稼働のつぎに着手すべきは東電の将来像を描きなおすことである。

東電が保有する原発じたいのディレンマ

 このように,読んでいる者が息苦しくなるような東電社長のいいぶんは,もう「原発はダメだ」「一度その大事故を起こしたぶんには,もう会社じたいが存続を一気に断たれる」ことを,最初から覚悟を迫られていた「その電力生産方式だった事実」を,本当のところではすでに十二分に思いしったセリフになっていたのか?

 ここではこういう結論を書いておきたい。

 東電じたいが,原発の大失敗の後始末に必要な経費を捻出するためには,現有の稼働可能な柏崎刈羽原発に原子力の火を点して,収益(利益)を稼がせることが最低限必要になっているといった,この結果論的な「論理のつながり」のなかにこそ,原発による電力生産の反科学性・非合理性・逆機能性を読みとることができる。これは「当然の帰結」であった。

【参考記事】 「【柏崎刈羽原発再稼働容認】『議会に信任を問う』(花角英世新潟県知事)・・・信任問うなら『議会』ではなく『県民』だろう!!」『くろねこの短語』2025年11月22日,http://kuronekonotango.cocolog-nifty.com/blog/2025/11/post-ef2119.html

 最後にここまでの記述に深く関連する新聞記事を,ついでといってはなんだが,つぎの3点をもって紹介しておきたい。

原発は廃炉工程に入ってからが勝負というかその真価が問われる
その向こう側には非常にえげつない現実が待ちかまえている
新潟県知事ははたして県民のために仕事をしているつもりか
東電に期待する日経の立場でもあるらしい
 

最後にこういう紹介をしておきたい。

      ◆ プロメテウスの罠(プロメテウスのわな)◆

 これは,福島第1原子力発電所事故および「原発」をテーマとして2011年10月から2016年3月まで掲載された「朝日新聞の調査報道による連載記事」の名称である。この連載をまとめた書籍群もある。

プロメーテウスが人類に与えた『火』は,人類に文明や技術など多くの恩恵を与えたが,同時に,その火は武器を作り戦争を始めるもとにもなった。この神話にちなみ,プロメテウスの火という言葉は,

 原子力など,人間の力では制御できないほど,強大でリスクの大きい科学技術の暗喩としてしばしば用いられる。この連載タイトルはさらに一歩踏み込んで,「罠」と表現した。

「プロメテウスの罠」

 「3・11」からすでに15年以上もの時間が経った。だが,このプロメテウスの「罠」に絡められた状態にいまもある東電(東京電力ホールディングス)は,いつになったらあの東電福島第1原発の事故現場を更地に戻せるのか? 現在の時点でいえるのは,その可能性は誰にも指示できなどころか予想すらできない,という点だけである。

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【付記】「本稿の続編」は以下である。

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【参考文献】


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