昭和二十年八月ーー運命の十日間ーー
八月十四日――終戦前夜
第一部 朝
暦
八月十四日。
立秋を過ぎている。
暦の上では、もう秋である。
されど東京は、まだ夏だった。
この日の東京の平均気温は25.4度、最高28.4度、最低22.9度。降水量8.5ミリ。�
気象庁データ
秋の字が暦に現れても、夏はそう簡単には去ってくれない。
そして東京の空には、まだ戦争があった。
空襲警報
内田百閒の『東京焼盡』には、この朝の東京がある。
警報が鳴る。
また鳴る。
B29の来襲に人々は身構え、防空壕へ走る。
解除されれば戻る。
眠れば、また警報に起こされる。
百閒も、そんな東京の一人だった。
大事件のただ中にいるというのに、その日の日常は、空襲警報と防空壕と、眠気と、食べることと、出掛けられるかどうかという、まことに人間臭いものだった。
百閒はまだ知らない。
この日が、日本の運命を決める日になることを。
東京の人々にとっては、今日もまた空襲のある一日だった。
しかし、その同じ朝――
宮中では、日本という国家の最後の決断が行われようとしていた。
御前会議
八月十四日。
陛下の御前に、政府と軍の中枢が集まった。
この日の御前会議は、最高戦争指導会議として開かれ、ポツダム宣言受諾について最終的な決定がなされる場となった。アジア歴史資料センターも、八月十四日の御前会議を第十七回御前会議として位置づけ、この会議で「聖断」が下されたとしている。アジア歴史資料センター
ここで、まず顔ぶれを見ておきたい。
御前に集まった人々
人物 肩書 年齢
陛下 天皇 43歳
鈴木貫太郎 内閣総理大臣 77歳
平沼騏一郎 枢密院議長 77歳
米内光政 海軍大臣 65歳
梅津美治郎 陸軍参謀総長 63歳
東郷茂徳 外務大臣兼大東亜大臣 62歳
豊田副武 海軍軍令部総長 60歳
阿南惟幾 陸軍大臣 58歳
迫水久常 内閣書記官長 43歳
もちろん、実際の出席者はこの九人だけではない。
全閣僚、枢密院議長、陸海軍の統帥部首脳らが集まっている。
しかし、主要な人物をこうして並べてみると、何とも興味深い。
迫水を除けば、ほとんど皆アラカンである。
阿南でさえ58歳。
60代が並び、鈴木と平沼に至っては77歳。
そして、その人々の中心に、43歳の陛下がおられる。
年長者たちの中の陛下
御前に集まった者たちは、皆それぞれの人生を背負っている。
鈴木は海軍の重鎮。
平沼は政治・司法の世界を歩んできた。
米内は海軍大臣。
梅津は陸軍参謀総長。
豊田は海軍軍令部総長。
東郷は外交の責任者。
阿南は陸軍大臣。
迫水は内閣書記官長として、終戦の実務を担っている。
いずれも豊富な経験を持つ年長者たちである。
その彼らが、陛下の御前にいる。
しかし、ここで年齢の順序は逆転する。
最も若い陛下が、最も重い責任を負っている。
阿南惟幾
その中で、阿南は比較的若い。
五十八歳。
そして阿南には、他の者にはないものがあった。
宮中を知っている。
昭和初年、阿南は侍従武官として陛下の御側に仕えた。
その頃、鈴木貫太郎は侍従長だった。
つまり二人は、単に後年「首相と陸相」になって出会ったのではない。
陛下を軸に、宮中の日々を共有した二人だった。
そして陛下は、阿南を親しく、
「アナン」
と呼ばれていた。
多くの叔父さんのような年長者に囲まれた中で、阿南は若い武臣だった。
陛下にとって、年の離れた兄のような存在だったのかもしれない。
それは断定することではない。
しかし、阿南が後に陛下の御意思を受け入れ、自らの運命を決めていくことを考えるとき、この宮中時代は決して無視できない。
迫水久常
そして、もう一人。
迫水久常。
このとき43歳。
内閣書記官長として、終戦工作の実務を担っていた。
しかも迫水は、単なる事務方ではない。
御前会議に出席し、そこで交わされた言葉を克明に記録した当事者である。
後世に残された迫水の記録は、私たちがこの最後の御前会議を知るための重要な手掛かりとなっている。
そして迫水には、十年前の記憶があった。
二・二六事件。
あのとき、迫水が守ろうとしたのは岡田啓介首相だった。
十年後の今度は、同じ首相官邸で、戦争を終わらせるために働いている。
二・二六では岡田を守り、終戦では国民を守る。
その二つの人生が、この一日に重なっていく。
御聖断
御前会議の議論は、ここでは詳述しない。
重要なのは、陸軍と海軍、政府の間に、なお大きな認識の隔たりがあったことである。
陸軍には、
「まだ戦える」
という意識が残っていた。
本土決戦。
国民総動員。
それは抽象的な言葉ではない。
国民を総動員して、
弓矢を持たせ、竹槍を持たせてでも戦わせる。
そういう覚悟である。
一方、海軍には、
「もう戦えない」
という現実感が強かった。
同じ国軍の中に、
「まだ戦える」
と、
「もう戦えない」
という大きな意識の隔たりがあった。
その双方の意見を聞かれた上で、陛下は御自身の御意思を示された。
戦争を終える。
最高責任者
御前に並ぶ者の多くは、陛下より年長である。
しかし、責任の重さに年齢は関係ない。
むしろ、ここで最も重い責任を負われているのは陛下だった。
最高責任者としての自負。
自ら決断する自恃。
その決断の結果を一身に引き受ける自責。
その三つを胸に、陛下は御聖断をなされた。
最も若い者が、
最も重い決断を担われたのである。
そして、一枚の紙へ
しかし、御聖断が下されたからといって、すぐに戦争が終わるわけではない。
陛下の御意思を、国家の意思として形にしなければならない。
そのためには、詔書が必要だった。
そして詔書には、言葉が必要だった。
一つの言葉。
一つの表現。
それが、国の進路を左右する。
当初の文案には、
「戦局日ニ非ニシテ」
という表現があった。
しかし、これも修正される。
最終的には、
「戦局必スシモ好転セス」
となる。
今日の我々には、この文語そのものが、ほとんど異国語に近い。
当時の国民にとっても、決して平易な文章ではなかった。
「悪くなっている」とは言わない。
「良くなっているわけではない」
という表現である。
その一語、一語が、この後の長い一日の中で問題になっていく。
朝の終わり
東京では、百閒が空襲警報に振り回されている。
宮中では、陛下が御聖断をなされた。
首相官邸では、その御意思を一枚の詔書にする仕事が始まろうとしている。
まだ戦争は終わっていない。
まだ、詔書は完成していない。
まだ、閣僚の副署もない。
まだ、玉音盤もない。
そして、阿南の最後の一日も終わっていない。
御聖断は下された。
しかし、
終戦は、まだ完成していない。
ここから先は、陛下の御意思を、どうやって一枚の紙にし、国家の意思として成立させるかという戦いになる。
そして――
八月十四日の昼が始まる。
第二部 昼――一枚の詔書
御聖断のあと
御前会議は終わった。
陛下の御意思は明らかになった。
しかし、御聖断が下されたからといって、戦争が終わったわけではない。
陛下の御意思を、国家の意思として形にしなければならない。
そのためには、一枚の文書が必要だった。
終戦詔書。
戦争を終えるということを、国民に伝える言葉にしなければならない。
ここから始まるのは、銃砲による戦いではない。
言葉の戦いである。
一字、一語
詔書案は、何度も手を入れられる。
一字。
一語。
一つの表現。
それが、軍人にも国民にも与える意味は大きい。
当初の文案には、
「戦局日ニ非ニシテ」
という表現があった。
今日の我々には、これだけでも難しい。
現代の言葉にすれば、
「戦局は日に日に悪化している」
という意味である。
ところが、この表現は修正される。
「戦局必スシモ好転セス」
となった。
現代語にすれば、
「戦局は、必ずしも良くなってはいない」
というほどの意味である。
「悪くなっている」とは言わない。
「良くなっているわけではない」
と言う。
これなら、聞く側によっては、
「良くも悪くもない」
とも受け取れる。
しかし、それが当時の言葉の世界だった。
しかも、この詔書は、今日の我々だけでなく、当時の国民にとっても決して平易な文章ではない。
文語は、すでに国民の日常語から離れつつあった。
だからこそ、一つ一つの言葉が重かった。
陸軍と海軍
その言葉の背後には、陸軍と海軍の大きな認識の隔たりがある。
陸軍には、
「まだ戦える」
という意識が残っていた。
本土決戦。
最後の一戦。
国民総動員。
それは抽象的な言葉ではない。
本土が戦場になれば、
国民を総動員して、弓矢を持たせ、竹槍を持たせてでも戦わせる。
そこまでを覚悟していた者もいた。
一方、海軍には、
「もう戦えない」
という現実感があった。
艦隊は壊滅している。
燃料はない。
航空機も不足している。
制海権も制空権も失われている。
同じ日本軍の中に、
「まだ戦える」
と、
「もう戦えない」
という意識の隔たりがあった。
終戦をめぐる対立は、単なる「和平派」と「強硬派」の争いではなかった。
日本という国が、これ以上どこまで戦えるのか。
その現実認識そのものが違っていたのである。
阿南惟幾
その中に、陸軍大臣・阿南惟幾がいる。
阿南は、御聖断を受け入れた。
しかし、だからといって、それまでの陸軍大臣としての責任を捨てたわけではない。
身命を賭して戦ってきた将兵がいる。
なお戦えると信じている者もいる。
その人々を背負ったまま、阿南は終戦という現実に向き合っている。
だから詔書の言葉も、単なる文章ではない。
陸軍大臣として、最後まで陸軍を背負った男の問題だった。
「堪へ難きを堪へ」
そして、詔書には、後世まで残る言葉が置かれる。
「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」
現代語にすれば、
「耐え難いことに耐え、忍び難いことを忍んで、後の世のために平和を開きたい」
ということである。
ここには、勝者に屈服するというだけではない。
これ以上国民を戦争に巻き込まないために、耐える。
という意思がある。
そして、
「爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル」
――国民の心情を、陛下はよく知っている。
それでも、
「然レトモ」
と続く。
「しかし、それでも」
である。
この「しかし」が、日本の運命を分けた。
「国体を護持し得て」
もう一つ、重要な言葉がある。
「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ」
現代語なら、
「私は、ここに国体を守ることができると判断し」
という意味になる。
ポツダム宣言受諾をめぐって、日本側が最も強く意識していたのが国体の問題だった。国体と云っても「国民体育大会」ではありません。(爆)
そして、その言葉は最終的な詔書にも残った。
戦争を終える。
しかし、国そのものを守る。
その二つを同時に実現しようとする言葉である。
「総力を将来の建設に」
さらに重要なのが、
「総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ」
という一句である。
総力。
それまで日本では、戦うために使われてきた。
しかし、ここでその方向が変わる。
戦うための総力から、建設するための総力へ。
国民を総動員して弓矢や竹槍を持たせるのではない。
これからは、その力を、
「将来の建設」
に向ける。
一つの時代が、ここで反転する。
文語という壁
だが、これほどの内容を、国民は簡単に理解できるだろうか。
今日の我々には、文語そのものがほとんど異国語に近い。
「爾臣民」。
「信倚」。
「排擠」。
「志操ヲ鞏クシ」。
一つ一つの言葉が難しい。
当時の国民にとっても、同じだった。
だからこそ、翌日の玉音放送が重要になる。
国民は詔書を読むのではない。
陛下のお声を聞く。
そして初めて、
「戦争が終わるのだ」
と知ることになる。
急ぐ浄書
時間がない。
詔書の文言を検討しながら、浄書も進められる。
通常なら、文章を完全に確定してから清書する。
しかし、この日は違った。
閣議と浄書が並行して進む。
一刻を争っている。
終戦を決める。
それを詔書にする。
そして、陛下の御署名御璽をいただき、国務大臣が副署する。
そこまで行かなければならない。
御聖断は下された。
しかし、国家としての終戦は、まだ完成していない。
夕暮れ
やがて、東京に夕暮れが来る。
百閒は書く。
「夕晴れる。新月土手の松に懸かりて夏の宵らしき涼風わたる。」
朝には空襲警報が鳴っていた。
それが嘘のように、夕方の東京には静けさが戻っている。
新月が土手の松に懸かる。
夏の宵らしい涼風が渡る。
しかし、その静かな東京の中心では、まだ仕事が続いている。
一枚の詔書。
その一枚の紙に、日本の運命がかかっている。
昼の終わり
御聖断は下された。
詔書も、ほぼその形を整えた。
しかし、まだ終わっていない。
これから、
御署名御璽。
そして、
国務大臣の副署。
さらに、玉音録音。
そして、それを国民に届けるまでには、なお幾つもの危機が待っている。
東京の空には、新月が懸かっている。
涼風が渡る。
その静かな夕暮れの中で、最後の一枚が完成しようとしている。
その中には、阿南惟幾の名もある。
そして夜が来る。
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