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【読後雑記】WEIRD 「現代人」の奇妙な心理(ジョセフ・ヘンリック):①

現代社会において、グローバル化が進む中で「文化基盤の共有」は喫緊の課題である。科学的知見や行動予測を世界全体で共有し、人類共通の問題——環境危機や経済格差——に対処する基盤を構築することは、合理性と協調性を求める時代精神に適う。しかし、この基盤が西洋的知性(個人主義、分析的思考、科学的合理性)に偏る時、我々は文化の多様性と普遍性の間でどのような選択を迫られるのか。

ジョセフ・ヘンリックの『The WEIRDest People in the World』は、この問いに対する一つの警鐘として、西洋的知性の絶対性を解体し、その歴史的偶然性と特殊性を明らかにした。本稿では、ヘンリックの議論を軸に、文化基盤の共有可能性と知性の相対性を考察し、グレーバーとウェングロウの『万物の黎明』との接続を通じて、歴史的多様性が現代の知性に投じる光を掘り下げる。さらに、今後の課題としてレヴィ=ストロースとの比較を提示する。


西洋的知性の相対化と均質化のジレンマ

ヘンリックは、西洋的知性が中世ヨーロッパの特定的条件——カトリック教会の家族構造改革や市場経済の拡大——に依存する偶然の産物であると論じる。心理学や行動経済学が依拠するWEIRD(Western, Educated, Industrialized, Rich, Democratic)な被験者は、人類の標準ではなく例外にすぎない。この指摘は、西洋的知性が普遍的と見なされる過信を崩し、知性の相対性を浮き彫りにする。

この視点は、グレーバーとウェングロウの『万物の黎明』と共鳴する。彼らは人類史を単線的進化ではなく多様な実験の連続と捉え、農耕や階層社会を拒否した社会の存在を示した。この歴史的多様性が、非西洋的知性の根拠となり、WEIRDな知性が例外であることを裏付ける。では、逆に考えよう。グローバル化がこの知性を広めることで結果的に「均質化」を進めるならば、問題ないのでは?それが標準となり、多様性は不要となるのでは?

均質化が進めば、確かにヘンリックの懸念する「偏重」は解消するかもしれない。行動経済学の予測がアフリカの部族にも適用可能となり、環境政策が世界中で一貫性を持つ。しかし、この過程で非西洋的知性が消滅すれば、グレーバーが描く過去の実験的柔軟性が失われ、人類は適応戦略の多様性を失い、長期的レジリエンスが損なわれる危険がある。

ならば折衷案として、均質化を「共有基盤+部分的多様性」と捉えれば、現実のグローバル化——西洋的基盤が浸透しつつ、各文化が独自性を保持——に即した解決策が見えてくる。問題は、この基盤をどこまで共有し、どこから多様性を認めるかの線引きとなる。


基盤と倫理の境界:パラドックスの影

文化基盤を「研究成果の共有可能性」に限定し、倫理・道徳を多様性のレイヤーに置く提案は、このジレンマへの一つの回答である。科学的説明力(行動予測、データ分析)を基盤とし、「何をすべきか」は各文化に委ねることで、押し付けを避けつつ協調を図る。

しかし、エマニュエル・トッドが指摘する「宗教ゾンビ」や「宗教ゼロ状態」——西洋の道徳的基盤の喪失——を顧みれば、この基盤が倫理的空白に陥るリスクは無視できない。『万物の黎明』で描かれる先住民の民主的実践が示すように、過去には倫理と知性が多様に共存した社会が存在したが、現代の均質化はその余地を狭めるかもしれない。イスラム世界が市場経済の浸透で世俗化を進める場合、同様の喪失に直面する可能性もあり、「共有できるようになった時、共有すべき基盤が空虚化する」というパラドックスが浮上する。

このパラドックスを回避するには、基盤に「行動を導く柔軟性」を求めるべきか。単なる価値中立性ではなく、非西洋的知性(集団主義、直観的判断)も包含する基盤が求められる。グレーバーが強調する歴史の非必然性——多様な選択の積み重ね——を基盤設計に反映できれば、知性の宿命的収束を防げるかもしれない。だが、西洋的知性が相対的優位性——広範な適用可能性——を示すなら、その拡大を「最良ではないが他よりマシ」と是認する功利主義的立場も成り立つ。民主主義が完全ではないが現実的選択として支持されるように、西洋的知性の普及は、条件付きで「よい」と評価し得る。


今後の課題:レヴィ=ストロースとの比較研究

ヘンリックの議論は、西洋的知性の相対化に力点を置くが、非西洋的知性の歴史的プロセスへの分析は限定的である。ここで、クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』が対比として浮かび上がる。レヴィ=ストロースは、非西洋的知性——先住民の神話的思考や実践的知識——が西洋的知性と異なる論理を持ちつつ、同等の価値を有すると主張した。この視点は『万物の黎明』の補完となり得る。グレーバーらが挙げる平等主義的都市や先住民の実践は、レヴィ=ストロースの非西洋的知性の具体例として、WEIRDな知性の特殊性を歴史的に裏付ける。

今後の研究課題として、レヴィ=ストロースの観察をヘンリックの方法論で再検討することが挙げられる。非西洋的知性が特定の環境に依存する特殊性や偶然性を帯びる場合、西洋的知性の相対的優位性が補強されるのか。それとも、グレーバーの言う「宿命」——多様な実験の結果としての西洋的価値観の勝利——を前提に、評価尺度自体が恣意的で、知性の優劣を超えた多様性の価値を認めるべきなのか。

この比較は、基盤の共有と多様性のバランスを具体的に検証する試金石となり得る。レヴィ=ストロースの非西洋的知性が、ヘンリックの視点を補完するか、あるいは挑戦するか、その結論は未だ開かれている。


結び:知性の多様性と共有の狭間

文化基盤の共有は、科学的知見を世界に広げる実践的要請であると同時に、知性の相対性と多様性を問う哲学的挑戦である。ヘンリックが示した西洋的知性の限界は、均質化と多様性のトレードオフを突きつけ、我々に線引きの困難さを認識させた。『万物の黎明』が描く歴史の実験性は、このトレードオフに過去の教訓を与え、宿命的現実を乗り越えるヒントを示唆する。

基盤を「行動予測と実践的可能性」に求め、倫理的多様性をその上に置く試みは一つの解だが、パラドックスと特殊性の問いを解消しきれていない。レヴィ=ストロースとの比較研究を通じて、非西洋的知性の深層を掘り起こすことが、この議論に新たな光を投じるだろう。知性の絶対性を超えつつ、共有可能な基盤を模索する旅は、未完のまま我々に委ねられている。

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