【読後雑記】万物の黎明(デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ):歴史という宿命
デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』は、人類史を単線的な進化の物語ではなく、多様な実験の連続として描き出す野心的な著作だ。この本が従来の歴史人類学と比べて何が画期的かを探るため、その主張を解剖し、現代への示唆を掘り下げてみた。グレーバーらの議論の魅力と限界に迫る。
論点1. 単線的進化論の否定:ミクロの攻防
最初に取り上げるのは、グレーバーらが人類史を狩猟採集から農耕、国家へと直線的に進化したとする見方を否定する点だ。従来の歴史叙述——例えばジャレッド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリが描く「農業革命」を転換点とする物語——を、彼らは考古学と人類学のデータで解体する。農耕を拒否した社会や、階層と平等を行き来した事例を挙げ、歴史は単一の道筋ではなく、多様な選択の積み重ねだと主張する。
この点では、マルクスの唯物史観との比較も可能だろう。マルクスは経済的条件が歴史を段階的に進展させると見たが、グレーバーはその決定論を退け、人間の主体性と柔軟性を強調する。それはカール・ポパーによる歴史主義批判とも似ているが、グレーバーはそこに具体的な証拠を突きつけ多様性を示す。マルクスがマクロな傾向性に注目したのに対し、グレーバーはミクロな実験に光を当てて論駁してみせる。
論点2. 不平等の起源:超マクロの攻防
次に、不平等の起源について。グレーバーらは「不平等はどこで始まったか」という問い自体が誤りだとし、人類史で平等と不平等が繰り返し選択されてきたと説く。古代の平等主義的な都市や、先住民の民主的実践を例に、不平等は必然の帰結ではないと主張する。つまり、「起源が特定できない=必然ではない」という定式だ。
しかし、これには疑問が生じる。彼らは「人類史における起源」という超マクロな視点を持ち出すのだ。超マクロな視点で起源が曖昧でも、現代の我々を悩ませる不平等——植民地主義や資本主義に根ざす格差——はミクロな起源を問えるのではないか? 彼らの「不平等は必然ではない」というメッセージは、過去の多様性を示すには有効だが、現代に蔓延る不平等を説明するには具体性が足りない。過去の実験が現代に適用しづらいこのギャップは、議論の限界を露呈する。
論点3. 先住民の視点と西洋思想:スカイフック
3つ目の焦点は、先住民の視点を通じた西洋思想の再評価だ。グレーバーらは、16世紀の先住民カンディアロンクがヨーロッパ社会を批判した記録を基に、自由や平等の理念が西洋独自ではなく、先住民との対話から生まれた可能性を提示する。これは西洋中心主義への挑戦として画期的だ。
レヴィ=ストロースやジョセフ・ヘンリックのWEIRD論との比較も可能だろうが、グレーバーの歴史的影響の追跡は独自性を持つ。だが、ここでもまた「起源が特定できない=必然ではない」という論理が登場し、違和感が浮上する。デネットに言わせればスカイフックだ。結果の必然性は、起源の必然性ではなく、その後の経過の必然性に則って説明するべきだろう。起源が曖昧でも、その後の経過が必然的な流れを描くなら、現代の西洋思想の覇権は結局「必然だった」としか説明できないのではないか?
経過の必然性をめぐる核心的問い
この違和感から、核心へ進む。「経過は本当に必然的でないのか?」を問うため、マルクスとの再比較を試みる。マルクスは形而上学的な必然性を否定しつつ、経済的条件が歴史に「実践的必然性」を与えるとする。一方、グレーバーは社会学的な視点で、経過を自由で実験的なプロセスと捉える。
だが、近代の帝国主義的グローバリズム——西洋思想や不平等の拡大——は、抗いようがない流れとして「必然的」に見える。グレーバーの「選択の余地は常にあった」という反論は、過去には当てはまる場合もあろうが、近代の力関係では説得力が薄い。「君はお金に頼らずに生きることも出来たはずだ」と言われても納得は出来ないだろう。ここにおいて、マルクスの構造的傾向性が再び浮上する。
「宿命」という視点
この対立を解くためには、新たな視点が必要だろう。「人類は多様な実験を試み、その結果として西洋的価値観が生き残った。これは必然と言える運命ではなかったが、宿命ではあった」と。運命は避けられない法則を指し、宿命は選択の帰結として受け入れる現実を意味する。
この「宿命」は、グレーバーの非必然性を認めつつ、現代の帰結を現実的に捉えようとする視点だ。西洋的価値観や不平等は、必然的な法則の産物ではなく、数多の実験の中で生き残った「勝者」だ。起源より経過の必然性が重要であり、グレーバーの「起源が特定できない=必然ではない」は蛇足的だと言わざるを得ない。
終わりに
最後に、「万物の黎明」というタイトルについて。これはいかにも明るい未来を暗示するタイトルだ。だが、起源の否定を強調する彼らの主張からは「万物に明確な黎明はない」という皮肉と解釈するべきだろう。彼らは起源を問うことによって、考古学的実証性や現代への希望を掲げる。だが、経過の非必然性を補強するものの、宿命的現実を説明するにはやはり心許ない。
グレーバーらの議論は、歴史の多様性と主体性を示す点で画期的だが、現代の宿命的状況への応用性に欠ける。「宿命」という視点で、彼らの非必然性を補完し、現実とのギャップを埋める。歴史は実験の連続でありながら、その結果として宿命が生まれるという、新たな理解が必要ではないか。
