ひとりごと|ヨハン・ガルトゥング 『日本人のための平和論』を読んで──「慢」をほどくためにできること。
ヨハン・ガルトゥングは、暴力の三つの側面を示しています。
暴力には、直接的な暴力だけでなく、
社会の仕組みの中で人を苦しめる「構造的暴力」、
そしてそれを正当なものに見せてしまう「文化的暴力」です。
こうして見ると、暴力って特別な出来事というより、日常の中にも普通に入り込んでいるものなんだなと感じられます。
その中で彼は、アメリカの好戦的な行動を支えている「思考の型」について述べています。
それが、二元論(Dualism)、善悪の固定化(マニケイズ Manichaeism)、最後の戦い(アルマゲドン Armageddon)を組み合わせた「DMA」という枠組みです。
世界を「善と悪」に分けて、自分は善の側にいると考える。
そして、悪と取引してはならない、悪は取り除かれるべきだとする。
この思考は単純で分かりやすい一方で、対立を深めやすい構造に見えます。
この思想の背景について、ガルトゥングは宗教的な観点から一つの見方を提示しています。
それは、宗教改革を主導したマルティン・ルターが、マリア崇敬の要素を信仰の中心から外したことにより、キリスト教世界の中での「赦し」や「受容」を象徴する側面が相対的に弱まり、「正しさ」や「裁き」を重視する傾向が強まったのではないか、という指摘です。
ただし、これは特定の宗派を単純に評価するものではなく、宗教的な変化が人の考え方、とくに社会の意思決定に関わる一部の人たち(人口1%のエリート層)の思考の枠組みにどのような影響を与えうるのかを考える、一つの視点として示されています。もちろん、この見方には議論の余地があります。
もっとも、ヨハン・ガルトゥング自身も、プロテスタントの伝統を一括りにしているわけではありません。
彼は、キリスト教には報復を禁じる教えがあることを強調したうえで、クウェーカー、メノナイト、アナバプティストといったプロテスタントの諸派が、平和の理論と実践において重要な貢献を果たしてきたことにも言及しています。
一つの宗教的伝統の中にも、複数の方向性が共存しているということですね。
こういう視点から見ると、国家の行動もまた、少し違う見方ができます。
たとえばアメリカ合衆国は、これまでに先制攻撃や予防的な軍事行動を正当化してきました。
つまり、「報復は禁止されているけど、予防はOKだ」という理屈です。
どういうことかと言うと、
キリスト教には「敵を愛せ」や「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」という報復禁止の規定があるから、現実の世界では報復できないらしいのです。
しかし、「悪は未然に防がなければならない」とすることで、暴力は聖書で禁じている「報復」ではなく「予防」のための先制攻撃として位置づけ直すことができます。
もちろん、現実の国際政治はこれほど単純ではないはずです。
安全保障とか歴史とか経済とか、いろんな要因が絡み合っているからです。
それでも「善と悪に分ける思考」や「悪は排除すべきだ」という発想が、暴力を支える一つの枠組みになっているというガルトゥングの指摘には、一定の説得力があります。
ここからは、少し身近な話です😊
「二項対立」や「善悪の固定」、それに「排除の正当性」といったDMA的なものは、実は私たちが生きていくうえで必要なものでもあります。
危険を避けたり、道徳を守ったり、社会のルールを決めたりするには、ある程度世界をシンプルに捉えた方が便利だからです。
でも、その区別が固定された瞬間、窮屈になるような気がします。
本来は一時的な判断であったはずのものが絶対的な基準となると、人や出来事を動かないものとして扱い始める。
そのとき、対立や排除は強まり、そこに「苦しみ」が生まれるからです。
仏教では、このような心の働きを「慢」と呼びます。
単に自分が優れていると思うことだけでなく、「誰が上で、誰が下か」という序列的な比較そのものが、認識の軸として自我が定着した状態です。
もしこの認知の軸を、序列的比較から機能的比較へと移すことができたらどうなるでしょうか。
つまり、「誰が上か下」ではなく、
「この状況で何が適切か」を見るという姿勢です。
それだけでも、私にとっては少し生きやすくなれる気がしています。なぜなら、この視点にはいくつかの要素が含まれているからです。
まず、評価の軸は一つではなく、目的に応じて変わりうるという多次元性。
そして、順位は固定されたものではなく、文脈によって最適なものは変わるという可逆性。
さらに、評価を自己の本質と結びつけず、役割や状況に限定するという脱アイデンティティ化です。
こうした見方に立つと、「慢」は単なる個人の心の問題ではなく、社会の中で繰り返し再生産される認知の枠組みに思えてきます。
それと同時に、その枠組みは、少しずつ調整することもできるものだということも見えてきます。
本来、「慢」は個人的な心の問題です。
そして、それによって生まれた「苦しみ」は、本来それを生み出した個人で背負わなければならないものであるはずです。
でも、これが家族とか国家レベルになると、その苦しみを背負うのは、たいてい弱い立場にある人に向かいます。
彼らも、動員なんてしないで、アンパンマンみたいにひとりで闘えばいいんですけどねっ!
アルマゲドンには、自分らだけで行ってくれたらいいと思います。
フンガー( `ー´)ノ
「誰が上か」ではなく「何が適切か」、そして「脱アイデンティティ」へ。
焦点をわずかに移すだけでも、見える世界は変わる気がします。
少なくとも、このやり方なら、自分にもできそうだと思っています。
『日本人のための平和論』
著者ーヨハン・ガルトゥング
訳者ー御立英史
ダイヤモンド社 2017年6月7日
