“私”を測る心──「慢」はなぜ、いつもあるように感じられるのか
昔と比べて、私たちは一日にどれくらい「他人と比べて」生きているのでしょう。SNSを開けば、年齢も国も違う誰かの人生が、休みなく流れてきます。努力や背景は切り取られ、結果だけが並べられる世界で、私たちの心は何を学んでいるのでしょうか。
仏教では、自分と他人を比べて測ることを「慢」と呼んでいます。慢は単なるプライドではなく、無明(無智)と結びついて、私たちの理性や学びの力そのものを蝕むものだといいます。決して善いものではないのです。
🙂↕️私は仏教を語れる立場の人間ではありません。ここに記すのは、あくまで自分の理解を深めるための試みであり、主観的な見解も含まれています。どうぞご了承ください。
「慢」は、単なる自尊心や傲慢さのことではない
「自分がいる」という実感は、生きているかぎり、そして認識が続くかぎり生じます。けれどもそれは、見る・聞く・考えるといった認識そのものの実感にすぎないのかもしれません。
生命が「個」として成立している以上、この感覚は避けようがなく、しかも本来は善でも悪でもありません。
ところが、この「個としての自分」──すなわち「自我」に価値を与えた瞬間、「慢」というトラブルが立ち上がってきます。
私たちは日々の生活の中で、ほとんど無意識のうちに、「優れている人」、「同等の人」、「劣っている人」という三つの方向に目を配りながら自分の位置を測っています。
仏教では、この比較の心を高慢、同等慢、卑下慢の三種類に分類していますが、実際には、それぞれの慢の内部でも、さらに細かな比較が行われています。
①優れている人と自分を比べるとき、「優れている人よりも自分は優れている」、「優れている人と自分は等しい」、「優れている人よりも自分は劣っている」
という三通りの測定が起こります。
②同様に「同等の人」と比べても、「同等の人よりも自分は優れている」、「同等の人と自分は等しい」、「同等の人よりも自分は劣っている」という三つがあり、
➂さらに「卑しい人」と自分を比べる場合にも、「卑しい人よりも自分は優れている」、「卑しい人よりも自分は等しい」、「卑しい人よりも自分は劣っている」
という比較を成立させています。
このように「慢」を合計すると九種類になりますが、そこに共通しているのはただ一つ、「自分を測る」という行為そのものです。
問題は、肯定か否定かではなく、比較という枠組みの中に自分を置いてしまうことにあります。
「慢」は静かだが、無明を強める
ここまで見てくると、「慢」とは本当に悪いものなのだろうか、と疑いたくなります。「慢」は「瞋」のように怒りや憎しみを生み出すわけでもなく、「欲」のように貪りを引き起こすわけでもないからです。むしろ、静かで理性的にさえ見えます。
しかし実際には、この「慢」こそが非常に厄介な曲者だったのです。なぜなら、あらゆる悪の源である無明を、静かに、しかし確実に強めてしまうからです。
「慢」は怒らせないが、怒りやすい心を育てる
プライドを傷つけられて怒るとき、私たちはしばしば「慢が怒り・憎しみを生み出したのだ」と決めつけてしまうことがあります。
しかし実際には、慢が直接、怒りや憎しみを引き起こすわけではありません。慢はあくまで「私」という“錯覚”を前提に、価値づけや位置づけを行っているだけです。
怒りや憎しみを直接引き起こすのは「無明」と呼ばれる、物事を正しく見えなくしてしまう心の働きです。
そして無明は、怒りに限らず、人間関係の摩擦や誤解、自己否定など、社会生活の中で起こる多くの苦しみの土台にもなっています。
その無明を静かに、しかし確実に強めているのが、他ならぬ「慢」なのです。
ここで、どうしても触れておきたいことがあります。
私たちは「怒り」と聞くと、顔を真っ赤にして怒鳴り散らすような激しい感情だけを思い浮かべがちです。しかし、テーラワーダ仏教では、怒りはそのような極端な形だけを指すのではありません。実際には、怒りは10種類に分類され、非常に幅広い心の状態を含んでいます。
たとえば、理由もなく気分が沈むことや、ちょっとしたイラ立ち。激しく怒りを爆発させること。過去の出来事をいつまでも根に持ち続けること。他人の欠点ばかりを探してしまうこと。相手がつぶれるまで怒り続けること。嫉妬、物惜しみ、反抗的な態度、後悔、さらには犯罪や戦争を引き起こすほどの激しい怒りまで含まれます。
こうして並べてみると、どれもできれば関わりたくない心の状態ばかりですよね💦
けれど、これらはすべて同じ「怒り」という系譜に属している――この視点は、自分の心を観察するときに、とても重要な手がかりを与えてくれるように思います。
怒りよりも気づきにくい煩悩──慢の静かな働き
ここから先は、少しややこしくて眠たくなりそうです。それでも、自分の心がつくり出す世界を正しく観るためには、ぜったいに避けて通れない視点だとも思うのです。
「慢」は、怒りと結びついているように見えて、実際には「欲」の心と共に生まれます。
私たちは自我に強烈な執着を抱いているため、慢の根底には、「私を大事にしたい」、「私を成立させたい」、「私に価値を与えたい」という、“私”への愛着が働いています。これはまさに「欲」の働きです。
怒りの心が、壊す・拒む・排除する性質をもつのに対し、
欲の心は、抱え込む・守る・温存するという性質をもちます。
慢は怒りのように派手ではありません。静かで、理性的で、落ち着いて見えます。しかし、その実体は、「私」を手放したくないという欲が、静かに、だけれど絶えず活動している状態です。
慢は本来、断続的に生じるはずの静かな心の働きであるはずなのに、なぜ私たちはそれが「いつもある」ように感じてしまうのでしょうか。
理論上、心の中では「欲」が多く、「慢」は常に生起するものではないとされています。それでも、慢はいつも一緒にいるように感じられるのです。
私たち人間は、本質的に社会的な存在だと言われています。
そのように、慢が絶えずそばにいるように感じられるのは、競争社会の中で、欲→比較→慢という流れが日常的に自動化してしまっているからではないかと思います。
無明(自我錯覚)、欲(自我の保持)、慢(価値や位置づけ)。
この三つは切り離して考えることができません。
慢が働けば働くほど、無明は強まり、
慢は無明から生まれ、
生まれた慢がさらに無明を肥え太らせる。そこには、はっきりとした循環構造が見て取れます。
これは一方向の因果ではなく、相互に強め合う関係です。
無明は「自我が実在する」という錯覚を生み、欲はその自我を守り、手放したくないという働きを担い、慢はその自我に価値を与え、位置づけようとします。
そして、「やはり私は確かな存在だ」という確信が積み重なることで、無明はいっそう強化されていきます。
では、なぜ慢は無明を強化することができるのでしょうか。
慢が働くたびに、
「私は測れる存在だ」
「私には価値の大小がある」
「私は比較の主体だ」
という自我の前提が、一度も疑われないからです。
それどころか、「私がいるのは当たり前だ」、「その私を評価しているのは正しい」という感覚が経験として積み重なっていきます。
これが、無明の学習です。
怒りや粗い欲は、苦しく、破壊的で、後悔を生みやすいため、手放したいという動機が、比較的生まれやすと言えます。
しかし慢は、静かで、理性的で、自分を保っている感じられます。
そのため、これが「煩悩」であることに気づきにくいのかもしれません。
結果として、無明と慢は、互いを養い合う関係になります。
ううう、眠くなる(笑)
でもがんばります。
続きます。
参考図書:
「慢」とのつきあい方 ~慢・卑下慢・同等慢~
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
日本テーラワーダ仏教協会 2016年11月3日
52の「心所」で読み解く仏教心理学入門
『ブッダが教える心の仕組み』
著者:アルボムッレ・スマナサーラ 誠文堂新光社 2020年9月19日
『怒らないこと2』(著)アルボムッレ・スマナサーラ サンガ2010年8月
