革命の幕が開く2025・2026年の土星海王星コンジャンクション④1952年エジプト革命とCIA
土星海王星コンジャンクションの4回目です。
この記事では、主に1952年のコンジャンクションで起きた出来事について書いていきますが、土星と海王星が接近するとどんなことが起こるかの参考になれば幸いです。
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①1989年の山羊座で起きたコンジャンクションは、ベルリンの壁崩壊。
②1917年の獅子座で起きたコンジャンクションは、ロシア革命。
③時代が前後しましたが、1822年は牡牛座でコンジャンクションが起きました。
エジプトがイギリス保護領になった経緯と、東アジアのコメ不足からクーデターが起きた話。
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長い記事なので、目次から読みたい箇所に飛んでください。
1952年の注目の出来事
1952年は天秤座で起きました。
下は、土星海王星コンジャンクションのエネルギーを象徴するようなビデオ。(表示されるかな?)
🧵 In 1952, the Ivy Mike test took place at Enewetak Atoll in the Marshall Islands, located in the central Pacific Ocean, roughly halfway between Hawaii and Australia. This was the first full-scale test of a hydrogen bomb.
— Volcaholic 🌋 (@volcaholic1) March 24, 2025
The explosion completely vaporized Elugelab Island,… pic.twitter.com/QELjrqyLyE
1952年11月1日に、アメリカがマーシャル諸島エニウェトク環礁環礁で行った人類初の水爆実験の映像です。
第一次世界大戦中の1914年に日本が占領する。1920年に日本の委任統治領となり、ブラウン環礁とも呼ばれた。
第二次世界大戦中の1942年11月、日本はEngebi島に飛行場を建設し、これはカロリン諸島や他のマーシャル諸島の島へ向かう飛行機が利用した。
ギルバート諸島の陥落後、1944年1月4日に日本陸軍は島の防衛に海上機動第一旅団を派遣したが、2月のアメリカ軍の侵攻の前に防御を固めることはできず、環礁はアメリカ軍が占領した(エニウェトクの戦い)。
第二次世界大戦、住人は立ち退かされ、環礁は太平洋核実験場の一部となり、1948年から1962年までアメリカの核実験に使われました。


1977年、アメリカ政府は汚染された土壌などの除去を開始し、1980年には安全宣言が出されたが、現在も放射能汚染レベルが高く、活用できていない土地も多いという。
環礁の一部を成すルニット島には、取り除いた放射能汚染物質を厚さ45センチのコンクリートで格納したルニットドームがありますが、プルトニウムの半減期は2万4千年に対し、コンクリートの耐用年数は長くて100年であり、すでにひび割れも始まっているそうです。サイクロンが直撃した場合に崩壊する可能性や汚染物の海洋流出の危険性があるとのこと。

核兵器実験によって作られたクレーターに設置されている。
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【1952年の自然災害】
6月 1952年サンフアン地震。
アルゼンチンのサンファン州でマグニチュード6.8の地震。
7月 カーン郡の地震
カリフォルニア州南部のセントラルバレーで、マグニチュード7.3の地震。
8月 リンマス洪水
イギリス・デボン州リンマス村で大雨による洪水が発生。
一晩で100棟以上の建物が破壊され、34人が死亡。
8月 ダムシュン地震
チベットでマグニチュード7.5の地震。
11月4日 マグニチュード9.0のカムチャツカ地震
北千島の中心地・セベロクリリスクでは最初の津波で高台に避難していた住民が戻ってきたところに二度目の津波に巻き込まれ、公式統計によると当時の人口6,000人のうち2,336人が死亡した。
12月4日 - イギリス、ロンドンスモッグ事件
1万人以上が死亡した、史上最悪規模の大気汚染による公害事件。
【Great Smog of 1952】1952年12月5日から12月10日の間にイギリス・ロンドンで発生し、1万人以上が死亡したと言われる史上最悪の大気汚染。
— 森の夢*佐山みはる (@kinadreams) December 5, 2022
ロンドンの大スモッグが都市を停止させ、何千人もの人々の死をもたらしてから 70 年になります。 https://t.co/jumgxWtQG1
1952年12月5日から10日の間、高気圧がイギリス上空を覆い、上空は無風状態となり、冷たい霧がロンドンを覆った。あまりの寒さにロンドン市民は通常より多くの石炭を暖房に使った。
同じ頃、ロンドンの地上交通を路面電車からディーゼルバスに転換する事業が完了したばかりだった。こうして暖房器具や火力発電所、ディーゼル車などから発生した亜硫酸ガス(二酸化硫黄)などの大気汚染物質は冷たい大気の層に閉じ込められ、滞留し濃縮されてpH2ともいわれる強酸性の高濃度の硫酸の霧を形成した。
【1952年の政治】
3月 キューバ:フルヘンシオ・バティスタ将軍によるクーデター
親米政権を樹立したのち独裁を敷いたが、1959年キューバ革命によって失脚。
4月 ボリビア国民革命
革命的民族主義運動(MNR)が、自由主義者や共産主義者と協力してボリビアの支配的な寡頭制を打倒し、ボリビアで新たな社会経済モデルを導入しようとした革命。MNR政権は、964年11月4日のクーデターまで続いた。
5月 サンフランシスコ条約
日本国との平和条約とも呼ばれ、戦争、軍事占領、および提供の法的状態を終わらせることにより、国連に代わって日本と連合国との間の平和関係を再構築しました。
10月 マウマウの反乱
イギリスの植民地だったケニア(ケニア植民地)で1952年から1960年に起こった独立運動。
この反乱によるマウマウ側の死者数は11,000人以上のほか、ゲリラからの隔離政策で環境劣悪な収容所に送られて死亡したキクユ族は2万人程度に上ると見られている。
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エジプト革命
1952年のコンジャンクションでは、エジプト革命が起きました。
下の写真は自由将校団のメンバーで、左はムハンマド・ナギーブ、右はガマール・アブドゥル=ナーセル(日本ではナセル大統領と呼ばれた)です。

エジプト革命は何度か起こっており、2度目の軍事革命が1952年である。
自由将校団は、エジプトとスーダンの君主制を打倒し、エジプト共和国の設立につながりました。
【革命の背景】
19世紀から20世紀半ばにかけて、エジプトとスーダンはムハンマド・アリーが始めたムハンマド・アリー朝に支配されていました。

ムハンマド・アリーは、エジプトを宗主国オスマン帝国と争うほどの力を持つ事実上の独立国家へと変貌させた。
第一次エジプト・オスマン戦争と第二次エジプト・オスマン戦争の両方でエジプトを率いて東方危機を引き起こしたため、エジプトはレバントから追放される結果になったが、スーダン領土の保持は認められた。
ムハンマド・アリーの死後、後継者たちはスエズ運河の建設に着手するなどエジプトの近代化を図りましたが、その結果、財政が悪化し、さらにエチオピアとの戦争に敗北したことが国家破産を招きました。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
英エジプト戦争後、イギリスは事実上エジプトを支配下に置き、エジプト総領事で初代クローマー伯爵エヴリン・ベアリングは副王よりも大きな権力を行使しました。
ベアリング家は、ドイツ・ブレーメン出身のヨハン・ベアリング(1697年 - 1748年頃)が1717年に羊毛貿易を学ぶためにイギリスに移住して始まった。
イヴリンの祖父にあたる初代准男爵サー・フランシス・ベアリング(1740年 - 1810年)が1762年にベアリングス銀行を創設して以来、銀行家として有名な一族であった。
ベアリングス銀行は、1995年の阪神淡路大震災に伴う日本株大幅下落で致命的打撃を被り倒産したが、ベアリング家は現在も爵位を継承し続けている。

ベアリングが抜擢した英国人で構成されるチームが、エジプト各省庁、軍部、警察署などに配置され、エジプト行政を操縦しました。
ベアリングは財政改革・税制改革・農業振興によって破たんしたエジプト財政の立て直しに努める一方で、他の大英帝国植民地総督と同様、被支配民に教育を与えようとはせず、現地民の支持を得ることはできませんでした。
1888年、スエズ運河の自由航行に関する条約(コンスタンティノープル条約)において、イギリスはスエズ運河を軍事力で防衛する権利を獲得しました。
1906年6月、イギリス軍の将校とエジプト人の村民の間で、デンシャワイ事件が起こりました。
5人のイギリス軍将校がデンシャワイ村に鳩狩りにいき、村人が食用として飼育していた鳩を故意に撃ったため、憤慨した村人たちと乱闘になったのです。将校の一人が村人に発砲し、4人が負傷、そのうち1人は死亡しました。
将校の一人はイギリス軍陣地へ徒歩で逃げ戻った後、力尽きて陣地の外で倒れ(おそらく熱中症)死亡したところに通りかかった無関係の村人を、他の兵士がその村人が将校を殺害したと勘違いし、彼を殺害してしまいました。

翌日、イギリス軍は村の男52名を逮捕し、彼らを計画的殺人と暴力を伴う強盗の罪で起訴しました。
ナショナリズムの高まりを懸念した当局は、村人を見せしめにするのが最善と考え、エヴリン・ベアリングは鞭打ちなどの拷問が真実を明らかにするために必要だと主張しました。
裁判の記録は取られず、4人が殺人罪で直ちに処刑されました。
鳩の飼い主は自宅前、家族の前で絞首刑に処され、この判決はエジプト国民の激しい怒りを招きました。
この事件は本国の自由党政権にも問題視され、エヴリン・ベアリングは1907年3月にエジプト総領事を辞し帰国。次の総領事に国務長官だったエルドン・ゴースト卿が着任しましたが、ゴースト卿も「自己中心的な人物」として古参のイギリス植民地行政官から嫌われ、エジプト人からもスフィンクスのような存在として信用されなかったそうです。

1910年2月20日、デンシャワイ事件の裁判官の1人でイギリス寄りと批判された首相ブトロス・ガーリーの暗殺事件が起きました。
ガーリーの暗殺は、エジプトではジャン=バティスト・クレベール(フランスの軍人)の暗殺以来1世紀ぶりの上級政治家の暗殺であり、1915年まで続く一連の暗殺事件のうちの最初のものでした。
デンシャワイ事件によって引き起こされた不穏は、インフレと食糧不足によってさらに悪化しました。
第一次世界大戦中のロシア帝国とオスマン帝国の間でコーカサス戦役(1914-1918年)が起きると、イギリスはエジプトに戒厳令を敷きました。
戦争遂行にエジプト経済を利用したため、ナショナリズムの高まりと相まって反植民地主義運動の勃興につながっていきました。
【1919年のエジプト革命】
1919年エジプト革命は、1918年11月から1919年7月まで続いた、サアド・ザグルールが組織したワフド党によって展開された独立運動である。
この革命により、1922年にエジプトは独立を達成(エジプト王国~1953年)し、1923年には新憲法が公布された。
1919年のエジプト革命は、1917年のロシア革命と同じく、土星海王星コンジャンクションのエネルギーの影響下で起きました。
ザクルールのワフド党は、当初平和的な抗議デモと署名活動を行なっていましたが、ワフド党の支持が増える様子に不安を感じたイギリス政府は、1919年3月にザクルールほか2人の指導者を逮捕し、マルタ島へ流罪にしました。

ザクルールの逮捕・マルタへの流罪に起因して、4月までの数週間続くデモとストライキが起きました。
デモには、学生、公務員、商人、農民、労働者、イスラームやコプト正教会の宗教指導者、さらに女性が参加していました。
この大衆運動は、男性と女性がともに参加したこと、宗教の隔たりを超えたことが特徴でした。
しかし抗議はじょじょに攻撃性を帯び、イギリスの軍事施設、公共施設、鉄道にも攻撃が行われるようになり、エジプト遠征軍が派遣されました。
7月25日までに800人が殺害され、1,600人が負傷したそうです。
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デイヴィッド・ロイド・ジョージ首相は、 アルフレッド・ミルナー卿と調査委員会をエジプトに派遣し、混乱の原因究明とエジプトの政治的将来に関する勧告を行いました。

ロイド・ジョージ首相(前列左から2人目)
余談ですが、アルフレッド・ミルナー卿は、アーサー・バルフォアの名で発布された『バルフォア宣言』の主要起草者でした。
ミルナー卿は、当時の英国政府においてロイド・ジョージ首相と共に、「親シオニスト宣言の最も強力な支持者」とみなされていました。
サアド・ザグルールは帰国を許され、1921年4月4日にエジプトに帰国しました。イギリス当局は、イギリスによる監視を条件にザグルールにスルタンの地位を与えようとしましたが、彼が断固として拒否したため今度はセイロンにサグルールを追放しました。
独立運動の流れはとまらず、1922年にイギリスはエジプトの独立を承認しました。サグルールは帰国し、第17代首相に就任しました。
しかし、イギリスは影響力を保持したままであり、スエズ運河から軍を撤退させることを拒否しました。
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1952年のエジプト革命*CIAと自由将校団
1952年のエジプト革命は、前回の記事に書いた「夜の王」ファルーク1世に関係しています。
1948年、イスラエルが建国したことによって始まった第一次中東戦争に、ムハンマド・ナギーブは指揮官として参戦していました。
ガマール・アブドゥル=ナーセルを中心とした青年将校たちによる秘密組織自由将校団が結成され、ナギーブは推薦を受けて団長に就任しました。


【プロジェクトFF(ファット・ファッカー)】
冷戦が続く中、アメリカはソ連の勢力拡大するのを恐れていました。
アメリカはエジプトの政情不安に対して、ファルーク1世にアメリカの利益に反する政変の可能性を低減するよう政治改革を迫りました。
このプロジェクトは、CIA長官アレン・ダレス、国務長官ディーン・アチソン、CIA工作員カーミット・「キム」・ルーズベルト・ジュニア、そしてカイロ支局長マイルズ・コープランド・ジュニアによって主導されました。
(おなじみの顔ぶれです)

しかし、ファルーク国王が変わろうとしなかったため、計画は最終的に彼の打倒を支持する方向に変更されました。
「キム」は自由将校団と秘密裏に会談しました。
アメリカは、自由将校団を「新たなパートナー」として支援する意図があったと言われています。
マイルズ・コープランドは、CIAがモデルにした新しい総合情報局(アル・ムハバラト・エル・アーム)の設立を支援したと述べています。
新しい治安機関の創設には、ナチス・ドイツの軍事情報機関に勤務したドイツ人顧問も協力したそうです。
プロジェクトFFは、翌年、イランのモサデク首相に対するクーデターに応用されました。
イランのクーデターについては以下の記事に書きました。
【暗黒の土曜日*カイロ火災】
1952年1月25日にイギリス軍とエジプト警察の間で発生した武力衝突(イスマイリアの戦い)で、イギリス軍は13人が死亡、22人が負傷、エジプトの警察官56人が死亡、73人が負傷し、生き残ったエジプト警察官は全員イギリス軍の捕虜になりました。
ジョージ・アースキン将軍率いる7,000人の兵士と6台のセンチュリオン戦車からなるイギリス軍が、イスマイリアのエジプト政府庁舎を包囲した。イギリス軍は、建物内に逃げ込んだフェダイン(イギリスの占領に反対する民間組織)の一団を追跡していた。
建物内にいた880人のエジプト補助警察官は、彼らの避難を許可していた。
翌日この戦闘のニュースが公表されると、カイロで大規模なデモが行われました。警察と兵士もデモに参加し、カイロの街頭は怒り狂った群衆で埋め尽くされ、約750棟の建物(小売店、カフェ、映画館、ホテル、レストラン、劇場、ナイトクラブ、市内のオペラ・カジノ)が放火略奪されました。
26人が死亡し、552人が負傷したと伝えられています。(カイロ火災)

【自由将校団によるクーデター】
スパイからクーデターの日時を知らされたファルークは、すべての自由将校団の逮捕を命じました。自由将校団は逮捕状が発行されたことを知り、その夜のうちにクーデターを起こしました。7月24日午前1時30分頃までにカイロを制圧しました。
クーデターは100人にも満たない将校たちによって実行され 、 そのほとんどは下級将校でした 。 歓声を上げる群衆による祝賀ムードが街に広がりました。(しかし平和はすぐに打ち砕かれるのです、中東は)

ファルーク王の処遇を巡っては、亡命させるか裁判にかけるかで議論が紛糾しました。ナギーブとナーセルは亡命を支持し、投票の結果、ファルーク1世の子で生後わずか半年の王子フアード2世を王位に就けた後に亡命させることで意見が一致しました。
王政の継続は、イギリスに介入する口実を与えないために「ファールーク1世の腐敗の打倒のみが目的」と印象付けることを意図していた。
1952年7月26日の朝に届けられたナギーブが起草した最後通牒により、ファルーク王は退位に同意して、その日のうちにイタリアに亡命しました。

ナギーブが首相に就任し、副首相兼内務大臣のナーセルと共に摂政評議会を創設して政権を発足。1953年6月18日、革命政府は正式に王政を廃止し、共和制移行を宣言しました。
1歳のフアード2世は戴冠しないまま廃位され、ナギーブが新共和国の初代大統領に就任しました。こうして最後はあっけなく、ムハンマド・アリー王朝は終焉を迎えたのでした。
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【その後のファルーク1世】

亡命先のイタリアのカプリ島にて(1953年)
1952年10月、ファルーク1世はエジプトから反逆罪で起訴されましたが、イタリア政府に引渡し要求は提出されませんでした。
二度目の妻ナリマン王妃と1953年に離婚したあとは、ミス・ナポリのイルマ・カペチェ・ミヌートロを愛人にし、国王時代と同じように遊び歩いて「夜の王」言われました。
1965年3月18日にレストランで食事中に倒れ死去。毒殺された噂もありますが、正式な検死は行われなかったそうです。
ファード2世(1952年1月16日 - )は、アフマド・フアードの名で暮らし、1976年にフランス人のドミニク=フランス・ピカール(結婚後、ユダヤ教からイスラーム教に改宗し、ファディーラ王妃と改名)と結婚しました。

2013年、長男で継嗣のサイード公ムハンマド・アリーと、旧アフガニスタン王室のノアル王女(最後のアフガニスタン国王であるザーヒル・シャーの孫娘)が結婚しました。
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エジプト革命後の自由将校軍のその後について書いていましたが、長分になったため割愛しました(さらにCIAが関わってきます)。
また別の機会に記事にするつもりですが、そのときはたぶん有料にすると思います。
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1952年のエジプト革命は、アラブ冷戦の始まりでした。
ナギーブの次にエジプト大統領になったナーセルが、アラブ世界のリーダーとして重要な役割を果たしたことにまったく異論はありませんが、イギリス、イスラエル、アメリカとの関係が悪化したことが現在のエジプトが強気に出られない原因になっている気がします。

今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。
