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オレンジジュースと「夜の王」ファルーク1世

アフリカとアラブ、イスラムを繋ぐ要に位置するエジプトは、水源が乏しい国としても知られており、国土の大部分の95%以上が砂漠です。
エジプトに王朝が現れたのは、今から5千年前のこと(『古代エジプト』より)。砂漠の中に文明が開かれたのは、国を縦断して地中海に注ぐナイル川の存在が大きいですね。

紀元前15世紀における古代エジプトの最大版図


現在の正式な国名は、ジュムフーリーヤ・ミスル・アル=アラビーヤ。日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。
「どこがエジプトやねん?」と思ったら、公式の英語表記が Arab Republic of Egyptでした。

エジプトの呼称は、古代エジプト語のフート・カア・プタハ(プタハの魂の神殿)から転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、
ギリシャ神話のアイギュプトスにちなむ。

ローマ帝国がエジプトを侵略したのが紀元前30年。
プトレマイオス朝の実質的な最後の王クレオパトラ7世は、ローマの執政官(コンスル)オクタウィアヌス(アウグストゥス)に敗れました。
エジプトはアエギュプトゥス属州と呼ばれ、ローマ帝国にとって重要な穀物の供給地となり、エジプト人はローマ市民権を得ました。

当時の首都はアレクサンドリア
ローマでユダヤ人の追放が起こり(ユダヤ戦争)、多くのユダヤ人がアレクサンドリアに移住したそうです。
ギリシア人とユダヤ人との間で宗教を理由とする争いがしばしば起こり、特にアレクサンドリアで激しい暴動がありました。

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古代エジプトの宗教を信仰していたエジプト人にキリスト教が広まったのは4世紀ごろからで、390年に皇帝テオドシウス1世の命によりキリスト教が国教となり、非キリスト教の神殿は閉鎖されたり破壊されました。

テーベ(現ルクソール)に存在し、女神イシスを崇拝する最も格式高い神殿であったフィラエ島フィラエ神殿は抵抗を続け、453年に条約が締結されて、周辺地域の宗教的自由が保証されました。
しかし、550年に東ローマ帝国のユスティニアヌス1世によりフィラエ神殿は閉鎖され、閉鎖後は4つのキリスト教会として再利用されたそうです。

フィラエ神殿

アスワン・ダムの建設により、半水没状態であったが上流のアスワン・ハイ・ダムの建設を機にユネスコにより1980年、フィラエ島からアギルキア島に移築、保存されることとなった。
現在はアギルキア島をフィラエ島と呼んでいる。

しかし、今のエジプトの宗教はイスラム教が90%(ほとんどがスンナ派)で、1980年に国教に指定されました。(イスラム主義活動は禁止されている)。
7世紀以降にイスラーム化し、首都がカイロに移り、9世紀にはイスラム教徒が多数派の宗教となっていました。

969年、イスラム教シーア派の一派であるイスマーイール派のファーティマ朝がエジプトを征服し、モスクや世界最古の大学の一つであるアル・アズハル大学を設立しましたが、1171年にはサラディン率いるアイユーブ朝のスンナ派にとって代わられました。
次のマムルーク朝も同じスンナ派で、1517年にオスマン帝国(スンナ派)に征服されるまでエジプトを統治しました。
これらの期間を通じて、エジプトにスンナ派イスラム教が定着しました。


現在のカイロ市街

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さて、この記事では土星海王星オポジションについて調べているときに知った20世紀の最後のエジプト王ファルーク1世について書いています。
まったく模範的ではなく、自己中心的なところがいかにも王様気質なファルーク(呼び捨て失礼(笑)、よかったらお付き合いください。



贅沢三昧*必殺遊び人のファルーク

ムハンマド・アリー朝紋章

ファルーク1世(1920年2月11日 - 1965年3月18日)は、ムハンマド・アリー朝の10代目のエジプトの統治者であり、エジプトとスーダンの最後から2番目の国王であり、1936年に父であるフアード1世の後を継いで王位に就き、1952年の軍事クーデターで倒されるまで統治した。

【甘やかされてわがままに育つ】

ファルーク1世は、14歳でイギリスに留学するまで、ほとんどの時間を王宮内で暮らし大切に育てられた箱入り王子でした。結構な悪ガキだったとか。
宮殿とギザの大ピラミッドはわずか19㎞ (12 マイル) しか離れていないにもかかわらず、王位に就くまで一度も訪れたことがなかったそうです。

フランス人の血が入っており、英語、フランス語、イタリア語を話し、古アラビア語も理解していたそうです。でも勉強は嫌いだったみたい。

9歳頃の肖像画(1929年)


父のフアード1世はイタリア贔屓で、その影響でファールク王子もイタリアが好きだったそうです。
国王は王子をイタリア(トリノ陸軍士官学校)に留学させようとしたのですが、当時イタリアのムッソリーニ政権が地中海全体を支配する野望を隠さなかったため、エジプトとイタリアが接近することを恐れたイギリスの猛反対によって、王子はイギリスに留学させられたという経緯があります。

英エジプト戦争(1882年)後、事実上、エジプトはイギリスの支配下に置かれていました。

1936年4月にファード国王が心臓発作で亡くなり、ファールク王子は16歳で新国王に即位しました。
イギリスでの2年間は、ウーリッジ陸軍士官学校の入学試験に落たあと、かなりの遊びほうけていたそうです。
スマートでおしゃれなファルーク王子は、エジプト国民に「アル・マリク・アル・マハブブ(最愛の王)」と呼ばれ、たいへん人気がありました。

1938年頃


実質的統治権は、エジプト総領事マイルズ・ランプソン(後の初代キラーン男爵)が握っていました。
ランプソン(55歳)が、父親のようにファルークを子ども扱いしたことがファルークは気に入らず、イギリス人使用人を全員解雇してイタリア人使用人だけを残すなど反抗的な態度を取りました。

ランプソンはファルークを更迭しようとしてイギリス政府に止められるほど、二人の溝は埋まりませんでした。ランプソンは1945年に辞任。

マイルズ・ランプソンは、1906年に明治天皇へのガーター勲章使節団の一員として来日していました。

サフラン宮殿

イギリス・エジプト同盟条約(1936年)
イギリスはスエズ運河とその周辺の防衛に必要な1万人の軍隊と補助要員を除き、エジプトからすべての軍隊を撤退させる。スーダンのイギリス軍は引き続き無条件で残留する。など。
20年間の期限とされたこの条約の交渉はザフラン宮殿で行われ、1936年8月26日にロンドンで調印、12月22日に批准され、1937年1月6日、国際連盟に国際条約として登録された。


【ルイ・ファルークと綽名される】

ファルークは、その派手な生活からルイ(フランス王の名)と綽名されました。
しばしばヨーロッパへ出かけて盛大にショッピングを楽しみ、宝石商のハリー・ウィンストンから94カラットの洋ナシ形の「スター・オブ・ザ・イースト」ダイヤモンドとオーバルカットダイヤモンドを購入したそうです。

蒐集家でもあり、コカコーラの瓶からヨーロッパの芸術品、古代エジプトの骨董品に至るまで、さまざまなものを収集していたそうです。
(膨大な量のポルノビデオもあったとか)

アントワーヌ・クリーガーが手がけたエンパイア・ベッドルーム・スイート


ムハンマド・アリー朝の男性は肥満になりやすい傾向があったため、フアード王はファルークに厳しい食事制限を課していましたが、即位してからは飲食に執着し、フランス人シェフに最高級のフランス料理を作らせました。

そういえば、スエズ運河を建設したサイード・パシャ王も子どもの頃から食事制限をされていたため、お腹いっぱい食べさせてくれるフランス人フェルディナン・ド・レセップスの家にしょっちゅう遊びに行っていました。

サイード・パシャとレセップスについては以下の記事に書きました。


ファルークは、高級ナイトクラブに頻繁に通い女性を侍らせ、「夜の王様」として知られるようになりました。イスラム教では飲酒が禁じられているため、オレンジジュースをいつも飲んでいたそうです。
他の客にちぎったパンを投げたり、子供っぽいイタズラもよくしていたと、当時の愛人だった女性たちの回想があります。

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【最初の結婚】

最初の結婚は18歳のとき。皇太后が選んだ平民の女性でした。
彼女の父親が結婚の申し出を断ったため、ファルークはその父親を拉致し、貴族(パシャ)の地位を与えると取引して婚約を取り付けました。

父のファード国王が「Fで始まる名前は幸運をもたらす」と言っていたのを彼も信じていたため、王妃をファリダに改名させました。

ラス・エル・ティン宮殿の外で結婚が発表された際、群衆がニュースを聞こうと押し寄せ、22人が圧死し、140人が重傷を負った。

パリで購入した3万ドルのウェディングドレスが王妃に贈られ、盛大な結婚式が行われたそうです。
ファルークはイスラム教の伝統を破り、王妃にベールを着けさせず、どこにでも連れて行ったそうです。

1948年11月17日、イスラエルとの戦争のさなかにファリダ王妃と離婚。
離婚原因は、跡継ぎの男子が生まれなかったからと言われています。王女は3人生まれていました。

当時のエジプトの法律では娘は王位を継承できず、男子が生まれないためファルークは男らしさに欠けると広く見られるようになっていた。
ファルークは様々な医師に相談し、性欲を高めるとされる食べ物を摂るようにアドバイスされたため、ファルークは食べ過ぎて後に太り過ぎたという。

国王の離婚は、エジプト国民に大きな衝撃を与えました。
同日、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーもファルークの妹だったファウジア王妃と離婚。ファルークとモハンマドは、マスコミの目をそらすため、同日に離婚発表したと見られています。


第二次世界大戦と下降する人気

エジプトはアメリカ南部と並んで、綿花栽培に適した世界でも数少ない地域でした。綿花は高値で取引されたため「白い金」と呼ばれていたそうです。

1941年後半にアメリカが第二次世界大戦に参戦し、非常に多くのアメリカ人男性が軍隊に召集されたため、エジプトは連合国にとって唯一の綿花供給源になりました。綿花価格の高騰が戦時中のインフレを打ち消し、エジプトは繁栄時代を迎えていました。


ファルークの治世中、カイロは魅力的な都市、中東で最も西洋化され裕福な都市と見られていたので、様々な著名人がカイロを訪れました。

カイロでウィンストン・チャーチルと会談するファルーク

1942年8月、イギリス首相ウィンストン・チャーチルと会談した際に、ファルークは悪ふざけでチャーチルの腕時計を盗みました。
ファルークは以前、泥棒を赦免する代わりに教えさせたスリの技を試してみたかったそうです。

ふざけてやったこととはいえ、チャーチルはファルークによいイメージを持つことができませんでした。
(上の写真のチャーチルの表情が物語っていますね)

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1943年11月、ファルークは自分で運転していた車でスピードを出し過ぎて、正面衝突する事故を起こしました。ろっ骨を骨折して入院している間、病院が非常に気に入り(看護師たちとイチャイチャしていた)、実際よりもずっと長く入院したそうです。
その結果、アメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中国の総統蒋介石による歴史的なカイロ会談に出席できませんでした。
でも、ファルークは後悔しているようには見えなかったそうです(苦笑)



【北アフリカ戦線*イタリアのエジプト侵攻】

北アフリカ戦線
第二次世界大戦中の1940年9月、イタリアのエジプト侵攻(1940年9月9日~16日)に始まる、イギリス、イギリス連邦、自由フランス軍による戦い。
1943年5月のチュニジアの戦いで枢軸国軍が壊滅し、ヨーロッパ本土に撤退するまでを指す。


1940年6月、イタリアはナチス・ドイツ側に付きイギリス、フランスに宣戦布告しました。
これに対しエジプト政府はイタリアと国交を断絶し、中立を宣言しました。(1939年9月の段階でドイツとも国交を断絶していました)

イタリアの当初の目標はスエズ運河に駐留しているイギリス軍の制圧でしたが、最終的にエジプトへの侵攻と敵部隊に対する攻撃に変更され、10月19日に首都カイロが爆撃されました。
イギリス軍は、「1936年のアングロエジプト条約」の規定にもかかわらず、兵を増員しエジプト全土を支配下に置きました。

イギリスによる占領が続いていたため、ファルークを含む多くのエジプト人はドイツとイタリアに対して好意的な感情を抱いており、戦争終結まで公式には中立を保ちました。


【1942年のアブディーン宮殿事件】
ファルークはドイツ・アフリカ軍がカイロに迫った際に、エジプトからイギリス軍を追い出すチャンスが来たと見て、反英内閣を樹立しようとしました。ヒトラーに手紙を書き、エジプトを枢軸国として参戦させる約束までしていたそうです。

総領事マイルズ・ランプソンは、イギリス軍に宮殿を包囲させて、「ファルークを拉致し、紅海上の巡洋艦に幽閉する」と脅迫したため、結局ファルークは折れ、イギリスの傀儡であるムスタファ・ナハス内閣が樹立されました。
この事件はエジプト人のイギリスへの反発を高めるとともに、イギリスに屈服したファルークの人気も急落させてしまいました。

ランプソンはファルークを退位させる計画を始めていましたが、イギリス外務省は「総領事が国王を更迭することは、益よりも害をもたらす」として、ランプソンの計画を退けました。

1945年、エジプトのグレート・ビター湖にいるファルークとフランクリン・D・ルーズベルト


エジプトは第二次世界大戦中の綿花価格の高騰により、中東で最も豊かな国になり、1945年にはイギリスに対する債権国となり、イギリス政府はエジプトに4億ポンドの負債を抱えていたそうです。

しかし、エジプト社会は著しい所得格差があり、500人の億万長者がいる一方で、平民は極度の貧困に陥っていました。
ファルークの贅沢三昧や女遊びも非難の的になりました。


シオニストと反ユダヤ主義

所得格差に対する不満が高まる中、ファルークは反シオニスト的な路線を取ることが国民の注目をそらす最善の方法だと考え、エルサレム大ムフティー(イスラム教スンニ派の最高指導者)アミーン・フサイニーの亡命を認め、彼を歓迎して王室のパーティに招待しました。

1944年にイギリスの高官がシオニストのテロ組織レヒ(正式名称はイスラエル解放戦士団)のメンバーに暗殺されたことも、エジプト人に影響を与えていました。

シオニズムに対するジハードを呼びかけたフサイニーの演説は、「パレスチナ問題」を国民の議題に上げるのに大いに役立ったのです。
ファルーク自身は反ユダヤ主義者ではなく、ユダヤ人女優を愛人にし、裕福なユダヤ人たちと夜通し賭博に興じていました。


***余談***

アミーン・フサイニーは、1919年頃から汎アラブ主義運動を展開。
1920年にイスラーム教の祝日ネビ・ムーサ祭に、祭りを祝おうとしていたエルサレム旧市街のユダヤ教徒を襲撃(1920 Nebi Musa riots)して4人を殺害し、ダマスカスに逃亡(禁錮10年の判決を受けたが受刑せず)、翌年の43人のユダヤ人虐殺事件を逃亡先から煽動した。
1929年嘆きの壁事件ヘブロン事件ツファット事件なども彼の煽動によるものだった。第5次アリヤーに際しシリアから暴力団を呼び寄せ、パレスチナに入植したユダヤ人を狙うテロによってシオニズムに抵抗した。

ヒトラーと会談するフサイニー(1941年)

1936~1939年パレスチナにおけるアラブ反乱を指導、1941年のイラククーデターを支援するなど、フサイニーはガチのテロリストでした。
身の危険を感じてドイツの同盟国である日本のイラン公使館に潜伏し、イタリア公使館の助けを借りて亡命。さらにナチスドイツに渡り、ヒトラーに「ユダヤ人を殲滅」するよう要求したそうです。
イスラエルのネタニヤフ首相は、「ホロコーストはフサイニーがヒトラーを唆したために生じた」と主張していますが、歴史家は否定しています。

***余談終わり***


1947年11月、イギリスが「1948年5月にパレスチナ委任統治領を終結する」と発表したとき、カイロでムスリム同胞団がエジプトのパレスチナ介入を求めるデモを開催し、10万人が参加したそうです。

アラブ連盟首脳会議が開催され、1948年5月にパレスチナ委任統治領が終了した後の対応について協議されました。

ファルークはシオニズムを「ソ連が中東を乗っ取るための策略だ」と述べ、シオニストたちをモスクワの指示で中東の伝統的秩序を破壊しようとしている東欧出身のユダヤ人「共産主義者」と呼んだ。

サウジアラビアのイブン・サウード国王とファルークは、パレスチナがヨルダンに併合されたりユダヤ人国家になったりするよりも、ムフティーによるパレスチナ国家の樹立を望んでいた。

1946年、カイロでの王室晩餐会に出席するファルーク


【1945年エジプトの反ユダヤ暴動】

1945年11月2日と3日、バルフォア宣言から28周年を記念して行われた反ユダヤデモが暴動に発展しました。
暴動は、右派の青年エジプト党エジプト・ムスリム同胞団によって組織されたとみられています。
2日間で400人以上が負傷し、1人の警察官と5人のユダヤ人が死亡しました。

マフムード・エル・ヌクラシ首相(1948年に暗殺)は「このような暴力的な反応を引き起こしたのはシオニストだ」と非難し、アラブ連盟事務総長のアブドゥル・ラーマン・ハッサン・アッザムもシオニストの主張を拒否しました。

40年前のアッザムの声明が、現在のイスラエルとエジプトの関係をそっくり映していると思います。↓

我々の古い従兄弟であるユダヤ人が、帝国主義的な思想、唯物主義的な思想、反動的な、あるいは革命的な思想を携えて帰ってきて、まずイギリスの圧力、次にアメリカの圧力、そして自らのテロリズムによってそれを実行しようとしている。
彼は古い従兄弟ではなく、我々は彼を歓迎しない。
シオニスト、新しいユダヤ人は支配を望んでおり、
後進的で退廃的な人種のもとに戻り、進歩を望まない地域に進歩の要素を持ち込むという、特別な文明化の使命を帯びているかのように装う。植民地化を望み支配を目指したあらゆる勢力が、まさにそれを主張してきた。
その言い訳は常に、「人々は後進的であり、彼らに前進をもたらすという人間的な使命を負っている」というものだった。
アラブ人はただ立ち向かい、NOと言うだけだ。我々は反動者でも後進者でもない。

2回目の結婚と男子誕生

第二次世界大戦後、いまだイギリスの保護領だったエジプトは、戦勝国アメリカ寄りになっていきました。
(これが数年後にファルークの退位に繋がります)

1948年のファルーク

1948年、イスラエルが建国したことによって始まった第一次中東戦争は国連の仲介により停戦しましたが、エジプトによるガザ地区を占領しました。
(ガザ地区は1967年の第3次中東戦争ではイスラエルが勝利し、ヨルダン川西岸地区やゴラン高原とともに占領される)

ファルークの贅沢三昧と女遊びは、以前として続いていました。
1950年のファルークの財産は約5000万ポンド(約1億4000万ドル)と推定され、当時は億万長者として世界の注目を集めていました。

この頃、交際していたアメリカ人モデルのパトリシア・「ハニーチャイルド」・ワイルダーは、「ユーモアのセンスがあり、一番笑わせてくれる人」とインタビューで語っていたそうです。

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【独身最後のパーティ三昧】

国民人気を取り戻す最良の方法は、平民の女性と再婚することだと周囲に説得されたファルークは、内閣が選んだ女性(17歳)と結婚することにしました。
ところが、彼女には既に国連職員としてニューヨークで働いていた婚約者がいたので、ファルークは最初の結婚の時のように彼女の父を貴族にし、婚約を破棄させました。

1950年8月、ファルークは駆逐艦に護衛された豪華ヨットで、30人のボディーガード、秘書や医師、味見係(毒見?)、その他の随行員とともに独身最後の豪遊に出かけました。
バイクに乗ったボディーガードに囲まれ、7台のキャデラックの縦隊でフランスの田園地帯を旅しました。上空にはファルークが飛行したい場合に備えて飛行機を飛ばしていたそうです。
ファルークは、フランス、スペイン、最終的にイタリアでローマ時代の骨董品を多数購入して1950年10月に帰国しました。


ナリマン王妃

2か月に及んだ豪遊にかかった莫大な費用に対するエジプト国民の怒りをそらすため、ファルークはイギリス軍にエジプトから完全撤退するよう要求しました。
さらなる注意をそらすために結婚式の日取りを発表し、1951年5月6日に豪華絢爛な結婚式を挙げました。ナリマン王妃は2万個のダイヤモンドが刺繍されたウェディングドレスを着ていたそうです。

しかしヨーロッパでの3か月に及ぶ新婚旅行によって、ファルークの人気は再び失われてしまったのでした。


1951年10月17日、エジプト政府は1936年の英エジプト条約の破棄し、その結果、スエズ運河に駐留するイギリス軍は敵軍とみなされました。
イギリスが撤退を拒否したため、エジプトは基地への食料と水の供給を全面的に停止し、イギリス製品のボイコットを命じ、基地に勤務するエジプト人労働者全員を呼び戻し、ゲリラ攻撃を開始。
これによりスエズ運河周辺地域は戦場と化しました。

【待望の王子誕生】
1952年1月16日、待ち望んだ王子アフメド・フアード(ファード2世)が誕生しました。

ファルークの長年の望みは叶いましたが、王子誕生から数ヶ月後、ファルークはついにエジプトから追放され、ファード2世は戴冠しないまま廃位されました。
最後はあっけなく、ムハンマド・アリー王朝150年の統治は終焉を迎えたのでした。

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ファルークは1952年(土星海王星コンジャンクション)に起きたクーデターで退位させられ、1965年に死去するまで亡命生活を送りました。
生まれついての王様気質で金銭感覚はなく、亡命中はマフィアと付き合ったりしていたそうですが、人たらしなところが愛された人だったようです。

長くなりましたので、1952年のクーデターについては次の記事に送ります。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ではまた。

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