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なぜ“痛い”ものほど語りたくなるのか?

前回までの『厨二病』は…

中二病を掘り下げる自虐的シリーズ【6】

 「いやー黒歴史なんですけどね……」と前置きしたうえで、語り出す声が妙に弾んでいることに気づいたことはないだろうか。
 本人は恥ずかしさに頬を赤らめながら、それでも止まらない。自作のキャラ設定、昔ハマっていた作品の痛々しい二次創作、中学時代に書き綴った詩――いま思えば「穴があったら入りたい」ようなそれらの記憶を、なぜ私たちはこうも饒舌に語りたくなるのか。ワタシダヨ。

 オタク文化の中心には、常に「語り」があった。
 語りたいからオタクになるのか、オタクだから語るのか。
 それは鶏と卵の関係に近いが、重要なのは、そこに「痛み」が含まれていることだ。恥ずかしい、滑稽だ、もうやめてくれ――そんな反応すら想定したうえで、それでも語らずにはいられない感情がある。

 この衝動の根底にあるのは、「痛みの再構築」である。

 人は、自分が受けた痛みを“語り直す”ことで、それを制御しようとする。フィクションであれノンフィクションであれ、自分の傷を言葉にすることで、その輪郭がはじめて見えてくる。そして語られた痛みは、単なるトラウマではなく「物語」になる

 中二病的な黒歴史――自分を選ばれし者と信じていた過去、呪文の詠唱を本気で考えていた夜、他人から見れば“寒すぎる”キャラ設定。これらの記憶を、私たちはいまや笑い話として消費している。しかしそこには、確かに「当時の自分」が生きていた。
 真剣に、そして不器用に、自分という存在の輪郭を必死に探していた。痛みの核心に触れなければ、語りたくなるはずがない。

 つまり“痛みの語り”とは、自己救済の行為なのだ。

 オタク文化の輪郭を浮き彫りにした評論家、浅羽通明は、現代社会における「教養」や「表現」の衰退を鋭く指摘したが、その文脈でいえば、オタクたちは独自の形式で自己を表現し、物語化する術を獲得してきた。
 痛い記憶を、“共感”という形で社会に流通させる。黒歴史というジャンルは、その最たる例だろう。語ることが癒しになり、恥がネタになり、痛みが共感を生む

 SNSの文化は、それをさらに加速させた。
 「わかる」「自分もそうだった」というリプライや“いいね”は、語り手にとっての赦しである。まるで教会の懺悔室のように、匿名で差し出された痛みが、共同体の中で浄化されていく。

 だが一方で、語ることによってしか存在できない自我が生まれはじめる。「痛みを持たないと語れない」「語れない痛みは存在しない」という逆説。この圧力は、かつての“自分だけの世界”に閉じこもっていたオタクたちを、また別の方向へと駆り立てている。

 ネタが消費されていくのだ。

 語りすぎると、痛みが消えていく。
 あるいは、誰かの痛みを演じてしまう。感情の借金のようなその繰り返しのなかで、どこまでが“本当の自分”だったのか、曖昧になっていく。
 だが、それでも私たちは語るのだ。語らなければ、存在できなかった自分が、確かにいたから。

 語りとは、痛みの墓標ではない。それはむしろ、過去の自分への供養であり、未来の誰かへの手紙なのだと思う。


 次回は「“なぜ私たちは“世界の秘密”に惹かれてしまうのか?」をテーマに、中二病における“隠された真理”や“選ばれし者”幻想の心理的メカニズムを掘り下げていきます。書ききれるのか?


 厨二病……自分はなぜこの禁断のテーマについて書き始めてしまったのだろうか。身をよじりながら書き、何とも言えない感情に口の中が乾く💦
 今回は、まさに何故書くのかという自分の内面をえぐってみた。論という体裁は、かろうじて自分を守る防護服の役割を果たしてくれた。

 できれば積極的に♡を押していってください。かつて抱いた思いたちへの供養のために。

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