キャラに感情移入しすぎる人々
前回までの『厨二病』は…
中二病を掘り下げる自虐的シリーズ【5】
キャラクターが死んだ夜、SNSのタイムラインが沈黙した。誰もが何かを言おうとして、しかし言葉にならず、ただスクリーンショットと「ありがとう」の文字だけが流れていった。
それはフィクションの中の出来事だった。だが、画面のこちら側で泣き崩れた人は少なくなかった。誰かの喪失が、ここまで現実に干渉してくるというのは、冷静に考えればおかしいことかもしれない。
だが、それを「おかしい」と切り捨てるには、私たちはあまりにも多くの時間を“彼ら”と過ごしてきた。
『キャラに感情移入しすぎる人々』という言葉には、軽い揶揄と、深い理解の両方が同居している。
好きなキャラの誕生日を祝う。グッズを部屋に並べて、毎日「おはよう」と言う。キャラが怒れば自分もムッとし、キャラが泣けば本気で落ち込む。これらは客観的に見れば一種の幻想への没入だが、主観的には「もうひとりの自分と生きている」という実感に限りなく近い。
この現象は、単なるオタク的嗜好の延長ではない。
むしろ「自己という物語」を補完するためにキャラクターが用いられている。自分の中の欠けた部分、自分では表現できない感情、現実では得られない理想――そういった“欠如”を、キャラクターというペルソナが埋めてくれるのだ。
特にそれが顕著になるのが、いわゆる『推し活』ではなかろうか。自分の中にある曖昧な感情を、推しキャラに仮託することで言語化し、世界とつながる。「自分が泣いたのではなく、○○くんが泣いたから泣いたんです」という転位表現によって、感情の安全な吐露が可能になる。つまりこれは、心理的に極めて高度な“代償行為”であり、自我を守るための戦略でもある。
評論家の浅羽通明がかつて述べたように、オタク文化とは「自閉的な快楽の体系」でありながら、それが社会とつながるための『変換器』でもあった。キャラクターに自己を仮託し、コミュニティでその感情を共有することで、人は自分の感情を“社会化”していく。物語世界の外にいるはずのキャラクターが、現実の人間関係の潤滑油になり、感情の通訳者になるという現象は、ネット以降のオタク文化の特異点だろう。
問題は、それがどこまでいっても「一方通行」であるということだ。
どれだけ愛しても、キャラは現実には存在しない。
だからこそ安心して没入できるという逆説もあるが、それゆえに苦しむ人も多い。推しが死ぬ、物語が終わる、声優が交代する。そこにはいつも「別れ」がある。そして別れのたびに、自分の中の一部を失ってしまうような感覚に襲われる。
それでも人はまた、新しいキャラに出会い、感情を預け、物語を紡ぐ。
それは、現実があまりにも不完全だからだ。誰もが理想の自分を実現できるわけではないし、理想の他者に出会えるとも限らない。だから私たちは、フィクションという安全な領域に“もうひとつの人生”を育てていく。
キャラに感情移入しすぎる人々は、世界を諦めたわけではない。むしろ、世界に対して誠実すぎるがゆえに、現実を受け止めきれず、物語に救いを求めたのだ。彼らが涙を流すのは、現実ではなく、現実では見られなかった理想の断片に触れたときなのかもしれない。
次回は「“なぜ痛いものほど語りたくなるのか”」という問いから、オタク文化における「語り」の衝動とカタルシスについて考えていきます。
厨二病……自分はなぜこの禁断のテーマについて書き始めてしまったのだろうか。身をよじりながら書き、何とも言えない感情に口の中が乾く💦
できれば積極的に♡を押していってください。最後まで書ききるために少しでもあなたのちからを…お願いします!!
