やりがい搾取に対抗する方法
「あなたの仕事のやりがいは何ですか?」
面接で、研修で、雑誌のインタビューで。
この問いは、もはや『社会的通過儀礼』のようになっている。
やりがいを語ること。
それは、自分の職業観を語ること。
さらには、社会的正しさの証明でもある。
そんな空気が、この国には充満している。
だが、ふと立ち止まって考えてみてほしい。
なぜ『やりがい』は、語らされるのだろうか?
そして、なぜ「語らない」と、「意識が低い」系の扱いをされるのか?
本来、やりがいは内側にあるもののはずだ。
給料や待遇とは別に、自分のなかに芽生える感情。
他人に説明する必要もなければ、外に提示する義務もない。
だが現代の職場では、やりがいが『成果の根拠』として使われてしまう。
「やりがいある仕事なんだから」
「好きでやってるんでしょ?」
こうして『好意』が『義務』に変わる。
やりがいを見つけたはずなのに、そこに閉じ込められてしまう。
──これは、立派な『やりがい搾取』だ。
しかも、この罠は善意の顔をして近づいてくる。
「熱意があるから、任せたい」
「やっぱり志がある人は違うね」
一見すると承認や応援の言葉に聞こえる。
だが裏側では、『熱意』を『無料のリソース』として扱っているのではないか?
やりがいを感じているなら、長時間労働も厭わないはず。自腹で勉強して当然。はては、成果に対する報酬より、やりがいが本望……。
そんな論理が、職場を静かに支配する。
ここで問い直すべきは「やりがい」とは何か?ということではない。
本当の問いはこうだ。
なぜ、やりがいを『わざわざ説明しなければならない社会』になったのか?
やりがいを語ることで、組織に忠誠を示す。自分を納得させる。苦しさを正当化する。
つまり、やりがいは『痛みに耐える物語』として消費されてしまっているのではないか?
だとすれば、やりがいはあってもいい。
でも、それを『語らされない自由』も同時に必要なのだ。
「やりがい? 特にないですけど」
そう言える社会の方が、よっぽど健全かもしれない。
『志』や『情熱』がすり減らされないように。
本音が、構造に使い潰されないように。
こんなこと、教科書に書いてなかったんだよな。
前回の #教科書に書いてない シリーズは…
