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埋没 第1話「理由」




1. 別れ
十月中旬の日曜日。カフェの窓際の席で、里江は彼の向かいに座っていた。
テーブルの上には、まだ半分ほど残ったアイスコーヒーのグラスが置かれていて、氷が溶けて表面に水滴がついている。外から差し込む午後の光が、テーブルを斜めに照らしていて、グラスの水滴が小さく光っている。里江は、そのグラスを見つめたまま、彼の言葉を待っていた。
「あのさ」
彼が口を開く。声のトーンが、いつもと違う。低くて、少し硬い。

「話があるんだ」
その言葉で、分かった。これから言われることが、何なのか。胸の奥が、じわりと冷たくなっていく。
「悪いんだけど、別れたい」
里江は、ゆっくりと顔を上げた。彼は、視線を逸らしている。テーブルの端を指でなぞりながら、窓の外を見ている。外には、秋の穏やかな午後の街並みが広がっている。

「……理由、聞いていい?」
自分の声が、思ったより落ち着いていることに驚く。震えてもいないし、涙も出ない。ただ、どこか遠くから聞こえてくるような、そんな感覚だった。

「なんていうか」
彼が、曖昧に答える。視線は、まだ窓の外。
「合わない気がするっていうか」
「合わない?」
「うん。なんとなく、そう思って」
なんとなく。その言葉が、胸に刺さる。理由にならない理由。説明にならない説明。一年半、付き合ってきて、「なんとなく」で終わるのか。

「他に、好きな人ができたの?」
「そういうわけじゃない」
彼は、首を横に振る。
「じゃあ、なんで」
「分かんない。ただ、このまま続けても、うまくいかない気がして」
里江は、何も言えなくなった。聞きたいことは、たくさんある。どこが合わなかったのか、いつからそう思っていたのか、私の何がダメだったのか。でも、言葉が喉の奥で詰まって、出てこない。聞いたところで、答えは返ってこない気がした。

「ごめん」
彼が、小さく言う。それから、ようやくこちらを見る。申し訳なさそうな顔。でも、決意は揺るがない顔。
里江は、ただ頷いた。

会計を済ませて、店を出る。少し冷たい秋の風が、頬に当たる。彼とは、駅で別れた。「じゃあ」と彼が言う。「うん」と里江は答える。それだけだった。握手も、ハグも、何もなく、ただ背中を向けて歩き出す。改札へ向かう彼の背中を、里江は見送った。

一人で電車に乗る。日曜日の午後、車内はそれほど混んでいない。座席に座り、窓に映る自分の顔を見る。いつもと変わらない顔。アイプチで作った二重。朝、丁寧に仕上げた化粧。でも、今日で終わった。一年半、付き合った関係が、カフェでの10分ほどの会話で。

窓の外の景色が流れていく。見慣れた街並み、看板、信号、ビル。里江は、ただそれを見ていた。何を考えているのか、自分でもよく分からなかった。悲しいのか、怒っているのか、それとも何も感じていないのか。ただ、空っぽになったような感覚だけがあった。

2. その夜
アパートに戻り、玄関で靴を脱ぐ。静かな部屋。一人暮らしの1K。築20年のマンションで、家賃は7万円。出版社の校閲部門で働く里江の給料では、この値段が限界だった。
バッグをソファに放り投げて、洗面所へ向かう。蛍光灯のスイッチを入れると、鏡の中に自分の顔が映る。白い光が、顔を冷たく照らしている。

アイプチを剥がす。ゆっくりと、まぶたから剥がれていく透明な膜。一重に戻る。いつもの、本当の顔。子どもの頃から、ずっとコンプレックスだった顔。

「やっぱり」
その言葉が、口から漏れた。
鏡の中の自分を見つめる。一重の目。小さく見える目。彼が別れを切り出した理由は「なんとなく」だったけれど、本当は分かっている。きっと、この顔のせいだ。そう思うと、胸の奥が重くなる。

洗面所を出て、ベッドに座る。スマホを手に取る。もう見ない方がいい、と思いながらも、指が勝手に動いて、彼のSNSを開いてしまう。
タイムラインを遡る。
彼の投稿。日常の写真。カフェ、本、風景。そして、フォローしている人のリスト。最近フォローした人たち。

女性のアカウントがいくつか並んでいる。プロフィール写真を、一人ずつ見ていく。
全員、二重だ。ぱっちりとした目。明るい笑顔。キラキラした自撮り。華やかな女性たち。
里江は、スマホを膝の上に置いた。天井を見上げる。白い天井。何もない。シンプルで、静かで、何の変化もない空間。ただ、時間だけが過ぎていく。

(やっぱり、そうなんだ)
(私の顔が、ダメだったんだ)

そう思うと、涙が出そうになる。でも、泣かなかった。泣いても、何も変わらない。泣いたところで、顔は変わらない。

3. 一週間後、駅で
それから一週間が過ぎた。
里江は、いつも通り会社に行き、いつも通り仕事をして、いつも通り帰る。同僚の香織が「大丈夫?」と何度も聞いてくれたけれど、「大丈夫」としか答えなかった。本当は、大丈夫じゃない。でも、そう言うしかなかった。

土曜日の夕方。買い物の帰り、駅の改札を出たところで、前から人が歩いてくる。男性と、その隣に女性。並んで歩いている二人。
顔を見た瞬間、心臓が跳ねる。

彼だ。
そして、隣にいる女性。初めて見る顔。二人は、並んで歩いていて、女性が何か言うと、彼が笑う。楽しそうな空気が、二人の間に流れている。里江と歩いている時には見せなかった、リラックスした笑顔。

その女性の顔を、里江は見た。
ぱっちり二重。大きな目。明るい笑顔。髪は茶色く染めていて、華やかな雰囲気。ワンピースを着て、小さなバッグを肩にかけている。里江とは、まるで違うタイプ。

里江は、視線を逸らした。足早に、改札の脇を抜ける。心臓がバクバクと鳴っていて、呼吸が浅くなる。彼が気づいたかどうかは、分からない。振り返らなかった。振り返れなかった。

ホームに上がり、ベンチに座る。膝が震えている。深呼吸をする。でも、心臓の音は止まらない。
電車が来てすぐに乗り込む。座席に座って、窓の外を見る。電車が動き出すと、景色が流れ始める。ビル、住宅、看板。見慣れた街並み。
その景色を見ながら、涙が溢れてくる。拭っても、拭っても、止まらない。

(やっぱり、そうなんだ)
(私の顔が、ダメだったんだ)
(二重の女の子が、よかったんだ)

その考えが、頭の中でぐるぐる回る。彼は、あんな明るい女性が好きだったんだ。私みたいな、地味で、一重で、目立たない女じゃなくて。「なんとなく合わない」じゃない。顔が、合わなかったんだ。

電車の揺れに身を任せながら、里江はただ泣いていた。周囲の乗客が、こちらを見ているかもしれない。でも、もうどうでもよかった。

4. その夜、検索
その日の夜。部屋に戻り、ベッドに座る。涙は、もう出ない。ただ、虚しさだけが残っている。胸の中に、ぽっかりと穴が開いたような感覚。

スマホを手に取り、検索窓を開く。指が震えながら打ち込む。
「二重整形」
検索結果が、ずらっと並ぶ。美容外科のサイト。クリニックの広告。ビフォーアフターの写真。どれも、劇的に変わっている。一重から二重へ。まるで別人のように。笑顔が明るくなって、目が大きくなって。

一つのサイトを開く。トップページに、笑顔の女性の写真が大きく載っている。「無料カウンセリング受付中」という文字。
料金表を見る。埋没法、両目で30万円。
高い。でも、貯金はある。出版社で働き始めてから、コツコツ貯めてきた。今、50万円ほどある。そこから出せば、払える。

他のサイトも見る。どこも、同じような料金。同じような、ビフォーアフター。
一重の女性が、二重になって、笑顔になって。人生が変わったような写真。
私も、変われるだろうか。
この顔を、変えられるだろうか。
スマホを握ったまま、じっと画面を見つめる。
時計を見ると、もう午前0時を過ぎている。でも、眠れない。
また、検索を続ける。「二重整形 体験談」「埋没法 失敗」「二重整形 後悔」。
色々な声がある。成功した人、失敗した人、満足している人、後悔している人。
でも、どの体験談も、他人事のように感じる。
私は、どうなるんだろう。

5. カウンセリング予約
次の日の夜。また、スマホで整形のサイトを見ている。
もう何度も見た。料金も、施術内容も、全部頭に入っている。
ある美容外科のサイトを開く。昨日も見たサイト。「〇〇美容外科」。口コミが良い。症例写真も自然。
「無料カウンセリング予約」のボタンが、画面の下に表示されている。

タップすると予約フォームが開く。名前、年齢、電話番号、メールアドレス。一つずつ、入力していく。指が震えていて、何度も打ち間違える。消して、また打ち直す。
希望日時を選ぶ。来週の金曜日。仕事が終わってから行ける時間。午後6時。
送信ボタンを押す。
しばらくして、予約完了のメールが届く。「ご予約ありがとうございます」という件名。
画面を見つめたまま、動けなくなる。

(本当に、これでいいのかな)

不安が、胸の中に広がる。でも、同時に、何かが変わり始める予感もある。

(でも、もう変わりたい)
(このままじゃ、嫌だ)

6. カウンセリング当日
金曜日。仕事を終えて、クリニックへ向かう。
会社から電車で30分ほど。都心の、ビルが立ち並ぶエリア。夜の街は、ネオンが明るい。
スマホの地図アプリを見ながら、歩く。大通りから少し入った、静かな通り。オフィスビルの一階に、クリニックがある。

看板が見える。「〇〇美容外科」。白地に青い文字。シンプルなデザイン。
その看板の下に、ガラス張りのドアがある。中が見える。白い壁、清潔な雰囲気。受付カウンターがあって、女性が座っている。

里江は、ドアの前で立ち止まって、深呼吸をする。吸って、吐いて。もう一度、吸って、吐いて。自分で言い聞かせる。
受付の女性が、こちらに気づいて微笑むのが見えて会釈をする。

(もう、引き返せない)

7. カウンセリング
中に入ると、静かな空間が広がっている。白い壁、グレーのソファ、観葉植物。クラシック音楽が、小さく流れている。

「いらっしゃいませ」
受付の女性が、笑顔で迎える。30代くらいの女性。化粧が丁寧で、肌がきれい。そして、目がぱっちりとした二重。

「あの、六時に予約した、小林です」
「お待ちしておりました」
女性が、パソコンを操作する。それから、クリアファイルから問診票を取り出して渡される。
「こちらにご記入いただけますか。あちらの記入スペースでお願いします」

示された場所へ向かうと、小さなテーブルと椅子が置いてある。座って、名前、年齢、住所、電話番号。基本情報を記入していく。それから、希望する施術内容。チェックボックスが並んでいる。二重埋没法、二重切開法、目頭切開、目尻切開、その他。
里江は、「二重埋没法」にチェックを入れる。ペンを持つ手が、少し震える。
その他の項目も埋めていく。アレルギーの有無、現在服用中の薬、既往症。特にないので、「なし」と書く。最後に、今日の日付を書いて、署名する。

問診票を持って、受付に戻る。
「ありがとうございます。では、少々お待ちください」
待合室のソファに座る。他にも、数人の患者がいる。全員、女性。年齢は、20代から40代くらいまで。みんな、静かに待っている。

数分後、名前を呼ばれる。看護師に案内されて、廊下を歩く。白い壁、清潔な床。いくつかドアがあって、その一つの前で止まる。
「こちらです」
ドアを開けると、中は小さな個室。白い壁、シンプルなデスク、二つの椅子。窓はなく、照明だけが部屋を照らしている。

「おかけになってお待ちください」
看護師が、そう言って出ていく。里江は、椅子に座る。デスクの上には、パンフレットが並んでいる。二重整形の説明、料金表、症例写真。
しばらくして、ドアが開く。

「お待たせしました」
入ってきたのは、30代くらいの女性医師。白衣を着ていて、落ち着いた雰囲気。髪を後ろで一つに束ねている。
「はじめまして。担当の山田です」
「はじめまして」
里江は、小さく頭を下げる。
医師が、向かいの椅子に座り、デスクの上に、里江の問診票を置く。
「では、問診票を確認させていただきますね」
医師が、問診票に目を通す。
「二重埋没法をご希望ですね」
「はい」
「どのくらいの幅がいいですか?」
「あの、自然な感じで……」
「自然な感じ、ですね。控えめな平行型と、末広型、どちらがお好みですか?」
里江は、少し考える。平行型と末広型。雑誌で見たことはあるけれど、自分に合うのはどちらなのか、分からない。

「末広型が、いいです」
「分かりました。では、実際に見てみましょうか」
医師が、引き出しから器具を取り出す。ピンセットのような形をした、細い金属の棒。それから、手鏡も取り出して、里江に渡す。
「では、少し失礼します」
医師が、里江の顔に近づく。その器具で、まぶたを押さえる。じわりと、二重のラインができる。

「こんな感じですが、いかがですか?」
鏡を見る。そこに映っているのは、二重の自分。いつもアイプチで作っている二重とは、少し違う。もっと自然で、くっきりしている。
息が止まる。
「いい、と思います」
声が震える。
「そうですか。では、シミュレーション画像もお見せしますね」
医師が、タブレットを取り出し、カメラを起動して、里江の顔を撮影する。それから、タブレットを操作する。画面に、里江の顔が映る。それから、加工が始まる。まぶたに、二重のラインが入る。少しずつ、顔が変わっていく。

「こちらが、完成イメージです」
タブレットを向けられる。
画面に映っているのは、二重の自分。さっき鏡で見たのと、同じような顔。でも、こうして画面で見ると、まるで別人のように見える。明るく、華やか。
「こんな顔に、なれるんですか」
「はい。埋没法なら、腫れも少なく、自然に仕上がります」
里江は、画面を見つめたまま、動けなくなった。この顔になれるなら。この顔で生きていけるなら。

「では、料金のご説明をさせていただきますね」
医師が、パンフレットを開く。料金表が載っている。
「埋没法、両目で30万円です。麻酔代、術後の診察代も含まれています」
「30万円……」
「分割払いも可能です。医療ローンをご利用いただけます」
「いえ、一括で大丈夫です」
里江は、そう答えた。貯金がある。50万円ほど。そこから出せば、払える。
「分かりました。では、手術日をお決めいただけますか?」

医師が、カレンダーを見せる。
「一番早くて、十一月二十九日の金曜日ですが」
十一月二十九日。今日は、十月二十五日。あと五週間ほど。

「それで、お願いします」
迷わず答える。早く変わりたい。早く、この顔とさよならしたい。
「分かりました。では、手術日は十一月二十九日、金曜日の午前十時でお願いします」
医師が、予約表に記入する。
「手術前日と当日の注意事項は、後ほどメールでお送りします」
「はい」
「何か、ご質問はありますか?」
里江は、少し考える。聞きたいことは、たくさんある。痛みは? 腫れは? 失敗することは? でも、言葉が出てこない。

「大丈夫です」
「分かりました。では、受付でお手続きをお願いします」
医師が、立ち上がる。里江も、立ち上がる。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。手術日、お待ちしております」
医師が、微笑む。

8. 帰り道
受付で、手術の予約を確認する。契約書にサインをして、コピーを受け取る。それから、術前の注意事項が書かれた紙も渡される。
「当日、お気をつけてお越しください」
「はい」

クリニックを出る。ドアを開けると、外の冷たい夜気が顔に当たる。十月も下旬、もう秋が深まっている。
駅へ向かう。歩きながら、手に持った書類を見る。契約書のコピー。手術日、料金、施術内容。すべて、記載されている。

十一月二十九日。
あと五週間。
空を見上げると、夜空に星がいくつか見える。
駅に着くと改札を通り、ホームに上がる。電車を待つ。数分後、電車に乗り込む。
座席に座って、窓に映る自分の顔を見る。まだ、一重のまま。アイプチをつけているから、二重に見えるけれど、これは偽物。

でも、もうすぐ変わる。十一月二十九日。
窓の外を見る。流れていく景色。ビル、住宅、看板。いつもと変わらない景色。でも、何かが変わり始めている。

(本当に、いいのかな)

そう思う。でも、もう決めたんだ。
アパートに戻り、部屋に入って、バッグを置く。
壁にかかったカレンダーを見る。来月のページの十一月二十九日の日付を探す。
赤いペンを取り出して、その日付に丸をつける。大きく、はっきりと。
それから、ペンを置いて、カレンダーを見つめる。
赤い丸。その日が、近づいてくる。
里江は、深呼吸をした。



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