埋没 第3話「前夜」
1. 有給を取る
11月25日。月曜日の朝。
里江は、会社に着くとすぐに上司のデスクへ向かった。課長の山本は、50代の男性で、いつも無表情で淡々と仕事をこなす人だった。デスクには、書類が山積みになっている。
「おはようございます」
「おはよう」
山本が、パソコンの画面から目を離さずに答える。
「あの、お話があるんですが」
「何?」
里江は、手に持った有給申請書を差し出す。
「今週の金曜日と、来週の火曜日まで、休ませていただきたいんです」
山本が、申請書を受け取る。眼鏡越しに、内容を見る。
「理由は?」
「体調不良で……病院に行く予定がありまして」
嘘をつく。いや、完全な嘘ではない。病院には行く。クリニックも、病院の一種だ。ただ、体調不良ではなく、整形手術だということを言わないだけ。
「そうか。大丈夫か?」
「はい、検査を受けるだけなので」
山本が、申請書に目を通す。それから、引き出しから判子を取り出して、押す。
「分かった。体に気をつけろよ」
「ありがとうございます」
里江は、申請書を受け取って、自分のデスクに戻った。
隣の香織が、こちらを見ている。
「どうしたの? 病院?」
「うん、ちょっと検査受けるだけ」
「大丈夫?」
「大丈夫。たぶん、疲れてるだけだから」
香織が、心配そうな顔をする。
「無理しないでね」
「ありがとう」
里江は、微笑む。でも、心の中では罪悪感が広がっている。香織に、嘘をついている。ずっと、嘘をついている。
デスクに座って、パソコンを立ち上げる。今日担当する原稿を開く。でも、文字が頭に入ってこない。
手術の日まで、もう、あと四日。
2. カウントダウンの日々
月曜日から木曜日までは、いつも通り会社に行き、いつも通り仕事をする。
でも、心はずっと落ち着かない。
デスクで原稿を読んでいても、時計ばかり見てしまう。スマホを取り出して、カレンダーを確認してしまう。あと四日、あと三日、あと二日。
夜、アパートに帰っても、落ち着かない。テレビをつけても、内容が頭に入らない。本を読んでも、文字が目を滑っていく。
鏡の前に立つ時間が、増えた。洗面所で、じっと自分の顔を見つめる。アイプチを剥がした後の一重の顔。この顔とも、もうすぐさよならする。
水曜日の夜、クリニックから最終確認のメールが届く。
「手術前日と当日の注意事項」
読む。もう何度も読んだ内容だけれど、また読む。
・前日の飲酒は禁止
・激しい運動は避けること
・十分な睡眠をとること
・当日の朝は、軽い食事のみ
・化粧は禁止
・コンタクトレンズは外すこと
持ち物リスト。
・身分証明書
・保険証(念のため)
・サングラス
・マスク
・代金(30万円、または振込確認書)
すべて、準備して、バッグに詰めてある。何度も確認した。
でも、また確認したくなる。
クローゼットからバッグを取り出し、保険証、サングラス、マスク。それから、銀行で下ろした現金30万円。封筒に入れて、バッグの奥に入れてある。
すべて、揃っている。
バッグを、また クローゼットにしまう。
時刻は、午後11時。
明日は、木曜日。そして明後日が、金曜日。手術の日。
心臓が、早く打っている。
3. 前日の夜
11月28日。木曜日。
仕事を終えて、アパートに帰ってきた。今日が、手術前日。明日の朝、クリニックへ向かう。
夕食を作ろうと思ったけれど、食欲がない。冷蔵庫を開けて、中を見る。卵、野菜、豆腐、牛乳。でも、何も食べたくない。
結局、コンビニでおにぎりを買ってきて、それだけ食べる。梅干しのおにぎり。口に入れて、噛む。でも、味がよく分からない。
洗面所で、アイプチを剥がして、素顔の一重に戻る。鏡の前に立って、じっと自分の顔を見つめる。
棚から、アイプチの容器を取り出す。小さな白いボトル。もう何本使っただろう。高校生の頃から、ずっと使い続けてきた。
手に持って、じっと見つめる。
「これが、最後」
お風呂に入り、湯船に浸かりながら、明日のことを考える。手術。麻酔。痛み。腫れ。失敗。
不安が、どんどん大きくなる。
お風呂から上がって、パジャマに着替える。
明日、手術を受ければ、もうアイプチは要らなくなる。本物の二重になる。毎朝、まぶたに塗る必要もなくなる。プッシャーで押し込む必要もなくなる。
でも、この小さなボトルは、長い間、私の一部だった。
容器の蓋を開け、中の液体を、細い筆で取る。まぶたに慎重に塗る。右目、左目。丁寧に、ゆっくりと。
プッシャーで、まぶたを押し込むことで、二重のラインができる。右目、左目。
鏡を見れば、いつもの顔。偽物の二重。でも、もう何年も見てきた顔。慣れ親しんだ顔。
明日からは、これが本物になる。
お風呂上がりに、なんでもう一度アイプチをつけたのか自分でもわからない。それでもつけた顔が見たかった。
もう一度顔を洗い、アイプチの容器を、棚に戻す。明日からは、もう使わない。でも、まだ捨てられない。
リビングに戻って、最終確認をする。バッグの中身。保険証、サングラス、マスク、現金。
すべて、揃っている。
クリニックの住所も、もう一度確認する。スマホの地図アプリで、ルートを表示する。何度も見た道だけれど、また確認してしまう。
時計を見ると、午後10時。
そろそろ寝なければ。明日は、午前10時にクリニックに着かなければならない。
ベッドに入り、電気を消す。
目を閉じるが、目が冴えて眠れない。
4. 眠れない夜
目を開け天井を見る。暗闇の中、うっすらと天井の輪郭が見える。
時計を見ると、まだ、午後11時。
また、目を閉じる。
でも、頭の中で色々なことが渦巻いている。手術のこと。麻酔のこと。痛みのこと。腫れのこと。
もし、失敗したら。もし、左右非対称になったら。もし、不自然な二重になったら。もし、すぐに取れてしまったら。
そんな不安が、次々と浮かんでくる。
スマホを手に取り時間を見ると、午前0時を過ぎている。
「二重整形 後悔」と打ち込みかけて、消す。もう、検索してはいけない。検索すれば、不安になるだけだと分かっている。
でも、また打ち込んでしまう。
検索結果が表示される。体験談のブログ。
「やってよかった」という声。
「人生が変わった」という声。
「失敗した」という声。
「左右差が出た」という声。
「取れてしまった」という声。
失敗例の写真を見て、心臓がバクバクする。食い込みすぎた線。腫れが引かない目。左右で違う幅。
私も、こうなったらどうしよう。
30万円を払って、失敗したら。
スマホを置いて、深呼吸する。
大丈夫。
クリニックは、ちゃんと選んだ。口コミも良かった。医師も、丁寧だった。カウンセリングの時、優しく説明してくれた。
それでも、不安は尽きない。
また、時計を見るが時間は進んでいない。
午前1時。
今度は本気で、目を閉じて、眠ろうとする。
でも、やっぱり眠れない。
右を向き、左を向く、また仰向けになる。
何度も寝返りを打ち、時計を見る。午前2時。
もう、やめようか。
その考えが、頭をよぎる。
今なら、まだ間に合う。明日、クリニックに電話して、キャンセルする。そうすれば、何も変わらない。今のままでいられる。失敗するリスクもない。30万円も使わなくていい。
でも、今のままでいいのか。
一重のまま。コンプレックスを抱えたまま。アイプチを続けるまま。彼に振られた時と、何も変わらないまま。
それは、嫌だ。
変わりたい。
新しい顔で、新しい人生を始めたい。
ベッドから起き上がり、窓の外を見る。街灯が、静かに光っている。深夜の静けさ。車の音も、人の声も聞こえない。
時計を見る。午前3時。
また、目を閉じる。
でも、眠れない。
時計を見る。午前4時。
もうすぐ、朝になる。
5. 明け方の決意
午前5時。窓の外が、少しずつ白んでいく。
里江は、ベッドから起き上がった。一睡もしていない。でも、不思議と体は動く。アドレナリンが出ているのかもしれない。
洗面所へ向かい鏡を見る。
寝不足の顔。目の下にクマができている。目が少し赤い。まぶたが、腫れぼったい。
水で顔を洗う。冷たい水が、肌に染みる。
もう一度、鏡を見る。
「今日、やるんだ」
声に出す。自分に言い聞かせる。
もう、迷わない。ここまで来たんだから。
一ヶ月以上、悩んで、決めて、準備してきた。今さら、やめられない。
シャワーを浴び、髪を洗う。体も時間をかけて、いつもより、丁寧に洗う。
シャワーから出て、ドライヤーの音が、静かな部屋に響く。
今日は、楽な服装にすると決めていた。パーカーとジーンズ。手術後、着替えやすいように。
化粧はしない。クリニックからの指示で、すっぴんで来るように言われている。
改めて鏡を見る。一重の目。すっぴんの顔。こんな顔で外に出るのは、久しぶり。いや、ほとんど記憶にない。高校生の頃から、ずっとアイプチをつけて外出してきた。
でも、今日だけ。今日だけ我慢すれば、明日からは違う。
バッグを持つ。昨日準備したバッグ。中には、サングラス、マスク、現金、身分証明書、保険証。
玄関で、靴を履く。スニーカー。歩きやすい靴。
ドアノブに手をかける。
「あっ、財布。」
現金ばかり気にして財布を入れ忘れてた。
こんな時は、深呼吸。
大丈夫。大丈夫。
もう、決めたんだ。
ドアを開ける。
6. 朝の街
外に出ると、冷たい空気が顔に当たる。11月末の朝はもう、冬が近い。
空は、まだ薄暗い。でも、東の空が、少しずつ明るくなってきている。
駅へ向かう。
朝の街は、静かだ。まだ、通勤の人々が動き出す前の時間。
コンビニが、明かりをつけている。中には、数人の客。夜勤明けの人か、早朝出勤の人か。
改札を通り、電車を待つ。
数分後、最初に来た電車に乗り込む。車内は、それほど混んでいない。座席に座ることができた。
窓際の席に座り、何を見るでなく外を見る。
朝の街。少しずつ、明るくなっていく空。ビルの窓に、朝日が反射している。
里江は、バッグを膝の上に置いて、じっと窓の外を見ていた。
通勤の人々が、次の駅から乗ってくる。スーツを着た男性、制服を着た女性。みんな、いつもの朝。いつもの通勤。
でも、里江だけ、違う場所へ向かっている。
途中、何度か「降りようか」と思った。次の駅で降りて、反対方向の電車に乗れば、家に帰れる。何事もなかったことにできる。
でも、降りなかった。座ったまま、窓の外を見続けた。
最寄り駅に近づく。アナウンスが流れる。
里江は、立ち上がり、ドアの前になんとか移動して、無事降りる。
7. クリニックへの道
スマホの地図アプリを開く。クリニックまで、徒歩5分。
大通りを抜けて、少し細い道に入る。ビルの谷間をスマホの案内を聞きながら歩く。
足が、重い。一歩、また一歩。進むのが、こんなに大変だとは思わなかった。
途中、ベンチがある。座りたい。休みたい。あまり思ったことこない感情が湧き上がる。
でも、座らない。座ったら、動けなくなる気がする。
「〇〇美容外科」。白地に青い文字の看板が見える。
あそこだ。
心臓が、バクバクと鳴る。
足が、震える。
早く着きすぎた。念の為と思い早く出たが、それにしても早い。
考えた挙句、外側から中を覗く。
ガラス越しに、中が見える。受付カウンター。白い壁。清潔な空間。
深呼吸をする。吸って、吐いて。もう一度、吸って、吐いて。
手が震える。
もう一度駅までの道を辿り、往復する。
次に着いたのは、午前9時50分。予約時間まで、あと10分。
少し早いけれど、もう中に入ろう。外で待っていたら、逃げ出してしまいそうだ。
ドアに手をかける。
「いらっしゃいませ」
受付の女性が、微笑む。
「十時に予約した、小林です」
「お待ちしておりました。少々お早いですが、どうぞお座りになってお待ちください」
待合室へ案内される。
ソファに座る。
もう、後戻りはできない。
あと10分で、手術が始まる。
里江は、バッグを膝の上に置いて、じっと座っていた。
いいなと思ったら応援しよう!
応援いただけたら嬉しいです。