【人物月旦 #21】😢5歳で海を越えた少年のはなし
👇️本編要約
ある日ふと蘇った、幼い頃に一度だけ会ったことのある父方祖父の弟・五郎さんの記憶──5歳で単身ブラジルに渡ったという信じがたい断片的な話をきっかけに、忘れかけていた記憶と移民史の背景が交差していきます。本記事では、手がかりの少ない五郎さんの人生を、記憶と想像を重ねながら静かに辿ります。制度や歴史に埋もれた名もなき個人の生を通じて、自らのルーツや存在の輪郭に触れようとする人物月旦の記録です。
🖋ふとした記憶の断片から
こんにちは、Bell noteです。
少し前に、「人物月旦」で母の姉──静子さんのことを綴りました。
手がかりの少ない、会ったことのない親族の人生を想像の力で辿っていく、そんな試みでした。
実は、あの文章を書きながら、もうひとり、ずっと気になっていた人物がいたんです。
それは今回綴る、一度しか会ったことのない、父方の親戚にあたる五郎さんという方です。
今回、そのわずかな記憶と、後から知ったいくつかの事実を手がかりに、五郎さんという人の輪郭を、そっとなぞってみようと思います。
私の記憶の片隅に、ひとりの男性の姿が残っています。
背が高く、どちらかといえば痩せ型で、肌は日焼けし、精悍な顔立ちをした老人でした。
その人──五郎さんは、父方の祖父の弟にあたる方で、私が小学生の頃に一度だけ、ほんの短い時間お会いしたことがあります。当時五郎さんは60歳をとうに過ぎていたと思います
場所は、親戚が集まるような場だったと思います。大人たちの会話の輪の外で、私は子どもらしく、所在なげに過ごしていました。五郎さんと何を話したのか、どんな声だったのか──正直なところ、あまり覚えていません。ただ、長旅を経て戻ってきたような雰囲気と、どこか異国の空気をまとったその風貌だけが、強く印象に残っています。
その時に耳にした話は、「五郎さんはブラジルに渡った人で今、ブラジルで家族と一緒にコーヒー農家をされている」ということ。そしてもうひとつ、子どもだった私の心に強く残ったのは、「五郎さんは、5歳でひとりブラジルに渡ったらしい」という話でした。
5歳で、一人で外国に?
その意味も重みも分からぬまま、私はぼんやりとただ聞いていたように思います。
今振り返れば、記憶は曖昧で不完全です。けれど、それでもなお、長いあいだ私の中に沈んでいました。
最近とくに、詳しくは知らない親族のことを、ふとした拍子に思い出すことがあります。
「思い出す」というよりは、ずっと心のどこかに引っかかっていた疑問が、「あの話って、結局どうだったんだろう?」と、自分自身に問いかけてくるような感じに近いかもしれません。
今回の五郎さんのことを、今ふたたび辿ろうとしているのは、そんな問いに背中を押されたからかもしれません。
🖋想像の中の五郎さん
「5歳で、ひとりでブラジルに渡ったんだよ」
そんなふうに親戚の誰かが言ったのを、私はそばでただ聞いていました。
その言葉の意味を、本当には分かっていなかったと思います。ただ、小さな子どもが家族と離れて、はるか遠くの国へ行くという話が、妙に印象に残りました。
当時の私は、アニメ『母をたずねて三千里』を見て育った世代です。小さなマルコが、お母さんを探してイタリアからアルゼンチンへ旅をするあの物語。私の中では、五郎さんの姿が、いつしかマルコと重なっていました。船に揺られながら、言葉も分からぬまま、知らない土地に向かう幼い背中──そんな映像を、勝手に頭の中でつくっていたのかもしれません。
その後、中学生くらいだったと思いますが、ふいにこの話を思い出すことがありました。
当時、社会現象とも言われるほど流行していたNHK連続テレビ小説『おしん』の、ある一場面でのことです。そこでは、伊東四朗さん演じる父・作造が、政府の支援によるブラジル移民を真剣に考え、家族で渡るという構想が語られていました。しかし、祖母・なかが「私さえいなくなれば」と崖から身を投げようとするほど追い詰められたことで、家族の間には深い葛藤が生まれ、最終的に「移住は白紙に戻る」という展開になりました。
そのシーンを見たとき、ふと五郎さんのことを思い出していました。
あの東北の貧しいおしん一家でさえ、家族一丸となっての移住を断念した。
それなのに、五郎さんは──たった一人、しかも5歳という、もはや子どもというより“幼児”のような年齢で、実際に海を渡ったというのです。いったい、五郎さんの家では何が起きていたのか? そんなことを思ったような記憶があります。けれど、それもドラマが終わるころには、また忘れてしまっていたような気がします。
当時の子どもだった私には、アニメやドラマの映像を借りて、漠然と「五郎さんはすごい人だな」と思うくらいが精一杯でした。本当の事情、制度、歴史、背景──そんなものに思いを巡らせるには、まだ幼すぎました。
そういう意味で、五郎さんの記憶は、私の中でずっと“想像のかたち”のまま、薄く、ぼんやりと漂っていました。
けれど、その「ぼんやり感」にこそ、今こうしてこの物語を辿ろうとしている出発点としての力がある──そんな気がしています。
🖋大人になって知った断片
その後、五郎さんのことを改めて思い出したのは、もうずいぶん大人になってからのことでした。たしか20代の頃だったと思います。ある日、ふと父と昔話をしている中で、「そういえば、五郎さんって、なんであんな小さな年齢でブラジルに行けたの?」と何気なく聞いたことがありました。
父の話によれば、当時は政府が主導して移民団を募集していた時代で、年齢に関係なく、団の一員として手続きが整えば、子どもでも渡航は可能だったのだそうです。
制度上は確かにそうだったのかもしれませんが、それでも、親元を離れて5歳で外国に行くという現実を思うと、私は言葉を失いました。
しかも、そうした事例は五郎さんだけではなかったようです。
当時は「口減らし」という言葉が、まだ生々しく現実に使われていた時代でした。
生活が苦しく、家族全員が食べていくことができない──そんな状況のなかで、幼い子どもを遠く異国へ送り出すという決断をせざるを得なかった家庭もあったのだそうです。
もちろん、それは今の尺度では簡単に計ることのできないことです。
でも聞けば聞くほど、胸の奥がざわつきました。
移民政策は「国の方針」として掲げられていましたが、実際に海を渡ったのは、五郎さんのような名もなき一人ひとりの個人であり、その背後には、無数の「家庭の事情」があったわけです。
国の制度、時代の流れ、家族の選択、そして個人の運命──。それぞれが別々の尺度で動いていた中で、たったひとりの5歳の子どもが、静かに一隻の船に乗せられていった。その事実が、急に重たく、そしてやるせないものとして胸に残りました。
🖋背景としてのブラジル移民史
五郎さんが渡ったという「ブラジル移民」という言葉の意味を、私は長い間ほとんど知りませんでした。
あらためて国会図書館の電子展示資料等を調べる中で、その背景にある制度や歴史を少しずつ知ることができました。
日本からの正式な移民がブラジルに送られるようになったのは、1908年のことでした。皇国殖民会社という移民斡旋業者が、サンパウロ州政府と契約を結び、第1回の移民団を「家族移民」という名目で送り出したのが始まりとされています。けれど、実態はかなり違っていたようです。
「家族」といっても、実際には書類上だけの偽装夫婦や偽装兄弟が多く、単身で渡航した人も少なくなかったといいます。それでも、そういった形を取らなければ出発の許可が下りなかったため、人々は様々な工夫をして「家族らしさ」を演出していたようです。
また、応募したのは資産や信用がある程度ある人たちに限られ、農民ばかりでなく、元警官や教師、僧侶、車掌、印刷工など、さまざまな職業の人が名を連ねていました。
当時の渡航には、ざっと見積もっても一人あたり約130円以上(さらに郷里から乗船地までの汽車賃を加算)という大きな費用がかかりました。もちろんそれだけでなく、政府やブラジル・サンパウロ州との補助・立替制度、渡航後の労賃からの償還など、制度設計も複雑を極めていました。

*30円(7歳以上12歳未満)、15円(3歳以上7歳未満)、無料(3歳未満)。汽船賃は、実際は160円(12歳以上)、80円(7歳以上12歳未満)、40円(3歳以上7歳未満)、無料(3歳未満)であったが、そのうちそれぞれ100円、50円、25円をサンパウロ州政府が補助。うちそれぞれ40円、20円、10円はコーヒー耕主に後日労賃から償還。なお、サンパウロ州政府は後払いであったため、皇国殖民会社は募集に際して、州政府負担分を立替え払いした。
こうした背景を知れば知るほど、「五郎さんはどんな立場で、どのようにこの移民船に乗ったのか?」という問いは、より重たく、現実的なものとして胸に迫ってきます。
移民たちが乗った笠戸丸は、1908年に神戸を出港し、約50日かけてブラジルのサントス港に到着しました。けれど、彼らを待っていたのは、想像を超える厳しい現実でした。

移民たちは、ブラジル・サントス港に到着したあと、汽車でサンパウロ市に移動し、その後は、サンパウロ州内の6つの大農場に「コロノ(農業労働者)」として送り込まれます。各農園には、日本語通訳が付き添い、生活や労働の橋渡しを担いました。
しかし、移民たちを待っていた現実は、決して穏やかなものではありませんでした。あてがわれた住まいは、家具どころか床板もない掘っ立て小屋で、生活の基盤すら整っていなかったそうです。農園では鐘や角笛で生活を管理され、監督の中には、かつての奴隷制を引きずるような労働管理を行う者もいたといいます。
結果的に、一部の移民はサンパウロ市に引き揚げられ、他の農園や鉄道建設現場へと再配置されることになりますが、それでも夜逃げをする者は後を絶たなかったといいます。
こうした厳しい現実の中で──もし、五郎さんが、ここにあるような初期の移民団に含まれていたとしたら、どんな日々を過ごしていたのだろうか。想像を越える日常の中で、どんな思いで、生き抜こうとしていたのか──。記録には残らない小さな存在としての「一人の子ども」が、その渦中にいたのだと想像するだけで、胸の奥に静かなざわめきが広がります。
もちろん、五郎さんが正確にどの時期に渡航したのか、どの移民団に所属していたのか、私は詳しく知りません。ただ、私の年齢と五郎さんに会った当時の五郎さんの年齢から推察すると、たぶん1915年くらいのどこかでブラジルに渡ったのではないかと思われます。移民の初期の頃にこうした移民の歴史の中にその身を置いていたとすれば、単身で海を越えた五郎さんが、どうやってその地に「定着」し、やがてコーヒー農家として家族を持つに至ったのか──その過程は、想像の域を出ないとはいえ、とても平坦だったとは思えません。
なぜあの過酷な現実の中で、単身5歳の五郎さんがその土地に根を下ろし、生き抜けたのか。その問いは、今後も私にとってずっと残り続ける疑問のひとつと思います。
🖋「静子さん」の記憶との共鳴
五郎さんのことをこうして考えていると、ふただび、過去に綴ったもう一人の親族のことが思い出されます。
母の姉──「静子」。その名と数枚の写真だけが、私の中にあるすべてでした。
静子さんは、戦前に台湾の台中へ嫁ぎ、異国の地でその生涯を終えた人です。母がぽつりぽつりと語っていたその記憶を、私は以前、人物月旦のなかで辿りました。直接会ったこともなく、手がかりもわずかでしたが、自ら台中を訪ね、母が果たせなかった墓参りの思いを胸に、静子さんの人生を想像の力でたぐり寄せるようにして書いた記録でした。
このことをきっかけとして、私は最近になって確信的に実感したのだと思います。
自分の親族の誰かが、世界の別の土地で暮らし、そしてそこで亡くなったという事実の重みのようなものを。
五郎さんのことを思うとき、その感覚が、もう一度よみがえってきます。
台湾とブラジル。地図で見ればまったく別の方向に広がる二つの土地。時代も背景も異なります。
けれどどちらも、「日本という枠の外」で、私の血縁が確かにあり、生きていた場所なのだと思うと、不思議な感覚に包まれます。
自分の知らないところで、自分とつながる血縁が、遠い地平のかなたで人生を築いていた──それは、自分のルーツにもう一つの次元があったことを知るような、軽い衝撃でもありました。
その実感は、どこか現実味のない、靄のかかった風景のようでありながら、同時に血縁ゆえにとても具体的で、胸の奥に静かな重さをもって存在しています。
だからこそ私は、静子さんのときと同じように、五郎さんのことも「移民」という制度や歴史の一項目としてではなく、あくまで一人の人間として──
自分の縁のなかに記憶として取り戻したい、と思うようになりました。
記憶が風化しても、そこに確かに生きていた人がいたということ。
そして、その人の人生の一部が、自分自身の現在につながっているということ。
それを感じるために、私はこうしてまた筆を取っています。
🖋余白の中に、輪郭を探す
なぜ今になって、五郎さんのことをこうして綴っているのか──
正直なところ、自分でもはっきりとした答えは持っていません。
ただ、年齢を重ねるにつれ、「知らないままにしてきたこと」が、少しずつ自分の中で重みを持ちはじめたような気がしています。
何かを確かめたいわけでも、すべてを理解したいわけでもない。ただ、ふと立ち止まった時に、その空白にそっと触れてみたくなる。
そんな気持ちで、筆を取っています。
この文章に「結論」はありません。
五郎さんがなぜ5歳で単身、海を渡ることになったのか──その背景も、その後の人生も、私はほんの断片しか知りません。
それでも、知っている限りのかすかな記憶と想像をつなぎながら、五郎さんの姿を心の中にもう一度浮かび上がらせてみる。
人物月旦は、私にとって「他者を通して、自分を知ろうとする」試みです。
記憶の奥に眠っていた五郎さんのことを、今あらためて思い起こすことで、もしかしたら私は、自分という存在の輪郭を確かめているのかもしれません。
物語にきれいな終わりはなくてもいい。
この余白のある記憶が、どこかで誰かの心にも、小さな波紋のように広がってくれたら──
それだけで、きっと書いた意味はあるのだと思っています。
🖋あとがき
今回の本文では、ブラジル移民についてごく一部の情報しか触れていませんが、その内容は、国立国会図書館の特設サイトで公開されている電子展示の公文書や移民関連資料、当時の新聞記事、そして皇国殖民会社に関する調査文献などを参考にしています。
もし関心を持たれた方がいらっしゃれば、非常に充実した情報が掲載されていますので、ぜひ以下のリンクからご覧になってみてください。

もちろん、五郎さんの足跡を、歴史資料だけで正確にたどることはできません。
この文章も、ほんのわずかな記憶のかけらや、当時の背景をもとに、自分なりの視点で組み立てたものにすぎません。
でも、資料に残らなかったからといって、物語がなかったわけではない──そう思いながら、こうして綴ってきました。
これからも、五郎さんのことを知る親戚や、何かを聞いていたかもしれない人たちに、時間の許すかぎり話を聞いてみようと思っています。ゆっくりにはなりますが、この記録も少しずつ続けていくつもりです。進展があれば、またnoteで報告します。
最後に──📚感謝とお礼
本記事では、五郎さんの記憶を辿るにあたり、国立国会図書館の電子展示「ブラジル移民の100年」より、いくつかの画像や資料を引用させていただきました。
同展示には、日本からブラジルへ渡った移民たちの歩みが、日記や写真、手紙などの一次資料とともに丁寧に紹介されています。当時を知るための貴重な手がかりを、多くの人にひらかれた形で提供してくださっていることに、心より感謝申し上げます。
展示を通じて、あらためて「歴史は記録であり、記憶である」ということを実感しました。五郎さんというひとりの親族の記憶も、そうした資料に照らし合わせながら、少しずつその輪郭を思い描くことができたように思います。
この場を借りて、国立国会図書館および移民資料の収集・整理に携わられたすべての方々、また貴重な記録を残してくださった移民当事者とご家族の皆さまに、あらためて敬意と感謝を申し上げます。
🔔Bell
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